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うそもほんとも。

大晦日

大晦日。まだ暗い。目にするものほとんどに季節を感じる日々のはずなのに大晦日という実感がない人もいるだろう。寒い駅の構内で崩れ落ちたような格好で寝ている人がいた。いつもそこにいるのだろうか。そこでも外よりはましなのだろうか。早く声をかけてもらいたいと願ったりしているのだろうか。どこまでもすれ違ったまま必要最低限というところに落ち着くのだろうか。

世界からひきこもる。ふとした瞬間、突然時間がとまったかのように。見て見ぬふりをしながらでもやっていきたかったのはなぜだろう。不安はうるさがられ抑えきれない不快さで急に黙られ小さな舌打ちがいつも聞こえていた。なのになぜか。快楽?不安で不快な状態を維持するのは確かにマゾキスティックな快楽を手放せないせいかもしれない。でもそんな快楽は対象がなくなれば残るのは生傷ばかり。どちらがいいとか悪いとかそういうのは法律が決めてくれる。それはそれで大切だけどそんなことではない。

どうして、ときけば、ひどいことをされて自分がひどく傷つけられたから。別の人に補ってもらうのは当たり前。我慢してたのは自分。やっぱりこの人おかしい、という危機感で離れようとしてもお互い様では許されない。私が悪いといえばニッコリ。

あれはなんだったんだろう。たしかに通じ合っていたと感じたあの瞬間ももうなんの支えにもならない。たちきられたのだから。私のせいで、と慌てて付け加えねば。また過去に囚われる。疑問だらけだからだ。時間が止まる。

ネグレクト。繰り返される混乱にもそのうち慣れてしまう。保護されなければ死んでしまう。むしろいなくなってほしいと願われたり。子育ては過酷だ。

とりあえず心身が社会的に不都合を被らない程度に機能していれば苦しみを「快楽?」という人もいる。世界は過酷だ。

大晦日。言い聞かせるように今日もなんとか始めようとする人へ何か言えればいいのだけど。難しい。どうかそれぞれ無事でありますように。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。

「昭和」

へー、あの「女子」匂わせやめたんだー。匂わせっていうんでしょ。昭和のおばはんってキモいね。

黒歴史?かまっておじさんの自己アピールかと思ってた。あんな自分語りに感動?マジウケル。昭和。

個人の問題、家庭の問題にしたいならあえてそう呟いてんじゃねーよ。お前の守りたいものだけ守るために個人や家庭の問題に首つっこんできてんのおまえじゃん。昭和から生きててそれかよ。おまえが家庭に帰ってからいえよ。

昭和で一括りにされるの迷惑な気がする。けどしかたない。その時代を生きてきたんだから彼らからみたら同じようなもんだ。推しへの愛を語るあの口調のまま親世代の性愛をバッサリ切り捨てる次世代たち。ちょっと考えればたしかに、と唸るしかないエピソードばかり。「昭和」とまとめてバッサリ切り離さないとやってられないだろう。

「え、あれみて泣くの、え、そこで、うわっ」とまた「昭和」呼ばわり。たくさんぶつけてこられるだけましな大人認定されてると思う。ガキくさい大人がいくら偉そうなこといっても、もガキくさいの部分。きみたちも大人になればこんなもんなんだってわかるよといってしまうこともあるけど今そんなこと言われてもね。うん、たしかに。

大人のあれこれをみせられる子どもの苦悩は大人をキレさせるやり方をとりがち。大抵彼らは実際に起きたことはひた隠しにしている。性に関することは大人だって言葉にできない。子供ならなおのこと。

だったらあれもこれも全部いえよ、きれいごとにしてんじゃねーよ。

大人の事情で逃げる自分を感じつつなかったことにしようとする対話回避のきれいごとおじさんおばさんの力に蝕まれつづけていることも感じる。

こんな世の中どうやって生きていこうか。とりあえずこういうやりとりは続けてこう。あなたたちまで黙らせるような大人はまずいだろう。声をあげよう。

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未分類

ゆっくり

ツイツイツホームの鳥が鳴いている(575、無季)。機会音も色々だな。早朝から深夜までずっと鳴く。

ずーっと忘れられないというより二次三次と積み重なるせいで忘れられない。なかったことにできる人にとっては「まだいってるのか」とうんざりで別の意味で忘れさせてくれないことに苛立ちながらこれまで通りの日々を送る。

苦しくて悲しいことから逃れられない毎日をどうやって過ごそうか。声をあげた人が「こんなことするために生きているんじゃない」と絶望を口にしなくてすむようにできることは同じように声をあげることだけだろうか。

ゆっくり考えよう。自分には無理、自分の苦しみなんてあの人に比べたらとかも思う必要もないと思う。

ゆっくり考えよう。

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趣味

『諏訪敦 眼窩裏の火事』@府中市美術館へ行った。

保育園の仕事と精神分析の訓練(主に分析とSV)が休みに入り時間ができたので諏訪敦 眼窩裏の火事』Fire in the Medial Orbito-Frontal Cortexへ行ってきた。場所は府中市美術館。府中駅から30分毎に出るちゅうバスを利用した。

予備知識もなく行ったが息を呑んだ。人間の死というより死にゆくという動きが淡々と着実に進行していく様子が本当に写真と絵画の間を揺らぐように描かれていた。これは絵画なのだけど。写真であり映像でもあるように感じた。

第3章「わたしたちはふたたびであう」と名付けられた部屋に展示されたシリア内戦を取材中に銃撃され亡くなったジャーナリストの山本美香の肖像画には強く惹かれた。彼女が亡くなった後に描かれたこと、その隣に並ぶパートナーの佐藤和孝の肖像画を見た後だったこと、彼らの情報は後から作品リストに書かれた説明を見て知ったのだが強烈な印象を残した理由はその中にあるように思う。

大野一雄を舞う姿を描いた作品の前で同じポーズをとろうとするキャップにジーンズの中年男性がいたが同じような感触だったと思う。私の腕も自然に持ち上がったから。

それなりに来館者はいたが各部屋でひとりきりになるような時間もありじっと佇みながら時間をかけて回ることができた。

常設展も充実していた。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。

そもそも

累積.身体化。よくある話。季節性。降り積もる。溶けない。儀式が蘇らせるその年の同時期の記憶。よく聞く話。

毎日立ち上がるのにひどくエネルギーがいった。コロナで緊急事態宣言が出て1年、久しぶりに遠出をした。慣れなければとなぜか思っていた。こんなことではこの先もっと辛いだろうと。累積。身体化、不眠。DVやアル中のカップルみたいな関係にはなりたくない。朝か晩に思い出してお決まりの挨拶をする程度にしか私の存在を覚えていられない日があることを神妙に謝り、その帰り道から自分と似た露悪的な人にあからさまな興味を示し、見たいです聞きたいですお目にかかりたいです!と声をかける。家庭を省みるってなんだっけ。仮の宿で補っているからいいのか。それがいくつもあれば優先順位とかどうでもいいか。話し合えただけ未来を見据える余裕があった時期だった。またこの季節がやってきた。コロナも相変わらずだがこれには用心しなれてきたという感じがある。変わらない。相変わらず。以前ほど無邪気ではないが時折家庭人っぽいことしていいねを集める。都合のいいときだけやれる相手が愚痴らず愚痴を聞いてくれるならなおいい。施しのような優しさとして物を与え身体を弄る。ここまでしているのに不快にさせられるなんてありえない。いい人でいたい。思春期のように可愛らしく一緒にいたがってくれる人ができた。もちろん思春期のはずはない。これまでの身体はそこにあるからいじるだけのものに。心とかどうでもいい。この二人にはものすごいずれが生じている。実際の小さな傷を負いながら限られたなかなんとか一緒に…と願うもう一人に第三者はあっさりいう。共有していると思いこもうとしていた?行動をみれば明らかな幻想でしょう。変わると思ってた?いつも相手ある相手と二人きりにという癖も?この前もテレビでやってたよ。そういう人が必ずやること。そのまんまじゃん。ため息。そう。ため息もいつものこと。ちょっと言い返せば不機嫌になる。動かせない「仕事」。頼まれたから。求められてるから。「仕方ない」「仕方ない」何も言ってないのに。まだ無邪気な人の「いい日だった」に微笑み一方でもう要らないんだよ、理由はお前にあるんだよ、と育てる敵意。ペットも人もサブスクか。心ない時代。そんなある日いつのまにか刺した刺されたという話になっていた。唖然。しかしなにをいったところでそもそも、とまた言われる。お互い気持ちよかったんでしょう。誰かを裏切っているのだからせめて絶対に、と思うのは独りよがりだよ。裏切りは裏切り。嘘に嘘を重ねられてきたとしてもそもそもは…。そう。悪いのは自分。罪悪感さえ共有できないことを責めることもできない。そもそも悪いのは自分。あからさまな力関係に勝手に巻き込まれていったのは自分だ。でも・・。

無限ループの例はここにもこうやって。累積。身体化。降り積もる。溶けない。この時期はいつも。大きくみればよくある話。全部物語だったなら。行動で物語は完結しないがとりあえず人を行動に駆り立てる物語化というものについて考えながら書き散らしてみた。

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あれはなんだったんだろう 精神分析 読書

語り、消費など

疲労困憊、おなか痛いとか思いながら美味しいりんごを食べたり美味しいかりんと万頭を食べたりいただきものに美味しい美味しい言っている。深刻で呑気。死にたいけど生きてる。みんなそうでしょ、とは言わないけど両立する状態って色々ある。

たとえば、するならそれ相応のリスクを負う、絶対に隠し通さなくてはいけない、そう思っていたのは自分だけで相手は都合のいいところだけ切り取って絶対的に味方でいてくれる相手(いろんな心地よさの維持によって可能となっている関係)に伝えてたと知ってビックリすることがある。マジかよ、と頭を掻きむしる事態に現実的な対応を考えつつ、ああ、またいつものガキくさい感じで(言葉遣い)最新の知見で防衛しながら不満と怒りを出して「えーひどーい」とか言ってもらってるのだろう、ごはんとか食べながら、と呆れ果てる、みたいな。恐ろしく深刻なことを「ビックリ」とか「マジかよ」と表現できるとしたら絶対にこんなことあってはならないと思いつつもアイツならやるだろうと思っていたかもしれない。だったらどうしてそんな相手と~、とひたすら「あれはなんだったんだろう」的な問いの中に居続けるか、戦いの文脈に変えて白黒つけるか、現実的な対処も色々あると思う。なんにしても「好きでやってる」「気持ちいいからやってる」と言われる事態でもある。被害者に対してさえそう言う人はいるのだから。実際脳科学の知見はそんなようなことになってるんじゃなかったっけとかね。でもね、という場合に精神分析の理論は役に立つけど複雑だから書かない。書けない。そうでなくても脳科学的にそうであったとしても身体の状態とか生活状況的に持ちうる時間とか色々違うので個人の話に今それ持ち出すのやめてもらえないかな、と思ったりはする。

女性が女性の話を聞く話、それについて書かれた本については何度か書いた。彼らが自分のことを自嘲気味に描きつつそれを乗り越える書き方をしているときいろいろ感じることがある。決して笑えない苦しい話を笑ってしまうこと、笑いながら話すことは日常的に皆やることだと思うがそれを「消費」する男性のことを思い浮かべてまたうんざりする。『キングコング・セオリー』(柏書房)とかに対してもそうだったよね、とか。ただ私の仕事は言葉にできない人たちがとりあえず語りの場を求めてきたところにあるから「共感」との関連でいずれ。高木光太郎『証言の心理学 記憶を信じる、記憶を疑う』(中公新書)とかカロリン・エムケ『なぜならそれは言葉にできるから――証言することと正義について』(みすず書房)とかも参照してあれこれ書いたメモが発掘できれば。

ところで、最新号の『POSSE vol.52(特集:奨学金を帳消しに! 立ち上がる借金世代)』は充実してそう。最近『仁義なき戦い』、潜伏キリシタン、貧困と自殺とかのことを話したりするなかで小島庸平『サラ金の歴史』(中公新書)を読み返しているせいもあるか。途中までしか読んでいなかったかも。これいつ出たんだろう。あ、昨年か。教育の問題と金融の問題は異なるだろうけど。人間相手という場合も色々だねえ。AIのことも含めて考えざるをえないけど昨日も書いた「性的モノ化」について考えておくと応用が効く気がする。

ああ、あと開業場面はそのお金を払える人たちが来る場所だからっていうのはまあそうなんだけど、そうでない人も来ることがあるとかそれもそうなんだけどそういう話ではなくて、ものすごい貧困を生きてきた人や貧困との関連で病気になったり様々な症状を抱え社会的にもとても難しいことになって通ってくる方もおられるわけで。お金と心の関係とかその資源の利用とかってものすごく複雑だから表面的には語れない。なんだってそのはずだけど。いろんな方々のことを思い出しますね。

オンラインの仕事が始まる時間。はあ。心身というより身体が辛いなあ。頭はこんなこと書ける程度には機能できるか。相互作用の力を信じてるからきっと大丈夫。痛い辛いしんどい色々言いながらなんとかしましょう。

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うそもほんとも。 読書

物語化、『分析フェミニズム基本論文集』、年越の祓

起きてるだけで何もしていないままこんな時間かあ。吉祥寺に住む友達からもらったクッキーがめちゃくちゃ美味しい。住みたい街何位かな。絶対上位だよね。学生時代に家庭訪問したりしたなあ。今だったらもう少しできることあるのかな。いやむしろやらない方がいいことがわかるという感じかな。

お風呂ははいった。ぽっかぽか。今日も柚子入れればよかった。大量にいただいたからね。冬枯れに果実は明るくていい。

いつの間にか他人の時間と場所を自分のもののように扱っている(設計パターン)。いつもそう。女の身体に対してもそう(モノ化)。徹底した受身性で安心させて忍び寄る(反転可能な状態にしておくこと)。同じことをしているのに罪にはならない(与え続けることの成果)。悪意は自分ではなく相手に(サブリミナル効果)。少しだけ罪悪感を感じることはできる(心の機能の査定)が耐えられないからテンションをあげて相手ある相手(ここもポイント)を巻き込んで寄生や依存も相手のものとしてどこもかしこも自分のものに(誇張)。利益が絡むと王様は裸とかハラスメントとか言えない(ここで止めるなら物語化はある程度成功しているが行動するには弱い)。

さて『分析フェミニズム基本論文集』(慶應義塾大学出版会)「4性的モノ化」(ティモ・ユッテン、木下頌子訳)ではヌスバウムの「道具扱い説」より「意味の押しつけ説」を採用すべきとあった。それによって「実際の道具扱いが生じていないときであっても女性が被りうる特別な害と不正ーすなわち、自律性と平等な社会的立場を損なうことーの存在を明らかにする」ことができるから。この本はまだ比較的新しい(そのこと自体がようやっとという感じなのかな)概念の整理と主要トピックを知るのにとてもいい。実感を持って読むことができる。

鳥たちがすごい。あ、遠ざかった。

昨日は散歩がてら年越の祓をしてきた。茅の輪という草で編まれた大きい輪っかを左、右、左と回って拝殿にGO。なにやらくるくる回っているわたしたちをみて小さな子たちが「これやりたい!」とついてきた。サンタさんはもうきたかな。今日も楽しいといいね。メリークリスマス☆

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うそもほんとも。 精神分析、本

パターン1

こちらが真剣に情緒を表明するとすぐに茶化したりふざけたり挙句の果てには怒ったりしてそのまま受け取れない年上がいる。(情緒的な物語にしない工夫。相手を選ぶ基準1)これまでもこれからもそれでやってきた(いく)のだろうから年齢は関係ないのだけど特になんの知識もないのに弱者(子ども、女性、障害や病気を抱えた人など)を利用するのはどうなんだろう。このくらいの歳になればそんなことくらいわからないでしょうか、と思うけどわからないからそうなってるんだよ、と言われればそうだねえ。まあ本人に「そんなつもりはない」のならいいのかもしれないというか仕方ない、のか?でも自分が受け入れられない他人には容赦なく戦いの言葉をぶつける人が不特定多数の集団には「オープン!みんなウェルカム」みたいな態度とるのはなー(こちらをみなければ全てがみえる。葛藤の芽をつむ)。そういうのを見ると「あーいつもの。お得意の。」(設計パターンとして把握)となるけど慣れるのもよくない気がする(力動的理解は常に新たな軌道を示す)。誰か(弱者)を「排除」した結果できたスペースを「あれは排除ではない。別の人のためのスペースを作ったんだ」と言う感じで「次」でどんどん埋めていくあり方ってみんなも知っていると思う(ここでも部分を全体に回収して対立を回避)ある意味信仰(一神教的排他性、子孫度外視)の対象となるのに成功した「豊かで親切な」人(自分が人に恵まれているがゆえに)なのかもしれない。自分が超自我になってしまえば(そういう幻想を持てれば)罪悪感に苛まれる必要もないし、そうなるとつまりストップもかからない。「え?悪いのは自分じゃないでしょう、それ決めるの自分だから」って(心的な死という次元の死)ワイドショーとかで人気の当事者の現場に土足で踏み込み叩かれるとすぐに怒って「わからないおまえらがバカ」と言わんばかりに自説を言い募るなんとかさんと同じだなと思うけど本人は「真逆だ」と思っているはずで確かに表面上はもう一定数の高評価を得ているのでこんなこという方がきっとバカだし、またひどいこと言われちゃうから我慢。すでになかったこといなかったことにされてる場合、伝える機会もないけど。排除というのはコミュニケーションを断つことだから。で、誠実に話し合うなんてそもそもできないからいつまでも茶化したりふざけたり。はあ。妻(夫)にそうされるって口とんがらせていたくせにやってるの自分じゃん、とね、言いたかった(相手を選ぶ自分側の基準2=いつでも捨てられる)。そういう機会も奪われてしまったのだけど。人の言葉も時間も睡眠も奪える万能的な力を「それは魔力だよ」と退けるのが精神分析でいう去勢かも(知性化の無力)通じにくい概念になっているのはフェミニズムとの関連だけでなく無意識の領域に人が耐えられなくなっているからでしょう(まさに知らんけど)なんでも持ってる方が偉い、と。ペニスでもなんでもいい、と(身体のもの化。怖いのは去勢よりも何かをもっていないことで追放されること)そうですか・・・。そうでしょうか?こんなことも前ならいくらでも話せたのに、どうして?あ。(そうでもなかっただろうという現実検討)この無限ループ。よくない。(物語作りの失敗)また明日。すぐにきてしまうけれど。

この本について書こうと思っていたのにまた今度。精神分析に関心のあるサイコセラピストが読む哲学入門として一番おすすめかも。「私」についてとても丁寧に掘り下げられているので精神分析においてもあまりに使われ方の多様な「自己」について考えるのにもとてもいいと思う。

「問い」から始まる哲学入門 景山洋平(2021,光文社新書)

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空しいけれど

寒くなると暖かな場所から離れられなくてそのままうとうとして朝になってしまう。身体がバキバキ・・・。その場の快楽に身を任せるとリスクもあるということね。知ってたけど。学ばない。

今日はすごく寒いそうです。辛いですね。東京なんてマシな方なんだろうけど。

訴えることができていいな、と聞いた。本当だね、と思った。訴えようと思えばできなくはない。請求通りにいく可能性が高いとしても失うものも多い。女性であれば時間がすぎることの意味は身体的なものと切り離せない。そうやって考え苦しむ時間が長引いていることに焦りも強まるが自分ではどうにもできない。毎日体を引きずるようにして布団から出る。何をしていても突然思い出されるあれこれ、記憶は薄れても痛みや衝撃は相手の存在を感じただけで何度もその時の生々しさで襲ってくる。身体を壊し仕事量を減らし収入も減った。それでも生活していかねば。余計なことは考えない方がいい。SNSもみない。相変わらず家族にも周りにも上手に嘘をついたまま地位を維持している相手をみるだけで世界の理不尽に唾を吐きたくなるだろうから。何かしでかしてしまいそうになるだろうから。どうしてしちゃいけないの?「相手が変わるわけではないのだから」。そうだろう。だからせめて公に、と思う。でも相手にも相手が、としたくもない配慮の気持ちも動く。そうやって自分の時間と心ばかりが削られ今日も出かけなければならない時間がくる。声をあげられた人が羨ましい。その苦しみも大変さもわかってるつもり。でもそう思ってしまう。そのリスクを自分はとれない。情けない。自分が悪い。それができない自分が悪い。でも、どうにかして、と無限ループ。

怒りや悲しみとともに今日も本当に辛い思いをしながら生きようとしている人に「あなたひとりではない」と言ったところできれいごとだろう。そんなことはわかってる。私とあなたの体験は違う。それもそうだろう。それでも真剣にわかろうとしてくれる誰かはいた方がいい。あなたの理不尽をぶつけたとしてもあの人にされたみたいに優位な立場からこちらを責め立て、なかったことにされるようなのとは別の体験をしたほうがいい。裁きの結果よりもそのプロセスがその人の傷の予後を左右するのと同じようにこれ以上は。今日も例の衝撃に怯えながら「絶対にまたくる」と予測することでそれを和らげようとする私たちの意識的、無意識的努力は空しいが実際に繰り返されるのだからもっと空しい。今朝はどうだろう。動けるだろうか。空しいし寒いしで散々かもしれないが責任は常にどちらにもある。ひとりで背負うものではないことを確認しよう。

本当に憂鬱な寒さ。せめてもの陽射し。暖かくして過ごしましょう。

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精神分析

冬至

今日は冬至。もっとも昼が短く夜が長い日。でもこれからが寒いのよね。とってもつらい。でもカボチャと柚子湯だよ。柚子いっぱいもらったから柚子だらけお風呂にしよう。この前散歩に行ったときも「ご自由にどうぞ」って道にゆずとカボス(すだちだったかも)が置いてあった。今、ゆずとかボスとか、って書いてしまった。ボスはいなかった。カボチャは一年中食べてる気がするけど大切にいただこう。みんなも冬を無事に乗り切れますように。

気持ちがゴタゴタで色々後手後手でもどうにかこうにかの日々だから(説明困難)instaでずーっと美味しそうなものとか素敵な写真とか世界中の美術館の作品とかを見ている。読まねばならないものは床を埋めていくばかり。まずは下からの冷気を吸い取ってもらっておりまする。今朝のTHE METはMerry Winter Solticeということで可愛いお花をリールにしてるよ。リールってこういうこというのね。冬枯れそのものもいいけどね。この前、昨日かな、画像だけ載せたけど枯れ枯れの枝に烏瓜がぷっくりぶら下がっているのをみたりするとマッチの灯とかクリスマスのオーナメントとかみたいでほっこりする。柿とかもう人生の終盤を考えさせるすごく渋い色で鳥につつかれてデロンって片側だけ落ちたりするのをみるのもよかった。鳥って嘴にデロンがついちゃたりして取れなくて気になるとかないのかしら。嘴がいくらとんがっててもどうしてもとれないとか剥がれないとかあるでしょ、きっと。あんな硬い部分には感覚器官がないか。

精神分析で部分というと口唇とか肛門とか特定の器官のこと。精神分析ではそれらが欲動という身体内部からの根源的なエネルギーを組織化していると考えるのでアセスメントは各器官にまつわる欲望のあり方をもとになされたりもする。例えば口唇だったらお母さんのおっぱい、つまり授乳をめぐるもろもろについて考える。もちろん「お母さんの」である必要はないし、実際の授乳場面の話ではなく患者個人がそれをどう体験しているかということ。おっぱいという部分の場合、それは単に生命維持のためではなく快ー不快と関わっていると理解する。その後も肛門期(サディズム期とも呼ばれるよ)、男根期、潜在期(性的活動が抑圧されている時期)、性器期、という性器をめぐって想定された欲動の発達段階において欲望のあり方やそれに対する実際の対象との関わりをみていく(フロイトはそれらが統合へ向かうと考えた)と人が自分と対象とどういう関係を持つか(自体愛から対象愛へなど)に関する理解が得られるという感じ。発達段階をあまり重要視しない分析家(学派というほど大きくないが著名な理論家でもある分析家)もいるし、自己をひとつと捉えるか複数と捉えるかで「統合」に関する考え方も異なるけど身体の発達と快不快の体験ってわりとスムーズに共有できる話だと思う。

あ、鳥の話をしていたんだった。というか別に何もテーマなど決めていなかった。鳥って本当に不思議がいっぱいでかわいくてとても好き。こんなお天気でもそこそこ元気そうだよ、鳴き声からすると。わからないけど。この前の散歩で野菜(主に白菜)のお墓みたいなところがあったので載せておこう。このまま土に還るのかしらね。私たちもいずれだね。先のことは誰にもわからないけどとりあえず今日から昼間が長くなりますよ。なんとか過ごしましょう。

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精神分析、本

下西風澄『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』を読み始めたり。

「疲れた」という感覚がよくわからなくなってるな、と思いながら早朝のコーヒー。今日もちょっといいドリップコーヒー。理由は思い当たる。いつかどっと出たら嫌だなと思うけど「いつか」のこと考えてもね、とすぐに思う。

自分は神話の世界の誰かみたいにおぞましくも悲しくて愚かな生き物なんだ、それから逃げ出したのは誰?私のせい?それとも自分自身を私に投影したせい?あなたと私は違う、ただそれだけのことをどうして愛せなかったのか、どうしてあんなに無理をしてまで愛そうとしてしまったのか、死にたい気持ちを眠るふりしてごまかしてしかたないしかたないと毎日を過ごす。一方でなかったことにしないためにおそろしく冷静に分析を繰り返す。痛みの上書きと別の観点の発見とそれでも問い続けるべきことの確認、行動するならミニマムに効果的にという原則を忘れないこと。お互いこれまでの繰り返しとして傷つくのではこのしんどい作業には意味がないから。

さて、最近「心とはなにか?」という問いをめぐる本がまたでていた。新しい本と知らずたまたま見つけた(新しいから見つかったのか)下西風澄『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(文藝春秋)。著者のお名前が爽やか。文章もあまり考えずに読む分にはサラサラと読める、というか私は哲学に詳しいわけではないから素直に物語的に読めるだけかもしれないけど負担の少ない文章と感じる。どうせ答えのないことを考えるなら軽やかな方がという気分でもある。序章でこの本でやりたいことの説明がされて本編というのかな、第一部は「心のなかった時代」としてホメロスからはじまる。メタファーと概念と存在の関係を心と身体の関係と共に考えていく仕方も流暢で先日の妙木先生の講義のよう。哲学の本は私の現場とは遠いので悪意や憎しみを向けられることでほぼ死んでしまった部分を知的に手当てしてくれるところがある。自分の歴史の紡ぎ方に新しい風が拭いてくれますように。もう毎日願うばかりだな。引用されている文章を引用したいけどそれってなんか野暮な気がするからしない。

散歩日記(新百合ヶ丘ー若葉台間)を書こうと思ったのに関係ないことで時間になってしまった。写真だけ載せておこう。句会のお題で出たときにはまったく身近でなかった烏瓜がすっかり身近になったお散歩でした。

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精神分析、本

精神分析基礎講座関連メモ

電子レンジが壊れたのでトースター生活。朝はパン♪のつもりでいつものコーヒーより少しいいドリップコーヒーにしてみてるけどいつもお菓子が豊富にあるので大体朝はそれらとコーヒー。空がきれい。

先日、月一回の対象関係論勉強会(精神分析基礎講座)で午前に岡野憲一郎先生がサリヴァンとコフートを、午後に妙木浩之先生がエリクソンを中心とした米国自我心理学の流れをお話しくださった。以前、この講義を聞いてから考えようと曖昧に放っておいた米国精神分析の流れが非常によくわかった。そういえば、とすごく久しぶりに岡野憲一郎先生のブログをみてみたら講義当日もそれまで通り脳科学関連のことを書いていらした。岡野先生とはじめて個人的に言葉を交わしてから20年近く経つが当時から私は「先生の得意分野は脳科学」といっていたからずっと精神分析と脳科学の知見を関連づけた論考や本を出し続けているわけで、その下書きのような感じでブログもずーっと書いておられる。私のこんな徒然日記とは違って読めば学べる毎日更新の教科書みたいな水準をきっとサラサラと。今回の講義はサリヴァンの理論にあまり踏み込まなかったので基礎を満遍なく学びたい受講生には物足りなかったかもしれないがサリヴァンの特異性は知っておくべきことと思うので詳しく教えていただけて良かったのではないだろうか。中井久夫のように著名な先生が訳したからサリヴァンもメジャーというわけではなく、ある意味彼はマイノリティを生き抜き自分が何度かの大きな危機を生き延びた体験をそのまま理論に生かし、独自の実践機関を立ち上げてきた。中井先生もそういうところおありだけど。統合失調症が持つ「希望」の部分もしっかり理解するにはサリヴァンの治療論は必読な気がする。

そしてこの講義まで曖昧にしておいた米国精神分析の歴史については妙木浩之先生の講義が素晴らしかった。妙木先生の資料サイトはこちら小此木啓吾先生みたいだった。東京国際大学で亡くなった小此木先生の研究室も引き継いだのは妙木先生だものね。小此木先生はアンナ・フロイトやいろんな著名な精神分析家と実際に会話した体験なども交えて世界中の精神分析家の人となりや立ち位置や理論をいろんな視点から教えてくださるものすごい先生だったけど(講義の時は野球をよく聞いていらしたけど)妙木先生は視覚教材を使うのもすごくうまい(岡野先生も)から受講生も情報量に圧倒されながらも混乱はしなかったのではないか。私はかなり整理されたが調べねばということも増えてしまった。エリクソンを中心にした米国の社会保障と貧困の側面からみた精神分析家の移動についての話は興味深かった。ビッグデータ分析については同じく米国の話ということで以前教えてもらった『誰もが嘘をついている〜ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性』(セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ著、酒井泰介訳)も参照した。この本、第2章は「夢判断は正しいか?」だし軽妙な語り口に振り回されながら「データやばい、というか人間やばい」ということを忘れないために読むにはとってもいい本だと思う。

それはともかくエリクソンの発達段階、ライフサイクルの考え方だけではなく、彼が受けた差別や精神分析家としての歴史を見直すことは大切だと思った。先日インドの精神分析の大きな流れにエリクソニアンがいることをインドの精神分析家に教えてもらったがエリクソンが書いた『ガンディーの真理 戦闘的非暴力の起源』(みすず書房)は関係あるのかと妙木先生に伺ってみた。それはわからないということだった。最近、インドのジェンダーとセクシュアリティに関することを調べていて地域差がものすごいと感じていたが技法にエリクソンの相互作用モデルが最も適切な地域というのはあるのかもしれない。また、高校生の時に好きで集めていたノーマン・ロックウェルがエリクソンやロバート・ナイト(ブレンマンが書いているロバート・ナイトの説明はこちら)、マーガレット・ブレンマン(最初の女性分析家,インタビュー動画はこちら)のポートレートを描いていたことを知れたのも嬉しかった。エリクソンとロックウェルの関係についてTwitterに載せたのとは違う記事はこちら

日本の精神分析はどうなっていくかな。サリヴァンやエリクソンのようにフロイトとは根っこのつながりをあまり持たない独自の方向へ進んでいくのか、それができるだけの強力なパーソナリティと人間関係と機動力と資本を持つ人が現れるのか、それとも地道に忠実にオーソドックスな方法を目の前の患者に合わせて丁寧にカスタマイズしながらやっていくのか、いろんな可能性があるだろう。私は後者だけで精一杯。寒くて辛いけどなんとかやっていこう。みんなもなんとかね。またね。

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あれはなんだったんだろう 精神分析

なかったことにしない実験

サッカーも大河もみていなかったけどなんとなくは色々知っている。断片だけでもおもしろい。三谷幸喜はすごい。大人になるまでほとんど勉強してこなかったから日本史も大河ドラマ以外では知らないのだけどなぜか北条時政が好きだった、というか北条すごい、と思っていた。でも大河ドラマで誰かがやっていた北条のことなんて全然覚えていない。いたに違いないけど。でもこの前鎌倉へ行ったときはなぜかしみじみしたな。何繋がりかしら。あ、そうか。私の少ない知識は全部まんがからだ。「日本の歴史」。小学館かなあ。平将門も好きだった。多分かっこよく描かれてたんだろうね。大河で見たときにイメージ違ってがっかりしたことを今思い出した。独眼竜政宗の梵天丸の真似は大人になってもよくしていた。なんだったんだろう。サッカーみていたみなさんは寝不足かしら。せめていいお天気でよかったですね。今週もがんばれますように。

「今年は」という振り返りをするような区切りが昨年も今年もなかった。昨年末、久しぶりに旅へ出たことはひとつの区切りとなったけどもっと別の特別な区分が自分の中にできてしまった。もちろんいろんな人と「今年は〜」という話をしている。保育園の仕事も「今年度」はまだ3ヶ月あるけどすでに来園度を見据えての話だし担当の半分くらいの園は今年度の巡回を終えた。

「あれはなんだったんだろう」と問い続けてはダメージを深めそのダメージを素材に考え続けることでどうにか行動化を抑え、同時になかったことにしないように時間を引き伸ばしているような日々。終わりがくるとすればそこでようやくひとつの区分ができるかもしれない。

自分を使った人体実験。頭痛と共に何度も突然ぶり返してくる痛みに対してひどく冷徹な自分もいる。自嘲したり卑屈になったりしやすい場合は注意が必要。外傷の記憶となると似たようなことは解離として現れるかもしれない。そんな場合は激しい混乱を注意深く見守ってくれる実際の相手が必要。なかったことにされる体験が反復されないように過剰ではない忍耐強さをもつ相手と共にいられますように。自分の第三者性によって真逆の自分を維持できているうちは死ぬほど苦しくてもとりあえず大丈夫と思えないとこんな実験はすべきでないだろう。精神分析は実際の他者に自分の第三者性を預けつつ実はなかったことにできていなかった「あれはなんだったんだろう」を問い続ける。転移状況で再び体験される出来事を通じて当時は感じることも考えることもできずにいたことに気づく。

ああ。こんなことを書いている場合ではないのだった。それにしてもいろんな処理を施しながら言葉にしているわけだけどもしそうしなかったとしたら大変なことになるのでしょうね。自分から自分が傷ついた場所に出向いていってしまうことで大変なことにしてしまいたい衝動に拍車がかかるでしょうから。もちろんそうなったらそうなったでこちらは手放すようなことはしないけれど。

人の心をどう捉えるかはその人が持つモデルによって異なるしそのモデルはその人の体験によって異なるから本当に人それぞれ。でも「人それぞれ」とかいってなかったことにしていくあり方はあまりに安易だと思うしひどいなと思う。本当になんとも言葉にしがたいことばかりだけど今日もなんとかはじめましょう。またね。

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写真 言葉 趣味

映画、写真、まなざし

今朝は南側の大きな窓の間近、いつもより近くで鳥たちが鳴いて飛び去った気がした。今はだいぶバラけた個別の声が聞こえるだけ。

ケイコ 目を澄ませて』の友達同士のおしゃべりのシーン、本当に素晴らしかったなぁ。言葉を話すとはこういうことかとその手話の美しさに圧倒された。

いつまでも子供でいたいあの人の言葉にもっとも欠けていると感じた自然な「流れ」。

上原沙也加のニコンサロン(新宿)での個展「眠る木」にも連日行ってしまった。そこに写されていないものを写せる写真家なんだなあと涙が出た。「写真集、届いたら楽しんでくださいね」「楽しみます。とても楽しみ」と話した。

自分に意地悪な人は理論武装してもいくら愛想よく気遣いに溢れた振る舞いができても意地悪がこぼれでてしまう。それに気づいたり傷ついたりしてしまう人は亡き者に。攻撃的で衝動的な自分が嫌で仕方ないから他人を使う。自分を保つ。写真には写らない。けど写ってる。誰もが歴史と場所に痕跡を残してる。いずれ誰かに、と。

残酷な現実があるから成立するまなざし。それを単純化しないことが大切な気がしている。普段はごく普通の思いやりで、何かを指弾するならできる限り冷静に正確に。他者とは利用や馴れ合いではない協力を。孤独で冷徹な自分を十分に感じつつ。

あー。寒くて動きたくないけど仕事行かねば。みなさんもお身体お大事にお過ごしくださいね。

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精神分析 精神分析、本

ジェンダー関連メモと映画メモ

「退行的な胎内への回帰幻想=母幻想におぼれそれにしがみつく者と、母子の間にすら存在する自我と他我の相克を凝視する者とでは、どちらが子どもに対し、また人間に対し、本当の愛情と理解を持っているといえるだろうか。」

ー『増補 女性解放という思想』(ちくま学芸文庫)江原由美子著

「中絶」や「子殺し」の問題に取り組んだリブ運動に関する論文から引用。愛情ってなんでしょう。

この論文はこちら(2022)にも所収→『リーディングス アジアの家族と親密圏第3巻 セクシュアリティとジェンダー』 p383「第19章 女にとって産むこと産まぬこと」

先日、インドの女性の精神分析家の話を受けて、同じくリーディングス アジアの家族と親密圏第3巻 セクシュアリティとジェンダー』の「第12章「男性の概念」とは何か。ー名誉殺人における「名誉」」を引用しながら議論。手紙書かなくては。

彼らにとって「名誉の損失」が、苦痛を構成するほどのものだとされれば、それは暗に「正当化されうる動機」となるのである。言い換えれば、もしある女性の人格が「邪悪」あるいは「ふしだら」とみなされれば、男性は理由なく彼女を殺すことができる。上記の理由づけは、例外なくすべての人の生存権と平等権を認めるインド憲法に反している。❨246-247❩

増加する暴力に対する一つの可能な解決策であったはずのカースト間結婚の社会的受容への道筋は、欲望、道徳、名誉のイデオロギーの中に失われてしまったのである。

女性は名誉の貯蔵庫であり、男性はその管理人なのである。❨248❩

先日「名誉毀損」という言葉を法の文脈で使ったけど使いながら「名誉って」となった。まずはいつもこんな気持ち。もしジェンダーに関する困難や問題を構造の問題として考えるなら個人的な人間関係はひとまず棚上げして同じ困難を抱えるものという「共感」から始めてはどうかしら。

映画「ケイコ 目を澄ませて」をみた。最近はなかなかない音と光がツルッとしてなくてリアルで岸井ゆきのはやっぱりとてもよかった。このことから書こうと思ったのにメモから書いてしまった。そんなこともある。大体そんなかな。良い一日を。

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あれはなんだったんだろう 精神分析 読書

身じろぎ

お寺の鐘が鳴っている。なんだかちょっと掠れたような。ちょっと頼りないような。

昨日書いた心と法の具体例みたいな案件が上がっていて驚いた。それにしてもSNSは、という感じはする。「名誉毀損」の重みって、とも思う。例えば慰謝料請求とかの場合、関係のプロセスで相手と直接コミュニケートできない状態だからと本人に請求するのではなく会社にとかしてしまったら逆に名誉毀損で訴えられる場合があるわけでしょう。どっちにしてもお金以外の解決は見込めないし。法って本当にうまくできてると思う。心の問題として考えるととても残酷とも思う。

「権力をいかに見定めるかによって女が被害者にも、加害者にも、抵抗者にも、抑圧者にもなりうることを示してみせた」

もろさわようこ『新編 おんなの戦後史』(ちくま文庫)の解説で斎藤真理子が書いている言葉だ。本当に女の位置ってこういうことなんだと思う。この本の刊行イベントでの話も興味深く関連の本も読んだ。今年はジェンダーに関する本をたくさん読んだ気がする。内容はあまり覚えていないが多く読むとさっき読んで納得していたあの説にはこういう背景とか反論があるのかとか知れるからそんな偏った取り入れにはならずにすんでいるのではないかと思う。きちんと後から使えるように読めばよかったと今は思うが、日々の幸福と苦悩をまずはじっと自分の中にとどめるための無意識的努力だったと思う。表現するならSNSなどではなく直接相手にと思っても自分自身の抑圧と相手からのさまざまな水準の圧力で言葉にできないという体験も多くした。いまだに「身じろぎできない」体験をするんだと自分でも驚くほどダメージも受けた。「身じろぎ」という言葉も斎藤真理子が取り上げたもろさわようこの言葉だ。「相手あること」については「あれはなんだったんだろう」という題名で書いた文章で何度か触れたと思う。あれはなんだったんだろうという問いは自分のこととなればたとえ事実を周知したとしてもなんの答えも得られない。

「みんなはどうしているのか」仕事でもよく聞く言葉だ。でも二者関係を第三者に開くことは問い自体を別のものに変えてしまうだろう。みんなではなくあなたであり私だ。もうそこに相手はいなくても「相手あること」なのであり引き受けるのは私でありあなただ。あまりに苦しいけど迫害的にならずそのせいで攻撃的にもならず耐える必要がある。構造の問題がすでにあるのは明確でも「名誉毀損」という法的判断は両者に同様に適用されるのが現状であることを思えば「賢く」動く必要がある。それについて考える自由は奪われていないのだから。

「行動」ではなく「言葉」で、というのは精神分析の基本だが言葉にしたら行動化への衝迫に駆り立てられるのもまたよくあることだ。どこまでとどまれるだろう。そして再び「身じろぎ」から始めることはできるだろうか。

今日も一日。実際にはもういない「相手」が残した問いに沈みながらであったとしても。

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精神分析、本

超省エネの日々(行動とか構造とか選択とか)

おはよー。ダラダラした気持ちでやらねばらならないことに使う部分だけ動かしている。超省エネの日々。元々ダラダラ人間だけど、と言いたくなるのって村田沙耶香『コンビニ人間』のBBCバージョンを聞いてるからだね。何かを形にし続けなければいけない人は省エネが苦手な人が多いように思う。「評価なんて」と言いつつ自分が自分に対して一番厳しいことに気づいていなかったりする。ナルシシズムといえばそうだけどそういったところで多かれ少なかれ誰にでもある部分だしね。ただそうなると自分の不全感や苛立ちを身近な人にぶつけたり、その罪悪感をどうにかするために別の誰かをお世話したり、いい部分だけ見てくれる人に愛してもらったり・・。人間って常に自分の欲望を巡って他人に何かしている感じがありますね。だから日々の生活を過ごしながら、週何回もカウチの上で一定時間自分の中の対象を相手にし続ける精神分析は有効(雑な結びつけ)。私はどんなにダメージを受けているときでも精神分析のことだけは考えていられるのだけどその程度には身についてるのかね。だから鏡見ながら自分を解剖するみたいに「あー、これか、いたたっ」となってる。痛くて辛くて苦しくて目背けたり暴れそうになってもどこか冷静に動く部分が保たれている。それでも多分行動したらまずいことが起きるだろうとも思う。相手あることは推測を常に超えてズレがすごいし、大抵はそういうズレに耐えられない。悪いことに最初から非対称な関係だと「対話」どころか圧力で隙間なくして従わせるほうに行きがち。大きい声で言われたりするだけでもそうなる。内容のことだけではない。自分のことだってわからないのに相手のことなんてそう簡単にわかるはずないだろう、と思うけど「知る」という方向にいかない。で、拗れて法的な問題にせざるを得なくなったりする場合もある。そうなると省エネとかいってられないし、そうしかできないから省エネと言ってる可能性もあるとしても慣れないことに頭も体力も時間も使わなくちゃいけなくなって本当に大変なことになる。だからそうならないように、あるいは自分からしてしまわないように自分を相手に観察を続け自分と対話し続ける場所って大事。自分に対して慎重になれる。パフォーマンスは悪くなるけど結果的に現実の複数の対象を守ったりもする。愛憎がスプリットしてしまう行動は避けたいでしょう、誰だって本来は。耐えられないからそうなりがちだけど。

upしないまま仕事してしまった。最近やったと思ってできていないことが多い。この前もさー、というのはさておき、心と法の関係はそれこそ超自我とかいう心の水準と行動の水準では全く異なるので判断や選択は簡単じゃないはずなんだけど今ってすごくお気軽にされるから怖いなあと思う。「晒せばいい」とかいう心性とか。自分が晒される可能性に関してはどう思ってるのかなと不思議に思う。そういうことを言える人の中にはすごい物知りで味方も多い人もいるわけだけどそういう人は「勝てる!」って感じなのかな。人間関係は戦いではないけど(これ書くの何度目だろう)。女性が弱いわけだ。こういう構造からは逃れられない歴史があるものね。そんななか女一人で戦うリスクをとることの大変さときたら。彼女たちがそれにかけた時間とエネルギーを思うといたたまれない。でもそんなこと言ってないで彼らが戦ってよかったと思えて再び似たような負担を経験しないですむように、もう彼女たちが孤独を体験しなくてすむように女も男も協力していくことなんだろうけど今日もまた別の被害者が出て立ち上がれる人は立ち上がってみんなひとりで泣いてという現実を想像するのもたやすい。こういう個人のものすごい負担を通じて少しずつ変化してきたのが現在でこれからもこうやって進むしかないのかな。戦いたくなどない。戦うなら賢く。賢くない場合はどうしたら?職種や組織に守られていない場合は?黙ってるしかないのかな。女性がはまりこんでいる構造について普段づかいで考えられる本として脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波新書)はいいかも。そういう背景にある構造を忘れて個人的なこととして処理されそうなときに読むと軌道修正してくれるかもしれない。歴史上の女性たちのエピソードも面白いから読みやすいし。法律では大抵はそれが公にされることで不都合を被る方に選択権があるはずなんだけどそれも危うい。日常でも「選択の問題なんだから好き好きでいいんじゃない?」という人もあるけど「選択」って高度に知的な行為だと思うから結局守られないことの方が多いと思ってる。やっぱり強者と弱者にわかれてしまうというか。あーなんか省エネで書いていると話が飛ぶというか具体例書くエネルギーがないからすっ飛ばしちゃってる。頭の中で色々やってないで地道になんとかしましょう。今日は鳥さんをとりにいきましょう。あとでインスタに載せましょう。鳥はかわいいです。

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読書

『無人島のふたり―120日以上生きなくちゃ日記―』のことなど

乾燥がすごいですね。今朝の散歩道は雨にしっとり濡れたすごく濃い色の落ち葉が敷き詰められていてきれいでしたけど。加湿器を出さないと、と毎日思うのにまだ出していません。喉がやられてしまう前に今日こそださねば。すぐに出せる場所にあるのにどうして小さい怠惰を積み重ねてしまうのかしら、人間って。じゃないか、私ですね。

先日、山本文緒『無人島のふたり―120日以上生きなくちゃ日記―』を読みました。「闘病記ではなくて逃病記だなあ」と著者は書いておられるけどこちらが「どうか逃げ切って」と願うような同一化を生じさせる記述はなかったように思います。

「逃げても逃げても、やがて追いつかれることを知ってはいるけれど、自分から病の中に入っていこうとは決して思わない。 」

本当にそうでした。自分の感触を観察し続けるだけでなくそれをこんなに感情の振れ幅の少ない文章におさめられることに作家の凄みを感じます。

同年代の友だちも読んだといっていました。私たちも自分の死に際してやっておくべきことを意識する年齢になりました。コロナはそれに拍車をかけました。私の場合はシンプルで持ち物もいらない仕事ですしプライベートもシンプルなのでそんなにすべきことがあるわけではなく出会いを大切にすることくらいですけどそれすら難しく打ちのめされたりしますね、生きてると。

「私も頭が割れそうなくらい悲しいのにアマゾンの領収書を印刷した。それが生きるということ。

人間って…。どうしてこんなになっちゃうのか、どうしてこんなことができちゃうのか、悲しくて切なくて苦しくて死にたい時には死ねないのに願ってもないのに死んでしまったりする。自分ではわからない自分ばかり。

この日記の最後の日の文章はとくにこのご夫妻をご存知の方にはものすごいいたわりなのだろうなあと感じながら泣きました。

人間って、と思いながら自分を人体実験の被験者のように観察を続けていると複数の自分を感じます。「いずれ死ぬのだから」だから?身体が動かなくなったら地道にしてきた準備も形にできないでしょう。では急ぐか。それも躊躇します。「今日死んだらどうするの?」それだったら苦しみもそこまでともう何もしなくてよくて楽かもしれません。が、死については誰も何もしりえません。

山本文緒さんは宣告された余命よりも長く生きました。日々を書きつけることが彼女の生をどのくらい膨らましたかわかりません。でもそのいたわりの深さは身近な人や読者を守るのでしょう。眠っては起きる。眠っても起きる。その繰り返しを今日も、たぶん明日も私たちが続けられるように。

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精神分析

「嫌われたくない」

早朝からコーヒーをこぼしてしまった。あーあ。わりとよくあるからそんなに残念でもないけど火傷しなくてよかった。小学校一年生のとき、ひとりでパンを焼こうとトースターで火傷した。当時から背も低く不器用だった私にとっては大きな冒険だっただろう。何度も思い出していた出来事なのに今はだいぶ薄れている。びっくりして痛くてでも少し誇らしかった。ような気がする。今もうっすらと跡があるけど当時はプクッと赤く膨れててその後もちっこいミミズがいるみたいになってた。こんなに薄くなるとは思わなかった。

トースターって種類はいくつかあれど昔からあまり変わらない。黒電話みたいに「何これ」とならずに今も残ってる。この前、小学生がCDプレイヤーを使うのに戸惑っているのもみた。という私はとても久しぶりにCDを買いにTSUTAYAへ行った。頼まれたはいいがどこを探したらいいかわからない。「ユ」のところをみたけどない。え?メジャーな人だよね。配信だけとか?頼まれたんだからそんなことないよね。果たしてこの名前はこの読み方であっているのか、など海外旅行かタイムトラベルかみたいな気持ちで狼狽えていた。お店の人に聞くにも「さん」づけにすべきかとかで悩んでしまった。思い切って「優里のCDありますか」と聞いてみたら「あ、優里さんですね」とあっさり「さん」づけだった。でも店員さんもさっき私が探した場所で「あれ?」となっていて名前が書いてある仕切りが無くなっちゃってるけどここに何枚かと教えてくれた。買えたー。よかった。私は今apple musicで優里さんの「ドライフラワー」を聴き始めた。

色々やってたらもうこんな時間。そうそう「嫌われたくない」「いい人でいたい」「みんなに好かれていたい」という人がいるじゃない?ということを書こうと思ったのだった。状況も不安の質も色々違うから一概には言えないけれどスプリットによってそれが成立してしまう場合について書いておこう。

「嫌われたくない」。これだけいろんな人がいるのだからなかなか難しいのでは、と誰でもわかりそうなものというかわかっちゃいるがということだと思うけど、

自分が不快な思いをしたくない→不快な思いをさせる人は嫌い→自分が嫌いなアイツは自分のことを嫌っている→嫌われたくないから排除→自分は誰も嫌ってないし、誰にも嫌われてない(スッキリ。次行こう。)、という場合がある。

女性が力を持つことを嫌う男性の態度にも近いものがあるかも。排除された側の「人をなんだと思ってるんでしょう」という怒りと悲しみの表明がフェミニストたちの運動でもあるのでしょう。フェミニストでなくてもひとりひとりが排除や差別の歴史を抱えていることは間違いないと私は思う。人を人とも思えない人たちだってそうだからこそこうなのかもしれない。でもだったらそれを繰り返すのではない方法で、と毎日頭痛とともに考え続けている。というか考えると頭痛がする。難しくて。でもパッと誰かの名言当てはめてわかったふりしても仕方ないから別の知的能力を使わないと。なくてもあるかもと信じないと。適応という意味では成功しててすでに「強者」である人がそういう心の構造を持っている場合、伴侶もそれ以外のパートナーもフレンドも取り巻きもいたりするから勝ち目はないと思うかも。でも人間関係って戦いではないから。そういう人たちはわりとすぐ戦いの言葉使うけど。子ども向けに攻略本とか出したくなる心性もそんな感じ?たとえそれが人間の本性だったりしたとしても本性とか本質語る前に言葉と行動。実際に特定の相手に言われたことされたことで怒ったり悲しんだり長期間ひどく苦しんだりするのだから、お互いに。

好き嫌いなんてすぐに反転する。好きだったり嫌いだったりする。ぐちゃぐちゃしたものを抱えて毎日やっていくのは辛いけれどとどまる。そうすれば薄くなったり濃くなったり出来事が意味を変えていくことに気づく。それを観察しよう。

東京は今は雨なの。午後は晴れるみたい。きっとお昼に外に出る頃には靴がキュッキュッていう。なんとかやりましょう、今日も。

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ひとりではなく

臨床経験5年以上の方を対象にいくつかの小グループを運営している。内容は事例検討会と読書会。同じメンバーで継続しているせいか議論がどんどん深くなっている。それぞれが自分の言葉で自分のやっていることについて語るのはとても難しい。他のメンバーに照らし返される中で自分が言っていることとやっていることの乖離に気づくのは痛みも伴う。一方、他者といるというのはそういうことであり患者が体験する痛みを体験的に知るにも良い機会だしこの仕事には必要だろう。

妙木浩之『初回面接入門 心理力動フォーミュレーション』(岩崎学術出版社)をテキストとするグループでは実際の初回面接を記録を用いて定式化し、その後に初回面接とはなにか、そこで必要なことはなにかについてグループで話し合う。

自分は誰のために何をしようとしているのか。その現場でどのような症状や病理や状況を持つ方と何を目的として会っていこうとしているのか、それは現在自分が持ちうる資源でできることなのか。常にバウンダリーと有限性を意識している。

ファンやビジネスパートナーという言葉で非対称な関係を別の関係にうやむやに持ち込むように臨床家が患者を使用することはあってはならない。それぞれがそれぞれの生活をしながらこの仕事をしている。そこにはバウンダリーがありできることは限られている。そんな当たり前のことを都合のいい理由で乗り越えたふりをすることは二者関係ではたやすく、ちょっとの逸脱として見て見ぬ振りをすることも簡単にできるだろう。ただそれはわかりづらくても確かに搾取である場合が多く当人たちが気持ちよければいいという話ではない。本人たちもお互いが気持ちいい間は外側から何を言われても被害的になるかナルシスティックに二者関係のふりをした自分自分(一者関係)に安住するかになりがちだが、グループで複数の眼差しに照らし返されることで回復できる自我(大雑把に使うが)もある。治療者が心理療法を受けることが当たり前になってほしいが(頼ることの難しさも実感できる場がないとわからないものだから)そこで第三者性を内面化するには時間がかかるので実際の第三者にと思うしそのためにグループは有効だと思う。

わかりやすく非対称の関係から始まる関係には思うことが多い。破局的な何かを体験したとしても、相手に「そんなつもりはなかった」とあっという間にそれをなかったことにされることもしばしばだ。唖然とする。それでもそうされたならなおさら立ち止まる必要がある。考え続けなければ繰り返すだけだ。その場合もひとりではなく誰かとと思うがそこもまた同じ関係である可能性もあるだろう。リスクは常にある。それでも自尊心を簡単に売り渡すことのない自分でいられたらいずれ、という希望のもとに今日も、と思う。

今日は火曜日、と書いてしまったが月曜日か。早速ダメダメな感じだがなんとか。みんなはどうだろう。とりあえず無事に一日を過ごせますように。風邪とかコロナとか用心しましょうね。

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精神分析 読書

脳世界

今朝は山梨の信玄餅で有名なお店「桔梗屋」のお菓子色々をもらったのでそこから黒蜜カステラをいただきました。ちょうどよい甘さで美味しかった。空のピンクもとてもきれいでした。

以前、必死に頑張ってきたことを褒めてほしい(だけの)人のことを書きました。(だけの)とあえてつけるのは「まさかとは思うけど本当にそうだったんだ」という絶望に近い驚きを相手にもたらすからです。その人は相手が別の気持ちや考えをもった別の人であるということを頭ではよくわかっています。でも内面に興味を持つ、親密になる、ということがどういうことか実はよくわからない。その人は自分の脳世界だけで生きているといってもいいかもしれません。以前「AIっぽい」と書いたのもそういう感じの人のことです。嫌なやつとかでは全然ないのです。AIと同じように人を惹きつける力を持っていることも多いです。私は非常に魅力を感じているので色々読んじゃいますね。そう、彼らも表面的に関わる分にはとっても魅力的でとっても素敵だったりするのだけど親密さを求めるととたんに理解に苦しむことが増えるので特定の関係性を持つ相手のみ相当なアンビバレンスに陥ることが多いです。当人はそういうのが実感としてわからないので面倒なこと厄介なことはうざい重たいしんどいで回避、排除の方向へ行動しがちです。自分の情緒を自由に感じるためのキャパが少ないのでしょうがないので苦しいのはお互い様なのだけどこの苦しさも共有できないので相当なすれ違いが生じます。回避、排除は自分が引きこもったり相手のせいにしたりちょうどよく心配やら賞賛やらしてくれる人を相手役に変えたり行動としては様々な形をとります。相手の気持ちを想像するとかは本当に本当に困難であることを相手の方は思い知り「ああやっぱりそれ(だけの)人だったんだ」と絶望し、魅力を知っているだけに自分のその認識に自分が追いつけない事態になります。今の時代、その人が知性が高くメディアを用いた自己開示が上手な人となるとなおさら外側と目の前のその人のギャップは文字情報として残るのでこちらの情緒的な乖離をもたらします。知りたくもないことが突然目に飛び込んでくるような時代です。もちろん自己開示を上手にするのはかなり大変でそういう意味でも一生懸命を超えて必死さを感じてそうやって愛してもらってきた。できるだけ卑小感を感じないように。だからその部分に少しでも異物が混入するのを感じると怒り(Narcissistic rage by Heinz Kohut)が生じてしまう、というのは専門的にみればわかるのでそういう自分に苦しんでおられる方が精神分析的な治療を求めることはよくあります。ただ変容ということを考えるとそのナルシシズムが傷つく怒りを通過しないわけにいかないので治療状況でも同じようなことが生じたときにお互いがどう持ち堪えるかは重たい課題になります。

村田沙耶香『となりの脳世界』は私も人のそういう部分をとても苦しく感じていた昨年の終わりに出た本ですごく助けられました。年末は年末で「来年とかいらないし」という方もいるでしょうし年末とか関係なく「今日もまた生きたまま起きてしまった」といつもの絶望に苦しんでいる方もおられるでしょう。そういうときにこういう本と出会ってほしいなと思います。私は辛くて辛くて仕方ないときに出たばかりのこの本と本屋さんでたまたま出会うことができました。みなさんの苦しくて死にたい毎日にも少しでも幸運な偶然があったらいいなと思います。ちなみにこの本は文庫ですし、短いエッセイを集めたものなので読む負担も少ないと思います。

「隣の人はどんな世界に住んでいるのだろう。同じ車両の中にいるのに、きっと違う光景を見ているのだろうなあ、といつも想像してしまいます」

「誰かの脳世界を覗くのは、一番身近なトリップだと思います。ちょっと隣の脳まで旅をするような気持ちで、読んでいただけたら」

と村田沙耶香さんは「まえがき」で書いています。年末年始のお休みはまだコロナも心配ですし、外に行かずともこんなショートトリップもいいかもしれないですね。村田さんの書いてくれた脳世界へ。

私たちは映画や小説みたいにわかりやすい「悪」がいる世界に生きていないから愛と憎しみというアンビバレンスに常に引き裂かれるような痛みを感じています。ナルシシズムはその痛みにどっぷりと沈みそこから立ち上がるのではないあり方のひとつです。人と思われていたらモノだったみたいな驚きと絶望を親密さを求める相手にはもたらしがちですが、どれもこれもその人の全体を覆うものではないのもほんとのことでしょう。そうでなければ、私たちがお互いに「そうではない」部分を想定できなければまたあの体験をするのかと怖くてコミュニケーションできなくなってしまうでしょう。

「夫婦や家族のように近い関係ならなおのこと、これからもたくさん、深く、傷つけ合うのです。自分が他人を、家族を傷つける人間だという事実から逃げずに、受け入れましょう。」

紫原明子『大人だって、泣いたらいいよ~紫原さんのお悩み相談室~』152頁からの引用です。

「後ろ指で死ぬわけじゃないし、それもまた一興ですよ。」

これは32頁。「離婚と恋愛編」のなかのひとつ。ちなみにさっきのは「近いから厄介な家族編」のひとつでした。

専門家ではない人の言葉の明るさと力強さは半端ないですね。私たちって患者さんといるときでさえいい人ぶったりしがちだけど紫原さんみたいに自分の感覚と経験を信じて正直であることが自分にも相手にも誠実であることだとはっきりと打ち出していくことはとても大切だと思います。

と私はなんとなくきれいめな感じで書いている気がしないでもないですがどれもこれも簡単ではないですよね。それでも今日も世知辛い現実となんとかやっていきましょうか。朝upし忘れたので歩きながらなんとなく閉じます。またここでお目にかかりましょう。

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共謀とか同一化とか

なんでもいえちゃう言葉で誤魔化されるとその人らしいなと感心するけど笑えない不安が高まっている状況で使われると嫌な気持ちになりますよね。フレンドとかパートナーとか関係を表す言葉は特にいろんな含みがあるので中身をきくと「うわぁ、あの人とのことそんなふうに言っちゃうんだ」とか「あーこの二人はこうやって共謀しているんだなぁ」と思うことも多くないですか。治療関係でも物は言いようみたいになってるときは対象不在だったりするから気をつけないといけないなと思います。誤魔化したり嘘ついたりして自分のことばかり守りたくなっているのがそういう状況だと思うので。なかにはそういう言葉を指摘されると急に怒り出してしまう場合もありますね。それはそれでまた誤魔化しの上書きがはじまっているように感じたりもしますが、こちらも怒られてしまうと怖いし嫌だから「(自分が間違ってるって言われてるみたいで嫌なんだよね。間違いとかではなくて相手のこと考えてないよねってことなんだけど)」といろいろのみこんであちらの機嫌を優先しがちではないですか。特に女性が男性に言われる場合は。相手を優先した結果「それでよし」みたいな感じを醸し出されると本当にうんざりするけど「ごめんね」とか言われるのもうんざりです。受け手の体験としてはどっちにしても黙らされてるわけですから。こういう構造にどう立ち向かっていきましょうね。せめて自分がひどい傷つきをなかったことにしないことが必要でしょうけどひとりでは難しいですよね。そういうときは助け合いましょう、誤魔化さずになんとか踏ん張れるように。攻撃者との同一化という考えが精神分析にはあって「女の敵は女」とかがいい例ですがそうなりやすいのもたしかみたいです。ただ、そう言ったところで特にいいことを生まないのでうまいこと言う能力はなくても自分の痛みや悲しみから行動を立ち上げていけるように助け合えたらいいなと思っています。お互いに。必要なときに。週末もなんとか過ごしましょう。よくお休みになれますように。

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「ヒステリー研究」を読んだ。

フロイト全集2』(岩波書店)に収められた『ヒステリー研究』はやはり何度読んでも面白い。暫定報告の後、有名なアンナ・Oの「観察1」、病歴AからDへと続くが、GWでは通し番号らしいのでSEがなぜアンナ・Oだけ「観察」と分けたかは謎。今回の読書会では「病歴A エミー・フォン・N夫人」を読んだ。1889年、まだ33歳のフロイトが「催眠下で探求するというブロイアーのやり方(多分カタルシス法)」を用いてみたこの治療の経過報告はかなり詳細でヒステリーと呼ばれた患者の表情や姿勢、仕草まで描写が非常に細やかな描写がされている。ほぼ毎日朝夕の1日2回、サナトリウムに会いにいっていたらしいフロイトと患者のやりとりも私たちが現在症例報告で聞く内容よりもずっとvividで詳細。なので後年、患者の娘が母の治療に関してフロイトに向けた非難にも、それに対して誠実に謝罪と説明を行うフロイトにも共感できる。何が生じていたのかが推測できるから。もちろん治療上の失敗はあってはならないが何が「失敗」となるかはまだその時にはわからない、というのは日常生活における人間関係でも同じだろう。私たちのグループはすでに通しでフロイトを読んでからここに戻ってきているがいずれ書かれる『フロイト技法論集』(岩崎学術出版社)に収められた論文の源としてもこの症例報告は大変貴重で読み直す価値があるだろう。

それにしても私たちが向けている相手への関心というのは特殊なんだなとつくづく思う。SNSで上手に誰かを揶揄し、上手に愚痴って少し離れた場所から中途半端な(ほどよいといえばいいのか?)「ケア」を求めるようなあり方が一般的な今となっては精神分析なんて不要と思われても仕方ない。が、しかし、これによって生きる希望を見出している人も少なからずいることは国際的にこの学問が生き残っている(IPAのサイト参照)ことからも嘘ではないとわかってもらえるだろう。国内ではIPAの精神分析家はこれしかいない(日本精神分析協会のサイト参照)けど日本でも女性の精神分析家が増えてきた。フロイトの症例が示すように「上手に」いろんなことができない人(そんなことしたいともそんなものほしいとも本当は思っていないであろう人)たちが精神分析そのものではなくても精神分析の知見を生かした心理療法を受けにこられてなんとか日々を過ごしているのも本当。

先日、身内が精神病院に入院しているという英語圏の方がお喋りのなかで以前よりはずっとましだけど病気の人に対して社会は優しくないよねというようなことをおっしゃっていた。本当にそうだと思う。障害に対してもそうだ。これだけASDという言葉が一般的になったのに私が長く時間を共にした重度の自閉症の方たちはどこへ?とよく思う。大声をあげたり突発的な動きも多い彼らと一緒に電車に乗っているときの周りの見えていないかのような視線もたまに思い出す。見ないものは見えないもの、見たくないものは見えないもの、というのも今やデフォルトだったりして、と割と身近なところでも思ったりする。どういう風に訴えていけばいいのかな。くだらないと思いつつ小さな戦いは続けていくけど。

『ヒステリー研究』のエミーの症例では患者が精神科病院における治療に対する不安や恐怖を訴える場面がある(74頁)。この問題はいまだに継続しているがフロイトが医者としてこの話に防衛的になることはなく中立的だ。こういうフロイトの姿は別の論文でもみられる。しかしここで重要なのは精神科病院が抱える問題それ自体ではなく、フロイトがこの話を患者から自分への怒りとして聞き取り内省したところだろう。フロイトはこの場面で自分の聞き方が彼女の話を中断させていたことに気づく。そして「こんなやり方では何も得られていない、あらゆる点に関して最後まで彼女の話を傾聴することなしに済ませるわけにはいかないのだ、ということに私は気づく。」と書いている。フロイトは失敗しては気づき、また失敗し、を繰り返す。私たち臨床家は皆そうだろう。それを「失敗」と呼ぶことに躊躇があったとしてもそれを「失敗」と認識することはやはり重要であり患者に対する関わりを硬直化させるわけにはいかない。

さて、今日も一日。たとえ優しくない世界でもいいことあるといいですね。とりあえずいいお天気。暖かくしてお過ごしください。

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なんとなく本のこと。大原千晴『名画の食卓を読み解く』TOLTA『新しい手洗いのために』

三浦哲哉『映画とは何か フランス映画思想史』(筑摩選書)を手にとったついでにそのそばに並べてあった大原千晴『名画の食卓を読み解く』(2012、大修館書店)も取り出しておいた。著者は「食文化ヒストリアン、骨董銀器商」ということで2016年まで南青山に『英国骨董おおはら』というお店を構えていたらしい。銀食器の魅力的なこと!この本をなぜ買ったのかは例のごとく覚えていないが表紙よくないですか?「1 一五世紀 フランス王族の宴」の扉絵「ベリー公のいとも華麗なる時祷書(1月)」(ランブール兄弟、1413-1489ごろ)とのこと。この本はまずここに描かれた食卓を読み解くところから始まる。この絵って羊皮紙に描かれてるんだって。前に山本貴光さんが八木健治『羊皮紙のすべて』(青土社)を紹介していらいてそれ以来注意が向くようになってしまった。

さて、この本、16世紀中期フランドル農民、英国中世修道士、紀元前4世紀末古代エトルリア、16世紀フェラーラ候家などなど21に及ぶ様々な時代、様々な国の食文化の歴史を通じて語られる内容の幅広さに驚く。それこそいろんな食事が並べられた食卓みたい。各章の扉絵をどう読み解くかも含めてとても興味深いな、と改めてパラパラ。

今だったら「3 食卓で手を洗う」とかから読んでもいいかも。もうすっかり当たり前になったこの習慣、と書きたいところだけど食卓では手を洗わないよね。「欧州貴族の宴席では、中世以来一七世紀中頃まで、多少儀式的な色彩を帯びながらも、これが当然のこととして行われてきました」とのこと。そしてこの章の扉絵は「バイユーのタペストリー」の一部分。ここでみられます。ひえー、全長70メートル。絵巻物みたいにしてしまってあったのかな。わからないけどウィキペディアによると「バイユーのタペストリー(仏: Tapisserie de Bayeux)は、1066年のノルマンディー公ギョーム2世(後のウィリアム征服王)によるイングランド征服(ノルマン・コンクエスト)の物語を、亜麻で作った薄布(リネン)に刺繍によって描いた刺繍画」とのこと。すごすぎる。この本では「ウィリアム征服王と異父弟バイヨー司教オドのテーブルで手拭きの布を手に、水の入った容器を捧げ持つ家臣」の部分が取り上げられています。このながーいタペストリーからこの部分を取り出したのもすごい。本文にはタペストリーの説明はないのだけど料理を指先でつまんで食べていたこの時代、この役職は非常に重要で花形だったそう。ウィンブルドンで女子の優勝選手に手渡されるのも銀の水盤!そしてこの習慣がどこから生まれたか。そこにはやはりキリスト教徒の関連があるのですね。なにげなく行うようになった日々の習慣も歴史を遡れば「やりなさいって言われたから」という類のものではないということかもね。

となるとTOLTA『新しい手洗いのために』(2021、素粒社)も思い出す。TOLTAは世田谷文化学館でやっている「月に吠えよ、萩原朔太郎展」でもとても面白い試みをしていましたよ。

なんとなく本のことを書いてしまった。

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あれはなんだったんだろう 精神分析

簡単ではない

明るい。バタバタ動いていると暑いくらい。暖房つけてるからだけど。冷たくて脅すような言葉にゾッとした。そのときの感覚が繰り返し襲ってきて眠れない。悪意やなにやらをこちらに押し付け身軽になった人の軽薄な喋りを今日も聞かねばならない。ミュートにしても何をしてもあの声が離れない。ああ、今日も生きたまま朝を迎えてしまった、と絶望しながら始まるような朝でもとりあえずはじまった。いろんな朝がある、きっと。おはようございます。

私はとりあえず朝から拙い英語を久しぶりに喋った。母国語でも通じないことが前提だと思っているけど通じない体験をもっとした方がいいように思った。通じると信じている人には「なんでわかんないの」という顔をされることもある。ため息だってつかれてしまうこともある。ついてしまう場合もあるけど。カルチャーショックとか「文化が違う」とか言う人もいる。ちなみに私はこの表現が苦手。あなたのカルチャーって?文化って?と思う。

簡単に判断しない。勝手に自分流に受け取らない。でもそうしかできない。だから傷つき傷つけあう。そんなつもりはなかった、と言いながら。大事なのはそうであっても自分の拙い言葉でもなんとか表現してみようとする意志とそのためのエネルギーかもしれない。ただ多くの場合、通じない事態が生じるときは何を言っても通じない事態、つまり相手がもう言葉を受け取ることを拒否している事態なので愛情と呼ばなくても相手を想う気持ちがない場合はもう無理かもしれない。「もうおまえにさく時間もエネルギーなどない」とかはっきり言ってくれた方がまだ楽だったりする場合もある。

謝るまでは許さないという態度を維持する人が謝ったらころっと態度を変えていうあの一言、その直後に平然と振る舞う軽口や笑顔、多くの女性が経験している気持ち悪さと絶望。こんなに長く苦しく情けない時期が続くなら最初から会いたくなかった、と思っても会ってしまった事実は消せない。悲しくて寂しくて虚しくて眠れなくて幸福と思えた瞬間がすべて「あれはなんだったんだろう」に変わってしまう。唖然とし思考停止が続く。相手あることをそう簡単に片付けることはできない。特に受け手の側は。こういうリスクを承知のうえで私たちは繰り返す。愚かかもしれない。それでもそういうものなのだろう。

だからこそと言わなくても専門的な仕事では当たり前のことだが精神分析みたいに頻繁に長い期間会い続けていく方法にはこの最初のアセスメントが本当に大事。お互いに。終わるときも終わりにすることについて話しあう期間を治療者側は提示する。それを受けるか受けないかは患者次第。とにかくどちらかがコミュニケーションを断つようなことにならないように注意する。様々な手法は現実の人間関係で起きていることを詳細に吟味し積み上げていくところから生まれてきた。簡単ではない。

インドの女性の精神分析家と話したことでいろいろ考えたのだけどそれはまた今度。

(upし忘れてた。今日はもう始まってる。みんなはどうかな。良いこともありますように!)

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「柔らかな舞台」のこと&追記

色々大変なのは変わらないけど昨晩はひどかった。寒すぎた。今朝は無事にご自身の畑(でいいのかな)で採れたというキウイもいただけたしなんとかいけそう。

忘れないように、という話を書いたけど忘れないようにしなくても忘れられない部分が人を苦しめる。フラッシュバックとは異なってもトラウマに関する病名がつかなくても苦しいものは苦しい。動けなくもなる。思考できない部分にものすごく消耗する。どうしても目にしてしまう状況で小さく積み重なっていく新たな傷つきとこれまでを切り離すには助けがいるが言葉にすることも難しいだろう。とりあえず一緒にいてもらうことが一番安全だったりする。

先日、東京都現代美術館へオランダの現代美術を代表するウェンデリン・ファン・オルデンボルフのアジア初となる(と書いてあったと思う)個展『柔らかな舞台』へいった。
植民地とフェミニズムがメインテーマだと思うが、よくある「対話」におさめない複数の共同作業の交差や重なり合いのなかで問いかけるような映像と配置がとてもよかった。写真が好きな私は「撮影」という手法自体に興味があるのでチェックしたい作家になった。映像作品を全部見るのに時間がたりずどれも中途半端になったがそのためにウェルカムバック券というのも用意されていて一応いただいてきた。期日中にまた行けるといいな。

いつも以上に頭が働かないなあ。みんなはどうかな。ため息つきつつ休みつつなんとかやれたらいいですね。ブアイブアイ(身内で「バイバイ」をいうときこう言っていた時期がある)。

ー数時間後の追記ー

メモなんだけどウェンデリン・ファン・オルデンボルフの作品を見ながら映画批評家の三浦哲哉さんの『映画とは何か フランス映画思想史』(筑摩選書)を思い出した。この本の問いは

「映像が動く。ただそれだけのこと(傍点)にただならぬ感動を覚えるまなざしがあるとすれば、それは具体的にどのようなものか」

というものだ。アンドレ・バザンによるリアリズムの定式化を検討するところから始まるこの本は映画の「直接的な力」を「リアル」という言葉ではなく「自動性automaticité,automatisme」の概念によって定義しなおそうとする。ちなみに本書の『映画とは何か』という書名はバザンがその遺書の題名として掲げた問いだそうだ。

まだ実家にいた頃、父の書斎には夥しい数の「β」がありたくさんの映画を見たがあまり記憶にない。フランス現代思想の講義(主にドゥルーズ)にも色々と出たがこちらもあまり記憶にない。よって私はフランス映画にもフランス現代思想にも詳しくないのだがこの本がそういう人にとっても興味深く読める理由は先述した問いに力があるからだと思う。2014年刊行のパラパラした記憶しかなかったこの本を映画でもないこの個展で想起し再び手に取るとは思わなかった。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフの展示では最初壁にかかったイヤホンをとってから進む。入り口からどちらの方向へいっても構わないがおそらく大体の人は時計回りに、しかも入ってすぐに聞こえてくる対話に注意を向けるだろう。そしてなんとなく椅子に座り彼らの話を聞き始めるだろう。まるで外側から参加するように。そこから反対側をみると別の映像が流れている。しかもそちらは音声が聞こえない。そちらへ周りイヤホンジャックを挿せばいいのかと気づくまでに時間がかかった。字幕で内容に気を取られたのと別の画面に伴う音声で音を補えてしまっていたせいだろう。というのは私の場合で、この展覧会はおそらくはじまりから体験の仕方はかなり多様になるだろうし、そういう風に構成されているように感じた。内容に注意がいく人もいれば、映像のなかで起きていることに目が向く人もいるだろう。私は映像のなかのカメラマンにも折り重なる眼差しを意識したし、どこからどんな風に見えるのかどんな風に聞こえるのかを試してみたりもした。自分の動きによって同じものが別のものに見えてくるのは映像作品の配置だけではない。田舎の水族館のような構成だと思ったのは雨が降っていたせいもあるかもしれない。自分のまなざしが揺れる。変わる。そのうちに委ねている。

そうそう、この展覧館のチラシをパッとみたときに言葉の意味を壊すというようなことが書いてあった気がしたのだがそれは暮田真名さんが展開している川柳のようだなと思った。暮田さんは以前『文學界』に「川柳は人の話を聞かない」という文章を寄せている。私は川柳のことも暮田さんの以外はよく知らないのだけど映像に対してはこういうちょっとトンがった態度はとりにくいように感じている。映像は背景と奥行きが勝手に仕事をしてくれてしまう感じがするし、常に何かが後回しになったりどこかへ忘れ去られたりしてでもはっきりと目に入れているものもあるので複数の対話を背中に聞きながら話しているような状態に近い、という点で今回の映像のなかの、そしてそれを体験する私の状態と近い気がする。

特に何を書きたいとかでもなく思い出したことを書き連ねてしまったらなんか長くなってきてしまったのでこの辺で。ぶあいぶあい。

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そうでもしなければ

サッカー、後半寝落ちして結果が決まったときの音声で起きた。途中何度か目を開けてそのたびに見たばかりの夢を忘れた。

今朝、ハンセン病患者に対する人権侵害のニュースをみた。する側される側のどちらでもありえた、そして対象が異なれば今まさにあるいはこれからもありうる人権侵害や差別の当事者としての自分を意識する。「ケア」に関する様々な言説にうんざりしがちだがそれは精神科医療の枠組みに入る以前から病気を生きる人たちが身近だったからだろう。「病気」という言葉も知らなかった。

ここでは自分の体験とも離れずかつ他者とも共有したり話し合ったりしやすい男女関係における「あれはなんだったんだろう」を書くことが多い。もちろん描写にはうそもほんとも混ぜ込んでいる。「ほんと」のことなんてものすごく複雑でどう書いたとしても想像が届かないものなのでほとんどうそともいえるが。あれはなんだったんだろう。長く続いている多くの友人関係やだいぶ長くなってきた臨床経験でもそのプロセスに激しい怒りを、そしてその起源に強い空虚を含む問いが皆無というケースは少なかった、というかあっただろうか。もちろん私の臨床は精神分析理論が基盤であり設定もそれに向けてなされているのでそのような問いが生じるのは必然であるのかもしれない。

などと専門的なことを持ち出そうとしなくても基盤となる身体に大きな非対称をもつヒトのセクシュアルな関係がお互いを不安定にすることは大方の人にとって実感を伴った理解が可能だろう。そしてそれが第三者の否認にあいやすいことも体験的に共有できるだろう。自分でだって認めたくないのだから。特に女性の場合は主張の仕方に工夫がいるということもしょっちゅう言っている。通常の関係よりも暴力性が作動しやすい関係をあえて精神分析理論からみるなら否認と投影同一化の機制で考えるかもしれない。

私は精神分析において患者でもあるので自分の病理ともずっと付き合い続けている。だから第三者的に書いたり誰かの言葉を簡単に使うことは避けたい。上手にそれができる知性がないともいえるがその人の言葉はその人のものなので、と思うし私の言葉もそうやって扱ってほしいと願ってきた。また知性化によって体験を遠ざけてはまた同じことが起きるだけだと考える精神分析に同意して時間とお金をかけ続けているのでもしそれを自分がするとしたらそれはどうしても自分の方が変わるのは嫌というナルシスティックな部分による防衛だろうと考える。私の立場と能力でできることはつたなくても体験を言葉にしつづけてなかったことにしないということだけなのだろう。とどまらずコミュニケーションもせず被害感で記憶も出来事も塗り替えていくような事態に私は警戒したい。それで保たれる健康も保ちたい関係もあるだろうから「あくまで私の場合は」という話。正直自分の記憶だってどんどん上書きされていく。正直薄れてもいく。そうじゃないと辛すぎる。死にたい死にたいしか出てこなくなるかもしれない。でもだからこそ思い出す。これまでそうやってなんとなく曖昧にされ繰り返されてきた侵害や暴力のことを。いえずにきた不安や恐れのことを。記憶しつづけることは想起しつづけずっとその内側に居続けることだ。忘れてしまった方が楽だろう。距離をとったほうが楽だろう。でもだから女性たちはずっと怒り続けてこなければならなかったのではないか。そうでもしなければ忘れられてしまう、自分でも忘れてしまう、そうしたら社会が私を差別する以前に私が自分で自分を葬り去ったことにならないだろうか。そんな私は同じ体験をしている人たちに害を加える側になっても気づかないのではないか。変わらない変わらないと嘆き怒っていた構造に自ら取り込まれていくことに抵抗したい。どうしたって自動的に絡め取られているとはいえ。「害」ってなんだろうということだって引き続き考え続ける必要があるのだろう。

さてそろそろ行かねば。はじめてきたこのファミレスは静かだった。朝のファミレスは大体静かなイメージがあるからこういうものなのか。私がやたら着こんでいるせいか「この席が一番暖かい」という席へ案内してくれた。電車は早朝から混んでいて苛立った人たちも多かった。久しぶりの駅を降り時間を過ごせる場所を探したが見当たらない。東京なのにと思いつつ歩いていたらここがあった。

今日は火曜日。こうして曜日を呟いておかないと色々忘れそう。なんかいいことあるといいね、大雑把だけど。

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うそもほんとも。

神泉

寒い。「昨日は寒かったよね」と話したのは昨日。今日はまたとても寒いらしい。しかも雨も降るって。つらい。寒ツラ。雨ツラ。雨寒ツラ。「居るツラ」を定着させた東畑さんの言語感覚。「つらい」ではなくて「しんどい」とかだとリズム悪いものね。「つらい」と「しんどい」だと身体感覚もだいぶ違う気がするから比べるものでもないか。

先日、神泉の店へ行った。久しぶりに。

色々書いたけど削除。素朴な優しさに触れれば重たく疼き続ける部分にまた気づいてしまうみたいなことを具体的に書いた。そして消した。

神泉は渋谷のお隣の美味しいお店とラブホテルが上手に隣り合う街。儚い関係を結べる街。東電OL殺人事件があったアパートもまだあると教えてもらった。どう生きたところでどう書かれたところで、など。

人はひとりでは何もできないというのも本当。そのために誰かをひとりにしているのも本当。それどころかあっという間に最初からいなかった人みたいに扱えるのも、別の誰かで補填して「ひとりでは何も」とか言ってわかりやすく愛(?)や共感を集めたりするのも本当。本人は本当にそう思って感謝すらしてて「わたしたちみんなで」と素朴な優しさで支え合っていると信じてるのも本当。トータルの言動からすると嘘っぽいけど部分だけ切りとればすごく本当。消えてくれた人にも感謝するかな。自分で消しちゃったからもうなにかの対象でさえないか。

そういえば石田月美『ウツ婚‼︎ー死にたい私が生き延びるための婚活』(晶文社)が漫画(石田月美/磋藤にゅすけ)になったらしい。具体的なスキルはいろんな苦しみの描写でもある。

寒い。昨日はとても丁寧なお仕事を堪能して気持ちは暖かった。友人は早朝から海へ向かうといっていた。やっぱり水温があがってるらしい。寿司もサーフィンも水温の影響を受ける。「害」って誰にとってだろう。住みやすい社会、生きやすい世の中ってどんな?生き延びるって結構大変。今日もなんとか。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 言葉

無駄ってなんだったんだろう

「あれはなんだったんだろう」の時間は「余裕」があるときにやってくる。睡眠時間はそのための「余裕」ではないはずだけれど追い詰められる時間が長ければそんな変な認識にもなってくる。


「無駄な時間をありがとう」といわれた。曖昧に笑った。心が曇った。心があるとしたらの話だけど。なんの余韻も言葉もなくひきはがされることには結局慣れなかった。言葉や仕草の乖離やわからなさを埋めるのに消耗した。そういえば「無駄」って國分功一郎さんや藤原麻里菜さんにいわれたならうれしかったかも。そういうつもりだったのかな。誰かの真似が多くてよくわからなかった。どうにかこうにか大好きな気持ちと折り合いをつけようとしているうちにもいろんなところが裂けていった。傷口がふさがる間もなく。何か答えれば馬鹿にしたように首を傾げられたりため息つかれたり不機嫌になられたりした。最初はからかわれてるのかと思って情けない気持ちで笑ったりしてたけどだんだん怖くなった。「あれのこと?」といったら「わかってるじゃん」とうんざりされた。え?普通に考えたらわからないからわかろうと思っただけなのだけど。同じスピードで処理できないよ、あなたが見下すとおり馬鹿なんだから。体調が悪いことも増えて病院へ行く時間も増えた。体調が悪い、今日は病院、と伝えてみたけど思った通りお決まりの愚痴が返ってくるだけだった。SNS との乖離がすごすぎてこっちを信じていたけどそっちがほんとだったみたいでびっくりした。ほんとあれはなんだったんだろう。唖然としつづけている。文字情報のない世界に生まれたかった。あれはなんだと問わなくてもいいように。


そう、言葉は怖い。相手がどんどんなかったことにできるのは言葉のせい。だから逆に言葉でそれを大切に保存していく。いずれ戦うならそのために。一方的に戦いの言葉にされた気持ちを取り戻すならそのために。

それではそんなこんなでも良い日曜日を。

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短詩 趣味

短詩とか編みメーションとか。

眠い、寒い、しか言わなくなる季節がやってきました。そして今日締切のこれらもどうしましょう。というか(といって目を逸らしちゃだめ)「寒い」だけがこの季節特有ですね(逸れた)。「眠い」は俳句の季語で考えれば春ですものね。「春なのに」があれば「冬なのに」もあると。お別れも季節問わずありますし。中島みゆきの曲のことです。「春なのにーお別れですーかー♪」なんか♪マーク書くとご機嫌な曲みたいだけど多分まだ東京が遠かった頃の切ない歌です。

昨日は歌人の絹川柊佳さんがネットプリントで出されていた短歌6首を何度も声に出して読みました。恋することと死ぬことみたいなお互いに内包し合う分かち難い感覚の配分が絶妙でした。高校生や大学生にご親戚がいる方はぜひ絹川さんの歌集『短歌になりたい』(短歌研究社)を贈ってあげてください。その時期ならではのモヤモヤや不安や痛みが幅広い素材と共にどこかあっけらかんと歌われています。毎日死にたいと言いながらなんだかんだ生きている大人の私たちにもよいかもしれません。

絹川さんのことを教えてくれたのは、今年8月に心理士(師)対象のイベント講師にいらしてくださった川柳人の暮田真名さんです。同期でおられるのだったか、絹川さんの才能に驚嘆したとおっしゃって勧めてくださいました。

暮田真名さんはますますご活躍の場を広げておられるようでお話ししていると親のような気持ちになる世代の私もなんだか嬉しいです。先日は絹川さんのネットプリントと一緒に、暮田さんと俳人の斎藤志歩さん、歌人の榊原紘さんの短詩集団による「砕氷船」も入手してきました。斉藤志歩さんの第一句集『水と茶』(左右社)が刊行されたので「斉藤さんおめでとう号」でした。ほんと才能もすごいけど楽しいみなさんで短詩の未来は明るそうです。

編みメーション作家のやたみほさんの作品と共に写真を載せておきます。やたさんとイロキリエ作家の松本奈緒美さんの2人展が11月いっぱい神保町にある子供の本専門店ブックハウスカフェで開催されていたのですがそれについてはもう書きましたっけ。忘れてしまいましたが小さなスペースにとっても緻密でかわいい世界が広がっていてうわぁとなりました。松本さんのきれいな小鳥さんをお引き取りにあがらねば。オフィスにお迎えするのです。ブックハウスカフェはカフェもゆったりしているので絵本好きの方には特にお勧めです。

はあ、それにしても寒いですねえ。東京はこれから晴れるみたいです。どうぞお元気でお過ごしくださいね。

絹川柊佳,「砕氷船」,やたみほ
イロキリエ作家,松本奈緒美
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うそもほんとも。

寒い。

ペットに対して優しい夫を「お父さん」と呼ぶけど自分のことを「お母さん」とは言わない人だった。子供のいないその人は女性の怒りや苦しみに共感的で夫はペットにだけは共感できる人だといっていた。もうそのペットはいないけどふたりは一応今も一緒にいる。嘘も本当も色々だ。と昨日も書いた。お互いに積み重ねる水準の違う嘘。生きているか死んでいるかより重要なのは一緒にいた時間の長さなのかもしれない。みなかったことはなかったこと。嘘も知っていたけどこういうのはじめてじゃないから。その人は笑った。そして時間をかけて築いた奇妙なシスターフッド。今日ももろもろなかったことにしてわかりやすく優しさをふりまく人にうんざりしたため息をそっとつきながら。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

うまくできてる。

書いては消し、ということをわざと繰り返す。ここでそれをすると「間違って」公開してしまう場合があるのでここではなくて。「相手」あることに対しては相当に相当に慎重にならざるをえない。人ってうまくできてる、と思う。それを「支え合い」と呼んでいた時期もあった、といえるほどに移ろいやすい人間関係。「一年あっという間」と感じられるように寿命を短いと思えればこんな苦しみなんて、と思えていいのかもしれない。でもそんな簡単じゃない(これまで何回この文章を使っただろう)。また「あれはなんだったんだろう」の時間がはじまる。

といっても疑問にのみこまれているばかりではない。まるで実験対象のようにされた時間を今度は自分が調査対象にしている。知ることでどうにかしたい。そうでもしないと「間違って」色々してしまいそうだ。人ってうまくできてる。でも直接的に関わりのない誰かを傷つけないためにその理性は必要だ。本当に悲しいことに。こういうのも「ケア」について語るときの困難と通じている。

さて、あれはなんだったんだろう。どうしてあんなことが可能だったのだろう。

たとえば「気持ちいい?」ときかれて頷いてしまうとき、それが全くの嘘の場合、言われればそうかもしれないという場合、そんなことないけど相手を気持ちよくさせたい、あるいは怒らせたくないのでという場合、なんとかの場合なんとかの場合といくらでも答えはあるだろう。嘘にも本当にも色々ある。

精神分析では去勢と倒錯は常に中心となる概念だが、実際の性器とこころの関係は恐ろしく複雑で言葉がそれをどういう形で記述してくれるかがその人の人生を変えたりもする。ましてや実際の接触がある場合、男女の場合だったら非対称性は否認できないものとしてそこにあるし、同性同士の場合でも差異は何気なく気にされつづけそれが言葉や身体の力の使用に影響を与えたりもする。

などなど。もう行かねば。ネバということはないのだけど仕事までにしたいことがあるのだ。自分や相手や見知らぬ誰かの欲望とどう関わるか。答えはひとつではない、と思えることも「ケア」の基盤だろう。あなたがどうにかしてしまいたい相手にも「相手」がいる。だから答えはひとつではありえない。常にそれがすべてではないのだから。人ってうまくできている。本当に苦しく悲しいことに。