ハラスメントに関する窓口って最初からかなり閉ざされてる。いろんな事例を想定して調べてみるとわかるけど声をあげにくくする仕組みになってると思うほどに。伊藤詩織さんのインタビューでもああするしかなかったというようなことをいってたと思う。どうして傷つけるほうは平然と自分のやりたいことだけ繰り返すのかな。フロイトのいった快原理は正しそうだ。そういう人もまったく痛みや悲しみを感じないわけではないのだろうけど恐ろしく欠如している部分があるのだろう。絶対に非を認めない。認めたら死んじゃうわけでもなかろうに。ある部分に関しては血も涙もなくものすごい拒否的、被害的、攻撃的になってしまう。なんなんだ。その前段階で気づいているのだからいってあげるべきなのだろうけどそれはそれで失うのも怖いとか複雑な気持ちが生じるから簡単ではない。なんにせよ小さな嘘を積み重ねるのはとてもよくない、当たり前だけど。推理小説好きじゃなくても普通に観察してればばれてしまう嘘ばっかりなんだから、たいていは。なんでこれがばれてないと思うんだろう、と思いながらみてみぬふりをして嘘をついたこちらもどうしようもなく愚かなんだろうけど。痛い目にあっても離れないことで離れなかったおまえが悪いといわれちゃったり。そんなもんですかね。そんな簡単じゃないから賢いはずのあなたがそんなわかりやすい嘘つかざるをえないんでしょ、つまり思考停止だよ、といったとしても嘘をついている人にはもうなにも通じない。嘘はつきとおさねばならない。だからばれそうになると逆ギレしたり。基本的な思いやりとか観察する力や関心をもつ力がかなり弱いのかもしれない。それが全般的な弱さにみえてその威圧的な攻撃性を覆い隠してしまって逆にケアされる対象になっていることだってあるかもしれない。特定のことに対する吸収力はすごくても人間のこころみたいな曖昧で複雑で変化するものに対して寛容でいられないのかもしれない。でも自分に対してだけは寛容であってほしいから常にそういう相手をキープしておく。重みや複雑さに耐えられないから。家庭のある人の場合は外へむかいがちかも。身内にはわかっちゃってる場合が多いから。これだけ可視化というか、相手の気持ちなど考えずに自分の欲望のままに露出していく時代になっているにもかかわらずそれができるのは常に強者のみ。だってハラスメントなどの暴力的な行為に声をあげる人の口封じみたいな構造は変わっていないのだから。地獄だ、そんなの。だから模索しよう。女か男かはとりあえず関係ない。依存関係、共謀関係は常にある。前にも書いたが「ひどいことをしてきたのはみんな女だった」と男に相談していつのまにかべったりになっている人とは今の時点では協力は無理かもしれない。お互いの利害関係が絡めば理性など感情にたやすく負けるだろう。私たちみんなそうだと思う。しかたない。そこだって簡単に暴力の場になる可能性はあるけれど愛とか性愛に言い換えてなかったことにしようとするかもしれない。それはそうだろう。そんな簡単ではないのだ。だからこそまずはたやすく敵味方に分断されることのない者同士で手をつなごう。何度か書いたが人間関係は戦いではない。だから今は無理でもいずれ、という希望も保持したい。戦いの場までもっていかざるをえなかった彼女たちから学び、それ以前をどうにかしていくことを考えることは必要だろう。それぞれが被害と加害に関わる可能性のある身として、これからの子供たちのことを考える大人としてできることを実際に少しずつ、でも動くとなったら確実にやっていく力を身につけたい。
※考えてることは「あれはなんだったんだろう」関連。だから重なってる。