鈴木健『なめらかな社会とその敵 ─PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論 』(ちくま学芸文庫)の文庫版が昨年10月に出たのでなんとなく読んでいる。幅広い。第一部は生物学。第二部は貨幣システム(経済学)、第三部は投票システム(民主主義)、第四部は計算と知性、第五部は法と軍事。これをなめらかに統合していくという壮大かつ具体的な試みの様子。そのためには世界をみる仕方を変えていく必要がある。どうやったら複雑なものを簡単に単純化しないで複雑なまま世界をみていけるだろうか。そのために個人ががんばるのではなくて技術のアップデートをできないか、という「希望の書」(と書いてある)のはずなんだけどまずこれをがんばって読む必要があるわけですね。
ただ、なんとなく読めてしまうのは平易な言葉で書かれているというのもあるけど冒頭のエピソードにこころ掴まれたからかもしれない。著者は14歳の時、西ドイツの日本人学校に通っていて修学旅行で東ドイツへ入ったことがあるそうだ。ベルリンの壁を越えて。そこで2週間前に東ドイツからこの壁を乗り越えようとして失敗し犠牲になった人の名前が刻まれた記念碑を目にする。その5か月後、ベルリンの壁は崩壊した。
この理不尽たるや。犠牲になった人々にだけではなくそれを見せられる側にとっても。著者は人間がこのような境界にまつわる原体験を忘れることを知っている。それが強烈であればあるほどそうかもしれない。だからこそそれを単純化せず考え続けるための方法を模索し具体的な提案を行う。
私はひたすら人間同士のことに巻き込まれて生きている状態なので内容を追うことはできても(多分)本当そうだなと納得はできても今はこのような実装の手順を現実的に感じることができない。そんな自分を変えないと世界なんて変わらないということかもしれないが今私こっちで必死だからそっちでやって、みたいな気持ちにもなる。なんかどっかで個人の努力を求められている気がしてしまうのだろう。著者はむしろできることをできる範囲でやるとしたらこんな感じもありなのでは、ということを書いているような気もするが内容の理解とそれによって感じたり考えたりすることはまた別ということか。でも実際勉強になる、まだ途中だけど。こういう本が2013年に出ていたのだねえ。今回はそれからの社会の変化を踏まえて再考された論点も「なめらかな社会への断章 2013-2022」として付け加えられている。
本については出版社のサイトと鈴木健さんが書いた記事「なめらかな社会」とオルタナティブな未来への実験:鈴木 健(特集「THE WORLD IN 2023」)をご参考までに。
それにしても人間中心主義を逃れることってできるのか?人間なのに、ってところに戻ってしまう。人間のいない水準でものを考えることを可能にするのが技術なのかもしれないけど。科学技術は着実に発展しているわけで、なのに戦争はこんな身近で起きてて社会の分断だって止まらない。ということを言い出したくなるのはこの本が今の私にすぐに役立ってくれない!と思っているからかもしれない。何か役立てようと思えば何だって役立つがそれだったら何読んでも同じだろうしね。自分が言ってほしいことだけ取り入れたいってことになるものね。でも戦争中だって人は本を読んできたでしょう。きっと読みもしない本を大切に持ち歩いたりだってしたでしょう?他人からみたらどうでもいいことかもしれないけどそれは他人だからそうでしょう。それかもう他人事にしちゃいたいからだよね。そういうことができないかしたくない人は足掻くしもがく。悪あがきかもしれないけど私は自分から「悪」はつけない。いい悪いの話じゃないと思うし。こういう人間が300年後(だったか)を想像し実装を試みる人間の本を読むこと自体、なめらかな社会志向かもね。楽天的というか能天気かもしれないけど。