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精神分析

泣き、怒り、叫びに。

我慢に我慢を重ねてなんとか保っていても次から次へと「またか」という目にあわされる。過ぎたこと、なかったことにされる痛みは計り知れないのにその傷はえぐられるばかりで自分だけ先へ先へと。なんにでも意味があった、振り返れば貴重な体験だった、みたいな相手置き去りの発言を平然としながら。こちらはいつまでも動けずに、それでもなんとか日々を過ごそうと努力を重ねているのに。ふざけんなという怒りもこれだけ強ければ不適切な行為にしか繋がらないだろうから抑制がかかる。そのうちにいつまでもこうなっている自分が悪いと自分も他人も言い始める。表面と内面の乖離が進む。そんななか相手はまたやっていることと正反対のことを御高説垂れてるかもしれない。それに対していつも通りの共感と賞賛を示す人に立場を利用してまた近づいてるかもしれない。今度こそハラスメントと言われないように。立場を脅かされないようにSNSの利用には十分気をつけながら。そういう人が変わることなどない。終わらない怒りと絶望。

誰にもいえないそういう経験はセラピーにこない人でも多いと思う。だからこういうことはいろんな形で話したり書いたりしておこうと思っている。もちろん職業上、具体的な出来事は加工している。しかしパーソナルな秘密が守られる限りはむしろ加工には抗うべきだと思っている。精神分析でいえば防衛的になるなということだが傷が深ければ深いほど質の異なる防衛によって事態は難しくなるのでお互いに無理はしない。時間がかかるのも本当に辛いが時間をかけるしかないこともある。パーソナルな秘密が守られるというのは受け止めてくれる人がいる限りでということだ。どうしてこちらばかりが無理や我慢を強いられなければいけないのだろうか。当然の怒りだがすでにある非対称を乗り越えることは今の時点では不可能だ。少なくともその相手は変わらないだろう。次世代はわからないが。無理をしてこれ以上動けなくなる事態は避けたい。どうにかこうにか協力してもう少し可能な形を考えてみたい。文章を書いて食べている人たちみたいに、というかたとえそうであったとしてもうまく書く必要も共感を呼ぶようなことをいう必要もない。そんな形になどならないからここまで苦しいのだ。それぞれがそれぞれの言葉で自分のこととして語ること自体がまず必要だと思う。それは「言葉にする」ということとは異なる。語れない、通じないということを何度でも感じながらになるだろうしどう考えても苦しいと思うがなかったことにされたまま生きていくよりは、誰がなんといおうと自分はそう感じた、自分はそう思った、実際に起きたことはこういうことだ、ということを単なる言葉ではなく、泣き、怒り、叫びにできる場はあってもいいと思う。もちろん表出がすべてのはずもない。時間はかかるだろうけれどその時間を耐え抜く力はこの出来事を耐えて生き延びている今に備わっていると考えていいのではないか。それを信じられたらと願う。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生