カテゴリー
精神分析

精神分析って。

窓を開けずにキッチンであれこれしてパソコンの前にきた。キッチンの小さな窓は開けっぱなしで寝た。その前に立った時にあまりいい風が入ってくるようなイメージを持てなかったのかもしれない。椅子に座ってすぐにエアコンのスイッチを押した。鈴虫が今日はそばで鳴いている。

今朝、宇多田ヒカルのインスタがネットニュースになっていたが私もこの写真はインスタで見た。ほんと子供ってすぐに大きくなる。こうやって私生活を守りながらあれだけの仕事をしていることにも驚嘆する。宇多田ヒカルは精神分析に助けられたそうだし私も助けられてきた。では何が助けになったかというと精神分析を体験した人とは共有できると思うがその人たちとさえ言葉で共有できるかというと心許ない。むしろその共有できなさについて言葉にすることになる。私のところへ来る人は専門家に話すのははじめての人もいれば別の場所にかかったことのある人もいるし多くは医療にかかりながらだ。彼らは以前のカウンセリングや医療での体験を「話を聞いてもらえて」とか「問題を整理してもらえて」と話すことが多い。精神分析にもその側面は含まれるが混乱の中、狂気に陥らずに混乱したままいられるようになるとか、自分にしかわからないことを自分にしかわからないこととして大切にできるようになるとかいうことを助けに感じていることが多いと思う。異質なものや人に対してバウンダリーを揺さぶられつつもメタで考えられる自分の機能を失わなくなる。ほとんどの場合、「適応」はいつの間にかよくなる。憎んでいた人や場所を愛せるようになるとかではないけれど「最悪!」と思いつつも憎しみに覆われることも減るし、覆われている自分に自分で気づけるようになるので行動が変わる。外側は何も変わっていないのに自分が別のしかたでそこにいられるようになる。あるいはいてはいけないことを認識できるようになる。もちろんそのプロセスは反復のプロセスでもあり何度も似たようなことは起きる。その度に狂気に陥りそうになる。でも精神分析が機能していればその反復は少なからず治療者との間にも起きている。だから外側のことではなく今ここのこととして扱える。同じものをお互いの場所から眺め対立したり共有したりする。「そっちからはそう見えるのか」という驚きに素直に驚くことができず「こっちからはこうにしか見えないのだからこうなんだ」と言い張ったりしながら少しずつ別の可能性に開かれていく。このプロセスにおける二人はとても対等で直接的な関係だ。でもこの局面にこそ関係の非対称を持ち込みたくなるのも事実。差異はあるものとせず差異のせいでこうなっているという考えにとらわれてなんとか自分の立ち位置を維持する。それはある意味なけなしの努力でもある。変わることは怖いことだから。などなど。体験してみなければわからないことを言葉にしていくことの意味などない、とは全く思わない。自分の知らない場所の方が知っている場所よりずっと多いなんて当たり前なのだから。「そういう場所があるんだ」と知るところから旅が始まるのと同じ。精神分析状況を両方の立場で体験しているから観光案内としてもそんなに間違ったことは書いていないと思う。でも考えは変わるかもしれないからこういうことも書き続けると思う。もう準備せねば。今日は火曜日。なんとかやりましょう。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生