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精神分析

強風、アメリカ、環境

昨晩からすごい風がおさまることなく吹いている。今朝は何も胃腸にいれる気がしない。入れすぎていたのだろう。早く元気になって。体調が悪いと何もしたくないけど動けている程度だからゆっくり動き続けましょう。無理はしない。

ふと写真が目に入る。ジーンズのポケット部分に写真が入るデザインの写真たて。このデニムのシャツを着た大きい男の人のオブジェはPasadenaだ。身内がLAに住んでいるときによく行ったのんびりしたモール。毎回文房具屋さんでかわいいカードを集めた。小さな美術館もあった。米国同時多発テロ直前、2000年には彼らとNYにいた。別の身内はあの日もNYにいたし今もNYにいる。その後、戦争が始まり、やけにすいた飛行機でLAに行った。はじめてLAに行ったのは20歳のとき。暴動の余波を感じる時期で近寄ってはいけないと言われた場所がいくつもあった。国内での暴動に比べて戦争中でもアメリカは静かだったなと感じる。そうではないアメリカもたくさんあっただろうけど。アメリカは広い。

サックス奏者、ヌバイア・ガルシアのインタビュー by Mitsutaka Nagiraを読みながら彼女の曲を聞いていた。何度読んでも小さい頃から当たり前のようにあった音楽環境の豊かさに驚かされるが私もクラシック音楽は小さな頃から身近だったなとか考えていた。ドイツだったと思うけど有名な指揮者がうちに来たこともあった。フィンケさんだっけな。私は楽器も習っていたけど才能もなかったしクラシック音楽は身近なだけで好きでも嫌いでもなかったしどちらかというとオーケストラのコンサートとかいくのは面倒だった。すぐに寝てしまうから。母なんて始まる前から私に肩を差し出していた。寝ないよ、まだ…、と思った。大学に入ってバイオリンをやっていた友達に誘われて親とは関係なくコンサートにいくようになってからようやくクラシックの魅力がわかった。ヌバイア・ガルシアみたいに豊かな音楽環境を自分の生活の一部とできていなかったことが少し悔やまれる。

昨日、ウィニコットのいう「環境」や「退行」について少し考えていたので関連部分を載せておこう。私は退行概念は以前からたやすく使えない用語だと思っているので何か言うならこの辺は参考になるかなと思った。もう行かなくては。とりあえずメモ。ほんとに風が強いからみなさんもどうぞお気をつけて。交通機関にも影響が出なければいいですね。

「私は、通常の赤ん坊において、誕生以前にも誕生以降にも同様に適用できる存在のあり方の仮説を提示したい。この存在のあり方は赤ん坊にとってのことであり、観察者にとってではない。存在し続けることは健康なことである。比喩として泡を例に取るならば、外側の圧力が内側の圧力と適合していれば、泡は存在の連続性を有しており、このことを人間の赤ん坊に当てはめるならば「生存する」と呼ぶことができるだろう。それに対して、泡の外側の圧力が内側の圧力に対して大きいか小さい場合、泡は侵襲に対する反応の状態にある。これは環境の変化に対する反応として変化するのであり、個人的で衝動的な経験によるのではない。人間という動物の観点から考えると、これは存在の連続性に中断があったということであり、存在の場が侵襲への反応に取って代わられるのである。侵襲が終わると、反応は終わることになり、また存在することへと復帰することになる。」ー『人間の本性』第4章「最早期の段階」

「子宮のなかの素晴らしい時という観念(大洋感情など)は、依存に対する複雑に組織化された否認である。退行に伴って起こる喜びはすべて、環境は完璧だという観念を前提としている。これに対抗するものとして、環境があまりにも悪いために人間が存在する希望が全く無いのではないかという、退行した子どもや大人にはまさにリアルなものとなりうる考えを、検討しなければならないだろう。」

ー『人間の本性』第10章「環境」

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生