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精神分析

散歩、時間

そういえば昨日ブログ書かなかったな、と思ったら書いていた。どうなってるんだ、時間感覚。今日も「葦」のフルーツケーキ。いちじく!美味しい。鳥の声はどこ。もう遠くに行ってしまったのか。

昨日は懐かしい街を歩いた。スクールカウンセラーをしていた頃は毎週使っていた駅だ。当時は通勤として使っていたから立ち止まったり気になる道を曲がってみたりはしなかったけど昨日は好きに歩いた。小さな商店街に活気があって昔からのお惣菜やさんとお客さんの会話が「いつもの」という様子でいいなあと思った。ドアのない店が多いので距離が近い。特に会話もしないけどいつものお惣菜を買ったんだろうな、というガタイのいい老人を見かけた。茶色い何か、多分揚げ物のパックを右手に持ってぬおっと小さな店から無表情で出てきた。日課なんだろうなあ、かっこいいな、と思った。日傘をさして赤ちゃんを抱っこした女性が前を歩いていた。そこも小さな商店街だったけどさっきの商店街みたいな活気はなかった。素敵なワインバーみたいなところがあったけど朝だからやっていなかった。この人はここで生まれ育った人なのかなあ、と思いつつ華奢な後ろ姿を眺めていたら風が吹いた。その人の日傘は折り畳みで一部畳まれてしまい慌てて戻していた。線路のほうに行くと何かあるたびに付け加えたらこうなっちゃったのかなというような変な構造の階段と橋があった。冨嶽三十六景のひとつの碑も近くにあった。もう全然その景色とは異なるけどそのあたりはまだ緑も多くて想像できなくもないな、と歩きながら思った。

昨日も小説の話を書いたけど小説に出てくる会話って本当にスムーズ。押し黙ったり無視されたり色々しても時間が止まる感覚がない。終わりに向かわなければいけないから当たり前なのだろうけど読みながら「ああ、なんてスムーズ」と感じることが多い。私は物語を作る仕事として自分の仕事を捉えていないのだけどそう捉える学派もある。昨年、平井靖史さんの話を聞きながら思ったけど精神分析は進まない時間、受動も能動もない時間を持っている。続きも膨らみもしない時間。過去は常に揺らぎをもたらすから本当はそんな想定はできないのだけど人が常に生きているのが当たり前だとは思えない。自殺もウィニコットのいう意味での「生気」もそういう瞬間と関係していると思う。その人の選択の一瞬。昨日はもともと壊れた心という言い方をしたけど自分が他人から生まれたといううちとそとの変な反転によって異質なものを抱えこんでいる原初の状態(だるいとかいう身体感覚も)をそれとして、それを「いろいろある」と分散として捉える機能とそれを他者に見出して投影できることでさらに形を変えていくこと、そのプロセスに精神分析の言葉は関わっているのだと思う。だいぶ何を言っているのか、という感じがする。資料作らねば。今からかよ。あー。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生