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精神分析

文化、シームレス、画一性?

雨。熊本では地震。この地震自体も心配だけど揺り戻される記憶も心配。外ではバイクの音。新聞かな。以前は夕刊の準備をする新聞屋さんの姿もたくさんみたけど今は早朝バイクの音を聞くくらい。以前みたいに一軒一軒で止まる音とは違うから新聞配達ではないのかもしれないけどこの時間だからそうかな。雨の中大変だけどこれもずっと続いている文化なんだよね。輪島のこととか考えてると文化を継承するって日常を大切にするってことで日常を大切にするって生活を大切にするってことで、じゃあその生活をどう無事に成り立たせるかといったら、とか色々考えてしまう。

今日締切のものが終わってないけどどうしましょう。やるしかないけど隙間時間にやるには課題が大きい。少しまとまった時間があれば一気にできるんだけど夜は疲れ切っていて無理だし、今か。この2時間でやればいいのか。ああ、キウイまだあったかなあ。アンドロワ・パレの焼き菓子があとひとつある。「パウンド・オレンジ」。この語順がフランス。コーヒーを淹れよう。「アンドロワ・パレ」って「御殿場」に合わせた造語なんだって。「場・御殿」ってことね、きっと。フランス語って話す人によって印象が違うけどそれは日本語も同じね。しっかし語学堪能な人って多いよねえ。ほとんどシームレスに切り替えるもんねえ。コーシャス・クレイかよ。こうやってサボっているから終わらないのだ。ああ。

仕事って本当に自分のためにやるものだから評価とかどうでもいいと思ってるのだけど反応は大事。でも評価されないと収入増は望めないのでそのうち評価ももう少し目指さないといけない。今更だけどお金をもっと貯めないと国際学会に行けない。今回すごくお金使ったもの。辛い。自分のためというのがシームレスに相手のために繋がっている必要が私の仕事にはある。私にもあるのか、シームレス領域。嬉しい。だからね、描写するときに治療者が自分の反応ばかりいっているのは本来ありあえないことなんだけど指導しているとそこを指摘しないといけないことがとても多いし、私も若い頃そうだったから気持ちはわかるんだけど指摘された方はナルシシズムが傷つくから普通に「相手の反応のこと忘れてた!」となれないものなんだよね。オグデンは転移と逆転移は相互のものではなくてユニットをなしているという当たり前のことを書いているけどこの理解が本当に難しいのだと思う。片方を見ると片方が消える世界なんてSNSがまさにそうだよね。自分が被害的になるとすぐ攻撃。たやすく鏡になる。がしかし「強者」たちは他人の言葉を上手に引用するので「みんな言ってる」感で連帯するのも上手。難しいことだ。がしかし(連投)私の仕事はコミュニケーションなので他者の言葉は引用として使うべきでなく他者は部分ではなく全体であり部分の総体が全体であるというのもまたほんと、という視野をわすれてはならないので都合のいいとこだけ他者利用する話し方はすぐに行き詰まってしまう。こちらが指摘するまでもなく行き詰まりは起こる。まあ昨日私も「技術と革新」さんというアカウント(改めて書くと面白いアカウント名)の

“「多様性を認めろ」というより「画一性に支配させるな」という気持ちのほうが近い だって画一性に支配させるべきではなくない?”

という投稿をRTしたけどほんとそれって思ったからついしちゃた。自分の言葉で語ると色々めんどくさいからつい。だけどSNSって自分の言いたいことを支持してもらう場になっているのがまずいわけだから気をつけないとだね。おうちで済ませないのですね、という感じ。でもほんと「多様性」って言葉も使いづらくなったよね。これだけ断片的な言葉に脆弱な「強者」の独りよがり言語が蔓延ると大変なことになると思う。なんかいちいち「検閲かよ」と思うことも増えてるし嫌になる。「強者」がかけてくる圧力って大体「俺の意見となぜ違うのだ」というものだし「強者」だけあって自分が見下されたとなると上手に相手を見下し返しして、そこに似た人たちが短時間で乗っかる設定がSNSでしょう。そうやって圧かけて「みんな同じ」になってるだけだから画一性とも言えないと思うけどそういうのを画一性っていうのかもね。はあ、大変。それよりこのお天気、ひどくならないでほしいし雨だけでなく、どの地域でも、特に能登や熊本や東北や阪神や震災の記憶が濃いところに被害が重なることがありませんように。

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精神分析

言葉、身体、音

シャワー。今は朝シャンって言わないのか。私自身、言わないが。言わないけど思い浮かべる自分世代の言葉ってある。今は朝シャン以外思いつかないが。「オイ!鬼太郎!」が思い浮かんだがそれは世代の言葉とは違う。この前若者が言っている言葉がわからなくてきいてみたらごく普通の省略だったんだけどそこ略す必要全くないじゃないかと思った。でもそのうちそっちがメインで使われる言葉になるかもしれないからね。なんて言葉だったか私はもう忘れちまってるけどね。

今日は素早く移動しなくては。嫌だなあ。もう「素早く」とか無理。今、iphoneが勝手に記録してる歩数を見てみた。結構歩いてるなあと思ったら「今年の平均歩数は昨年よりも少ないです」だって。一万歩超えてるのにね。毎日一万歩は歩いてるんだね。来月からは移動が減るからぐっと減るだろう。でも柔軟性と筋力高めるために基礎の基礎からみてメニュー組んでもらえる先生についたから身体メンテナンスはしていけるかな。身体硬すぎて笑われてるけどきついながら楽しい。こういうトレーニングの仕方もあるんだなあ、と新鮮。色々やってみるもんです。

お祭りに行きたい。能登にはたくさん有名なお祭りがあるんだよね。瀬尾夏美さんが東日本大震災の時と違って被災地がとても静かだと言っていたことが頭から離れない。東日本大震災のあと、南三陸にNPOで入ったときだったか、みんなで、私は小さい子を抱っこして、踊った記憶があるけどあれはお祭りではなかった。なんだったんだろう。子供たちが喧嘩で「死ね」といいあっているのが聞こえたときのなんともいえない空気も思い出す。「動かないんだけど」とボランティアさんが言いにきた。一緒に行ってみた。どこ?と思ったらすぐ足元に小さく小さくうずくまっている子がいた。びっくりした。ボランティアさんがどんな声かけをしても動かないという。大地に張り付いたみたいに動かないその子としばらく一緒にいた。「どうしようか」というとなんとなく動く気配があった。なんだか胸が締め付けられるような感じで小さな声で「抱っこ?」と聞くとしがみついてきた。それからずっと抱っこしていた。お祭りみたいな音楽がなってみんな踊り出して私たちも踊った。その子は腕の中でとても楽しそうに笑っていていつまででも抱っこしてるから大丈夫だよという気持ちになった。本当は全然大丈夫じゃないし、私はいつまでも抱っこできないし、私が抱っこしつづけたところで何も変わらない。それでも、という体験だった。あれから13年。あの子はどうしているだろう。能登にも音が、人が訪れますように。何ができるわけじゃないと思っていてもやらざるをえない何かがいけばあるというのが現状だろう。瀬尾夏美さんのSNSもぜひ追ってみてほしい。能登の写真や様子を知ることができる。そして今、東京のポレポレ東中野では『生きて、生きて、生きろ。』を上映している。今日 5/30(木)は出演者で精神科認定看護師の米倉一磨さんのトークイベントがあるという。相馬にボランティアに行ったときにお世話になった。彼らの実践は『災害看護と心のケア ――福島「なごみ」の挑戦』(岩波書店)という本になっている。彼の明るいリーダーシップにとても助けられたし皆さんに本当にお世話になった。私は一体何をしにいったのか、と思うけど仮設住宅の方にもたくさん笑わせてもらった。内容だけ取り出したら全然笑い話ではないけれど私たちはみんなよく笑った。北国の仮設住宅ならではの苦労さえ面白く話してくれた。もちろんケアマネさんしか会うことができない方もいらした。生存を確認するのに私たちは音を聞く。心臓に耳を押し当てたり、寝息に耳をすましたり、聞き慣れた声での返事を待ちつづけたりする。音が聞こえない街に普通の足音や普通の話し声が増えていきますように。

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精神分析

レモンケーキ、The Lemon Twigs、クリーニング屋さん

二度寝した。何度寝でもできるがコーヒー。今日も御殿場のケーキ屋さん「アンドロワ・パレ」のレモンケーキ。昔からあるうっすらホワイトチョコがかかったレモン型のレモンケーキってどこのでしたかしら。はじめて食べたとき、感動した。見た目もとってもかわいいしとっても美味しかった。レモンケーキっの特別感ってあそこからきてるのだと思う。最近だと瀬戸田レモンケーキが有名?しまなみ海道、瀬戸田町生口島、とってもいいところ。しまなみ海道の島々は水害の影響がまだ残るなか、地元の人が「ぜひいらして」と言ってくださったので甘えて行った。復旧の目処が経っているのかどうかもわからない立ち入り禁止場所も多くあったし胸を締めつけられるような場面にも立ち会った。でも景色の素晴らしさ、昔から残る工場内のお菓子屋さん、お花がいっぱいの道の駅、全部全部素晴らしかった。そこにお迎えに来てもらったんだ、最初。

近所のクリーニング屋さんが閉店するとこの街から引っ越していった方のSNSで知った。私がこの街に越してきてからずっとお世話になっていて自分で洗えるものは洗い方を教えてくれたり、商店街のお祭りの焼きそば券くれたり、会えばいつも挨拶してた。改めてご挨拶に伺わねば。引っ越していった方がわざわざご挨拶に戻ってくるのもよくわかる。新しく街に入ってくる人にとってあの安定感ある優しさがどれだけ支えになるか。

最近、雨は嫌だなというときと晴れてるとき、つまり大体いつもThe Lemon Twigsの『A Dream Is All We Know』を聴いてるのだけどこの音の明るさはすごいね。レトロ感もあるし。空の様子も本来いろんなものが混ざり合って煌めいたり曇ったりするのだろう。イヤホンでじっくり聴くともっと遊びを感じる。高校時代に戻ったみたいな音楽。私が琵琶湖湖畔(好き)でカフェをやるとしたらこのレコードは定番にするなっ。前に行った琵琶湖湖畔のカフェがとても楽しかったんだ。

昨日、バスの中から有名人を見た。いつもキラッキラの大きな瞳だなあ、と思っていたけど実際そうでびっくりした。かわいかった!私がこれまで一番会ったことのある芸能人は柄本明。下北沢でぶつかりそうになったこともあるし、柄本明が車にぶつかりそうになったところも見たことがある。もちろん何事もなく歩いているのも見ている。お互い気をつけましょうね、私もぶつかりがち。彼はいつも素敵なジャージを着ている気がする。たまに演技が怖すぎるけどだからこそ大好きな俳優さん。下北沢は私が劇場に通っていた頃の下北沢ではなくなってしまったけど好きなお店もあるしいつまでも懐かしく感じる街なのだろうと思う、私にとって。思い出が多すぎる。

なんか今朝はノスタルジック回だな。もう焦らないといけない時間だ。がんばろ。

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精神分析

防災速報、能登、ブラジル

鳥たちがそばの空を賑やかに通り過ぎていったみたい。元気なのかな。今朝は御殿場の「アンドロワ・パレ」の「ケーク・オ・フリュイ」。「御殿場でケーキ」というのを強調しているのがちょっと面白いWebサイト。甘い。コーヒーで正解。

朝から防災速報。新宿区は1時間後くらいに30mm/hだって。それまで0mmなのに。線状降水帯の可能性のある地域も心配。水害も本当に大変ですよね。空の様子はどうなっているんだろう。こういうのは温暖化とどのくらい関係しているのだろう。私たちが耐えられるくらいの雨であってほしい。自業自得って言わないでほしい。こっちの希望ばかり押し付けやがってって言わないでほしい。自然の声に耳を傾けないと。昨年の夏、青森で聞いた地元の人たちの声を思い出さないと。今はとにかく今日、被害が出ませんように。もちろん明日も、その後も。能登には特に。

能登に手伝いに行きたいけど行けない。東日本大震災のときはNPOにいたからすぐにバスや調理のできるトラックを出せたし、チームで動いていたから役割分担もスムーズだった。能登にはそういうチームがあまり入っていないらしくとても静からしい。この前、瀬尾夏美さんがYouTubeの番組で言っていたけど能登は遠くないよ、と。確かに。金沢まで新幹線で行けるから。この前、国際精神分析協会(IPA)のMLでブラジル南部のリオグランデドスル州で起きた洪水に対する支援について書かれていて、私はそこがどこなのか全くイメージできなかった。調べてみたらそのときは日本ではあまり多くは取り上げられていなかった。SNSでは動画もたくさん流れていたけど。この大洪水に加え、猛暑、干ばつによって、人だけではなく、動物や農作物にも被害が出て輸入価格も値上がりするとか書いてあった。全部つながっている。能登にだって一気に支援が入らないのは色々な要因があると思うけど輪島とか日本の重要な文化遺産さえ救えないとしたらほんと政治って何、という感じがする。東京で最優先でやるべきことってなんだろう。「べき」で考えていかないと具体的にならないから。

今度、人前で発表するのだけどそのときに原稿を映写することになった。もちろんそれを必要とする人もいるだろうしするのは全く構わないけど、ちょっとその必要性を聞いてみたらなんか大きなことみたいになってびっくりしたというかなんというかとなった。具体的な障害に対する一貫した対応を考えたうえで最低限これはやろうとかいうのを最初に打ち出しているならともかく、そういう観点がないからこうなるのだろう、と思った。あったらあっさり指示出せばいいだけだもん。時間を割いて考えるべきことは何か、と考えらえるようになるまでにはいろんな経験が必要だな。気をつけよう。ただ個人的にはいってみるもんだなと思った。こんなことでこんなふうになるんだ、というのがわかったのは悪くないから。面倒になることは極力避けたいから何も言わないっていう選択も相手によっては重要になるしいろんな方面からいろいろ学ぼう。ボトムアップのアプローチを可能にするためにはいろいろいろいろ大変だ。がんばろ。

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お菓子

風、大河ドラマ、絵巻

西側の窓を開けたときは気づかなかったのに南側の窓を開けたら結構強い風が入りこんでひんやりした。ペパーミントの紅茶をいれていたら西側の窓のブラインドがカタンカタン言い出して閉めた。いろんな方向に渦巻くような風の音がすごい。天気予報をみたらくもり一時雨。月曜は雨が多い。

今朝はあさぎり牛乳とろりミルククッキー。山中湖土産。これを買ったのは御殿場って言っていたかも。御殿場駅での乗り換えの待ち時間が長いからお土産買い足してくれたんだって。ウェブサイトがシンプルでかわいいのだけどポインタ?カーソル?なんていうのかわからないけど動かすと今私がみている短い縦線じゃなくて丸が出てきてちょっと違和感。よく考えたらカーソル?なんて一番見慣れてて名前も忘れてるくらいだから急に別の姿で現れるとびっくりしちゃうのね、きっと。名前忘れてるのは単に私のってやつかもしれないけど。いつもと全然違う服着てたり違うメークしてるとびっくりするのと同じ。和菓子のような箱と包みで個包装されているあさぎり牛乳とろりミルククッキー(なんとなく全部言わなくてはいけない気がする)甘い!これはコーヒーの方が絶対合う。ハーブティーはなんだかんだ単独で飲んだがほうがいいといつも思うのだけど(サラダとかは合うかもね)早朝からコーヒーってほどやる気がないのよね。それにしてもすぐそばで風がヒュンヒュン言ってる。近づいたり遠ざかったりこんなんで雨が降っても傘させないのでは。レインコートにしようか。でもそんなに降るわけではないみたいだし。梅雨なのかな。

昨日の「光る君へ」みましたか?吉高由里子と高畑充希はきれいでかわいらしいのはいつものこととして、声や姿勢での表現が巧みで脚本もすごいけど作り物のような完璧さといえばいいのか、平安絵巻が動き出すような感じで演じていると思いませんか。清少納言も一目惚れしてしまうわけです。私は高校の図書館で『源氏物語』と『枕草子』を延々読んでいたのですが、今回、定子をどうにか慰めたい清少納言がまひろのアイデアを借りて書き、定子の声でそれが読まれたときの映像も素敵でしたね。このドラマは誰が誰にどんな思いを向けているかの表現が現実と物語の重なる場所で明確に描かれるから昔ひとりで『あさきゆめみし』を読んだときほどいろんな気持ちにはならないけど(それはやはりドラマは現代語だし現実味が強いから)美しさがすごいなと思ってみています。もう随分前になりますが京都へ行ったときに友人が京都文化博物館で面白い絵巻が見られるというので行ってみました。動く絵巻だったと思うのですがとっても面白かったですよ。あそこは元日本銀行の京都支店なので(だったと思う)建物としても巡る価値ありです。場所もいいですし。新宿にもああいう場所作ってくれないものでしょうか。それにしても絵巻の収納ってTシャツを丸めて収納するのと同じで場所の節約にいいですよね。本も巻物の時代に戻るととこんなに積み上げて時折雪崩が起きるみたいなことは無くなるのでしょうか。巻物の時代のそういうトラブルも想像できなくはないですが。個人的に予想されるのは巻物なのに巻かずに置いておいて本を積むより足の踏み場をなくすということかもしれません。

さっきから先週の月曜日に雨のことでおしゃべりした内容がチラつくのだけど全然思い出せまん。なので書けません。残念。思い出したらすっごく大したことない可能性が高いけどここはそもそも大したことないことを書く場所だからちょうどいいかもしれなかったのに。こんな指が動くままに書いても大したことなくはないことを書けるようになりたいです。6月の抱負にします。原稿の締切は5月末だけど。全然書けていないので書きます。どうぞ良い一日を。東京は風があっちゃこっちゃに吹いているのでどうぞお気をつけて。

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精神分析

残りの時間とか瀬尾夏美さんの活動とか。

ハーブティーをいれ、「たけのこの里」を数個食べ、ありんこを数匹やっつけ、おしゃれ着でもないが手洗いが必要な服の洗濯もして思い出話を書いていた。具体的なことは最小限で書くというより、どの部分を具体的に書くかを工夫するのは症例検討のための資料を書くときと同じ。この調子だといくらでも書けてしまう。書きながら構成が見えてくるまで続けようと思ったがまだ見えてこない。題名は先に決まったので私はそれについて書きたいのだろうと無意識に従う方向で筆も勝手に進んでくれたらいいがそんなことは起きないのでなんとかせねばならない。今日も2つのグループがあるので今のうちに進めねば。ネバネバばかりにしたのは自分。嫌ですわ。それにしても思い出話を書いていると亡くなった人の多いこと。10年ほど前までは私はあまり人の死に出会っていないなとか思っていたが今は身近だ。私も精神分析家になったとしても訓練分析家になるまでに実績をあげねばならずまたどんどん歳をとるだろう。日本の精神分析協会では訓練分析家として候補生を受け入れられるのは75歳までだ。そんなに時間は残されていない。そこまで生きているのかどうかもわからないが精神分析が日本に残るようにどうにかしないといけない。精神分析は高度に知的でお金のある人に対する治療であるというのはフロイトを読めばそうなのだが、お金の援助が出る国で一気に広まったのも事実。それは国にお金があるということなので結局お金の話である。日本はこんな小さい国なのにさらに狭い人間関係を維持する程度の「思いやり」しかないから書籍の世界の「ケア」が流行るのでは、と疑っている。地震から5ヶ月が経とうとしている能登はとても静かだそうだ、人がいなくて。家は崩壊しているのに「家が片付いていないから」と支援を遠慮するお年寄りもおられるそうだ。瀬尾夏美さんは静かな能登で手伝いを必要としていそうな方に声をかけ手伝い、ひどい状態のままの写真やそんななか世話されて咲いた薔薇の庭や美しい海岸の写真を撮っていた。それをSNSで発信されていたので別の配信番組も見てみたら現場の写真と共に現状を色々お話しくださっていた。現場に行かないとわからないことだらけだが瀬尾さんの話を伺うかぎり、とりあえず能登に人の声を増やすことが必要だと感じた。たしかに東日本大震災で郡山の避難所に行ったとき、多くの支援者が既に入っていたし音が途絶えることはあまりなかった。相馬の仮設住宅は静かだったが看護や福祉の専門家の声かけが生活に即していてかつ暖かくとても勉強になった。声かけと声を交わすことは大事。配信番組のメインは「原爆の図 丸木美術館」学芸員の岡村幸宣さんをゲストにお話を伺うというものだったが丸木夫妻が作品に込めたものなどを知ることができてとてもよかった。絵画ならではの闘い方というのがあるのだな。いろんなことはそんな単純ではないからこっちでは対立しているのにこっちでは共有する思いがあるとか色々だ。相手から搾取しようと傷つけようと自分の痛み以外はすべてなかったことにして、わかりやすさと温厚さでかさ増しした軽薄な言葉で物を書いたり配信したりする人と、それを「知性」として受け取って賞賛を欠かさない人というそこだけwin-winカップルいうのがよくある構図だから瀬尾夏美さんたちの活動は現実的で励まされた。今日もできることをしよう。

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ありんこ、文化

早朝からバタバタした。ありんこのせい。数えるほどしか出ないのがまた厄介。どこからきているのかを突き止めたいのに。高いところにいかれちゃうともうどうにもできないし。でも彼らがいかに直線を辿るのが得意かがよくわかった。直線がなくなると慌てて次の直線を探している。しかし家の中は直線だらけだ。私から見てもこれだけ直線が多いのだからありんこにとってはほぼ直線しかない世界に見えるだろう。あと洗剤に敏感なのと鈍感なのがいる(私の実験によると)。とかやっていると朝の数十分はすぐに過ぎる。ああ。一日1ページ訳そうと思っていた文献があるのにそれも数日やっていない。その前に、その前に、というものがたくさんある。困った。

今朝は冷やしておいた「たけのこの里」を数個。我が家は夏はものすごく高温になるのでなんでもかんでも冷やさねばならない。だからありんこも住みやすいのかしら。あ、また奴らに気を取られてしまった。これがいけない。ああ、句友たちのように素敵なつぶやきやお知らせをしたい。というか彼らならこの状況だって素敵な俳句にしてしまうだろう。俳句はマッチョな世界だけど賞とかに興味を持たず淡々とレベルの高い俳句を作り続けている人たちもいるし、結社以外でもオンライン、対面どっちも多くの句会で重なって出会う人もいる。私はもっぱらオンラインだけど細々とでも定期的にやっていると本当にたくさんの表現に出会う。面白さとか美しさはそれぞれ感じ方が違うので自分にピンとくる俳句があればそれだけでいい。文化の継承に使命を持つ人はそうはいかない。たくさん勉強してたくさんアウトプットしなくてはならない。精神分析に関しては私もそうしなくちゃいけない。海外のように、というかフロイトの時代からそうだったように毎週定期的に学術的な集まりがあればいいのだけど日本の今のシステムでは圧倒的にそういう場が不足している。臨床と離れたところで行っているものはたくさんあるが精神分析家になる、あるいはそれであり続けるためには臨床と離れては意味がない。精神分析固有の体験と理論は10年近い訓練でだいぶ乖離がなくなってきた。なのでいつも書き始めるまでが恐ろしく長いとはいえ何か書いたり発表したりする自分に嘘っぽさを感じなくてすんでいる。フロイトもラカンもウィニコットもみんな精神分析の症例から理論を組み立ててきた。実践のおかげでこれらもだいぶ咀嚼できるようになってきたがまだまだだなと思う。とか言ってるうちにこんな時間だよ。がんばろ。今日はラットマン読みますよ。

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ジョーダン・ラカイ、泣く女

今朝はまずキウイ。これまだ酸っぱい。この前のはとってもいい硬さ?柔らかさ?どっち使っていいかわからないくらいちょうど良くて甘さも絶妙だったのに。まあ違う日に買ったのだから違うのは当たり前。一個一個違うのも当たり前。キウイ食べてハーブティーいれて柳樂光隆さんの最新のインタビュー記事にあったジョーダン・ラカイ(Jordan Rakei)を流してぼーっとネット見てたらこんな時間ではないか。何事か。今回もいいインタビューだった。少し前のカマシ・ワシントンも父親になったことでの変化について語っていたけど『虎に翼』のようなドラマがこれだけ支持される中、こういう父親になった人たちの声も拾っていきたい。耳を傾けてくれる相手は誰にでも必要だ。

「感情の面でいうと、自分の感情に向き合えるようになったと思う。以前は「妻や両親の前で感情的にならないように」とか自分をガードしていた。ところが子供ができると、そんな心配はしていられない。人生がより甘く優しく感じられるようになるんだ。それとともに僕の歌詞も変わった。「Flowers」は妻のことなんだ。一種のラブソング。そういう曲は書いたことがなかったけど、素直に感じていたことを書いてみた。世間からどう思われるかなんて関係ないって思えるようになったからね。子供が生まれたことで、自分がエゴが少し和らぎ、現実的になり、プロセスに対する偏見がなくなったんだよね。」

ジョーダン・ラカイのインタビュー 音楽家にとっての「成長」とは? ジョーダン・ラカイが語る人生とクリエイティブの再発見

それにしてもジョーダン・ラカイの声も曲も良すぎるな。最近聞いていなかった種類の音楽だ。ついきちんと聞いてしまって手が止まってしまう。意識すればこうやって書けるが。

朝ドラ『虎に翼』にすぐ泣いてよねさんに怒られてしまったり、みんなの時間を少し止める中山先輩という人が出てくる。「女はすぐ泣く」「泣けばいいと思って」みたいな、こういう登場人物を泣かせてきた人たちの言葉が聞こえてくるような感じだけどこのドラマでは弁護士になるまで残る女として描かれた。面白かったしすごくいいなと思った。私は仕事柄毎日いろんな涙と出会っている。泣くこと自体がものすごい意味を持っている場合もあればここでは言葉を出せば涙も出てしまうという場合もある。子どもの頃、あまりに多動と不器用で怪我が多かったのだけど全然泣かない子でミシンで指を縫って(?)しまって保健室に連れていかれたとき、男子たちが「あみが泣くぞ」とみんなで見にきた。私的には痛いし悲しいし情けないしで泣いている気分なんだけど彼らの期待している泣きは違ったのだろう。なーんだ、という感じで去っていった。いつも一緒にサッカーしたり家に遊びにいくような仲の良い男子たちだったけど今どうしているのか。一人はすごい見栄えのいい不良になって捕まったりしてその後もその日暮らしをしていたところまでは知っている。今は知らない。大人になって実家の方の商店街で声をかけられたときも見栄えの良さに誰?となったがすぐわかった。当時は呼び捨てだったのに「ちゃん」づけになっていた。大人だ。なのか?高校生のとき、私の友達に二股かけられてまいってたよね。キミの相談にのったあの喫茶店、もうなくなってたよ、というかあなたの方が地元に詳しいか。泣きたいときは好きに泣こうね。泣き方とかどうでもいいから。

今日もすでに日差しが強い。最近「すでに」を使いすぎだな。なんでだろ。「それはすでに提出した」とか言いたい。「すいません、ギリギリになります・・」しか言えない。まあ、がんばりましょ。

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「への」、訓練のリアルとは。

小さいバニラクッキーをふたつとレモングラス&ジンジャーティー。美味しいなあ。熱いのを飲むと少し暑いな。夏。

戦争が身近でつらいですね。こういう一つ一つのことが戦争につながっていくんだな、という実感もつらいですね。

今度、日本精神分析協会の学術大会で「精神分析家への訓練、そのリアル」というテーマでパネリストとを務めるのだけど「精神分析家への」の「への」と「訓練」のつながりの悪さが気になってしまった。引き受けたときもなんか不思議と思ったけどいざ話すとなるとなんで「精神分析家への道」とか「精神分析家になるための訓練」とかではないのか、と思ったけどこの二つにしたって前者はプロセスのことで後者は手段のことだから内容は変わってくる。「への」は方向性を示すものだし、確かに訓練は精神分析家になることを目指して行われるものであるのだけどなんかしっくりこない。なんでだろ、ということをずっと考えていた。「精神分析家への道」=「訓練」がくっついている感じの「精神分析家への訓練」。この違和感についても話すかどうかだねえ。

精神分析は言葉の違和感にうるさいというか大切にする。初回面接でもその人らしい表現というのはたくさん出ていて、継続して会っていけばもっと多彩な表現が見られる一方でパターンも浮かび上がってくる。それは関わり方を示すものでもあって精神分析のように週に何度も会っているとその人の言葉の使い方とかこちらの言葉に対する反応の仕方とかがすごくよく見えてくる。精神分析理論を基盤に生まれた短期力動療法のように抵抗を中心的に扱っていく技法は関係性ありきだと思うが、精神分析が特殊な技法なのは関係ありきではないということだろうと最近の私は実感している。

以前、私のオフィスのウェブサイトで短期力動療法について紹介した際、私は精神分析についてこう書いていたらしい、ということをさっき確認した。

「精神分析はお互いのこころをフルに使いあうものなのでお互いに相当のエネルギーがいります。「こころを使う」というのは単に自分の気持ちに意識的に気づくというものではありません。それはタブーとされているような人間の生の部分にフルに触れていくことであり、自分の無意識に翻弄されながらも生活を維持することです。こころはいつでも壊れる可能性を持っています。精神分析は異常と正常の間、意識と無意識の間でギリギリの体験を扱っています。したがって治療者が使う注意力も精神分析ならではの質を持っています。
だからこそ精神分析の治療者になるのであれば訓練が必須で、まずは自分が十分にそのこころの動きに耐えられるようになる必要があります。やってみなくてはわからない、というのはどの治療も同じですが、精神分析を受けることは他の心理療法とは異なるかなり特殊な体験となると思います。」

私は最初から「お互いの」ということを強調していたんだなと思う。「こころをフルに使う」というのをこの時はまだよくわかっていなかったが訓練を終えた今ならよくわかる。それはかなり知的な作業でもある。精神分析は自分が預かり知らぬところで失われたものを弔う作業だ。ナルシシズムによって補ってきた喪失や欠如を「他者」に対して開きつつもそこを勝手に埋められることに抵抗するものだ。「ギリギリの体験」と書いたのも当時それを実感していたからなのだろう。私は今や「他者」とか「関係」という言葉を括弧つき以外で使う気にならない。とかいって普段は使うと思うが、対象や関係を前提にできない世界を私は学んだ。言葉は人と人を単に繋ぐのではなくそこには常に切断と距離があることを意識させる道具だと思う。

なんかこういうことがわかるようになって思考パターンというより軌道が変わったというのが私の訓練のリアルでしょうか、ということを話せばいい気もしてきたな。外側に現れたものとしてはこれこれこれで、全部後付けではあるが実感としてたしかなのはこれでおそらく当時の私はこうだったのだろう、みたいな。まあ、いろんなことが起きるしふたりで起こしていけるかどうかなんだろうね、という感じかな。今日も長いぞ。がんばろう。

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冷やし中華、アルキビアデスなど。

お土産の紅茶のクッキー、すごく美味しい。とってもいい香り。レモングラス&ジンジャーのハーブティと。Tea with Tea.あったかい。寒い日でなくてもあったかい飲み物はおいしい。暖房をつけなくなってからどのくらいの日々が過ぎたのだろう。私は半日だけ外のクリニックで働いているけどそこは暖房と冷房の切り替えが全館共通だから気温の変動が激しい季節は調整が難しい。いつだったか少し前のすごく暑かった日にもまだ暖房しかつかず冷蔵庫じゃない、扇風機で対応したりした。なんで今冷蔵庫を先に思いついたのか。冷たいつながりとはいえ。昔、冷やし中華めぐりをしようとなったのだけどそんなに行けなかった。その後も今年こそはと話すもののそんなに行けていない。ということを先日思い出して特に暑くもない日に冷やし中華の看板を見かけ、入ってみた。そこはお皿の半分はレタスという感じで量が多くないのは助かった。まずいわけではないのだけどなんか物足りない。それこそが冷やし中華の特徴だったりするんだっけ。具材と麺のバランスの問題?これまで美味しいなあと思った冷やし中華ってタレが絶品だった気もする。麺はパスタ以外そんなに食べなくなったから自分がどんなものを好んでいたかも忘れてしまった。量を食べられないから残しちゃうのが申し訳なくて。ということは家で作ればいいんだよね。冷やし中華なんてもう何年も作ってないけど考えてみたら全然難しくないのだし。そうだそうだ、自分で好みのタレを作ってちっちゃい冷やし中華を作ろう。

毎日仕事時間が長いから帰り道になると疲れちゃって音楽聴きたくてもイヤホンを出すのがめんどくさいし本を読みたくても集中できないしでぼんやり電車を待って、乗って、再びぼんやりする。でも本を読むのが習慣になってしまっているので首にぶら下げた(これも省エネ)iphoneでkindle開いて適当に開いたページを読んでみる。文字が頭に入ってこない。疲れてる。ということで適当に別の本の適当なページを開いてみる。やっぱり無理。ということを繰り返していた。ふと「アルキビアデス」の文字に目が止まった。愛と欲望の話はややこしいけどアルキビアデスには笑ってしまう。なんとなくおかしく読んでいたらラカン登場。そうだ、これはラカンの本だった。今私はなんの本を開いたのだっけ、とkindleを確認したら『ラカンと哲学者たち』工藤 顕太著(亜紀書房)だった。久しぶりに開いたな。プラトンの『饗宴』でも最後に登場するのがアルキビアデスだと思うけどこの本もこの人で締めるのね。ソクラテスの強力な欲望を前にしたアルキビアデスの幻想など、という感じか。どっちもどっち、という感じもするが、欲望という点では。愚かなのはアルキビアデスだけど冷静に考えれば私たちが近いのはこっちでしょう、多分。というか、とソクラテスの悪口を書きそうになってしまった。よく知らないのに。よく知らない人のことを悪く言ってはいけないね。でも好きになるのだってよく知らないうちに、むしろよく知らないからこそ好きになったりするのだから知る知らないはあまり関係ないかもね。実際と離れたところではじまってしまっている関係に踊らされちゃったりするのが私たちだものね。マッチ先輩の「愚か者」が脳内を流れてしまう。そういえばこの前、ある先生と「抵抗」の文脈で音楽の歴史について話した。先生が音楽仲間とポップミュージックの歴史の話をしたんだよ、と言っていて、私はその比較でジャズの歴史の本にこう書いてあって、など話した。面白かった。朝はやっぱり夜より元気なんだな、こんなこと書いちゃって。今朝は音楽はまだ鳴らしていない。何聴きましょうね、今日は。柳樂光隆が紹介していた尺八奏者の方のYouTube面白かったな。尺八を吹き始めたジャズミュージシャンのシャバカのアルバムは彼らからみるとどうか、というお話。プロはすごいな、と毎日何かしらで思っているけどこの青木さんたちもすごい。力抜けてる感じもプロって感じがする。はあ。今日も長いぞ。がんばろう。

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共にいること

早朝から家事をがんばった感じがあったがそんなこともなかった。ゆっくり過ごしながら家事をのんびりしただけだった。今日は洗濯物干しっぱなしでいいかな。暑くなるらしい。窓を開けたら鳥が賑やか。活動時間が早くなっていると思う。何喋ってるんだろうね。私は最近学生時代にボランティアをずっとやっていてその後非常勤でいっていた施設で一緒に過ごした言葉の出ない重度の自閉症の人たちのことをよく思い出す。同世代だった。その施設や関連の仕事についていたら私の生活は今とは全く異なったものになっただろう。毎日自然の中をお散歩したりドライブに行ったり歌ったり大きなお鍋でごはんを作ったり。家事は全てこちらがするけれどそれが当たり前だから何かをしてあげてる感じもないし大変さはもちろんあるけど穏やかな日々だった。安全で健やかでいてもらうこと、それが一番大切で難しいことだった。だってそのためには職員もそうでないといけないから。彼らの保護者の歳をとる前にできることをという気持ちは本当に切実だ。最近メジャーデビューした壷阪健登のピアノを聞く。With Time.彼らと一緒に聴きたかった。みんな今どんな暮らしをしているだろう。あの仕事を続けていたら今とは全く異なる生活になったかもしれないと書いたが、あの日々がなかったら今の生活もなかっただろう。大切な時間だった。

朝のうちに文献を少し読んでいいかげん書き始めねば。先日、転移を認識する・させるについて話があったが、現在の精神分析は転移が生じるかどうかがまず問題になる場合が多いだろう。私の考えではその可能性のアセスメントにもある程度の期間の精神分析が必要になる。フロイトは精神分析の適応についてかなり慎重で狭い範囲の病理を考えていたが現在の精神分析が対象とするナルシシズム、倒錯、自閉症は古典的な理論では理解が難しい。それでも人が人と関わることで何かをするということは変わらない。対象を対象として自然に立ち上げることをしない病理(と呼ぶかどうかさえ疑問だ)と共にいるには「共に」が生じるまでに時間がかかる。それで困っていない場合はいいのだがどうしても困る事態が生じたときに対象と関わり合うことを前提とした理論はあまり役に立たないだろう。人は心の中から対象を締め出して空想でいっぱいにすることができる、というような事態を何度も何度も実感しないことにはそれが長い時間をかけてもたらす困難を知ることはできない。問題は時間をかけて形をなす場合もあるし発病という契機があることもあるしとにかくことは複雑であるということ。今日もそういう複雑さを単純化したい心たちに抗いながらやっていくのだろう。なかなか気づきにくいことだけど。

西側の窓からなのに日ざしがすでに強い。皮膚も守らねば。守っててもかゆみや痛みや赤みなどすでに色々出てるけど仕方ない。地球のことも考えないとまた海の様子が変わってしまう。昨年青森で受けた衝撃を思い出さないと。どうぞみなさんもお大事に。お元気でお過ごしください。

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精神分析

紫陽花、中村達連載、ゲンナリ

雨がまだ降ってる。何度起きてもずっと降ってる。今朝はだいぶのんびりしてしまった。雨の音を聞いているとすぐに時間が経ってしまう。

昨日は朝から夕方までずっとPCの前にいなくてはいけなかったので始まる前に散歩に出た。いつものカフェはまだやっていなかった。日曜日は少し遅い始まりなのか。それがいいね。日曜の朝は静かでのんびりしていていろんな紫陽花が咲き、梅が色づき、朝顔がラッパの形で顔を出していた。夕方PCの中のみなさんに挨拶をしてまた外へ出た。雨がパラパラ。一応傘を持って出たけどさすほどではなかった。紫陽花あるかなあといつもとは少し違う道を歩いていたらドクダミにはたくさん会えたしここにこんな大きな木があったのか、と見上げたりしたが紫陽花がない。これだけ歩いて出会わないのも珍しいな、と思っていたらようやく住宅街の小さな庭先に小さい紫陽花を見つけた。しばらく歩くとその先にいつもの紫陽花とカシワバアジサイが見えた。会いたかったよー。カシワバアジサイは面白い形で大きいから目立つ。線路脇のそのお家のは結構背が高かった。雨の音。紫陽花には嬉しい雨かな。なんだかんだ雨が似合う花だと思う。

散歩に出る前、柏書房のwebマガジンで連載中の中村達さんの「第2回 ホモ・ナランス 「遭遇」の記憶を物語ること|君たちの記念碑はどこにある?――カリブ海の〈記憶の詩学〉」を読んだ。

コロンブスによる「発見」以降、発見する主体としての西洋と発見される客体としての非西洋という一方的な図式が再生産され続け、西洋は非西洋との「遭遇」の記憶を一方的に語り、カリブ海の人々に語られる対象としての他者という役割を押しつけてきた。ジャマイカ人小説家・批評家のシルヴィア・ウィンターは詩人セゼールとフランツ・ファノンを参照しながら人間が生物学的かつ社会発生学的に物語る文化を育む種であると主張する。ウィンターは「ホモ・レリギオースス」(homo religiosus)「ホモ・ポリティクス」(homo politicus)「ホモ・エコノミクス」(homo oeconomicus)という「人間観」の問題を明らかにし「物語る種」としての人間、「ホモ・ナランス」(homo narrans)というあり方を提唱した。

と著者の言葉を引用しつつまとめて書くとこんな内容から始まり、この部分だけで1回分でもよいのではないかという重要度だと思うが、その先も長い。その次にきたのがアーレントだ。昨年、田野大輔、小野寺拓也たちによる『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』でもアーレントの言葉が検討されていたがここではアーレントがアフリカを捉えるその仕方が取り上げられている。欧米のホロコーストをめぐる記憶研究によって「多方向的記憶」を打ち出した比較文学研究者マイケル・ロスバーグによる批判がそこに続く。

「アーレントが見ているのは確かにトラウマ的な経験としての西洋とアフリカの「植民地的遭遇」であるが、「そのトラウマは被植民者側のものではなく、植民者側のものである」

「第2回 ホモ・ナランス 「遭遇」の記憶を物語ること|君たちの記念碑はどこにある?――カリブ海の〈記憶の詩学〉」

と。そうか。

私は次の部分にも衝撃を受けた。

「アーレントは、理性を備え経済的にも優れた西洋文明人である「ヒト」を「人間」として当然のように表象し、西洋人にトラウマをもたらす野蛮なアフリカ人は「人間」として欠如を抱えた他者として隔離しているのである。そしてこの「人間の分割」は、ウィンターが人間の特異性として語った物語る種としてのあり方をも分割してしまっている。すなわち、「物語る」西洋人と「物語られる」非西洋人という人間の分割である。」

少しずつ勉強しているとはいえ少ししか勉強しない私にとってアーレントはまだまだ理想化されていると思った。相手が誰であろうとその言葉をその人のものとして追っていく仕事をしているのに、そして引用したような事態は論理的に考えれば普通に起こりうるのにアーレントがそれに加担していることに驚いた自分にゲンナリした。日曜の朝、紫陽花を愛でながら追う一方で、ゲンナリしていた。両立するもんだ。思い出したらまたゲンナリしてきてしまった。仕事に戻ろう。こうやって何度も気づきながら行くしかない。今日は月曜日。がんばろう。

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精神分析

下西風澄「戦争のさなかに踊ること─ヘミングウェイ『蝶々と戦車』」

昨日はいい文章を読んだ。下西風澄「戦争のさなかに踊ること─ヘミングウェイ『蝶々と戦車』」というミシマ社のウェブ連載「文学のなかの生命」の連載である。今回、第13回ということだがご本人のSNSによると5年ぶりとのこと。2022年『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(文藝春秋)を読んだときもとてもいい心の書物に出会ったと思ったが今回もよかった。私は下西風澄が撮る写真に惹かれるところがありその後は文章より写真を見てきたような気がするが今回なんとなく読んでみて丁寧で切実かつシンプルな文章にまた胸打たれた。文学作品を知らずとも誰でも読めるのでぜひ。ヘミングウェイの『老人と海』を親が愛読していたがそれはこういうわけだったのか、など思ったりもした。先日、サラ・ベイクウェル『実存主義者のカフェにて 自由と存在とアプリコットカクテルを』(向井和美訳)を読みながら著名な哲学者たちの愚かさ、ひいては人間の愚かさについて考えていた。今回の連載で取り上げられたヘミングウェイの『蝶々と戦車』における水鉄砲の男を彼らにも重ねた。人間の心を守るために最も必要なものが愚かさだろうと私はどこかで思っている。下西風澄によるヘミングウェイ『蝶々と戦車』の読みに本当にそうだなと思った。

「はたから見ると、ふざけているように見える蝶々のような酔っ払いのダンスは、命がけのダンスだったかもしれない。本来は同じ国に生きる仲間であるはずの男たちに殴られ、血だらけになりながら水鉄砲で香水を撒き散らせていた男の心の中は分からない。彼は死にたいほど不安だったかもしれないし、誰かを殺したいほど緊張していたのかもしれない。それでも男は、暴力という戦車に向かって、蝶々のように踊り、そして撃たれて死んでいった。」下西風澄「戦争のさなかに踊ること─ヘミングウェイ『蝶々と戦車』

彼は死にたいほど不安だったかもしれないし、誰かを殺したいほど緊張していたのかもしれない。」の部分がいい。この切迫感が彼を踊らせ続けた。

何回やめてと言われても相手が泣き出し怒り出し飛びかかってきても相手の真似をするのをやめない子供を思い出す。見ろよ、これがお前の姿だよ、気づけよ、こんななんだよ、と言葉にせず行動にする。自ら鏡を買ってでるのは実はそれは自分でもあるということに気づいているから。否認したいから。それが行動に攻撃性を帯びさせる。それを防衛して笑う。変な踊りをする。相手はどんどん怒りを強める。殺したいのは相手じゃないのに。自分なのに。緊張と弛緩、笑いと怒り、そして踊り。誰もが知っている自分の姿であり友の姿であると思う。投影過剰なのは現代に限ったことではないのだ。だから精神分析は生き残ったともいえる。複雑すぎる心は関わりによってより複雑になると同時に象徴機能によって単純で単一になったりもする。そこで止まったらそれは知ったかぶりでしかなく再び体験の複雑さに戻る必要があるのだろう。痛いほどわかる。

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精神分析

蟻、カリブ思想の本

朝から蟻退治。ほんとに夏と同時にやってきた。一度出てからちっこいのがちょこちょこ出るようになった。しっかり列をなしたのを見たのは最初だけ。そのときは列を追って侵入路を調べ一度の退治でいなくなった。あんなに蟻を観察したのは小学生の時以来だ。それからはちっちゃいのがキッチンに現れる。列を成してないから経路が読めない。かといって列をなされるのも嫌だ。すっごい間を開けた列なのかもしれない。同じ経路を通っているのはわかるが毎日こんなにきれいにしてるのにどこが匂うの?餌はどこ?ハーブティは嫌いみたい。近づけると逃げる。やっぱり香りに寄ってきちゃってるんだよねえ。糖分が好きなことには非常に共感するが食べ物とかにいるわけじゃないのが救いか。何がしたいんだ、蟻よ。昔男子が蟻の巣にひどいことしたのを防がなかったから?いや、こんな蟻の気持ちよりも生態を知りたい。共存するには境界をはっきりさせたい。もっと確実な対策を練らねば。でも不思議なことに昨年は効果がなかった殺虫剤が今年はちょっと効果あるんだよね。よく買われている薬局で新しいのを買ったほうがいいんだよね、きっと。スプレーの殺虫剤は怖い。自分がやられてしまう。私じゃないよ、ターゲットは、と思うけど効果が強いものは人間にも害なんだよね。ほんと難しい。

私が諸島である カリブ海思想入門』とか『野蛮の言説 差別と排除の精神史』が大変興味深いというか前者を読んだら数年前に読んだ『野蛮の言説』に戻りたくなってようやくなんとなく人の位置付けがわかったりした。サルトルとかフランツ・ファノンは身近だったし実家に本があったから読んだことあるけどただ打ちのめされる感じは今のほうが強い。この前、いろんな国の人たちと交流してしまったからなおさらだと思う。世界の出来事と歴史が身近になってしまっている。必要なことなのだが抱えておくには余裕がない感じもする。だから読み続けることでどうにかしようとしているのかもしれない。エメ・セゼールの『帰郷ノート/植民地主義論』とかもすごいインパクト。本のことをもっとたくさん書きたいのだけどやることがありすぎる。がんばろう。

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精神分析

テラス・マーティン、ブルース・フィンクなど。

また音楽を流したまま眠ってしまった。テラス・マーティンの新作情報があったのでそのまま聞いた。テラス・マーティンはこの前のカマシの新作にも出ていた。カマシ新作についてはこちらをぜひ。これはエレクトロサウンドというのかな。とっても静かで深い。いつのまにか眠ってしまったわけだ。カマシ・ワシントンの新作も深みがあった。それまでの壮大さ、荘厳さとは異なる、背景にそれを感じながらより日常的な、と思ったけど日常的という言葉はあまりしっくりこないか。これまでのが宇宙の音楽としたら今回のは地球の音楽という感じだろうか。広がりより深みの方を感じた。テラス・マーティンの新作も人間には聞こえない音を大切に音にしたらこんな感じになるのかもしれないと思った。夜中、強めにピアノを弾く音で目が覚めた。誰かの激しい咳も重なって聞こえた。どっちの音で起きたのだろう、とぼんやり思いつつまだ暗い窓を見遣った。誰の曲かは確認しなかった。今週もプロにストレッチと筋トレの指導を受けたのでいまだに身体がバキバキ。肩甲骨と足首が意識できないほどに固まっていることや肩こりがなくなったというより感じられていないのでは、ということに気づけたのはよかった。整形外科の先生が言っていたことは正しかったんだな、と反省した。癖を変えたいのであればその仕組みを知るのが大事。

週末はブルース・フィンクというラカン派の分析家の本も使うセミナーに出るのだけどフィンクって教科書を書くのがとても上手だよね、とフィンクの3冊の教科書でもないか、基礎と前期後期入門2冊かな、それらが置いてあるはずの場所を見たのだけどない。なんで。使ったばかりなのに。もー。また探すところからか。これ前にも書いたけど「電話分析」のことが基礎の本に書いてあると思うけどそれおすすめ。フィンクの本はおすすめ、精神分析的治療をしている臨床家に。私はラカン派が私が最も親しんでいるウィニコットを多く参照してくれていて頻度の問題をややここしくしないことに好感を持っていて以前よりずっとラカンにも親しめるようになった。事例があまり書かれないのはどうなのかなという感じはするけど実際起きてることはもっともっと複雑で何が事態を動かすかは同定できないからいいのだろうと思う。フロイトを読むときにウィニコットとは対話しにくいけど、ラカンは難しいけど粘れる。人ってほんといろんな書き方してるから馴染むのにすごく時間がかかるけど実践伴うと理解のしかたは全然変わるからまた興味深い。本はどこ?リュックには別の本が入ってるしどうしましょう。

そういえば今日、前にも出てきた建物が夢に出てきた。私は大学だと思っているけどコンサートホールみたいに大きなきれいな建物。私の夢にはいくつか特徴的な場所があるなあ。面白い。今日もがんばりましょう。

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精神分析

雨、カリビアンジャズ、油井正一の本

昨晩、オフィスのあるビルを出たら雨。驚いた。降り出したばかりらしいが結構強い。エレベーターで一緒だった礼儀正しい人は大きな黒い傘をさして真っ直ぐに背中を立てて早足に去っていった。オフィスに置き傘があったかどうか。どっちにしてももどるのは面倒だ。強めの雨に打たれながら左手でリュックの下の方を探るとあった。三つ折りの小さな黒い傘。いつもリュックの色と同化していて覗いても見つからないがあっさり見つかった。すれ違う人はみんな大きな傘をさしている。夜は雨の予報だったのか。軽くて柔らかい白い布のスニーカーはすぐに濡れタイツも濡れた。帰宅したら本が届いていた。お礼を書かねば。書いた。この前シドニーでお会いしたばかりだがみなさんの仕事量たるや。また読んだら感想をお送りしよう。ここにも書くだろう。昨日は音楽を流しっぱなしで眠ってしまった。柳樂光隆のカリビアンジャズのプレイリストを聞いていたのだがその流れのままおすすめが再生され続けている、今も。そのプレイリストが紹介されているのと同じだったか別のnoteの記事だかに油井正一の『ジャズの歴史物語』(角川ソフィア文庫)が紹介されていた。電子版があったのですぐに買った。油井正一が読みたかった。ジャズはニューオリンズで生まれたということを示すことから始まるこの本は「クレオール」(仏語)「クリオール」(英語)の文化や思想についてカリブ海文学研究を通じて本を書いている中村達や中村隆之の本と私の中では繋がっており、ポリフォニックであることの背景に沈黙(抑圧と排除ゆえではない意図的な沈黙もあろう)を含む声にならなさ、「母国語」の使用の難しさを考えていた私にとっては興味深く、書き方に示されるジャズに対する明確な態度も見習いたく思った。私は精神分析に対して曖昧な態度をとっているつもりはないがこの治療も文化も残っていくにはあまりに曖昧なものを取り込みすぎている気がする。ジャズミュージシャンたちが作り出してきた歴史と彼らに対して真剣に向き合い書き続けてくれる人たちに励まされること多し。がんばろう。雨、やむといいな。

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精神分析

ニトリ、散歩

二度寝したけどまだこの時間。あっちの窓は晴れてたけどこっちの窓は暗い。このあとどうになるのかな。昨日ニトリで「袋止めクリップ」を買った。いつもうまい具合に我が家にあるだけのクリップで足りていたのにこの前珍しく足りなくなった。いろんな最近のお土産は食べ切り型ではないのが多かったから開けすぎたか、と言ってもたいした数ではないが。フライパンを見に寄ってカラフルさに惹かれたのとていっぱい入ってるみたいだったしコンビニおやつより安かったので購入。フライパンは加工の仕方の名前がよくわからなかったけど色々あった。ほしいサイズが売り切れていたのでよくわからないしまあいいかとなった。大体ル・クルーゼか今あるフライパンで事足りているので全然急ぎでないのだけど確かに一番軽くガシガシ使えるフライパンは古びてきた。それにしても掲げてある説明を読んでもよくわからないものだなあ。「袋止めクリップ」はちょっと失敗したかも。Sサイズ20個とLサイズ10個。数的には十分だけどSサイズは何に使うのかな。小さいお菓子はすぐ食べ終わっちゃうからクリップする必要が生じないかも。いや半分こする時とかに使うか。このパッケージ、片面は商品名とかが書いてあるシールが貼ってあるし片面からはLサイズしか見えないからSサイズが入ってることに気づかなかった。というかこんなかわいいサイズのがあることを知らなかった。今開けて出してみた。ちっこい。かわいい。今モデルとしてファミマでキャンペーンをしているスヌーピーのお菓子を思い浮かべた。3種類もらった。ドーナツは一個だけどマカロンとおまんじゅうは2個ずつ入っているから1個残しておくとして、うーん。あれには小さすぎるかやっぱり。これに合わせてもっとちっこいお菓子に切り替えるべきかもしれない。昨日はポッキーのティラミス味を紅茶と一緒に食べた。あの袋だったらちょうどいいな、そういうサイズ。新発売のお菓子を常にチェックしてるけど袋の口もチェックしてみよう。これを使いたいがために余計なお菓子を買うのには注意しよう。ちょっと余裕ができた、と思っていたけどやること忘れていただけだったことに気づいてガーンってなった。ダメすぎる。それなのに朝の貴重な時間にこんなどうでもいいことを書いているのもダメすぎる?短時間だから関係ないか。ウォーミングアップ。さてさて今日もがんばりましょう。ニトリもだけどしょっちゅう前やそばを通るのにあまり入ったことのない場所に行くのは楽しいね。いろんな工夫がされた商品をみて「今ってすごい」ばかり思ってた。今日もどこかに寄ろう、というか今日はいつも寄っている場所がある街に行く日だから今日も行こう。そうそう、6月のユリイカの特集が『わたしたちの散歩』。絶対読む。かつしかけいたさんが柴崎友香さんと対談してるんだって。散歩はいいよ。私も今日もお散歩しつつお仕事がんばろう。

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俳句

マジック、表記など。

4時半でだいぶ明るい。ちょうど日の出の時間。きれいな空。気温もちょうどいい。今日は本が2冊届く予定。置き配のための工夫をまだしていない。どうか雨が降りませんように。一応「こちらにお願いします」とマジックで書いて貼ってみよう。養生テープでいいよね。マジックはいっぱいもらったばかり。私もそんなに使わないのだけど持っていってって言われてたくさんもらった。そんなに使わないけどマジック好きだからありがたくいただいた。太くて大きい文字を書くのって楽しい。お習字も長く習っていてやっている間は有段者だったけど辞めてからいろんな字を試すようになって毛筆の感覚は全く覚えていない。大人になってから趣味でやっている友達もいるけどそういうのはよさそう。落ち着くんだって。字はきれいなのもいいけどその人らしいなって思える字が好きかも。私はいつのまにかこだわらなくなって今は自分でも読めないな。新聞配達のバイクの音。朝早くから大変。紙の新聞取っている人って今はどのくらいいるのかしらね。あ、マジックの良さについて書こうと思っていたら脱線してしまった。良さというかマジックって名前がいいよね、私が使ってるのはマッキーだけど。と思って由来を調べてみたらマッキーってマーキングから来てるのね。マジックインク→マジッキー→マッキーかと思った。なんとなくガーン。マッキーでみんな名前書いたと思うけどなんらかの思い出がないかな。油性というものを知ったとき驚きませんでした?「油」って言葉もなかなか威力あると思うんだよね。あ、そうだ。私は今日速達で俳句を出さなくてはいけないのだった。危ない。昨日慌てて作ったのに忘れていた。「油」がどうこうとか書いているのだって昨日ひらがなと漢字の表記について考えていたからだろうな。無意識ありがとう。駄句でも出すことに意味がある、という段階から何年経っても抜けないけどそれでいいのだ。句友たちの素敵な句が読める幸せは捨て難いし。俳句は目で見るもの。そもそも読むというのはそういう行為なわけで、など考えて下手な俳句でも見栄えを少しよくしたいと「蛇苺」を「へびいちご」と書いたりしてみたのだ。明治神宮の参道とは違う土の道にへびいちごが実をつけるのだけどひっそりと可愛らしくてそれを以前俳句にした。私のオフィスは明治神宮の西参道というマイナーな方の参道にあるので森に親しみにいくのですよ。今回は推敲したバージョンを出す。さてさて急いで清書しないと。そしてきちんと投函しないと。はあ。自分に信頼がおけない。でもこうして書いて意識化したからさっきよりは思い出せる自分になっているはず。今日締切のも明日締め切りのも作らねばだけどまずは清書→速達で投函。がんばりましょう。がんばらなくてもできるだろということからがんばらなくてはいけないのは大変、とか言っていないでやりましょう。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

季語、雨、グリーン

明日までに15句作らねば、あっという間に締切日に。今回こそは出さねば。私が毎日めでている景色には季語がたくさん詰まっていはずだがどれがどれだかわからない。5月5日は立夏。そこからは夏の季語。あの日、空港で「日本暑い!」と思ったけどリムジンバスの時間を見に外に出たら涼しくて空港だからかとなった。爽やかな風。これぞ5月。薄暑か。あとは新樹、最近行っていない滝、奄美大島で行った神様に仕える人たちが修行のために登ったというフナンギョの滝以来行ってないか。新宿白糸の滝ならしょっちゅう亀に会いに行っているが。藤房、蔦若葉、若葉、手まり花、鈴蘭、鳴子百合、卯木の花、オニオコゼもこの時期の季語なのか。うまいのか?オコゼはかわいい。水族館で釘付けになってしまう。鬼とか言われちゃってるけど砂に隠れているかっこいい鬼。

ところで雨雨雨で雨の音で数回起きて今もすごいのだけどこれも俳句にすればいいのか。夏の雨ってもっとサーっていうその後に爽やかさを期待できるものではないの?まさかもう梅雨?いやですよ、まだ。日々花々を愛でながら散歩してて「梅雨前はこういうお花が咲くよね」とか思ってはいたけど実際に来られるのは嫌だよ。でも前にも書いたけど私は長靴だけは3種類ある。一つはもうダメかも知れない。この前うちばき、じゃなくてなんていうの?インソールか?あれがまずい感じがした。もう長く履いてる。保育園の先生も褒めてくれた。「あみ先生の長靴いいなー」「長靴いいですよね」「でも高いんでしょ」「これは2980円とかだった」なんて話したな。その値段でよく頑張ってくれた。シドニーにはゴアテックスのスニーカーで行った。大雨にも立派に耐えてくれた。あ、季語から離れている。まずい。まあ仕方ない。最近、皮膚科に行きたい症状が色々出ている。これは個人的な梅雨のサイン。

昨日はアンドレ・グリーンの「Travail du négatif」の序文「Pour introduire le négatif en psychanalyse」を読んだ。négatifってそういうネガティブじゃなくて。私は写真のネガのイメージでこの用語は理解しているけど多義的だから注意が必要。昨年も読んだみたいだけど私参加できていないんだな。でもその時の資料をいただいたかもとあとから思い出した。どこにやったのだろう。グリーンの論文にも慣れてきたけど慣れてくると当初感じていたほど魅力的ではない気がしてきた。本当に好きになってきたということかもしれない。臨床家なのにこのややこしい書き方はどうかと思います、とか派手にもの言い過ぎだと思います、とかウィニコットは本当にそんなこと考えてたのかな、そんなふうに捉えるならビオンのだってこう捉えられるのでは、とかレトリック腹たつ、とかはまっている証拠か。これは私が私の無理解がもどかしいからだけではない。ずっと新しく本を読む気がしなくて再読ばかりしていたが再読のおかげで5月までの書き仕事は仕上げられたのでよかった。最近、少しずつ新しい文献を読むこともできるようになってきてグリーンの論文も読めたのだけどフランス語の英訳を読んでいるからそれはまた翻訳が意訳だからわかりにくいといこともあるらしい。言われなければそれにも気づけないが。まあ、でも読めたのはよかった。ビオンについて書いているところが一番興味深かったのでグリーンたちがビオンについて書いている本の一章を担当することにした。この本、Kindleで欲しいけど紙より安いとはいえ高いから買えない。まあとりあえず自分の分を読みましょう。その前に俳句作りましょう。その前に無事に仕事しましょう。雨弱まってください。お願い。どうぞみなさんも足元お気をつけて。


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お菓子

紅茶やサンダルを買った店とか通りとか。

今朝も「杜の色相環」の夏みかんケーキ。爽やか。T2のJust Peppermint Tea Bagと一緒に。私たちが最初に偶然辿り着いたのは多分Wynyard店。あってた。調べた。そうそう、George St, Sydney。このジョージストリートが路面電車の走る素敵な通りだった。泊まったホテルはこの通りに並行して走るPitt St.ここも主要道路みたいだけど車通りが多くジョージとは全く異なる雰囲気だった。同じ通りの別のホテルに泊まった友人は最初ピットにパッと出ちゃったみたいで帰りに少し土地勘のついた私がその人とホテルに向かってジョージを歩いていたらあまりの雰囲気の違いに道を間違えていると思ったくらい。紅茶の専門店T2はWynyard Stationのすぐそば。電車は最終日に空港に向かうときに使っただけだけどこの駅は使わなかった。シックでかっこいい駅だった。オーストラリアの人も大体定時で帰るらしく(私が経験したイギリスもそうだった。むしろ少し前からお店が閉まっているかのようにしていた店もあってドアを開けたら本気で残念がられたこともあった)ちょうどラッシュアワーと重なった。初日にこのビルの存在を知りスーパーで食材を、Everything Party Suppliesでサンダルを買うつもりで出向いたら駅に向かう列が続いていた。止まってしまうことはなくみんなどんどん駅に吸い込まれていった。私はそれと逆行してEverything Party Suppliesへ。さっき調べるまでEveryday Partyだと思っていた。最初に通りかかったときにこっちではどれだけパーティーが日常なん、と笑った。入ってみたら仮装用のグッズとかなんじゃこれはという楽しい小物とかいっぱい。小さい店内にはお客さんも数人いて真剣に商品を見ていらした。包装紙とかカードとかかわいいのもいっぱいあった。空港からホテルに着いてチェックインしてすぐにランチにでたのでホテルの部屋にスリッパがないことに気づいたのは散策して夕方帰ってきてから。飛行機のが持ち帰れたのに忘れてきてしまった。うちにもこういうとき用にいくつかあったのに入れるの忘れちゃったしな。スニーカーを脱いでベッドに座ってしばしぼんやり。そうだ、あそこ行こう、と思いついたらテンションがあがった。あそこなら変なものかも知れないけど絶対ある、と思って再びEverything Party Suppliesへ。あっさり行けた。スリッパはなかったけどサンダルがあった。しかもコアラとか書いてあって思いっきりオーストラリア。即購入。店近くのスペースで写真を撮って友達にLINEしたらうらやましがられた。その人もスリッパがなくて困っていた。帰り道ウロウロしてほかにも安いサンダルを売っているところを見つけたのでそれもLINEした。すぐに買いに出かけていた。T2もEverything Party Suppliesも入っているそのビルのスーパーには毎日お世話になった。安いものを探すのが大変だったけど美味しいジュースにも会えた。まだこうして思い出せるけどいつくらいになったら「あそこなんだったっけ?」って言い出すかな。思い出を共有している人たちがいるからそんな話もできるわけで「あそこなんだったっけ?」って言い合えるだけで楽しいんだろうね、きっと。なんかえらくのんびりしたことを書いている。休日っぽい。今日は自分主催のグループとセミナーと会議ともりだくさん。それでも日曜日は日曜日。気持ちはのんびり。がんばりましょ。

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お菓子 音楽

ケーキ。滋賀。ノラ。

コーヒーのいい香り。今朝は「杜の色相環」のケーキ。5月、6月のケーキは「フルーツパウンドケーキ」と「夏みかんのパウンドケーキ」。今朝は夏みかんの方をいただきます。特別なケーキなのでお裾分け用も切ってラップラップ。もう何年のおつきあいになるのでしょう。お店ではなく頒布スタイルにしてから直接会うことはほとんどなくなったけどその人が以前に働いていた彦根のレストランでお店のご夫婦とその人のことを話したり間接的な交流も含め随分長いおつきあいになってきた。彦根のレストランもめちゃくちゃ美味しくて1日に二度(ランチとおやつ)に行ってしまった。滋賀をぐるっと旅したときのこと。大津、草津、彦根、あとどこだったか地名を忘れてしまった。どこからも琵琶湖が近くのどか。犬もいる素敵なカフェにも行ったな。大きい犬に大きいおなかのサングラスの妊婦さんにいろんな子供たちに短パンとかの大人たちにといろんな犬や人がテラスにも大きな窓が開け放たれて境目をなくした店内にもいた。猫や鳥もいたのかな。鳥は湖畔にはいたね。妊婦さんがおっきなバスタオルをばさっとかぶって急に授乳を始めた。周りの人はそばの荷物をどかしたり赤ちゃんに微笑みかけていた。すごく自然。大きな犬たちもかわいくて湖畔に停められたでっかい車に乗せられてきたのか地元の犬なのかわからないけどうちの近所の犬連れOKカフェとは全く違ってそこにいるのが犬だか人だかよくわからない空間がとても素敵でのんびりした。一緒にいた人は犬用のお皿で水を飲んでしまった。今でも笑う。犬用のお皿、カラフルで素敵だったもんね。つい手に取るよね。面白い。突然ライブが始まったのもよかった。こういうのはとっても楽しい。私たちも若い頃、公園で急にギターでみんなで歌ったりしたねえ。私は聴いてるだけだったけどなんで彼はギターを持ち歩いていたのだろう・・・。みんなそれぞれバンドマンだった。尾崎豊が死んだ年だった。そういう時代だったか。私は尾崎豊が死んだときの友達の反応で彼がいかに有名だったかを知ったので曲をきちんと聴いたのはそのあと。洋楽ばかり聴いてたからな。びっくりするかっこよさだった、尾崎。尾崎裕哉も声似てるよね。音楽はいい。何も聴きたくなる時期もあるだろうけど自分の中に流れているなんからの音楽ってきっと誰にでもあるでしょう。それ自体が煩わしい時もあるだろうけど。

そういえば昨日また柳樂光隆のすごいインタビューを読んだ。なんと今回ノラ・ジョーンズ。新作が出てすぐの別の人によるインタビューがいまいちだったようなのだけど、私も読んだのかな、覚えていないのだけど、柳樂さんがやってくれたらきっといいんだろうなあ、と思っていたら叶った!ご本人も願っていたことらしいのでよかった。いつもいいけど今回のインタビューはいつもとはちょっと違うというか、ノラくらいジャンル横断型の世界的シンガーになると内容も変わるだろうし、深めるの大変そうなのにすごかった。私みたいな偏った聞き手にも別の視点(聴点?)をくれるっていうのかしら。ノラの軽やかだけど緊張感も力強さもある答えにワクワクした。一緒に作業する人に対する信頼も強くてかっこいい。それにしてもノラ・ジョーンズくらいになると答え方がもう大御所、というか貫禄があるのね、私より若いのだけど。出てきたときかわいくって声がきれいでびっくりしたよねえ。今朝は「よねー」という感じの気分になりやすいな。早起きしすぎたか。みんなノラの新作聞いた?すごくいいよ。自由で楽しそうだし、今回のインタビューで曲作りのプロセスも話していてもちろん苦労もたくさんあるみたいだけど一貫して力抜けてる。かっこいいの。読んでみて。というか聴いてみて。70代の人とノラの話で盛り上がった。もう20年以上経つんだもんね、デビューから。その人との出会いの頃だな、そういえば。ああ、時間があるとノスタルジックになるわね。仕事前に明日の資料読まねば。フランス語バージョンは読めないから英語バージョンを。誰か日本語バージョンをおくれよ。フロイト、ラカン、ヘーゲルの線は少し勉強した。ラカンに関する本はフロイトに関する本よりずっと豊か。そういうものだよね。補助線を引く人が現れて創始者のものは豊かになっていくんだもんね。今日は晴れかな。洗濯物どうしましょう。勇気を出してほしっぱなしでいくか。どうぞみなさんも良い1日を。

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精神分析、本

読書とか。

昨日は一昨日の失態に気づき恥入り、さっきはやっちまったばかりとはいえすでに手遅れの失敗に気づいて落ち込んだ。起きてしまったことやってしまったことはしかたないし誰かに迷惑をかけたわけではないけれど自分でびっくりした。それにしても昨晩倒れるように変な場所で寝てしまった。日中、久しぶりにストレッチをしたのに。ストレッチ用のゴムを両手で引っ張りながら腕を背中側に回そうとすると途中で止まってしまう。コリコリと骨がずれるような音がする。少し勇気を出すとストンと後ろに落ちた。また骨がなった。何度もやった。脇腹も伸ばした。日中もその後少し眠ってしまった。首にも腰にも負担がかかる姿勢で。疲れを取るためにする動きで疲れてしまったのか。それってどうなんだ、と思うが仕方ない。やらないよりましなのだろう。

シドニーで会った人たちとSNSでもつながった。いろんな局面でハグしてくれた北米地域の優しい優しい人とも言葉を交わせた。そういえばシドニーで交流を持った台湾の候補生と台湾文学について話していて『亡霊の地』(著 陳思宏/訳 三須祐介)という本をおすすめしてもらった。彼らはそれを発表の素材にしているそうだった。読み始めてなるほどと思った。今と故郷での記憶を繋ぐ大きな家族の物語。それぞれがものすごい痛みと共に生きている。彼らを取り囲むものたちの描写が凄まじいが、私がまるで知らない世界ではない。以前凄まじい暴力の事例を「亡霊と生き直す」という題で書いたことを思い出す。冒頭、日本人がしてきたことに再び殴られるような数十文字に痛みを覚えたがされたのは私ではない。簡単に打ちのめされるわけにもいかない。読み続けた。犬もハエもゴキブリもスターフルーツも人間のどうしようもなさの全てをある意味華やかに彩っていて残酷で悲しくて近景、遠景、空想、今目の前の現実といろんな方向に揺さぶられながら読んでいる。もう半分以上読んだと思う。紹介されてすぐにKindleで購入したのだがページ量の感覚がわからない。昨年話題になった本らしい。

昨晩は遅い時間からフロイトの読書会があった。自分で主催しているものではなくアドバイザーとして呼ばれているものなのでなかなか難しいが新しいメンバーも入ってきたのでできる工夫をしようと思った。フロイトに読み慣れていない人は一緒に精読した方が良いように思うがそれは自分のグループでやれているから必要ならこっちにきて、と思うがそうではない方法でやっている会なので読み方から伝えているような、いつも同じようなことばかり言っているような気がする。せっかく読むなら、と思ってしまうのは大きなお世話なのだろう。

私はセミナーの資料を読まねば。アンドレ・グリーン「Travail du négatif」の序文「Pour introduire le négatif en psychanalyse」。休日はない。会議も続く。あ、でも楽しみな用事もある。るるるー。楽しみには力があるな。がんばりましょ。ちょうどいい暖かさになってくれますように。

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精神分析 音楽

アウトプット

昨日の朝はいつもより少し早く起きた。いつも早起きだがそれ以上に早かった。ブログを書いたり資料を作ったりしてもまだ時間があった。今年は別の学会でも発表をするつもりだったが余裕がなくシドニーで抄録書けばいいか、と思っていたができなかった。どうせできない(しない)と思ってはいたが想像以上にできなくて会場で会った友人に話したら「刺激が多いからね」と言われた。確かに。私にどうにかできる刺激の量ではなかった。鳥とか空とか街並みとかキョロキョロしたり追いかけなくてはいけないものがたくさんありすぎた。集中的に精神分析のことを考えられる時間はあっても普段の仕事とは内容的にかなり異なっていたし、書き物をする気は全く起きなかった。こういうダラダラ書きならいくらでもできし時間も取られないけど学会の抄録はね・・・。が、しかし、なぜかいつもより時間が余った昨日の朝、突如やる気が出た。マイヴィンテージMac Airを持って仕事にすぐ行ける朝からやっているカフェで広げた。資料を見る時間はない。以前書き溜めておいた引用文献を使う。最近、小寺財団で狩野力八郎先生が残された本の頒布会に伺ったが、今回最初に使ったのは狩野先生のナルシシズムに関する文章だ。私はずっとナルシシズムについて考え、身近な先生とも今回発表できたらいいな、という話はしていた。全く手をつけられていない言い訳もしていたがその先生の顔もチラついた。せっかく議論に付き合ってくださっているのに、というのもどこかで思っていたのだろう。ところで狩野先生の文書を引用するのははじめてかもしれない。狩野先生は家族療法やシステム論で重要な論文を多く書いてらっしゃるが精神分析家というより医師である精神分析家として書かれたものが多いので臨床的な実感を理論にするときに私には少し違和感があるのだろう、と今思った。もちろん狩野先生の業績はそれだけではなく、ナルシシズムに関する狩野先生の整理の仕方はとてもスマートで勉強になる。狩野先生のスーパーヴァイザーでもあった小此木先生もどこからでも詳細な何かを引き出してこられるすごい人だったが、狩野先生はそれとは別の形でフロイトを読めた人なんだと思う。ナルシシズムに関してもフロイトから現代までの論考を網羅したうえで開放システムとしてそれを捉えフロイトのアンビバレントな書き方にも触れている。ああ、もっと長生きしていただきたかった。せっかく先生の推薦で精神分析協会の候補生になれたのに協会のセミナーなどで先生からご指導いただくことは叶わなかった。さて、今回もいつも言いたいことはあまり変わらない。いつも同じようなことを考えている。とはいえ時間がなさすぎる。まあこれは必須ではないのでやれるところまでやって無理なら仕方ない、という気楽さもあった。〆切は正午。仕事が始まってからは送信ができたかどうかの確認くらいしかできない。とにかく今、形にして送信、ということで4000字を一気に書いた。あと数分しか猶予がないというところで投稿したら200字以上オーバーしていた。なぜだろう、というのを今に至るまで見直していないがなぜだったんだろう。pagesで作業していたが4000字に収まっていたはずなのに、と思ったが時間がないので登録画面で大急ぎで文章を削った。果たしてそこを削っていいのか、という吟味をする時間もなかったのでただ無になって作業した。なので最終の原稿が手元にない。投稿してしまったら残らないのか・・・。〆切前なら見られたからコピペすればよかったのだがそんな余裕もなかった。200字は貴重だったのでそれを削ったものが、いや、それ以前の問題で採択されるかどうか微妙だ。ものすごい勢い、というよりかなり無になって一気に書いたので隣の人たちには異様だったかもしれない。二人いると思っていたお隣はいつのまにか別の人になっていたし。議論していた内容とは全く異なるものになってしまったが今はこういう表現しかできないのだろうから今後に繋がればいい。珍しく集中したあとも仕事もつまっていた。午後いつもより少し時間があったのではじめての店に行ってみた。まだランチをしていた。ありがたい、と思って食べていたら眠ってしまった。子供か。思考を巡らす間もなくアウトプットに集中するというのは疲れるものなんだな。大体こんな感じだが今回はあまりにギリギリだったなあ。次回こそ気をつけよう。5月末が〆切のものはこういうアウトプットができるほど考えられていないしこっちはインプットもやらねば。はあ。セミナーの文献も読まねば。ああ。まあ、昨日はがんばったので久しぶりに音楽をじっくり聴いてちょっとこだわって調べてみたりした。いい曲に会えた。

Words Left Unspoken

From“Horizons” by Jasmine Myra

友達に共有したら「めっちゃええやん」となぜかローマ字できた。最初何語かわからずまた変なこと言ってると思ったらローマ字かよ、と気づき笑った。今日は曇り?雨は降りますか?降らないですか?なんか寒いんですけど。重ね着重ね着。寒いのが一番元気なくなるから気をつける。みなさんもどうぞ風邪などひかれませんように。

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シドニーの紅茶とか。

眠い。何をいれようかな。シドニーで買ってきたT2の紅茶にしようかな。夜遅く羽田を出て午前中にシドニーについてタクシーでホテルに向かってすぐにランチに出かけてそのまま散策をした。すぐ近くにフードコートがあるビルがあってその地下にはメトロというスーパーやたしかWから始まる電車の駅があった。その駅構内にT2があった。友達がオーストラリアブランドの紅茶だと教えてくれた。すごくかわいい。色も形もみんなかわいい。友達はこのあと一人でたどり着けるかわからないからと早速お土産を買っていた。結局私たちはそのビルのスーパーを気に入って何度も足を運ぶことになったけど。チョコレートBARのコーナーが大充実で危険だった。水が安いと聞いたけど本当にそうで助かった。円安関係なくとにかく物価が高いからこういうスーパーはありがたかった。それでも高かったけど美味しい飲み物も見つけたりみてるだけで楽しかった。観光の時間があったのはその日だけであとはほとんど学会会場のホテルにいた。朝昼おやつと軽食が準備してもらえたので出る必要もなかったし一度出てしまったらサボることしか考えられない位置関係だった。会場はカフェみたいなコーヒーマシンがあって背の高い素敵な人が長い列にスマートに対応していた。私も多くの人と同じくカプチーノをお願いした。そのあとの人もそのあとの人もそのあとの人もカプチーノだったので4杯分一気に入れていた。でっかいミルク!など思いながら眺めているとカップにミルクを入れすぎた!という顔をしながらシナモンかココアパウダーをたくさんかけて、やっぱりしまった、と思ったのかそばの人を呼んで確認してもらったらその人はすっごく適当な感じで「まあいいんじゃない?」みたいなことをクールに告げて言われた方が肩をすくめて私をみた。この二人は仲良しなんだな、と思った。その人はクールな人の真似をして「いつもこうなの」みたいなことと何かを早口で言った。全部は聞き取れなかったけど面白くて笑った。このコーヒー、売り切れがちで(フリーだけど)何度か直前でなくなってしまったのだけどそのときにマシンの横に置いてあったのがなんとT2のティーバッグ。味が確かめられるの嬉しい!と思って自分でお湯を注いで飲んでみた。美味しい!私もお土産これにしよう、と決めて次の日も次の日も飲んだ。T2には日本茶もあった。これだったかな。私はペパーミントの紅茶をとても気に入ってそれを帰りの空港の免税店で買った。シドニー空港、なんにもないな、というかこれにこの値段!お土産買えないな、と残念に思いながら思い出づくりのために空港の人たちがいっぱい出入りしているカフェでホットチョコレートを頼んだらカフェラテというか多分フラットホワイトだった。向こうではそういう呼び方するんだって。私の発音が悪すぎたのか?1ドル多く取られたと思うんだけど。会計と作る人違うから仕方ないか。とてもいい感じで渡してもらったし。まあ美味しいからいいや、とトボトボフードコートでドーナツも買って時間を潰した。荷物を預けられるカウンターが開く時間になって行ってみたらでっかいサーフボードを置いた友人がいた。この人はまたサーフィンもしたのか!すごい!と自分の荷物を預けてから声をかけて写真を撮らせてもらった。学会とサーフィンを同時並行でこなす友、すごい。身軽になってお土産どうしようかなあと思いながらもう入ってしまえと出発ロビーに入ったらびっくり。高級デパートみたいな華やかさ。普通は逆ではないのか。入ってよかった。T2もあった!よかったー。買えたー。ウロウロしたりぼんやりしているうちにわりとあっという間に時間が経った。夜出発だったから飛行機で寝たり映画見たり食べたりストレッチしたりしているうちに羽田に着いた。時差が少ない国に行くときはこういうスケジュールにしようと思った。また綺麗な夜明けを機内からみた。行きにみた見たこともない赤い空ではなかったけど穏やかな赤のあと涼やかな水色が広がった。帰国してすぐに日常に戻れてよかった。疲れもあまりなくすっかりいつも通り。不思議。遠い国が近い。でも本当は何も知らないという意味ではすごく遠い。うん。今日も1日がんばりましょう。

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精神分析

カマシ新作とか日本人であることとか。

黒蜜のフィナンシェ。美味しい。黒蜜、というだけで美味しいが本当に美味しい。色々入っているハーブティーと。熱々のを喉に流し込んでしまった。また火傷だ。熱かった。すぐに慎重になることを忘れてしまう。

夢を昼と夜というまるで一日スパンで語るのは違うと思う。覚醒と睡眠のあり方や程度にも色々あるから。そういえばKamasi Washington(カマシ・ワシントン)の新作『Fearless Movement』にアンドレ3000との「Dream State」という曲があってサックスとフルートが静かで不思議な世界を作っている。私のプレイリストではこの曲のあとにShabaka(シャバカ)の「End Of Innocence」が来る。最高だな、と思う。この二人にも柳樂光隆がとってもいいインタビューをしている。彼らがジャズミュージシャンとして自分のルーツやコミュニティのことを考え家族や他のミュージシャンをリスペクトしながら常に新しい場所へ向かおうとする姿には本当に励まされる。

シャバカが語る「小さな音」と尺八がかき立てる想像力、「音のポエム」とパーソナルな物語

カマシ・ワシントンが語る、より良い世界に進むための愛と勇気とダンスミュージック

GWは世界中の国の人が集まる国際学会でシドニーにいた。とはいえ、アジアパシフィック主催の集まりであったため参加者の大部分はその地域からだった。国内の学会とは全く異なり、各国の文化、歴史が色濃く反映された発表が多かった。予想していたことではあったが日本が他のアジア諸国に対してしてきたことを静かに突きつけられたような気持ちになった。必要なことだ。

私は候補生の集まりであるIPSOのパネルで各国からのパネリストのひとりとして発表をした。私は日本の精神分析インスティチュートの歴史を素材に、分断と呼ばれる状況に対して私たちがとりうる態度についてポリフォニーという言葉を使って考えを述べた。IPAのHarriet Wolfe会長もモデレーターとして参加してくださった。発表前日、彼女に自己紹介をする場面があったがそのときも当日もgood representationと褒めてくださった。彼女は前もって私の原稿を読んでくれていた。パネル本番でもいろんな国の参加者からとても温かなコメントをいただいた。とても嬉しかったが、他の国の候補生たちの発表に少し打ちのめされてもいたのでなんとも言えない気持ちになった。オーディエンスの一人にはそれを観察されていたようで気持ちを共有してもらったような気がした。こういう場で日本人の私が何を話せるのか、という迷いは簡単に話し合える類のことでもなく、歴史を学びながら時間をかけて言葉にしていく必要があると私は思う。私はその時代に生きていなかった、だから知らない、とは言えないのである。発表後、同じような逡巡を覚えながら別の発表をした友人と小さな声でそんな話をした。まだごく最近のこととして語られるそれらに私たちは耳を澄ませる必要がある。ジャズミュージシャンたちの語りに対してもそんな気持ちになるが、いつもどこでも励まされるばかり。今日は雨。今日も学ぶ。

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病気というのは難しい。

窓を開けたらカーテンがブワッと膨らんだ。昨日から風が強い。地上ではあまり感じないがカーテンや洗濯物の動きを見るとそう感じる。

バラバラと色々なことをしているが特に進んでいない。夜はNHKスペシャル「山口一郎 “うつ”と生きる~サカナクション 復活への日々~」を見て少し泣いた。病気は本人だけでなく周りの人にとっても苦しい。うつ病は「鬱病」と書くべき難しい病気だ。身体は重たく、痛みもところどころで発生する。思考はパターン的になり自分にも他人にも別の見方をすることができず苛立ったり情けなくなったりコントロールが難しくなる。全く眠れなくなる人もいる。薬が効く場合が多いので医療にきちんと頼ってほしいが服薬に抵抗がある人も多くその不安についてカウンセリングをすることもある。とにかく色々一旦棚上げすることが必要になるが「色々」に耐えうる自分でないときに「一旦」という気楽さを持つことは難しい。医療にかかると自分の状態をシンプルにモニタリングしてもらえて投薬もそれに応じてなされる。物足りなく感じる人もいるかもしれないがこれがもっとも大事なのである。もちろんそうすることの背景に膨大な知見の積み重ねがあるわけだがそういうものを感じられない場合もあるだろう。どんなに苦しくても全てを誰かに委ねることはできないし、またそうしたくもないし、そうできる相手もいないし、など病気になるというのはいろんな次元の困難に出会うということでもあるので正しい知識がまず大事なのである。サカナクションについて私はよく知らず、山口一郎についてもよく知らず、『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』のMVが強烈でそのMVが一人なのでソロなのかと思ってしまったりして、こういうプロモーションのあり方や私みたいに中途半端な消費者の誤解が彼やメンバーやその周りの人の苦しみに繋がっていたりもすると思うが、なにかはなんでも本来苦しみだけに繋がっているわけではないので仕方ない面もある。ただその人が病気であることを知ったのであれば自然となされるべきことはあるだろう。

今日はやることがある程度決まっているのでこなすことならできるだろう。自分次第の課題もどうにか進められたらいいのだが。今朝のお菓子は山梨のお土産、桔梗屋の「甲斐の山々」。こういうのは美味しいに決まっているサブレ。クリームがさっぱりしていて甘すぎなくて美味しかった。知覧茶と一緒にいただきました。知覧もまた複雑なものを抱える街で、と書き始めると長くなるから書かないけど茶畑の美しさは別格でしょう。美味しいし。美味しいがいろんないいことを連れてきてくれますように。

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いい時間

映画『落下の解剖学』をなんとなくみた。犬がよかった。犬は本当にえらいが大変だ。多分。子どもも。大変だ。多分。大人は都合がいいからな。

発表時間は15分だった。「5」という数字がみえて少しスキップしようとしたら両側から優しく止められた。映画で犬が言われていたように「大丈夫、いい子」という感じのことをいわれた気がした。その場面を友人が写真に撮ってくれていた。まんなかで少し笑う自分がほんとに子どもみたいだった。私は外国の人のこうしたスピードに結構びっくりしてしまうのだがたしかに力強くサポートされた感じがした。日本語で15分間の原稿を英語にしたらまったく時間内におさまらなかった。かなりスッキリさせてちょうど15分におさめて大会の担当者に送付したのが一ヶ月前。友達に「深刻な否認」といわれるほど無になることでやり過ごしていた。というかプリントアウトした原稿を持ち歩くだけで単に練習をサボっていた。発表の1時間前に会場のロビーのみんなに背をむける位置にある椅子で読んでみた。口がまわらない。やばい。読み終えてストップウォッチをみたら17分。ありゃ。早口になるともったいないから、と言われて減らしたのに。それがあったから「5」という数字をみて急がなければと早とちりしてしまった。本番はやはり早口になったのか急ぐ必要はなかった。両隣の二人は素早く優しくそれを教えてくれた。無事に発表を終えたあとのディスカッションもあたたかくHAPPYないい時間になった。感謝。

それにしても日本は暑そう。早く薄着になりたい。今日も良い一日になりますように。

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精神分析

鳥、不気味なもの、台湾

かもめがきた。手を振った。手を振るくらいなら餌をくれ、だな、と思いつつ。もう一羽のかもめがきた。口から何か白いものが出ている。釣り針?釣り糸?しばらく変な首の動きや歩き方をしていて苦しいのかなと思ったがそのあと見たら口から何か出してはいるけどもう何事もなかったかのような顔をしていた。顔じゃないか、動きか。とりあえずよかったのか?苦しくなければいいけど。かもめの白は濃くてきれい。SNSで鳥の写真を見るのが好き。時折真っ白な文鳥が羽をシャラーっと広げた姿を見る。透かし見える白がとてもきれいで毎回びっくりする。鳥の目とか魚の目って少し不気味。私は愛でているけど。

フロイトは「不気味なもの」(1919)の中で不気味なものは実は馴染みのあるものとしている。私が月とか鳥の目とかに不気味さを感じると同時にそこに愛着を覚えるのはそういうことなのだと思う。どういうことだよ、ということを説明する気力が今朝はない。疲れている。

台湾の人に『亡霊の地』(陳思宏/三須祐介訳)をお勧めされた。早速Kindleに入れた。評価も高い。その人はその本について発表をするらしい。聞きたかった。フロイトがそうであるように文学と精神分析を切り離すことはできない。これからはそれらを絡めた発表を私もしていけたらいいなと思った。

しかし疲れている。数日ぶりにお酒を飲んだせいかもしれない。台湾の人たちとのおしゃべりは楽しかった。台湾、また行きたい。美味しいし優しいし楽しい。健康な胃腸を持ちたい。どんな疲れていてもこの先に楽しいことがあると自然に思えているのはそこそこ健康なのではないか、と自分を励ましながらがんばろう。できないなりにできないことをやるぞ。鳥ともおしゃべりするぞ。みんなもいいことありますように。

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もちこたえる

たくさん聞いてたくさん話しながらたくさん歩く。自分がいた場所と少し離れるだけで景色が変わることを知る。驚く。相手がいると自分が何に対してどんな気持ちでいるかを知ることもできる。意外な気持ちで事実を内省できる。それは率直に反応してくれる相手のおかげだけど。率直に反応するされる仲になるにはそれなりの時間経過とコミュニケーションが必要、強く支えられるときもあればまるで異なる意見を言われてショックを受けたりもするから。単に自分が思っていたことと違うことを言われて頭と気持ちが追いつかなくてショックを受ける場合もあるけど相手の気持ちを知って「ああ、そうだったのか」となるショックもある。どちらにしても大切にしたい相手であればそういう自分や相手にもちこたえる必要がある。「もちこたえる」という言葉は私の仕事ではよく使う言葉だと思う。何に、かといえばたいていsomething bad or unpleasantでその状態をkeep, hold, sustainしているある種の緊張状態だと思う。一言でsufferと言ってもよいのかもしれない。先日sufferにはwaitの意味があると聞いてなるほどwaitかと思った。そうするとそこには単なる緊張状態ではなくてその先が見えてくるなと思った。something bad or unpleasantがgoodかpleasantの方向へ、少なくともnot bad,not unpreasantくらいの状態へ変化することへの期待が込められている。実際はそうに違いないのだが、臨床現場で「もちこたえる」という言葉を使いたくなる場合、それはかなりなすすべがないといか行き詰まっているときで希望は無意識に追いやられている。どこかで希望がなくてはもちこたえることなどできないにも関わらず。しかしだからこそ「希望」とかいう言葉を簡単に使えないのかもしれない。「希望が持てないんですね」とはいえても「希望を持ちましょう」とはいえない感じがする。「少し希望の光がみえてきた感じでしょうか」とはいえるか。「希望の光」はたいてい「一筋の」とかがつくわけでそんなにすぐに全体を照らしてくれない。ひたすらその状況にとどまりながら時間に何かを託している状態でふいに気づかれるような、そんなものがあるのを忘れていたような光で安堵をもたらしてくれる。でもその光は未来からとか神様からとかではなくて実は過去の蓄積から生じてくるのだと私は思う。だから人はすぐに自分にとってbadだったりunpreasantなことが起きると「あのとき自分が〜したから」「あんなことさえしなければこんなことは」など思うのではないか。過去の集積=過去のせい、というのは明らかに短絡的なわけで「どう転ぶかわからない過去を積み重ねてきたんだな、それが今たまたまこんな光になったんだな」という認識がまず重要だと私は思う。すぐに何かに結びつけるような思考は反復を生じさせる気がする。だってそれはどちらかというとナルシシズムの世界にひきこもっていくような感じではないか。コミュニケーションが大事だけどとても難しいのはどちらに転ぶかわからないきっかけを作り出すものでもあるからだろう。信頼していたのに、大好きだったのに、あのときに言われたことって実は、あんな言い方で伝えてくれてたことって、など相手が心にいると出来事は時間経過とともに変化する。ああ、さっきから眠くてしかたないのにダラダラこううちづけている。ねむけにもちこたえることで何かを待っているのだろうか。希望的な何かを。いまのところ起きなくてはならない、という現実しか見えない。ああ。おなかがすいた。昨日は美味しいサラダに出会った。サラダは素材の味も大事だけどドレッシングが特に大事だと思うんだよね。バルサミコが上手に使われていたみたい。まあ、調味料っておいしいよね、みたいな話でもある。でも「おいしいサラダになーれ」と言いながらかけても誰も「調味料かけただけじゃん」とは言わないし。あ、うとうとしてしまった。わかりやすい魔法で今日が良い1日になりますように。なーれ。なれー。

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大雑把に。

PCからブログが投稿できなくなってしまった。どうしてだろ。

知らない街をなんとなく歩く。橋が見えたから橋のほうへ、というように。昔、半蔵門駅近くで働いていた頃、帰りに東京タワーが見えたから歩いてみた。遠かった。近づけばみえなくなってしまう。すると遠回りしてしまう。途中、路上の地図を確認してはまた近づく。その繰り返しだった。当時はまだGoogleマップもそんな一般的ではなかった、というわけではないかもしれない。私はいまだに使いこなせていないから。友人に野生の勘で歩いていると言われた。単に時間内で目的なく歩くのにストレスを感じないだけだが。野生は目的はっきりしてそう。私はむしろ暇と退屈をもてあそぶ人なんだろうな。

小さな子とピンクの服が目立つおばあちゃんとその家族がいた。ベビーカーを軽々と持ち上げながら急な階段を降り、そうしながらさらに赤ちゃんに陽気に語りかけるあの人が父親だろうか。似たような年齢の男性がもう一人いる。かなり高齢にみえるピンクのおばあちゃんはどの階段の踊り場にも先頭で降り立つ。お元気。みんな元気。

時折急に強い雨が降る。カフェの窓は全開。あまり気にしている人もいない。私は時々気になるけどなんとなく気にしない仕草が身につく。

おやすみとおはようをいうのを忘れた。鳥にばかり話しかけてしまった。通じない相手ほどそうしてしまうのはなぜ。いつも通り「とりー」とよんでいる。

PCが故障していないかが気になるがすでにヴィンテージだからしかたない。よくもってくれたと思えるさ、きっと。

おおよそのことは大体こんなかんじ、そんなものさ、まあそんなとこかな、いいんじゃない?くらいで動いていく。いちいちうるせーよ、という世界は窮屈。トリー、おはよー、みんなー、おはよーと大雑把に世界と関わる。それぞれどうか良い一日を。

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特別な夜明け

特別な太陽をみた。赤く染まり始めた空に真っ赤な太陽がのぼった。そのあと一気に透き通るような白になった。それはまるで魔法の鏡みたいでものすごい光で思わず友人を起こした。光はだんだん空を水色にしながら散っていきそろそろ朝なのだろう。真っ白な満月のような太陽。これから夜が来てしまうかと思った.

眠りたくない。朝が来てしまうから。そういう声をたくさんきいてきた。何度も何度もそういいながら何度も何度も薬や刃物で自分を傷つけながら。そんな日々を何年も繰り返しながら「ねてもねなくても来ちゃうんですけどね、朝。」というようになったりもする。

昨日まで「普通に」笑っていた人が二度と起きなかったり、自分では動かせない身体でひたすら死を願ったり、今日も目覚めてしまったと絶望し再び暗い布団に潜り込んだりいろんな境目の超えかた、越えようのなさがある。どれもこれも自分でコントロールしているのはごくわずかだろう。

「自分で!」とあるいはその言葉を獲得する前から大人の手を振り払うこどもたち。そっとサポートする手にもすぐに気づき、怒る。「バレたか」と大人同士笑い合う。「自分で!」といえて受け入れられること。豊かで大切な時期だ。

こんな特別な夜明けに出会いながらどこかでそれを血が滲んでいるようだと思った。内臓のような赤にも見えた。写真には映らないものたちに囲まれた生活を思う。

山内明美『痛みの〈東北〉論――記憶が歴史に変わるとき』 の文章を引く。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3914

東北で育った山内明美は石牟礼道子を訪ねる道中、水俣で子供の頃の遊び場や発声や発語を奪われた人たちについて書く。

「その震源でもっとも苦しんでいる人びとが、自ら声をあげられないこの理不尽な世界のあらゆるしわ寄せを、水俣は一身に引き受けてきた。水俣は、いまも抱え続けている。  

うちが働かんば家内が立たんじゃもね。うちゃだんだん自分の体が世の中から、はなれてゆきよるような気がするとばい。握ることができん。自分の手でモノをしっかり握るちゅうことができん。うちゃじいちゃんの手どころか、大事なむすこば抱き寄せることがでけんごとなったばい。そらもう仕様もなかが、わが口を養う茶碗も抱えられん、箸も握られんとよ。足も地につけて歩きよる気のせん。宙に浮いとるごたる。心ぼそか。世の中から一人引き離されてゆきよるごたる。  

くり返すが、海と暮らしてきた人びとは、充満する「無限」世界のなかで生きてきた。「世の中から一人引き離されてゆきよるごたる」と語るゆき女の心ぼそさは、わたしたちが理解できる範囲を超えた離散であるには違いない。だが、ここにひとの魂の深さを、誰だって読みとるに違いない。」

こう書いている隣で老夫婦がサプライズで誕生日を祝われていた。もう成人して海外で暮らす娘さんたちがいるらしい。祝う側の女性にも2歳になる娘さんがいるとききお二人は「びっくりした!」「えらいわね!」と声をかけた。

神様はいなくても誰かがいる。そう思えたらいいなと思った。