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精神分析

良い悪いではなく。

遅く帰ってきてたくさん食べてしまった。週末、学術大会で東京駅八重洲口におり、その地下街がとても充実していた。発表があったからお昼は20分くらいしかなかったが会場からすぐ入れる地下街へ行って北海道のお菓子が売っているところとかドンキとかで色々買ってしまった。みんなにもあげた。そういえばあなたは北海道出身ではないか、とその友達にも北海道のバターサンドをあげた。ドンキにはいろんな種類のミレービスケットがあった。その中の一つがコーンポタージュ味。「朝のミレー」と書いてあったのに夜中に食べてしまった。「真夜中のミレー」というのもあってそれはニンニク味!そっちだったら今朝はもっと気持ち悪かったかもしれないがコーンポタージュ味の味はそんなにしなかった気がするから油のせいだな。油のせいで美味しいし油のせいでおなかが痛くなる。美味しいことばかりではないのだ、人生は、と急に大きなことを言っていい他愛ない領域。良い。

プレイセラピーのスーパーヴィジョンをしていると良い遊び、悪い遊び、というものがあるかのような話になるときがある。遊びに最初から良い悪いが備わっているのではなく楽しく遊べたら良い遊び、危険なことをしたら悪い遊び、危ないことになりそうな要素強めだったら悪い遊び、とか言えるかもしれないが、遊びは楽しく遊んでいてもいろんな要因で怒り出したら悲しくなったりそしてまた楽しくなったり一つの遊びでも色々生じるので名詞として捉えるのではなく動詞で捉えた方がいい。そしてこれはプレイセラピーに限らずだがそれを「良い」「悪い」と捉えるときこそそう判断している自分は何者かと考えるきっかけにした方がいい。前回のセッションでめちゃくちゃ怒りながら途中で出ていった子が翌週何事もなかったかのようにやたらスムーズにまとまった遊びをしていたら「今日はいい子だな。先週発散したからかな」ではおそらくない。大抵はどうにもならない感情をなんとか自分で処理して表面を保っているわけでそういう様子にホッとした治療者の思わずの一言で怒りが暴発したりする。遊びと呼ばれるものの内容は様々だが、お互いの心が相互作用しつづけていることに細やかな注意を払うところがセラピーと学校とかの遊びとの違いだ。学校の遊びは大きな筋肉を使う遊びも多いがそれは広い場所があるからであってプレイセラピーでそれをすることについてもきちんと考えた方がいいと私は思う。細かい筋肉や使っていない筋肉を使うときの疲労は結構なものだ。まあ、これは単に個人的な体験だが。

Bon Joviのデビュー40周年、16枚目のニュー・アルバム『Forever』リリースということで聴いてる。ザ・ボンジョヴィといつも思う。Foreverというのも「らしい」と思う。しかし16枚か。もっとだしてるかと思った。若い頃、横浜スタジアムだったか、屋外のライブに友達といった。よく聴いてはいたが特別好きなわけではなかった。なんとなく歌える曲は多かった。実物はめちゃくちゃカッコよかった。歌いまくった。やっぱりライブは良い。ブライアン・アダムスのライブに友達が行けなくなって代わりに行ったときもそうだった。ニューアルバムの予習を直前にしたくらいだったが特に予習要らなかった。ステージの間近で「今目があった!」と誰もが思うやつが私にも起きた。カッコよかった。前に仲良しの美容師さんとこれまで行ったライブの話をしていてレディー・ガガのライブがすごかったという話になった。やっぱりそのクラスの人のライブには好き嫌いを超えていってみたいよね、と盛り上がった。私は最高だったB’zライブ&一泊の話もした。そういう時間があった日々というだけで懐かしいが今は今で面白い毎日だ。もちろん遊びと同じで楽しいだけではない。でも面白さは常にある。汚い言葉で言い表したい事態の最中にあるときでも面白みはある。二分法で考えなければいろんなことにそれは潜んでいる。今日もいろんな気持ちでいろんなことを。おなかが気持ち悪いけどがんばろ。みなさんもお大事に、お元気で。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生