カテゴリー
精神分析

忘れ物、時間のせい。

「葦」のココナッツサブレ美味しい。スイカも染み渡った。昨晩は少しひんやりしたけど今朝は早朝からリビングがキラキラ。梅雨は昨日で終わったのかしら。昨晩はひんやりだったけど朝着てきたはずの上着を着ていないことに気づいたのはオフィスを出てしばらく歩いてからだった。朝はもっと寒かった。自分のオフィスに置いてくる分にはいいけど常に忘れ物が多い。大きいリュックともう一つが限界。そこに帽子とか傘とかがつくともう無理。雨が降っていれば傘には気づけるけど。カフェに寄ったら隣に座っていた人が「これ」って傘や帽子をレジにいる私に届けにきてくれるということが連日起きている。もちろん相手は連日とは知らないし、「ああ、また!すいません!」という私の残念さも伝わっていないと思うがそんな気分だ。大体こういうことを延々書いているうちにやるべきことをやる時間がなくなっていることを放置しているのも似たような性質に違いない。注意力にかけるし集中力にもかける。子供の頃よりずっとマシ、といえばそうだがそんな比較をしたところで今の自分がマシになるわけではない。世知辛い。

 この前の発表で精神分析は一方向的で不可逆的な時間を意識させると述べた。時系列が曖昧で、時間が過ぎていくことを意識しないまま現実より観念に囚われている場合、週の半分以上会う、という精神分析設定は設定だけで役に立つ。引きこもっている人が自分の誕生日や年末年始など区切りが近づくにつれ強烈な不安に襲われることがあるのは過ぎ去っていく時間を強く意識してしまうからだけど、平日に仕事なりなんなりに行って、土日は休む、というようなリズムがある生活をしてる場合でも意識しない時間というのは日常にはたくさんある。子供がいる人といない人では見通しの持ち方など時間感覚は全く異なるだろう。というか他人のお世話をするためには見通しを持つことが必要になるからそれが苦手な人はさらに負担が増えてしまう。「こんなはずではなかった」がたくさん起きてしまう。ときには「だからいったでしょ」と怒ってしまう。「自分のことくらい自分でしてよ」という怒りは切ない。誰だって自分でいっぱいいっぱい。私が自分の傘や帽子を忘れる分にはあまり誰かを困らせることはないが他人の分まで忘れ物しないようにとか気を遣うのは大変なことである。一方、物忘れ歴も長くなると「忘れ物ない?」というような聞き方はせず「携帯は?お財布は?ハンカチは?」と具体的な聞き方ができるようになる。そしてなんにでも紐をつける。同じく忘れ物名人の友人はなんにでもAirTagをつけているという。私の場合はそういう現代的な紐付けではなく、実際に紐をつけている。ストラップというやつ。大きいリュックの中もファスナー付きのバッグがいっぱい。それにさらに紐をつけたりもしている。もちろんファスナーを開け放しにしてリュックの奥底の暗闇からそれらを救い出さねばならない時も多々ある。あ、時間の話をしていたのだった。そういうとこだぞ、と言いそうな友人の顔が思い浮かんだ。いってくれる人大事。そう、精神分析では超自我とかいう言葉を用いたりするが、そうまでいわずとも毎日のように会っていれば昨日、今日、明日、は連続性を持って感じられるようになるし、会わない日でも「先生がこういってたなと思い出して」とか言葉のリフレインが生じたり「今度これ話そう」とか「火曜日、行きたくないなあ」とか先のことに思いを馳せたりするようになる。年単位で同じことを呟き続けている自分に「変わってない」と何度も落ち込んだりもする。そう気付けること自体が一つの達成だったりするわけだがたしかにそこにとどまっているわけにもいかない。そう、人生は世知辛い。焦ったり追い詰められたりするのも時間のせい。「いちいちうるさいな」と思ってもその人のせいではない。その人も時間に囚われているのだからしかたない。私も焦っているがこれも時間のせい。でもそういう時間のなかでやると決めたのは自分だからやらなければなされない。何かのせいにしたところで大抵のことは何も変わらないのだ。世知辛いといいながらやるしかない。辛いね、がんばろう。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生