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精神分析

オラニエのピクトグラム

昨晩は寝苦しかった、というよりなんとなく読んでいた本を訳しはじめてしまい寝るのが遅くなった。除湿をかけてお布団を軽く身体の一部に乗せるように寝た。途中少し寒いなと思ったけど止めるのが面倒でそのまま寝てしまった。なんとなく喉が痛いような気もするがそうでもない気もする。キウイを食べた。最初より少し熟してきたらしい。

読んでいたのはまたまたフランスの精神分析家、Piera Aulagnier(ピエラ・オラニエ1923-1991)の最初の著作“The Violence of Interpretation: From Pictogram to Statement. “ (1975)。毎回わざわざ「フランスの」と書くのはイギリスやアメリカとの違いが顕著だから。日本はオーソドックスにやっている立場だと思うけど集団として小さすぎて比較対象にはならないかな。このeditionの序文はJoyce McDougallとNathalie Zaltzman。最近、読み終わったマクドゥーガルの著作”The Many Faces of Eros A Psychoanalytic Exploration of Human Sexuality”は構成から不思議な読み物だった。彼女の誠実さは大変よく伝わってきたが。さて、この序文で二人はオラニエの簡単な個人史と重要な概念を紹介してくれている。

そこのThe pictogramをチェックした。先日、アンドレ・グリーンの論文でビオンのピクトグラムの概念が取り上げられていた。私はアントニオ・フェロがその概念を展開していると思うといってその場で先生も少し調べてくれたのだがそこではよくわからなかった。ただナラティブの方に目線を向けているフェロの考えはビオンの応用ではあるかもしれないが基盤を共にしているとは個人的にはあまり思えない。いや、ここではフェロは関係ない。ただ、グリーンがビオンのピクトグラムに興味を持っているとしたらその方向ではないと思う。ではどのあたりに?そもそもピクトグラムというのは精神分析用語ではなく、前言語的な表象不可能なものの表象のことを言うのに適していたのだろう。私はオラニエをきちんと読んでいないにも関わらず、なぜオラニエがピクトグラムのことを書いていると思ったのだろうか。以前、これまたグリーンの「私」概念がオラニエを参照しているのでは、と思いパラパラしたからそのときに目に止まっていたのかもしれない。視覚情報は言語化される以前のものが多くなる。ピクトグラムはその中間のようなものと理解している。で、またざっと訳してみたはいいものの、私の英語力がないのか、オラニエだからなのか、フランス精神分析だからなのか、フランス語から英語への翻訳に関する問題なのかわからないが、内容がわからない。なんとなくこういうことを言いたいのだろう、ということはわかる。しかし何を言いたくてこれを言っているのかがわからない。なので本文を読まねばならない。というか読むために買ったのだらから読むべきだろう。そうだそうだ。それにしても「わからない」と言うのは楽しきことだ。私はわかりやすさに抵抗する。なんでわかったことになっちゃってるの、と思う。だから物語論が苦手。昔ははまってたのに年をとった。いや、本当に。年齢と経験は関係していると思う。特に精神分析経験に物語を持ち込むこと、あるいはそこにそれを見出すことはとても面白くなさを感じる。その点、ラカンのフロイト読解は勉強になる。そもそも転移に対する態度が異なる。私はラカンがパッと出してくる実践で生じる出来事にとても共感する、少なくとも昨日読んでいた部分は私が実践で感じていたことそのものだった。この不思議さをどう考える?と考えるのが私は楽しい。

さてオラニエのピクトグラムをJoyce McDougallとNathalie Zaltzmanが簡単に説明した部分のさらに一部をざっと訳すとこんな感じ。

「オラニエの考えでは、ピクトグラムとは、乳児の心が最早期の快の感覚という身体的経験から作り出した心的表象である。それは口と乳房の最初の出会いをモデルにしている。このように、継続的で身体的な出会いからなるピクトグラムは、いかなる語表象も欠いているにもかかわらず、将来、あらゆる性感帯とその部分対象との出会いの原型となる運命にある。絵文字的な表象は、それを構成している二元性をまったく無視していることが特徴である。オラニエは、若い成人の精神病患者たちとの長い臨床経験から、どの表象が表象そのものとして心に受け取られるかという見方をするようになった。乳児の表象能力は、心的表象を自らの自律的な動作の結果として経験する。言い換えれば、原初的な過程は、ピクトグラムという象徴様式と連動して自己繁殖的に経験される。そしてそれは、体験とそれを体験する乳児双方を含む。出会いが快と結びついているとき、その表象は、オラニエの用語で言えば、「結合のピクトグラム」である。それは性感帯とその相補的な対象(口と乳房の結合という原型に基づく)との結合を表象し、その全体は自己繁殖し、自己破滅するものとして経験される。」

こんな感じ。なんのこっちゃというほどなんのこっちゃでもないかもしれないが、なぜこの概念がオラニエにとって必要だったかを知りたい。オラニエはウィニコットを参照しているはず。私の興味はそこへ向いている。私はあまりビオンを面白く読めないのでフェロよりオラニエに来てしまったのかもしれない。イタリアにはイタリア精神分析の雰囲気というものがあるだろうし、ビオンの娘もそこで活躍した分析家だった。

そんなこんなで寝不足だ。がんばろう。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生