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精神分析

内藤礼、想起、問い、対話

鳥の声が除湿のブオーという単調な音のせいで遠い。でも除湿のおかげで涼しい。なんでもかんでもは手に入らない。昨日、なんか私には自然が足りない、と書いた。そこで突然上野へ出向いた。東京国立博物館で内藤礼の展覧会が始まったからだ。自然があった。ああ、自然ってこういう形で体験できるんだった、という静かな喜びと驚きに浸された。作品の中に座りながら、立ちながら「豊島美術館みたいだ」と思っていた。もう何年も前になるが小豆島と豊島へ行ったときに寄った。フェリー乗り場のそばで自転車を借りたが電動はすでになく坂道は引いて登るしかなかった。苦痛で楽しかった。時折、なにかおかしなことが起きてゲラゲラ笑った。広大な自然の中なんだか自分たちがえらく間抜けに思えたのだろう。汗だくでたどりついた豊島美術館の中に入ると虫穴に帰ってきたような安心感を得た。その穴は広く静かで空が見えた。ひんやりした床に寝そべって少し眠った。いや、結構眠った。あの夏の日の感覚を上野の一室で思い出した。同じ作者なんだからそりゃそうだろうという話だが、内藤礼と豊島美術館は私の中では全く繋がっていなかった。想起というのは不思議なものだ。こんな形で自然を体験できる、と私が感じたのが私が実際に豊島へ行ったからなのか、行かなくても感じられたのかはすでに行ってしまった私にはわからない。行っていない場合には行っていないからわからないとなる。どっちにしてもそんなことはわからない。この仕事をしているとこういう問いの立て方を患者はよくする、というよりそうしていることに意識的になりやすい言語的なやりとりが行われている場なのだろう。わからない、としか言いようがないことを問う。問う。わからないと知る。わからないと知っているのに問う。その繰り返し。問いと答えは対ではない。それが対だとしてもその部分だけ抜き出してもその人が、あるいはその人たちがどんな思考の場にいるかわからないだろう。それは対話の中にある。今は「対話」という言葉がやや教育的というかイベント的な意味を持つようになったと感じる。しかし問いと答えに終わりがないようにそれは有限であり有限ではないものなのでみんなで輪になって行うものは少し違うのではないかという気がする。プラトンの書いた『饗宴』みたいな飲み会スタイルで生じる対話はそれらしく感じる。昨日パラパラしていた『木村敏対談集2 臨床哲学対話 あいだの哲学』(青土社)の対話はよかった。木村敏が臨床医であることから降りないというより降りることはできないほどに臨床医として言葉を使っているところにとても力を感じた。最後の村上陽一郎との対談はなんだかな、と思いながら読んでいたが木村敏は上品で受け身がうまくてそのあたりも臨床家だなと思った。浅田彰はここでも切れ味が素晴らしく楽しく読んだ。こういう対話を延々と続けていけたら楽しいけど終わりがあるとわかっているからいいのだ、きっと。しかしいずれ誰にでも終わりが来るのだ。だからやりたい人はやればいいしやりたくない人はやらなければいいという結局は欲望の問題かもしれない。私はもう行かねばらならない。私にはリミット必要。今日もがんばだ。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生