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精神分析

オグデンとかグリーンとか精神分析。

雨がしとしと。今日は梅雨っぽい。梅雨は1日単位のものではないはずだけど。窓を開けたらカーテンがゆっくりふんわり膨らむくらいの風が入ってきた。

アメリカ西海岸の精神分析家、トーマス・オグデンの本を読んでいた。オグデンは私の愛読書だったがここ数年そうでもない。もちろん新刊が出れば買うし、最近は翻訳される前に読む。私ももうそこそこ歳なので翻訳を待つ余裕はないし書かれた言葉で読んでいきたい気持ちは強くなる一方、ということでフランス語の勉強だって再開した。オグデンは英語。オグデンをそんなに良きものとして読まなくなったのは精神分析を受けた影響が大きいと思う。オグデンの臨床素材の描写は非常に的確で、私も今や実感を持って書かれたことを体験することができる。

今回読んだのは昨年から私が理解したがってるわりに理解が進まないアンドレ・グリーン(André Green)の仕事に敬意を表して造られたThe Dead Mother: The Work of André Green に収められたオグデン。

Ogden, T. H. (1999) Chapter 6 Analysing Forms of Aliveness and Deadness of the Transference—Countertransference. The Dead Mother: The Work of André Green 36:131-150

ちなみにこの本はThe Greening of Psychoanalysisの編者の一人、Gregorio Kohon編。第一章はKohonのThe Greening of Psychoanalysis: André Green in Dialogues with Gregorio Kohon。あとはMichael Parsons、Arnold H. Modell、Christopher Bollas、Jed Sekoff、Thomas H. Ogden、André Lussier、Adam Phillips、Rosine Jozef Perelberg、Martin S. Bergmann、そして最後はChapter 11 The Intuition of the Negative in Playing and Reality by André Green. 序文はR. Horacio Etchegoyen。

ここまで書いてこれ翻訳が出てたかも、と思ったら別の本だった。『精神分析のパラダイム・シフト』。マイケル・パーソンズとペレルバーグはどちらにも書いている。だから何というわけではない。こうしてメモしておくと引用するときに役に立つかなくと思ってなんとなくしてしまう。

オグデンの論文は『もの想いと解釈  人間的な何かを感じ取ること』(T.H.オグデン著、大矢泰士訳 / 岩崎学術出版社)に入っている。「第2章「生きていること」と「死んでいること」:その形を分析する」という論文。4人の患者さんが出てくる。臨床場面の描写で精神分析とはどんなものかを伝えてくるオグデンはやはり好きだし、私も書くならそうしたい。でも最初に書いたように精神分析を受けたこと、しかも精神分析家になるということがその目標として加わったことで理論の方にうるさくなってしまった。以前はもうこれだけで何かわかったような気になっていたというよりむしろ何かをわからないことの大切さ、みたいな感じでどちらにしてもわかったような気分になっていた。今はそうもいかない。グリーンに対してしつこいのはグリーンのフロイト再読と脱構築(なのかな)は私が精神分析臨床から学んでいることを他の人より言語化してくれているように感じるから。オグデンの「分析の間主体的な第三者」という考えも以前はそう感じていた。でも今はこれは後付け的概念に思うようになってしまった。ああ、以前好きだったものに批判を向けるときのこの罪悪感はなんだ。向こうは私がどう思おうと何も気にしないに違いないのに。ファン心理とはそういうものか。私はもう精神分析のただのファンではなくなってしまった。内側でそれをそれとして体験する立場になるとそんな呑気ではいられない。ちょっと寂しい。でもがんばる。なにを。とりあえず今日を。雨は東京だけ?みんなの空はどうかしら。どうか元気で。