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ラットマン症例

暑い。が、お湯を沸かす。エアコンもつけた。プチ二度寝したがまだ早朝。昨日は自分の勉強をする余裕がなかったのでフランス語のラジオを聴き逃しで聴いている。

夜にはフロイト読書会もあった。使用したのは岩崎学術出版社から出ている『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』。今回はラットマンの「Ⅰ病歴の抜粋」の最後の20ページほど。論文名は「強迫神経症の一症例についての覚書」。ラットマンことエルンスト・ランツァーは1907年10月1日にフロイトとの治療を開始した。翌年、Informalではあるがはじめての国際的なコングレスが開かれ、フロイトはこの症例を発表している。場所はオーストリアのザルツブルグ(Salzburg, Austria)。

”Apart from this momentous decision, the most notable event at Salzburg was Freud’s presentation of the case of the Rat Man; this aroused so much interest that he was persuaded to extend it to more than four hours.”

ということでこの症例発表は大変盛り上がったらしい。いいね。日本の協会でもこういう会合してみたい。

この症例が出版されたのは1909年、IPA設立は1910年である。

フロイトが少しずつ人を集め、Psychological Wednesday Societyを経て、ウィーン精神分析学会を作り、IPAとなっていくまでの経緯はIPAのこちらのサイトに書いてある。動画ではフロイトの声も聞ける。1908年までに初期の著名な精神分析家は出揃っている感じがする。W.Stekel(1868‐1940),Carl Gustav Jung(1875-1961),Alfred Adler(1870-1937),Ernest Jones(1879-1958),Granville Stanley Hall(1844-1924),Ferenczi Sándor(1873-1933)など。

フロイトがラットマン症例をどのように発表したのか調べていないが本で読んでもこんがらがる話を聞くのは大変だったのではないだろうか。4時間を超える議論の内容も知りたい。フロイトは『夢解釈』において精神分析における言語表現の解読方法を開発しており、この症例理解にもそれが活かされる。この症例が示す愛と憎しみ、能動、受動、サディズムとマゾヒズムの反転は素早く性愛化された空想として言葉にされるが行動としては不活発だ。ラットマンは亡霊として死んだ父を呼び戻し自分と対峙させ見る見られるの満足を得る。その快はいつまでも同じパターンをたどり軌道を外れることがない。それこそが快であるが苦しみでもある。この症例は症状の消失という意味では良くなったと言われているが果たして、という疑問が残る。ラットマンは戦争で死んでしまったのでその後を知ることはできなかった。これだけの空想を持った人が戦地でどのような体験をしたのか、その体験をどう経験したのか、と考えると気が重い。私たちはいまだにこうして彼から学びを得ているわけだがそれが彼に対して何をしていることなのかということも考えさせられる。とにかく消費でない学びを続けよう。今日もがんばりましょう。

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境界とか存在しそこないとか。

暑い。すごい陽射し。眠い。今日はどんな1日になるのだろう。

いろんなことは起きてから考えればいいかと思うが考えて対処できるならしておいた方がいい、とも思う。しかしその対処が必須なのかしなくてもどうにかなるものなのかの境は難しい。境といえば最近境界例をétat limiteというと書いたけどその前にもフランス語のlimitéは境界で訳されることが多いのか?と思うことがあった。もちろん文脈にもよるだろうけど境界ってぶち当たる感じが弱まる言葉だと思う。でも実際、いろんな境界は曖昧だからただ線をひくみたいな言葉のほうがいいのかもしれない。精神分析で難しいのは境界という言葉が中間的なものを想起しやすいことだと思う。フランス精神分析における境界例は中間という意味は含まないといちいち書かれている印象がある。最近はラカンづいていてエクリも英語とフランス語で勉強してる。そこにmanque à étreという言葉がでてきるのだけどこういうのをきくと「おー、フランス現代思想」と思ってしまう。フランス語も現代思想も中途半端にしか知らないくせにイメージって不思議。「存在しそこない」と訳す。ネガティブなほう、不在のほうを強調するのがそれっぽいと思ってるのかもしれない。たしかにこれは必要かどうかを考える場合、そういう側面を意識しないと盛り込む方向になるのでシンプルに考えていきたい。

それでは熱中症に気をつけて一日無事に過ごしましょう

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ワイン紅茶、医薬分業、『星の王子さま』

今年もブルーベリーをもらった。ブルーベリーは食後に食べるのが効果的だそうだが朝イチで食べてしまった。爽やか。ハーブティーもレモングラスだから爽やか。そういえばこの前、ワイン紅茶をもらった。宇都宮市のお茶専門店y’s teaのEncore bis。アンコールビスと読むそう。なんとこれ、同じく栃木県の足利市にある有名なワイナリー「ココファーム・ワイナリーの赤ワインに用いた高級ぶどうを、栃木県宇都宮市の福祉法人しのいの郷のマイスターが 長時間じっくりと乾燥してドライレーズンに。 そのぶどうと相性が良く、水色もワインをイメージさせる紅茶をY’s teaが 厳選し、独自の製法でハンドブレンドで仕上げた紅茶」とのこと。いろんなところがこうやってつながってるのね、すごい。y’s teaの紅茶は宇都宮の人がよく買ってきてくれるのだけどどれもとても美味しい。こうやって驚きもくれるし。

この前、医療従事者同士でおしゃべりしていて医薬分業からもう50年だよと言われて驚いた。私は大学院生のときにクリニックでアルバイトをしていたのだけどそこはまだ院内処方だった。「院外処方」が珍しくない今、「医薬分業」という言葉に重みを感じた。私は心理士でもあるけど精神分析家として開業している意識が強いので何かと分けられる以前に独自すぎる学問と実践に浸かっている。内実はいろんな学問領域のハイブリッドなんだけど業務を分けることはできない。昨日書いたフランス精神分析の本の執筆者のひとり、Pierre Fédida(1934-2002)は精神科医でも心理士でもなくドゥルーズの影響を受けて精神分析家になった人だけど「なる」という作業はどうしても大事。そういえば昨日、フランス精神分析でいう「境界例」はそれまでのパラダイムに変更を迫るものだったみたいなことを書いたけどピエール・フェディダは「いかにして精神分析から脱するのかではなく、いかにしてフロイト主義から脱するかという問題」と書いている。後半は点で強調されている。フロイトに還ること。「フロイト主義」から脱すること。フランス精神分析は本当に筋が通ってる。

「星の王子さま」で勉強しようとしたら「星の」は日本独自訳だった、ガーン、と書いたけどAntoine de Saint-Exupéryの”Le Petit Prince”はフランス語のテキストにも名言として引用されていたりする。たとえば

On ne voit bien qu’avec le coeur. L’essentiel est invisible pour les yeux.

確かに。知ってるぞ。この作品がテキストとして使われるわけだ。でも私はとりあえず読む必要があるフランス語で勉強。隙間時間にやるから一文読んでおしまい、ということもあるけど一文に対してもあれこれ考えるので悪くないかな。今日もがんばりましょ。

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フランス語の勉強とか。

早朝はまだ耐えられる涼しさ。涼しさなら耐えられるか。耐えられる暑さというべきか。まだランニングができる。ブログなんて書いている場合ではない。涼しいうちにやることをやらねばもったいない。若い頃は5時起きで走りにいったりもしていたが今は頭で思うだけで実際はダラダラこうしている。

フランス語の勉強を始めて最初はもっと堅実にと思ったけど最初から文献を読んでしまっている。NHKの「まいにちフランス語」は初級文法なのでそこで基礎固めしつつひたすら辞書をひいている。精神分析家になるために時間もお金も費やしたから余裕がなくなって一度やめた。ということはもう10年やっていないことになる。フランス人の先生に英語でフランス語を教わっていた。子供用教材で数とか色とか身近なものの名前を教えてもらうところからだった。先日聴き逃しでNHKの講座を聞いていたら前置詞の勉強で地図を書く課題があって、あれは楽しかったな、と当時の課題を思い出した。いつもの文献をフランス語で読むのは難しいが英訳されたものでも難解で、さらにそれを自動翻訳で読むともっと訳がわからなくなる。そうやって時間がかかるなら最初から取り組んでしまおうと思った。フランス精神分析が独自の道を行ったのは精神分析における言語の使用という問題から離れないからだと思う。今はアンドレ・グリーンのla position phobique centraleに関する論文を読んでいる。

la position phobique centraleとは j’entends une disposition psychique de base,qu’on rencontre souvent dans la cure de certains états limites.

Les états limitesは境界例のこと。その中心をなす恐怖症について。

フランス精神分析には独自の鑑別基準があるが境界例はそれらとはまた異なるものとして精神分析実践を通じてパラダイムの変更を迫ってくる。境界例についてはアンドレ・グリーンを含むフランスの高名な精神分析家たちの講演録をもとにした”Les états limites -Nouveau paradigme pour la psychanalyse?”という本が『フランス精神分析における境界性の問題 フロイトのメタサイコロジーの再考を通して』という翻訳で出ている。アンドレ・グリーンの境界例概念はそこで確認することができる。

執筆陣はJacques André(APF/IPA),Catherine Chabert(APF),Jean-Luc Donnet(SPP),Pierre Fédida(APF),André Green(SPP/IPA),Daniel Widlöcher(APF/IPA)。すでに亡くなっている人たちも。大御所揃い。

以下、星和書店Webサイトを参考に。リンク先は私用メモを兼ねて。

『フランス精神分析における境界性の問題─フロイトのメタサイコロジーの再考を通して─』も読めるようになってきた。

・1996年11月~1997年5月
・ジャック・アンドレ主催、サンタンヌ病院でのセミネール
・目次は講演順、演者による加筆修正あり

第一章 唯一の対象
──ジャック・アンドレ
第二章 境界例の生成と状況
──アンドレ・グリーン
第三章 境界例は精神分析家にとって夢の患者なのか
──ピエール・フェディダ
第四章 境界例における分裂(clivage)と幼児性欲
──ダニエル・ヴィドロシェ
第五章 境界性機能様式:いかなる境界か
──カトリーヌ・シャベール
第六章 境界性患者、境界性状況

──ジャン=リュック・ドネ

翻訳で読んでいてもそれぞれの言っていることや表現の仕方が全然違うのだからフランス語で読んだらどんな感じなんだろう。フロイトを読んでいると翻訳で読んでいても「フロイト先生、またこんな言い方してる」とか思うわけだがユダヤ人のジョークやドイツ語ならではの表現を理解できたら別の読み方も現れてくるのだろうと思う。ということで今日も地道にがんばりましょう。いいお天気すぎるから熱中症に気をつけましょう。

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雨、蟻、岡田一実『醒睡』

窓の内側に染み込んでくるような音で雨が降っている。ヒタヒタヒタヒタチャプチャプチャプチャプチャプ。警報が出ている地域の被害が広まりませんように。水害のあと、その土地に立った観光客の私は立ち入り禁止の札やロープや抉られたり削られたりした大地をどう感じていいかわからずただ足を止め言葉をなくした。地元の人から話してくれる話もあった。思い出されるたび衝撃を受けるのは目があった直後にカーテンが閉められたあの瞬間だ。大きな家の窓のカーテン。昼間だった。そばには明らかに地形が変わった痕跡がありロープがはられていた。あの人は一人暮らしだろうか。とても申し訳ない気持ちになった。そんなこと思うならそこ歩くなよということかもしれないが知らなかった。一度ゆるんだ大地にまた大雨が降る。それを想像するだけで怖いし胸が痛い。

小さな蟻が今年も出たと書いた。少数でも侵入されている感覚は強く夢にも何度も出てきた。少し雨の大雨の日、蟻の巣が崩れるのを私は想像した。彼らの巣は相当頑丈で雨対策もしっかりしてると聞く。それが崩れるということは私たちも危険ということかもしれない。そのくらい私は彼らの侵入に無意識に追い詰められていたのだろう。追い詰められ攻撃性が蠢き自分の手を使わずに何かが起きてくれることを願うような心性は誰にでもある。大雨の翌日、一匹の蟻をキッチンで見かけた。あっさり駆除した。今の私の目は死んでいるだろう、と思った。それ以来、蟻を見かけなくなった。その前から少しずつ見かける量が減ってきた気はしていた。元々列をなすような数でもなかった。様々な対策の効果がでたのかもしれない。私は今この雨の音を聞きながらまた想像する。蟻の巣が崩れるのを。そしてまた死んだ目になる。

昨晩、ネコポスで岡田一実の句集が届いた。前もって配達完了のお知らせがきていたので家に近づくにつれポストを開けるために足が早くなった。こんな距離を急いだところで何も変わらない。しかも封を開けて確認したらビニールに入ったままのそれをPCの横に積んだままあと数分で終わる大河ドラマを見てしまった。さっき蟻の巣が崩れるのを想像したと書いたあとビニールの中の表紙を見た。ドキッとした。水滴?滲んでいる?慌てて取り出す。白い表紙をそっと撫でる。浮き上がってる。水が滲んだままの形が。よかった。私の意地悪な心がこんなところにまで雨を降らすようなことがなくて。それはすでに涙がこぼれ落ちたような跡にもみえた。昨日は出先で強めの雨も降った。それも気になっていた。ポストから出したときに濡れていないことを確認した。当然中身が濡れているはずもなかった。なんとなく雑に放置したことや蟻に対する仕打ちが小さくない罪悪感を生じさせているらしかった。岡田一実の新句集『醒睡』はベルクソン研究者の平井靖史さんが帯を書いているとのことでなおさら注目していた。俳句よりずっと長い文章で綴られた帯文は丁寧で美しかった。そして句集はブランショの引用から始まる。開いてみる。今の私に飛び込んできた一句がこれか、と苦笑いする。

食み殺しつつ白魚の句を数句

中途半端に心揺らしいつまでも想起に胸締め付けられる私にはもつことのできない境地で正確に言葉を紡ぐ著者から多くを学ぶだろう。この滲みが雨でも涙でもなくてとりあえずホッとしたところからしてすでに。