カテゴリー
精神分析 精神分析、本

精神分析における時間論ー関係性理論の視点を少し

最近、精神分析における時間論について、数人の精神分析家や哲学者を引用しながらちょこちょこ書いてきた。日本の精神分析家は土居健郎しか挙げてこなかった気がするが、吾妻壮も時間性について興味深い論考を書いている。

『精神分析における関係性理論――その源流と展開』(2016、誠信書房)に収められた「第5章 精神分析における時間性についての存在論的考察」がそれである。

ここで吾妻は、精神分析における時間を、過去・現在・未来に生じる心的出来事の問題としてだけでなく、ハイデガー Heidegger,M.を参照しながら、人間の存在そのものにかかわる時間性の問題として捉え直そうとする。

章の構成は、「精神分析と時間性」「精神分析における時間性の存在的な理解」「精神分析におけるもう一つの時間性:存在的時間性から存在論的時間性へ」「精神分析における存在論的時間論のさらなる射程」「終わりに」となっている。

この章は、臨床的議論はなく、その手前の理論の整理と今後の使用にむけての準備が行われる。吾妻はまずグリーン Green, A.―カーンバーグ Kernberg,O.F.的な時間理解を検討し、それとは異なる概念的枠組みをハイデガーに求め、そこからレーワルドLoeward,H.W.―ストロロウ Stolorow,R.D.的な時間理解へと進む。

吾妻によれば、前者は時間を客観的・実在的なものとして捉える時間理解であり、後者はハイデガーの存在論的な時間理解、すなわち過去・現在・未来を脱自的統一として捉える時間論である。

吾妻がまず検討するのは、私がしょっちゅう触れているアンドレ・グリーンの時間性に関するモデルである。グリーンは、フロイトの局所モデルと構造モデルに応じて、二種類の無時間性について提示したという。局所モデルでは、異なる時点に由来する表象が無意識において時間的に整理されないという静的な混淆。構造論では、イド由来の反復強迫によって表象化が妨げられ続ける「時間の殺害(the murder of time)」(Green,2007)という動的な無時間化。

これを読んで知ったのだが、米国の対象関係論的自我心理学に分類される精神分析家、カーンバーグは、グリーンを参照しているという。カーンバーグは、主観的時間を客観的時間の派生物として理解し、病的時間性を、主観的時間経験の変容として記述しているという。

私は、吾妻のアンドレ・グリーンの時間性の捉え方にはやや違和感も覚えるのだが、吾妻がここで焦点化するのは、グリーンとカーンバーグがともに、時間を客観的で実在するものとして捉えている点である。時間が「殺害」され、「破壊」されうるものとして語られ、またその「短縮」や「停止」が経験されうるものとして論じられていることから、吾妻はそのように捉えるのだと思う。

そして、それはハイデガー的にいえば存在的(ontisch)な理解ではないか、ということで、ハイデガーの時間論を導入する。吾妻がここで検討しようとしているのは、存在的な理解ではなく、存在論的な理解であり、時間性を理解するためのオルタナティブな概念的枠組みらしい。

吾妻は、このあと、ハイデガーの本来的時間性、非本来的時間性、時熟、脱自的統一を手際よく整理し、ハイデガーの存在論的時間論に近い考え方としてレーワルドの時間性の理解とストロロウのそれをあげる。吾妻は、ハイデガーの時間論の影響を受けた精神分析家として両者を取り上げている。

精神分析における時間性の理解について考える途上で吾妻の論考も紹介してみたが、要約することが目的ではないと気づいたので、急に駆け足になってしまった。でももうちょっと書いておく。

章の後半では、吾妻自身の専門である関係学派における自己の多重性・非直線性にも触れられる。ここで吾妻が援用するのは、非直線的で多重な自己状態(multiple self-states)を論じる関係学派の精神分析家、ブロンバーグ(Bromberg, P. M.)である。そして、ブロンバーグが参照するレーワルドの言葉を引用する。

また、吾妻は、外傷体験において時間性の変容が生じ、病理においては非直線的で多重な自己状態が解離として経験されるというブロンバーグの考えを、ハイデガーの存在論的時間性とも接続して理解する。そして吾妻は、解離されている自己状態が治療の場に持ち込まれることを肯定的に捉えるブロンバーグの議論を、本来的時間性の経験という観点から読みながら、今後の臨床実践に生かすことのできる時間性の枠組みを模索することを課題として、この章を終える。

私がここで取り上げてきたフロイト、グリーン、ラプランシュ、ダナたちの議論とはまた異なる視点である。吾妻がハイデガーを参照することで問題にしているのは、時間のなかで人間がどのような経験をするのかということだけではなく、人間の存在そのものが時間的である、ということなのだと思う。

ちなみに、この論考の初出はおそらく、吾妻壮・小笠原將之・井上洋一(2012)「精神分析における時間性についての存在論的考察」『臨床精神病理』33(3), 293–303である。日本精神病理・精神療法学会第35回大会では、中村昇による基調講演「ベルクソンの『純粋持続』と西田の『場所』について」も行われている。こちらも雑誌で読んでみたいと思った。

吾妻の論文を改めて読んで、最近ベルクソンに偏っていた私の脳内にハイデガーが蘇ってきた。2021年、NHKブックスから池田喬『ハイデガー――『存在と時間』を解き明かす』が出た。その頃、池田喬と古田徹也のイベントにも行ったな。おもしろかった。

今は出かけられないほどの雨ではないが、特に用事もないので、この本を読み直すのもいいなと思っている。みなさんもそれぞれ、よい時間をお過ごしください。

大きい金木犀
カテゴリー
精神分析 精神分析、本

ダナの本、アンドレ・グリーンの論文

早朝だけど、もう、少し蒸し暑い。沖縄県知事選挙で起きていることがあまりにひどすぎてずっとニュースを追っていた。今朝はなんとなく美ら海水族館で買ったクジラのTシャツを着た。

昨日はアンドレ・グリーンを読むセミナーだった。グリーンの論文に慣れてきたせいか、ウトウトしても追いつくのが早くなった気がする。

週末は精神分析における時間論に関する論文を色々読んだ。

ひとつはダナ・バークステッドーブリーンの‟The Work of Psychoanalysis: Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind” (2016.Routledge)これはグループで原著を読んでいる間に邦訳がでた。『精神分析の仕事-セクシュアリティ,時間,精神分析のこころ』ダナ・バークステッド-ブリーン 著/松木邦裕,富田悠生 監訳(2025、金剛出版)である。出版社が「解題」を公開している。目次はこんな感じ。

Acknowledgements xv
Introduction 1
Chapter 1 Setting the Scene 11
Chapter 2 Modalities of Thought and Sexual Identity 49
Chapter 3 The Feminine and Unconscious Representation of Femininity, a Duality at the Heart of Femininity 69
Chapter 4 Sexuality in the Consulting Room 83
Chapter 5 Bulimia and Anorexia Nervosa in the Transference 101(この章だけ邦訳されていない)
Chapter 6 Phallus, Penis and Mental Space 126
Chapter 7 Time and the Après-Coup 139
Chapter 8 The Work of Interpretation 158
Chapter 9 Reverberation Time, Dreaming and the Capacity to Dream 173
Chapter 10 Taking Time, the Tempo of Psychoanalysis 192
Chapter 11 Bi-ocularity, the Functioning Mind of the Psychoanalyst 213
Chapter 12 Termination in Process 231
Bibliography

監訳者まえがき:松木邦裕
イントロダクション
第1章 場面を設定すること
第2章 思考と性的アイデンティティの様相
第3章 女性性と女性性の無意識的表象,女性性の中核にある二重性
第4章 面接室でのセクシュアリティ
第5章 ファルス,ペニス,心的空間
第6章 時間とアプレ・クー
第7章 解釈の作業
第8章 反響時間,夢見ること,夢見る能力
第9章 時間をかけること,精神分析のテンポ
第10章 双‐眼性,精神分析家の機能するこころ
第11章 進行中の終結
文献
解題:富田悠生
索引

週末に読んだのは日本語訳だと第9章「時間をかけること、精神分析のテンポ」。原著だとChapter 10 Taking Time, the Tempo of Psychoanalysis。これについては昨日簡単に書いた。

翌日、アンドレ・グリーンの論文を少し予習しておこうとGreen, A. (1987) LA CAPACITÉ DE RÊVERIE ET LE MYTHE ÉTIOLOGIQUE. Revue française de psychanalyse 51:1299-1315をメンバーが訳してくれた邦訳を英訳と合わせて読んだ。英訳は”The Freudian Matrix of ​André Green Towards a Psychoanalysis for the Twenty-First Century”By Howard B. Levine(2023,Routledge)に収められているChapter4 The capacity for reverie and the etiological myth。この本については以前ほんの少し紹介した。

この論文のアブストラクトを訳すとこんな感じ。おかしいなと思ったら原著の内容紹介でご確認を。

「本論文は、ウィルフレッド・ビオン――グリーンがとりわけ好んだ思想家の一人――について、その象徴化の理論と母親のもの思い(maternal reverie)、そしてそれが分析技法の概念化にもたらす帰結をめぐって、個人的かつ批判的で創造的な読解を提示するものである。

グリーンは、心的発達についてのいかなる著者の見方にも、その一般的な帰結として一つの「病因論的神話(etiological myth)」があり、それが「臨床的機能についての暗黙の理論モデル(implicit theoretical model of clinical functioning)」の根底にある、と提唱する。

ビオンが母親のもの思いを特権的な位置に置いたことを弁証法的に補完しようと、グリーンは、分析家の心的作業を拡張し豊かにするものとして、父親のもの思い(reverie of the father)について考察する。

そしてある臨床ヴィネットに基づき、分析過程の主要な次元として、構成(construction)と歴史化(historization)の作業を展開している。」

まさに読んだばかりのダナの論文とつながっている、ラッキーと思いながら読んだ。

歴史化historizationとは、過去を想起し、正しい歴史を再現することではない。グリーンは、なぜ精神分析には構成construction が必要なのかを考えている。これは、ダナの論文に出てきた、分析家が即時的な反応を差し控えることで duration(持続・時間的な間隔) が生じる、という議論と並べて考えることもできなくはない。分析家の reverie は、まだ歴史になっていないものが歴史になりうるための時間をつくる働きでもあるのだろう。

ウトウトして途中までしか読めなかったが、とりあえずセミナーの時間になったので会場に向かって訳を担当してくれた人の声に耳を傾け始めると、さっきまで私が読んでいた論文と違うではないか!ビオンの『精神分析の方法』も持ち歩いていたのに。確認したら、なんと、私は2025年10月のセミナーの資料を読んでいた。最近、本当にこういうことが多い。今は2025年でもなければ、まだ10月でもない。私の中の時間はいったいどうなっているのだ。しかも、ってことは、一度読んでるってことではないか。全然覚えていなかった。これで実は自分が担当したやつだったらどうしよう・・・と思うけど、怖いから確認しない。

予習すべきだったのは、英訳が‟Contemporary Psychoanalytic Practice”の第3章に入っているIssues of interpretation: Conjectures on construction。これも「構成」の話だったし、ダナの話とつながりが深かったからよかったけど、私の時間、私の記憶、どんなふうにいったりきたりしてしまっているのか。早くも加齢によるあれか。なんとかこのくらいでふみとどまってほしい。

今日はボラスの書誌情報を書こうと思ったのにもう時間がない。東京は暑くなりそう。どうぞ良い一日をお過ごしください。

箱根のお土産!
カテゴリー
精神分析

書誌情報とか。

今日こそおいしいカルダモンロールを食べて(昨日のはシナモンロールだった。見かけで区別がつかなかった)。ひとり精読シリーズを再開しようと思ったのだが・・・。

アンドレ・グリーンの書誌情報を整理していたら大混乱。ひとつの論文がいろんな著書になっていたり英訳されていたりいなかったり、改訂版があったり・・・。AIにも聞いてみたがみてすぐにわかる間違いが多すぎる!結局二人(?)で直したりしていた。

しかもグリーンの論文を読みながらトーマス・オグデン(Thomas H. Ogden)も読んでしまったので、オグデンの書誌情報も気になり・・・。これのほうがAIは正確に拾えていたがThe Primitive Edge of Experience (1989) は未邦訳だよね。どうして「体験の兆すところ」ででてくるのだろう。どこかで訳されているのかな。ラカン派の人たちが精力的に試訳作っているみたいに。なんにしても邦訳がないものはそう書くか、せめて英語併記にしておいてほしい。AIが勘違いしてしまう。本末転倒感は否めないが。英語の出版物はResearchGateが一番チェックしやすいかな、私は。

オグデンの邦訳は現時点では多分これら。

The Matrix of the Mind. Object Relations and the Psychoanalytic Dialogue(1986) Jason Aronson, Inc.(1992) Routledge
https://www.taylorfrancis.com/books/mono/10.4324/9780429482403/matrix-mind-thomas-ogden

『こころのマトリックス――対象関係論との対話』藤山直樹 訳、岩崎学術出版社1996

Subjects of Analysis (1994)Routledge
https://www.taylorfrancis.com/books/mono/10.4324/9780429480515/subjects-analysis-thomas-ogden

『「あいだ」の空間――精神分析の第三主体』和田秀樹 訳、新評論1996

Reverie and Interpretation Sensing Something Human (1997) Routledge
https://www.taylorfrancis.com/books/mono/10.4324/9780429479670/reverie-interpretation-thomas-ogden

『もの想いと解釈――人間的な何かを感じとること』大矢泰士 訳、岩崎学術出版社2006

Conversations at the Frontier of Dreaming (2001) Routledge
https://www.routledge.com/Conversations-at-the-Frontier-of-Dreaming/Ogden/p/book/9781855759060

『夢見の拓くところ――こころの境界領域での語らい』大矢泰士 訳、岩崎学術出版社2008

Rediscovering Psychoanalysis Thinking and Dreaming, Learning and Forgetting (2009) Routledge
https://www.taylorfrancis.com/books/mono/10.4324/9781315787428/rediscovering-psychoanalysis-thomas-ogden

『精神分析の再発見――考えることと夢見ること、学ぶことと忘れること』藤山直樹 監訳 ほか、木立の文庫2021

Projective Identification and Psychotherapeutic Technique (1992) Routledge
https://www.taylorfrancis.com/books/mono/10.4324/9780429478574/projective-identification-psychotherapeutic-technique-thomas-ogden

『投影同一化と心理療法の技法』上田勝久 訳、金剛出版2022

Reclaiming unlived life: Experiences in psychoanalysis (2016) Routledge
https://www.taylorfrancis.com/books/mono/10.4324/9781315665948/reclaiming-unlived-life-thomas-ogden

『生を取り戻す――生きえない生をめぐる精神分析体験』上田勝久 訳、金剛出版2024

オグデンのcreative readingsはでるたびに自分の整理に加えていたのでそれほど混乱しなかった。自分のが間違っているかもしれないが。

最新の17本目は、Ogden, T. H. (2026). Playing as a Basic Form of Living: On Winnicott’s “Playing: A Theoretical Statement.” International Journal of Psychoanalysis, 107(3):332–351.

時間ができたら全部表にしておこう。今日はもうすっかり余裕なし。雨がひどい地域はどうなっただろうか。奄美大島のきれいな海もすっかりにごってしまっている映像をみた。今年の台風の多さも異常気象のひとつかな。みなさん、どうかご無事で。ご安全に。

カテゴリー
精神分析

アンドレ・グリーンの「ネガティブ」、フロイトの「否定」

さてさて、今日は日本の精神分析があまり取り入れてこなかったフランスの精神分析にとんでみよう。

アンドレ・グリーンAndré Green (1927–2012)のことはよくここにも、もうひとつのブログにも書いてきた。しかし、この一年で修正すべき点もみえてきた。自分の言葉とはいえ書き散らかしているので修正箇所を特定することはできないし、いまだ理解が十分でないところが多いので、ここに書いていることは正しい知識というよりは、すべて理解へのプロセスだと思って読んでいただきたい。勉強する時間がもっとほしいし、もっと賢ければいいのだけどないものねだりはまた今度、と自分に言い聞かせる。

グリーンは、フロイト以降の様々な精神分析理論の発展において、とくに英国対象関係論やアメリカにおける対象や関係を前景化するモデルのなかで後景化してきたフロイトのメタサイコロジー、とりわけ欲動・表象モデルを、対象関係論の成果を取り込みつつ、第二局所論の見直すことでアップデートしてきた。

グリーンはフロイトへの回帰を強調するでも、フロイトを批判するでもなく、対象関係論から発見したものを取り込みながらフロイトのメタサイコロジーそのものを再構築しているようにみえる。

グリーンは、抑圧(Verdrängung)モデルでは捉えきれない心では、なにかが表象されていながら意識から排除されている、というより、表象すること自体が困難であったり、いったん成立した表象や対象への備給が撤回されたりしている状態を考えた。

私はアンドレ・グリーンの対象化/脱対象化機能objectalisante/désobjectalisante (fonction)に関する論文にインパクトを受けてから約2年か3年、グリーンの著作を読み続けている。このブログでの登場回数もその頃から急に増えたと思う。

グリーンといえば、 The Dead Mother、The Work of the Negative、Life Narcissism, Death Narcissismに書かれているように、不在、喪失、脱備給など「ネガティヴ」の働きに関する理論が、その仕事の重要な軸をなしている。

「ネガティブ」は単に「ない」ということではない。重要なのは、「ない」ことによって生じる空間、表象、思考であり、「ない」ことによって消されたり失われたりする備給、結びつき、表象可能性であり、この概念が示すのはそうした心の運動である。

そうだ、グリーンを読むときには、まずフロイトの「否定(Die Verneinung)」論文(全集19 1925-1928)を読んでおきたい。土居を読むときのように、少しだけ読んでおこう。

「私たちの患者が精神分析の作業中に思い付いたことを明かす際の語り口は、若干の興味深い考察をするきっかけを与えてくれる」

フロイトはまず「語り口」に注目する。何を語ったのかではなく、どのように語ったのか。

「本当にそんなつもりはないのです」「私の母ではありませんよ」

患者は、思い付きを言葉にしながら、この言葉との関係を切ろうとする。

フロイトは「解釈する際、否定は度外視して、思い付きの中身だけを取り出す」。

私もそうするときがある。しかし、これは結構大技なので注意も必要だが、フロイトはそうするもんだ、くらいな感じで書いている。

もういかねば。今日はここまで。木曜日だ。がんばろう。

オペラシティのこの道はあまり人は通らないけどいつもきれいに整えられてる。
カテゴリー
精神分析

土居やフロイトやグリーンを読んだり。

休み明けなせいか、早速寝不足なせいか失敗が多い毎日。落ち込む。大丈夫だろうか、自分。

昨日、「精神的距離」が失われることによって生じる危機に陥らぬために、と土居が取り上げたのはフロム・ライヒマンFrieda Fromm-Reichmann(1889年10月23日 – 1957年4月28日)である。土居の『精神療法と精神分析』は1961年。土居が引用したライヒマンのPrinciples of Intensive Psychotherapyは1950年。邦訳がでるのは1964年である。精神病の精神分析に貢献したライヒマンについても書きたいことはあるがまたいずれ。ライヒマンは、きわめて重い障害を抱えた人々にも「資質(assets)」が備わっているとした。そして彼らが精神的な負債(liabilities)を資質(assets)へと転換することを示した。

土居は述べる。

「患者に接する際、現在は病んでおりしたがって自己は確立されていないが、しかし将来それを確立する能力を持っている者として、そのように潜在的には治療者として同等な者として呼びかける時、そこに精神的距離が保たれる、と考えられるのである。」

そして土居は「第12章 社会的条件と価値」において再びこの問題を詳述する、と脚注に書く。

ただ、これが12章のどの部分なのかよくわからない。「精神病患者を精神療法によって治療することの技術的困難も、その少なからぬ部分が、気ちがいに対する社会的不寛容と関係がある」という社会的条件が治療の限界となることとの関連なのか、土居がフロイトの1919年の論文「精神分析療法の道」(全16)とともに示す分析家による価値判断のことだろうか。どちらにしても治療者としての精神分析家の限界に関わる議論であることは間違いないだろう。

土居はフロイトの「患者は自らの固有の本質を解放し完成するべく教育されなければならない。」という文章を引用しているが、この部分をもう少し前から引用してくれたほうがよかったかもしれない。岩波版の訳で書いておく。

「患者は私たちと類似したものに向かってではなく、患者自身の本質の解放と完成に向かって導かれるべきです。」(p101)

また土居が書いているようにこの少し前の文章でフロイトは以下のように論じている。

「私たちがきっぱりと拒んだのは、救いを求めて私たちのもとに来た患者を、私たちの所有物にし、患者の運命を患者のために定め、私たちの理想を患者に押しつけ、高慢な創造主のごとく、私たちの似姿に患者を仕立て上げて大いに満足する、という行いです。」(p100)

土居も同じことを述べていることはすでに書いた。

フロイトや土居が繰り返し述べる治療者と患者の関係における治療者の姿勢は規則と通じ、精神療法を構造化するものなので一治療者としても何度も確認したい部分である。

それと同時に精神分析過程をよりメタで考えるために毎日色々読んでいるわけだが、私が相変わらず目をとめるのはアンドレ・グリーンであり昨日目を通していたのは時間論。“From the Ignorance of Time to the Murder of Time: From the Murder of Time to the Misrecognition of Temporality in Psychoanalysis”。Leticia Glocer Fiorini & Jorge Canestri 編 The Experience of Time: Psychoanalytic Perspectives に収録されている論文である。

これについてもメモしておきたいがもう時間がない。今日も暑くなりすぎませんように。台風がちょうどよく勢力をなくしてちょうどいい雨を九州にもたらしてくれますように。千葉に被害をもたらしたような豪雨がもうきませんように。自然災害のみならずトランプ政権によるICCの制裁やそれに対する日本の対応など心揺さぶられるニュースばかりだが今日もなんとかがんばりましょう。

カテゴリー
Netflix お菓子 旅 精神分析 精神分析、本

仕事始め、徳島、アンナ、グリーン

1月5日(月)。まだ真っ暗です。仕事はじめ。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年も精神分析の古典を大切に、一番新しいジャーナルをウィニコット、オグデン、グリーンの考えを軸に拾い読みしつつ、隙間時間は小説や哲学の本を楽しんでいくことになると思います。読書と運動はどんな短時間でもできるのがいいですね。睡眠もほんの少し寝る、ということができるけど寝入りも寝起きも自分でコントロールするのが少し難しいです。食べるのも欲を抑えるのが本当に大変。今朝のお菓子は所沢の「お菓子の工房エミール」さんの狭山ケーキ。抹茶色のレーズンがはいった小さな焼き菓子です。おいしそう。年末にもらったルピシアの「福づくし」から今日は抹茶黒豆玄米茶と一緒に。あ、両方、抹茶になっちゃった。おいしいに違いないからいいか。うん、おいしい。所沢は昔友達の家にいったことがあるけどそれから下りたことあったっけ、と何度か思ったことあるから多分あるんだと思う。東所沢は角川武蔵野ミュージアムにいくので降りたことがある。あそこ楽しい。今年もいろんな街を歩いたり、いろんなお菓子屋さんを知りたいな。お正月明けはいろんな土地のお菓子が集まるのも楽しみ。

年末年始は徳島県にいたのだけど徳島駅から歩いて10分ちょっとかな、眉山のロープウェー乗り場(阿波おどり会館内)のそばの寺町の一角にある「和田の屋」さんの「滝の焼餅」がとてもおいしかった。お部屋も素敵だった。赤ちゃんや小さい子を連れたご家族は大変そうで思春期の子と母の二人組はとても静かで子供はずっと本を読んでいた。なんの本かなあ、と思った。お母さんがおじいちゃんと話しはじめるとお母さんを小さな手でバンバン叩いて振り向かせようとしていた子は焼き餅はあまり好みではなかったみたいだけど「すぐにこられる場所じゃないんだよ」といわれていてむしろ私が「ほんとそうだな」と思った。大切に味わった。おいしかった!その子もあれこれお母さんの関心を向けつつ食べさせてもらったらおいしそうに全部食べていたからおいしさとは、と思った。保育園にいくと給食の時間は修羅場のときやところがあるのだけどやっぱり「美味しさとは」とよく思ったな、そういえば。今年もたくさん「おいしー!」ってニコニコしたり、ほっぺぽんぽんってできたらいいね。

さて、昨日はNetflixで「令嬢アンナの真実」をみた。大掛かりな詐欺を次々と成功させてきたアンナと女性ジャーナリストの関わりを軸に、娘と父、出産を控える母親の仕事と夫婦と職場、赤ちゃんの時間と若者の時間など永遠のテーマをうまく盛り込んだ実話ベースの話だった。本物のアンナは放映権をNetflixに売り込んだ金でまたもや豪遊していたそうだから人間のそういう部分って変わらない。すごく面白かったし、「ラブ上等」に対するいろんなコメントのことも思い出してちょっと考えてしまったな。

さてアンナをみつつぼんやり“Key Ideas for a Contemporary Psychoanalysis Misrecognition and Recognition of the Unconscious” By Andre Green がどんな本だったかをチェックしていた。2023年12月にも読んでいた時期があったらしいが全く覚えていない。今回は原書のフランス語版にむけて書かれたペレルバーグの書評Jozef-Perelberg, R. (2005) Idées directrices pour une psychanalyse contemporaine d’André Green. Revue française de psychanalyse 69:1247-1261をみつけたのでそれも読みつつ目次を確かめつつ、今読むべきところを探ってみた。フロイトの「否定」論文は何度も読むべきものだけど、その「否定」では表せないだけでなく、精神分析実践ならではの心の動きを示すのがグリーンの「ネガティヴ」という概念だと思う。ネガティブはとらえどころがないからネガティブなのであってそれがwork(作業、仕事)できる心かどうかが精神分析プロセスを追うときの大切な指標になる。心とか主体とかあるんだかないんだかみたいなものを想定せざるをえないのはなんらかの動きを感じるということが起きたとき。ふと感じられる主体が現れるとき。時間が動くのとセット。それまで止まっていた時間が。「あれ?どうして今これ思い出したんだろう」「今ふと思い出しのだけど」と不思議そうに現れる気持ちは過去の出来事とつながっている。「あれなんで泣いているんだろう」とかも。過去は単なる時間ではないのだ。情動とくっついて時間として現れる、のでは?時間に関しては今年はベルクソンに加えてポール・リクールを読みましょう。積んであるからね。あとアガンベン。人は生きていること自体が行為になってしまうから色々難しい。さらに言葉も持ってるからややこしい。今年もそんなめんどくさい自分とつきあっていきまっしょい。

今年も、まずは今日、まずは朝起きるところから、と小さな時間を作ってがんばりましょか。どうぞよろしく。

カテゴリー
テレビ 精神分析 精神分析、本

1月4日(日)

早寝早起きができたお正月、素晴らしかった。毎日、軽い山道を含め2万歩前後は歩けたし、お菓子もたくさん集まって幸福。明日から仕事も筋トレもまたがんばれたらいいな。

一方、年末年始は夢で普段の仕事をしていることが多く、精神分析的な意味での夢作業はどうなってんだ、という感じがする、とともに普段の生活が夢見の余裕をなくしている気もする。この辺もどうにか改善しないといけないが、生活に合わせてできることをやっていくほかなさそう。

今朝は5時前に起きたがパソコンの前に座るもぼんやりしてあっとまに時間がたち、ようやくパソコンを開いてネットニュースをみて悲しくなり、ホットカーペットに座り込んだらまたすぐ時間がたち、あっというまに日の出。きれいな夜明けをみられて少し持ち直した。

どうにか目を覚まさなければと休みの間はほとんど飲んでいなかったコーヒーをいれた。お菓子はなににしようかなあ、と賞味期限とか色々確認していたらどれも適しているような気がして大いに迷った。時間があるって素晴らしい。結局、しばらく前にもらった埼玉県ではおなじみの十万石まんじゅうで有名な十万石ふくさやのはにわさぶれを食べた。細長い埴輪の形してるきちんと穏やかな顔してる。かわいい。おいしかった。長野県茅野市にも埴輪のかわいいお菓子があったなあ、と思ったけどあれは土偶か。埴輪と土偶って何が違うんだっけ、と思ったけど実際、埴輪をみたら土偶とは思わないし、逆もしかりだから違っているのはわかる。でもなにが違うのだろう。どっちかというと土偶は繁殖のイメージ、埴輪は死者の弔いのイメージだよね。どうなんだろ。あとで調べてみましょう。

私が長年愛用してきたMacBookAirが色々限界を示してきたのでしかたなくパソコンを買った。とても軽いのはとてもいいがマックのバッテリーはすごかったんだな、と思う。電源なんて持ち歩いてなかったもの。最初は慣れるのに時間がかかるかなと思ったけど意外と大丈夫だった。どうなってんだ、と困ることもあるけど一度解決すればなるほどそういうことかと学べるしなんでも使いながらですね。さっきも突然キーボード使えなくなって困ったばかりだけどMacで調べようと開いたとたんになおった。なんなんだ。

明日からまた朝ドラ「ばけばけ」がはじまる。お正月特番(?)のインタビューもみた。『小泉八雲のおもかげ ばけばけトミー・バストウが巡るアイルランドとニューオーリンズ』も興味深いことが色々あった。移動の多い人生だ。

次に読むアンドレ・グリーンの本をしつこく探していてLa Clinique du négatifはどうかなあと思ったけど英訳もなく、どの論文が入っているかもわからない。André Green Revisited
Representation and the Work of the Negative
Edited By Gail S. Reed, Howard B. Levine
Copyright 2019はグリーンを引用して何か書く場合に非常に参考になりそう。著者はRene Roussillon、Jean-Claude Rolland、Howard B. Levine and Anna Migliozzi、Gail S. Reed and Rachel Boué Widawsky、Fernando Urribarri、Claudio Laks Eizerik, Lucian Falcão and Zelig Liberman、Marie France Brunet、Talya S. Candi and Elias M. da Rocha Barros、Rosine Perelberg 、Francis Baudry。

ペレルバーグのRepetition, Transformations and Après-Coupだけでも読めないかなと思ったけどpepにはなかった。The Controversial Discussions and après-coup(2008)が参考になるかな。

こんなこといっていないで今日は昨日思い出した頼まれ仕事をせねば。表に出ない仕事ばかりで特にお金にもならないけど大事な仕事。役に立てたらいいな。

良い一日になりますように。

カテゴリー
テレビ 精神分析 精神分析、本

1月2日(金)の日記

夜明け。一番好きな色の配分でみられた。

昨日は簡単なハイキングをしてたくさん食べた一日だった。お雑煮もいただいたし久しぶりにグリーンカレーを作った。たけのこは使わず好きな具だけで、ココナッツミルクではなくアーモンドミルクで。全部混ぜてほうっておけばいいからとっても簡単。本場タイのグリーンカレーも食べてみたいというかタイはおすすめされることが多いから行ってみたい。タイ料理屋さんは初台にも小さくておいしいお店があるからとりあえずそこで。今年も行こう。

昨年のM-1グランプリをみながら大笑いしてから、アンドレ・グリーンのネガティブナルシシズムについてのメモを見返したのだけどアンドレ・グリーンはまとめたり、メモで残せるものではないなと思った。ネガティブナルシシズムに関してはヒンシェルウッドとの対比でメモしていたけど、どうしてこんなメモをしたのか自分でもよくわからない。なんの本や論文を読んでこうなったのか。メモ足らず。自分のメモをみるかぎりではグリーンのNegative Narcissism =欲望・愛着・意味への投資(備給)そのものが撤回(脱備給)される運動、ヒンシェルウッドのNegative Narcissism =攻撃性が対象ではなく自己に向けて内在化された状態とあるので、そもそも対象の位置づけが全く異なるということは言えるのだろう。グリーンは徹底して不在と向き合っている。そもそも「対象」という言葉自体、フランス語と英語では随分異なる意味をもつということが『アンドレ・グリーン・レクチャー』にも書いてあったと思う。これは邦訳もあるからまたみてみよう。

グリーンはまとめる対象ではなく読み続けるべき対象だなと思ったのでLIFE NARCISSISM, DEATH NARCISSISM. André Green 著(Andrew Weller 訳)London/New York: Free Association Books, 2001, 262頁も買ってしまおうなあ、どうしようかなあ、と思ったが洋書は高いのでとりあえず買わない。こんなだとPEPに高い入会金を払って読み放題にしたほうがいいのかもしれない。IJPジャーナルだって全然読めていないものも多いけど自分が探求するものに関してはお金かけどきかも。こういうのも全部年齢、つまり残り時間との相談になる。すくなくとも若い頃よりは先の短さはたしかなわけだから。でも先生方にはまだまだ長生きして対話をつづけてほしいな。わがままだが。

今日も軽くハイキングして(熊が冬眠してくれていることを願う)いっぱい食べて勉強して過ごそう。仕事のあれこれはたぶん大丈夫、かな。そのへんの確認もしよう。もう土曜日。Reading Freudから一週間か。いい休みだった。今日は東京は雪の予報ではなくなったみたいだけど当たり前に雪の地域もある。大変なことだ。どうぞお気をつけてお過ごしください。

カテゴリー
テレビ 精神分析 精神分析、本

大晦日

まっくら。今日は12月31日。水曜日。今年も大変お世話になりました。それぞれいろんなことがあったと思いますが、今日を良い区切りとしてまた新しい年を過ごしていけたらいいですね。どうぞよろしくお願いいたします。

私のオフィスは新宿駅南口から歩いて15分で着けるし、昨日のレコ大が行われた新国立劇場があるにも関わらずかなりローカルな雰囲気のある「初台」という駅にあります。年末、その初台のこれまたローカルで大好きなふどう通りの入り口にとてもおいしいベーグル屋さんができたと知りました。で、早速お散歩がてら行ってみたのですが15時前で売り切れ。がーん。来年はそこにいくのが最初の目標です。

昨晩は暇だったのでレコ大みながら少しお勉強をしました。HANAのパフォーマンスに間に合わなかったのが残念・・・。

さてさて。参照したのは今年最初か昨年読んだアンドレ・グリーンの1998年の論文The primordial mind and the work of the negative–W.R. Bion Between Past and Future。

「全体として言えば、思考する者の存在は、「私(I)」という経験そのものよりも、むしろ表象する可能性(the possibility of representing)と結びつけて考えられるべきであると言えるだろう。」

これはグリーンが自己心理学的な主体を警戒しているだけではなく、思考可能性と主体経験を切り離すことで、境界例・精神病圏・非神経症的構造を理論的に守ろうとしているといえる。これらの病理と向き合ってきた臨床家なら人間に当たり前に主体を想定することの危険は身に染みていると思う。現在は違うが、精神分析の創始者であるフロイトが精神病患者に分析可能性を見出せなかったのはそこを安易に踏み越えなかったからだろう。フロイトがそこに慎重であったくれたおかげで、フロイトとは異なる病理と向き合い始めた精神分析家たちは分析可能性、終わりのある分析と終わりのない分析を常に考えなければいけなくなったのかもしれない、

ということを考えさせられました。

これは1997年7月29日、IPA第40回大会(バルセロナ)W.R.ビオン生誕100周年記念のオープニングレクチャーをもとにしています。なのでビオンの理論の検討がされています。私が先に書いたことはビオンの”I am, therefore I have thoughts without a thinker which demand a mind to think about them!”について考えるグリーンの言説。

常に事後的にやってくる「I」。観察することができず、推論によってのみ措定され、主体の自己経験には還元されない、という点で無意識と同じ特徴をもつといえなくてもないが、ビオンのそれはより複雑、無意識の想定と方法は同じだと思うのだけどね、などめんどくさいことを考えていました。休日のいいところです。

それでは今日もよい一日を。一年なんとか無事に過ごしたのだからみんなにいいことがあるとよいです。ネガイマス(朝ドラの真似)。

カテゴリー
Netflix 精神分析、本

イクサガミ、現代美術、グリーン論文

今朝の朝焼けもきれいだった。そしてイクサガミを見終わってしまう。染谷将太、大河ドラマ「べらぼう」でも最高だが、これもとてもいいな。とても独特で上品な佇まい。清原果耶の美しさを際立たせるキャラ設定もさすが。私の周りは清原ファンが多い。そしてでっかい男たちがたくさんで迫力ある。伊藤英明と阿部寛、こういうのをやばいという。怖いがみてしまう。オペラシティができた頃、今、オフィスがある初台に住んでいたのだけど、オペラシティのなかにはまだ公衆電話がたくさんあって、そこで阿部寛と隣り合ったことがある。むこうはドラマのロケだったようだが、大きいので私の目には入らず、あとから一緒にいた家族に教えられた。そして山田孝之。「グラスハート」もそうだが出演時間関係なく、というかもうこの人は一瞬でてくるだけのほうがインパクトあるのでは、と思わせる存在感。Netflixは豪華キャストを短時間で惜しみなく使う財力があるのだな、きっと。

昨日Giuseppe Civitareseの『The Hour of Birth: Psychoanalysis of the Sublime and Contemporary Art』のメモを書いたが、そこにでてくる絵や作品のリストが試し読みでみられた。本の表紙はAlfred Kubin, Die Stunde der Geburt [The Hour of Birth], Leopold Museum, Vienna。アニッシュ・カプーアは金沢でみた作家ではないか?いろんな作品がみたいなあ。

そして先日読んだと書いたFrench Psychoanalysis: Contemporary Voices, Classical Texts Series一冊目であるアンドレ・グリーンのContemporary Psychoanalytic Practiceを読んでいると書いたが(書いたか?)最初に読んだThe enigma of guilt and the mystery of shameはグリーンにしては珍しくフロイト精読の跡がわかりやすく追えた。答えを出さない書き方がグリーン流とはいえ、皮肉とか脱線とか書き方が自由すぎて難解なのがいつも。この論文はテーマは難解だが書き方に苦労させられることはなかった気がする。この論文でもフロイトのナルシシズム論文が引用されているが、短い論文なのに影響力大きい。私もこの論文に触発されて発表も続けているからよくわかるけど。コンラッドの「ロード・ジム」が引用されれいるのもいい。

今日も一日晴れるみたい。うれしい。どうぞよい一日を。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

十一月。

11月。空がきれい。アラームがなくても夜明け前に起きてしまう年齢になって早何年?低血圧で朝が辛くていつもぐったりしていた時代が嘘のよう。あの頃、日本の社会はどんな感じだったかしら。まだ海外にも気楽に夢を持てていた時代。さて、洗濯物を干した。生活大事。でも連休は半分仕事。世知辛い。

昨日はハロウィン。あまり外にいなかったせいか仮装した人は見なかったけど渋谷方面のバスは15時台で終わりという張り紙は見た。今年の渋谷はどうだったのかな。私は仮装ってあまりやったことない。文化祭くらいかも。あれは仮装とは言わないのか。衣装?ハロウィンで雨だから雨っぽい仮装とかなるとカエルとか河童とか雨粒とか?普通、雨に合わせないか。河童の仮装したって傘さすだろうしね。昔、ドリッピーって英語教材があったのだけどあれは「家出のドリッピー」が正式なのね。シドニー・シェルダン作。すごく豪華な声優陣だった。河童といえば遠野だけど数年前に2度目の遠野に行ったとき、自転車でいろんなところ散策したら熊が出たという町内放送(?)が流れてすごく怖かった。町の名前もわからないからどこに出たのかわからないし、出てもおかしくない場所が多いし、とりあえず急いで自転車借りた観光案内所みたいなところに大急ぎで戻った。当時は電動自転車も当たり前ではなかったからママチャリでこわいこわいいいながら。今はもっと頻繁にああいう放送が流れているのだろうか。心配だ。農水省が効果的な対策をとってくれるといいですね。本当に怖い。いろんな要因の積み重ねで長い時間かけて今の状況があることを思えばそんなにすぐに解決はしないのかもしれないけど。でも何もやらなかったら被害が広がるばかりで多分もっと手出しできなくなる。カウンセリングでも「様子を見て」という言葉があまりいい印象を与えないのは無力なまま時間が過ぎていくことは耐え難いから。でも実際様子を見ないことには、というのもある。ウィニコットが子供にとって母親の不在が外傷となるには時間的要因が関係していると書いているけど、これも単に時間だけの話ではないとは思う。

書き物の準備のために読んでいたこれらは大変面白かったのでメモ。

Botella, César & Botella, Sára. The Work of Psychic Figurability: Mental States without Representation. London & New York: Routledge with the Institute of Psychoanalysis, London/The New Library of Psychoanalysis, 2004. 心の形象化機能について。

Ogden.What Alive Means5 Giving back what the patient brings On Winnicott’s “Mirror-role of mother and family in child development”これについては何度か書いた。『遊ぶことと現実』第9章「子どもの発達における母親と家族の鏡ー役割」のcreative reading。

あとAndre Green at the Squiggle Foundation (The Winnicott Studies Monograph Series)”On Thirdness”。グリーンのロンドンでの講演。イギリス対象関係論とフランス精神分析の差異の話も面白い。

お、鳥が鳴き始めた。私も早く出るか。風邪ひかないように過ごしましょう。

カテゴリー
Netflix テレビ 精神分析

テレビ、フランス精神分析家たち

今朝は空が少し濃い。少し目を凝らすとちぎれたり帯状になったりした雲がたくさんみえる。虫の声もだいぶ静かになった気がする。取り壊された家のあとにぐんぐん伸びた草むらではまだ声高く鳴いているけど。

今日は月曜か。あまり朝に見られないが朝ドラ「ばけばけ」もとても好きでみている。高石あかりが素晴らしくかわいい。華やかさもあれば妖怪味もあってなんでも演じられるとはいえおトキちゃん当たり役。怪談好きの怖がり仕草もすごくいい。せっかく怪談好きのお相手と出会えたのにこれからどうなってしまうのかしら。おトキちゃんに早く幸せになってほしい。早く、というのはこれからを知っているからで、今のおトキは幸せなんだから今を喜ぶべきだな。人生幸せだったり不幸だったりの集積でできているということか。高石あかりはNetflix「グラスハート」の歌姫役もすごく素敵だったけど明治の没落武士の娘の苦労を明るく演じてくれるおトキちゃんいいなあ。このあとも楽しみ。

Netflixといえば「ウンジュンとサンヨン」もみていたが思春期の彼らが愛しすぎてその後がどうもイマイチと思ってしまう。ストーリーは彼らのその後としてとても魅力的だし、韓国のいろんな事情も切なくて見続けてはぢまうけど長く思春期の子たちと会っているとその年代に特別な思い入れができちゃうのね、きっと。

Netflixはほかにも色々みてるけど大河ドラマ「べらぼう」は相変わらずすごい。蔦重が横浜流星でほんとによかった。過酷な事態にだいぶ嫌な感じになってきたけど愛されてきた蔦重は今でもみんなに叱ってもれえるしその場面もいい。厳しい取り締まりにめげずに面白いこと続けてくれよ。

昨日は小グループのセミナーでアンドレ・グリーンのThe Capacity for Reverie and the Etiological Myth(1987)を読んだ。私はThe Freudian Matrix of André Green Towards a Psychoanalysis for the Twenty-First Century Edited By Howard B. Levine (2023)に入っている英訳で読んだ。フランス語で読めたらいいのだけど道のりは遠い。

フランスは日本よりずっと精神分析が身近なので組織も乱立していて問題も多い。つい先日もジェラール・ミレールという77歳の有名な精神分析家が少女たちをレイプした罪で起訴された。精神分析家なのに催眠を使ってる時点でイカサマ感強い(そうすることへのなんらからの主張が見当たらない)。人としてきちんと裁かれますように。ジェラール・ミレールはジャック・ラカンの娘婿でありラカン理論の継承、啓蒙をつとめてきたジャック=アラン・ミレールの弟。ジャック=アラン・ミレールについてはすでに入門書もでている。ジェラール・ミレールの場合、この問題が出るのは今回がはじめてではない。精神分析家として彼はいまだに組織に所属しているのか?本当に精神分析を悪用するな。というかそれは精神分析ではない。

アンドレ・グリーンの論文を読む楽しさについて書こうと思ったのにイラっとくる記事のことを書いてしまった。とりあえず今日も穏やかに過ごせますように。伊豆諸島が無事でありますように。良い一日を。

カテゴリー
精神分析

お手伝いとか精神分析とか。

風が気持ちいい。昨日は弱雨が降ったり一時的に寒いくらいだったり陽射しで暑くなったり強雨になったり空も大忙しだった。私もハードだった。書き物が全く進まない。でも身体を使いながら感じることも多く、この年齢になってわかることの多さ、この年齢までとりあえず生きてこられた幸運さなどを思うと同時に「お手伝い」を健やかになせる自分でありたいと思った。動けない人の代わりに動いている過程で出会うその人に関する評価とか出来事とかもあたたかく胸に留めたい。「ケア」とかとは違う「お手伝い」のなにか。それを大事にしたい。

精神分析を始めると親を知ろうとする動きが増える。自分を知ろうとすることは環境を知ろうとすることでもあるのだろう。頻回の設定でカウチに横になると自分でも「え、なんで?」「ずっと忘れてた」という記憶が次々と出てきたりする(それを言葉にできるかはまた別の話)。それは直ちにじぶんごととして語れるおものではない。ボラスの言葉でいえば乳児だった私たちは自分は最早期から人間的な過程の内部にいることを知っているし、それを変形性状況と認識するからこそ、変わりたい(最初は(相手を)変えたいだったりする)という欲望を持って分析の場を訪れるともいえる。だからかどうか、親と関われる状態なら色々聞いてみたくなるし、もう話せなくても次々に思い出される記憶と対話が始まったりもする。設定の力は大きいし、言葉の拘束力も可能性も大きい。

現代の精神分析は心の中の自己表象や対象を欲動、情動、記憶などが連動した力動的過程(退行を含む進化か)と見做している。私がオグデンやボラスを読むのは内的あるいは内在化された対象関係と外的あるいは外在化された対象関係の動きの詳細に関心があるが、欲動理論をそれと分けて考えるのも違うと思うのでフロイトの構造論を再検討しつつ主体が対象と、あるいは対象になしていることを論じるアンドレ・グリーンの存在も重要となる。フロイトは素朴な対人関係の記述はするが心的構造の記述に対象関係の文脈を持ち込むことはほとんどなかった。しかし『喪とメランコリー』の有名な一説に示されるように、動機づけ原理となる欲動に対する対象の影響力を無視していたわけでもない。しかし、内的な対象と対象関係を欲動論に付け加えたのはフェレンツィ以降だろうし、現実の対象との同一化に注意を向けることを強力に打ち出したのは小児科医でもあったウィニコットである。では、精神分析を特徴づけてきたエディプスコンプレックスはこれらのどこに位置づけられるか。私はエディプスコンプレックスという概念は今も今後も有効だと考えているが、それを発達的な観点でどこに位置づけるかは、環境の位置付けと同様、難しいものがあるなと感じる。精神分析は言葉と言葉のやりとりだが、この言葉が機能している水準というのを私は最も重視するし、それは情動が喚起される瞬間を正確に読み取っていくことと関係している。

こういうことを書いている間に先日思い浮かんだアイデアを思い出せないかなあと思っているのだが全然蘇ってこない。私ももう一度カウチに戻れば浮かんでくるだろうか。そんなことはないな。そういう水準で言葉は使われなくなっていた。今思うとカウチでのアウトプットはまさに記憶なく欲望なくとなっていった。これは分析家側の体験とも一致してると思う。分析状況は夢見の場でもあるが、その場合の夢とはなにかについても考えが変わった、というよりビオンがすごく読みやすくなる程度には体験を積み重ねられた。最初の数年間のあれはなんだったんだろう。偽りの自己との戦いだったか。過ごす必要のあった時間には違いないがきつかったな。しかし患者になることで知ることの多さたるや。もちろん知るべき、とは全然思わない。大抵の場合、それをしたい人がすればいいことばかり。「お手伝い」も大抵の場合はそう。が、しかし、となってくるとまた難しいことがたくさん。ケアとかなんとかいう言葉を使うことが増えそう。

オグデンの引用をしようかと思ったけど時間がなくなった。今日も少し雨が降るらしい。良い一日になりますように。

カテゴリー
俳句 精神分析 精神分析、本

秋、俳句、書き物

秋の朝だ。光が柔らかい。春のウキウキとは違う静かな喜びを感じる。嬉しい。

昨晩、久しぶりに中国茶の器を使った。白湯を飲んだなのにとても美味しく感じた。白くて小さな器。昨日は涼しかったからペットボトルでグビグビ水分補給をする必要もなかった。かわいい茶器を自然に手に取り冷めたお湯を注ぎ腰を下ろして一息。身体が季節に合わせた道具を勝手に手に取ったぞ、とそれも嬉しかった。

秋の訪れとともにさらに嬉しいニュースがあった。初対面でファンになった句友が念願の大きな賞をとった。俳句に対する情熱を知っているからとても嬉しかった。彼女ならこれらの瞬間もきっと素敵な俳句にする。私は俳句は全然だめだけどこういう瞬間を素敵だなと発見できる自分でいられただけで満足、とか言っていたら怒られそう。いや、私の師匠は怒らない。全然ダメでも俳句にすることを勧めるだろう。賞をとった彼女の俳句は誰でも知っているのに知らなかった日常を読む。絶対彼女みたいな俳句は作れないのに俳句、私にも作れそう、楽しそう、と思わせてくれるこれからの俳句界に必要な人。すでにいくつかの賞を取っているが、これからますます多くの人に知られていく。俳句界はいいな。楽しくなっていきそう。

私もがんばらなくちゃ、とひとつ書き物の目標を作った。できるのか。でもエントリーしちゃったから書く。子どもの遊びについても年内に書かなくては。年内なら大丈夫かな、と思ったけどこの過ごし方では無理な気がする。そろそろ暑さのせいにもできないから気持ちよさを感じつつしっかりしましょう。はい。

アメリカの精神分析家のクリストファー・ボラスのことを書いていたが、今引用するには理解が足りないのでウィニコットとアンドレ・グリーンに戻った。これはボラスを理解するのにも役立つのは間違いないとはいえ、精神分析の主要概念から振り返るような議論が多いから難しいは難しい。主体とは、とか。イギリスとフランスの違いが濃く出る言葉。フランス語よりは英語のほうができるのでとりあえず英国精神分析の伝統に乗るけど。ラカン派の勉強もまだまだ足りないし。まあ、足りずとも使える程度までは足らせましょ。

空がきれいで本当にうれししい。何度も言ってしまう。昨晩の月もとってもきれいだった。良い一日になりますように。

カテゴリー
精神分析、本

日曜日、アンドレ・グリーンを読んだり。

いつもの散歩道の木々はぐんぐん伸びる一方、頻繁に剪定をしてくれている地域の方を見かけるようになった。花の時期を追えてきられずに伸び続けていたらこの道は家々を押し退けて森になるのだろうか。我が家の一畳花壇も放っておくと山椒の木がどんどん伸びていってしまうので昨年きれいにしてもらった。自分で切る道具だと太刀打ちできない太さになってしまった。枝を切るというのはかなり力がいる作業で腰もやられる。なのに黙々とやってくださる人には頭が下がる。挨拶しかしていないけどお礼の気持ち。

休みの日が休みでなくても何か休みらしいことがしたい、といつも思っている。休みが普通に休みだったら一日中家でゴロゴロする可能性が高いので用事が入っているのは外に出るモチベーションにはなる。しかもこの時期は暑いので暑い時間は中にいて早朝と夜に出かけるというのも健康的、ということで、用事が終わって涼しくなってから紹介してもらったカフェに行った。「ここを紹介したかった」と地元の人がいうカフェは地元の比較的若い方の居場所という雰囲気もあり、お値段も高くなく(今って高すぎるでしょ)素敵な紅茶もたくさんあった。紅茶はいただかなかったけど別の機会にも行ってみよう。そういえば、私がお世話になってきた商店街からまた馴染みの店がなくなる。長いお付き合いだからこの前フラっと挨拶に行った。お互いにお礼を言い合った。寂しい。


昨日はアンドレ・グリーンの1982年の論文Après-coup, the archaicを読んだ。英訳された論文7本が納められたThe Frudian Matrix of André Greenの第一章に入っている。担当された方は原著から訳してくれていた。この本は前にも書いたがHoward B. Levineによるイントロダクションがとても参考になる。グリーンの書き方は非常に難解なので、その仕事全体を見渡せる地図がないと自分の少ない知識と体験に寄せて読みがち。わからないものほどわからないことに耐える力が必要で、わからないことを「なんかわかる」みたいにしてしまうならこんな難しい論文に取り組む必要は特になくてしっかり基礎がわかる論文を読んだ方がいいだろうから耐えながら読んでいる。私にとってアンドレ・グリーンを読む意味はフロイトとウィニコットを何度も読み込むためなので好きなことの探求という目的があるという意味では耐えやすい。

この本は完全な年代順ではないが目次はこんな感じ。結構幅があるが俯瞰するにはそれがいいのだと思う。

1. Aprés-Coup, The Archaic(1982)

2. The Double Limit(1982)

3. The Silence of the Psychoanalyst(1979)

4. The Capacity for Reverie and the Etiological Myth(1987)

5. Language Within The General Theory of Representation(1997)

6. The Psychoanalytic Frame: Its Internalization By The Analyst And Its Application In Practice(1997)

7. Dismembering the Countertransference. What We Have Gained and Lost With the Extension of the Countertransference(1997)

第1章、第2章はグリーンの頭にある病理は境界例なので
“Les états limites -Nouveau paradigme pour la psychanalyse?”=『フランス精神分析における境界性の問題 フロイトのメタサイコロジーの再考を通して』でアンドレ・グリーンの境界例概念を確認しながら読むのもいいと思う。フランス精神分析の診断基準は独特で、境界例についてもっとも貢献したがのグリーン。基盤はナルシシズム。

グリーンを読むときに一番面白いのはフロイトとの対話。「終わりのある分析と終わりのない分析」(1937)をもう一度読もう、と本を探したらなかった。オフィスにあるんだな。岩崎学術出版社から出ている『フロイト技法論集』と『フロイト症例論集2』はもうボロボロだから読み込んだご褒美にもう一冊ずつ買おうかな。PDF化するのがいいのだろうけどどうやればいいかよくわからないし、紙の方が使いやすいからなあ。うーん。

今日はのんびりしてしまった。台風どうなるのだろう。場所によって全然様子が違うだろうから読めないけどある程度の見通しを持って動ける程度でありますように。どうぞよい一日をお過ごしください。

カテゴリー
お菓子 精神分析、本 趣味

パイ、カレー、読書

朝焼けはまだ。今日は「市ヶ尾パイ」。パイだけどしっかり。硬い。美味しい。

あ、色々していたら空が白くなってきた。日々、時間の使い方を模索しているができたら空に合わせて動きたい。日曜は雨だったが帰り道はやんでもやっとした空に月が浮かんでいた。ここ数日はその月が少しずつ大きくなっていくのを見た。習慣を変えるというよりも作るという感じ。一番はきちんと自炊する時間をとりたい。大体20分くらいで作れるものばかり作ってるけど目指すは印度カリー子さん。カリー子さんはすごい人ですごく運動もするからあれだけ食べられるというのもあるし多分胃腸も丈夫なんだと思う。私は毎日カレーが食べたいというわけではないがあのパワフルで優雅な食事スタイルは見習いたい。三浦哲哉さんの影響もあるが自炊は楽しい。美味しい。昔はあれだけ面倒だったのにね。不思議。まあ、スパイスは増やしたから1週間に1回は印度カリー子レシピから作りたい。サバカレーと無水チキンカレーのレシピは保存してある。

昨晩は週末に読むアンドレ・グリーンの論文に出ていた言語学に関する本を調べようとしていろんな本を引っ張り出したが私が探しているものは全然見当たらず。この領域はすごく幅広いのだなあ。面白い分野というか精神分析理論を細かく検討するために深めたいのだけど理解に時間がかかるから死ぬまでにどのくらい深まるのだろうか。まあ、こういう時間もちょっとずつ読もう。すぐ忘れるのにどうしてこんなに勉強するんだろうねえ、不思議だ。でもどっかで役に立つのだろう。がんばろう。

カテゴリー
精神分析、本

おしゃべり、翻訳、精神分析の未来。

1月になって本格的に寒い。なのに昨日は汗をかいた。待ち合わせに向かっていたらなんと電車がストップ。慌てて違う路線まで移動して15分遅れで着。新年のご挨拶やらをして美味しそうなメニューから選んでおしゃべり。古き良き時代を知る人として世代の異なる心理職の輪を広げることができてよかった。こういう柔らかく穏やかなおしゃべりの場は人を豊かにする。それにしても私はすっかり一番上の世代になってきた。そして心理職として、精神分析を志したものとして本当に恵まれた時代を生きてきたんだなと思った。もちろんその時代を暗黒と感じる人もいるだろうけど。今年もいろんな人と気楽な機会を作っていきたい。ゆっくりしたあとには電車も無事復旧。事例検討会にも時間通り参加できた。介入の仕方についていろんな意見が出たが私は転移解釈を口にすることは最大限控える。それよりとどまることを必要に思う。継続で会っていれば色々なことが起き色々な気持ちになるのが当たり前だろう。その色々をお互いに体験していくこと自体が効果といえば効果につながっていく。ウィニコットのスクイグルが効果的なのはそれが何に見えようと構わないくらいの緩い線のあっさりしたやりとりが積み重ねられるからだろう。それが部分だろうと全体だろうと構わないわけである。実際そんなのはどっちだってありうるのだから。フランスのラカン派ではないIPAの精神分析家アンドレ・グリーンの文献を訳していたら明け方が近くなっていた。すごく時間がかかってしまった。引用されているフロイトの文章は私も以前メモしておいたところだった。全体の訳ができるにつれてグリーンのこの書き方はフロイトの書き方を真似たりずらしたりしているのかもしれないなと思った。1997年の論文だったと思うが

フロイトの1919年の論考「精神分析療法の道」の

「また、私たちの治療法を大衆を相手に適用するにあたって、分析という純金から直接暗示という銅をたっぷり使った合金を作る必要が生じる公算は大きいでしょう。また、そのときには、戦争神経症の治療の場合のように、催眠による影響が再び用いられもしましょう。しかしながら、たとえこの精神療法が大衆のために形作られ、どのような要素によって組み立てられようとも、その最も効果的で重要な構成部分は確実に、厳密で不偏不党である精神分析から借りてこられたものであり続けるでしょう。」

という箇所はグリーンが精神分析の危機と限界を書いているところと重なる、というかグリーンはこの論文の別の箇所を引用しており当然問題意識の重なりがあってのことだろう。私もいろんな学問と実践を経由して精神分析家になったが常にこれまでの多様な経験を生かしながら精神分析が広く届けられるように考えないといけないのは今年も変わらない。未来を考えるためには希望を持たないと。またおしゃべりの場を設けよう。助けてもらいながらやろう。窓の外に光が溢れ始めている。明日はようやく少し雨マークが出ている。暖かい飲み物と一緒にがんばろう。

(ここは日々のよしなしごとを書き連ねる場なので精神分析にご興味ある方は私のオフィスのウェブサイトをごらんください。)

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

フランス語の勉強とか。

早朝はまだ耐えられる涼しさ。涼しさなら耐えられるか。耐えられる暑さというべきか。まだランニングができる。ブログなんて書いている場合ではない。涼しいうちにやることをやらねばもったいない。若い頃は5時起きで走りにいったりもしていたが今は頭で思うだけで実際はダラダラこうしている。

フランス語の勉強を始めて最初はもっと堅実にと思ったけど最初から文献を読んでしまっている。NHKの「まいにちフランス語」は初級文法なのでそこで基礎固めしつつひたすら辞書をひいている。精神分析家になるために時間もお金も費やしたから余裕がなくなって一度やめた。ということはもう10年やっていないことになる。フランス人の先生に英語でフランス語を教わっていた。子供用教材で数とか色とか身近なものの名前を教えてもらうところからだった。先日聴き逃しでNHKの講座を聞いていたら前置詞の勉強で地図を書く課題があって、あれは楽しかったな、と当時の課題を思い出した。いつもの文献をフランス語で読むのは難しいが英訳されたものでも難解で、さらにそれを自動翻訳で読むともっと訳がわからなくなる。そうやって時間がかかるなら最初から取り組んでしまおうと思った。フランス精神分析が独自の道を行ったのは精神分析における言語の使用という問題から離れないからだと思う。今はアンドレ・グリーンのla position phobique centraleに関する論文を読んでいる。

la position phobique centraleとは j’entends une disposition psychique de base,qu’on rencontre souvent dans la cure de certains états limites.

Les états limitesは境界例のこと。その中心をなす恐怖症について。

フランス精神分析には独自の鑑別基準があるが境界例はそれらとはまた異なるものとして精神分析実践を通じてパラダイムの変更を迫ってくる。境界例についてはアンドレ・グリーンを含むフランスの高名な精神分析家たちの講演録をもとにした”Les états limites -Nouveau paradigme pour la psychanalyse?”という本が『フランス精神分析における境界性の問題 フロイトのメタサイコロジーの再考を通して』という翻訳で出ている。アンドレ・グリーンの境界例概念はそこで確認することができる。

執筆陣はJacques André(APF/IPA),Catherine Chabert(APF),Jean-Luc Donnet(SPP),Pierre Fédida(APF),André Green(SPP/IPA),Daniel Widlöcher(APF/IPA)。すでに亡くなっている人たちも。大御所揃い。

以下、星和書店Webサイトを参考に。リンク先は私用メモを兼ねて。

『フランス精神分析における境界性の問題─フロイトのメタサイコロジーの再考を通して─』も読めるようになってきた。

・1996年11月~1997年5月
・ジャック・アンドレ主催、サンタンヌ病院でのセミネール
・目次は講演順、演者による加筆修正あり

第一章 唯一の対象
──ジャック・アンドレ
第二章 境界例の生成と状況
──アンドレ・グリーン
第三章 境界例は精神分析家にとって夢の患者なのか
──ピエール・フェディダ
第四章 境界例における分裂(clivage)と幼児性欲
──ダニエル・ヴィドロシェ
第五章 境界性機能様式:いかなる境界か
──カトリーヌ・シャベール
第六章 境界性患者、境界性状況

──ジャン=リュック・ドネ

翻訳で読んでいてもそれぞれの言っていることや表現の仕方が全然違うのだからフランス語で読んだらどんな感じなんだろう。フロイトを読んでいると翻訳で読んでいても「フロイト先生、またこんな言い方してる」とか思うわけだがユダヤ人のジョークやドイツ語ならではの表現を理解できたら別の読み方も現れてくるのだろうと思う。ということで今日も地道にがんばりましょう。いいお天気すぎるから熱中症に気をつけましょう。

カテゴリー
精神分析、本

読書とか。

昨日は一昨日の失態に気づき恥入り、さっきはやっちまったばかりとはいえすでに手遅れの失敗に気づいて落ち込んだ。起きてしまったことやってしまったことはしかたないし誰かに迷惑をかけたわけではないけれど自分でびっくりした。それにしても昨晩倒れるように変な場所で寝てしまった。日中、久しぶりにストレッチをしたのに。ストレッチ用のゴムを両手で引っ張りながら腕を背中側に回そうとすると途中で止まってしまう。コリコリと骨がずれるような音がする。少し勇気を出すとストンと後ろに落ちた。また骨がなった。何度もやった。脇腹も伸ばした。日中もその後少し眠ってしまった。首にも腰にも負担がかかる姿勢で。疲れを取るためにする動きで疲れてしまったのか。それってどうなんだ、と思うが仕方ない。やらないよりましなのだろう。

シドニーで会った人たちとSNSでもつながった。いろんな局面でハグしてくれた北米地域の優しい優しい人とも言葉を交わせた。そういえばシドニーで交流を持った台湾の候補生と台湾文学について話していて『亡霊の地』(著 陳思宏/訳 三須祐介)という本をおすすめしてもらった。彼らはそれを発表の素材にしているそうだった。読み始めてなるほどと思った。今と故郷での記憶を繋ぐ大きな家族の物語。それぞれがものすごい痛みと共に生きている。彼らを取り囲むものたちの描写が凄まじいが、私がまるで知らない世界ではない。以前凄まじい暴力の事例を「亡霊と生き直す」という題で書いたことを思い出す。冒頭、日本人がしてきたことに再び殴られるような数十文字に痛みを覚えたがされたのは私ではない。簡単に打ちのめされるわけにもいかない。読み続けた。犬もハエもゴキブリもスターフルーツも人間のどうしようもなさの全てをある意味華やかに彩っていて残酷で悲しくて近景、遠景、空想、今目の前の現実といろんな方向に揺さぶられながら読んでいる。もう半分以上読んだと思う。紹介されてすぐにKindleで購入したのだがページ量の感覚がわからない。昨年話題になった本らしい。

昨晩は遅い時間からフロイトの読書会があった。自分で主催しているものではなくアドバイザーとして呼ばれているものなのでなかなか難しいが新しいメンバーも入ってきたのでできる工夫をしようと思った。フロイトに読み慣れていない人は一緒に精読した方が良いように思うがそれは自分のグループでやれているから必要ならこっちにきて、と思うがそうではない方法でやっている会なので読み方から伝えているような、いつも同じようなことばかり言っているような気がする。せっかく読むなら、と思ってしまうのは大きなお世話なのだろう。

私はセミナーの資料を読まねば。アンドレ・グリーン「Travail du négatif」の序文「Pour introduire le négatif en psychanalyse」。休日はない。会議も続く。あ、でも楽しみな用事もある。るるるー。楽しみには力があるな。がんばりましょ。ちょうどいい暖かさになってくれますように。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

フランスの精神分析家の年齢など。

姉妹と兄弟とでは関係が異なると感じるし、文学作品でもそういう違いを感じさせるものは多いが、セクシュアリティの扱いが変わるにつれこのような括りも再考を迫られるのだろうか。精神分析でいうセクシュアリティは幼児性欲から始まっており、それは欲動に関わるものである。精神分析という枠を超えて理解するのは難しいし安易に使用するべきではないだろう。

先日も触れたがアンドレ・グリーンをメインに据えたジャック・アンドレ企画のセミナーが収録された講演集『フランス精神分析における境界性の問題』ではメラニー・クラインのスプリッティングを受け継ぐ英国対象関係論とフランス精神分析は異なるというのが前提としてあるようだ。演者の一人、精神科医であり精神分析家でもあったDaniel Widlöcher (8 June 1929 – 14 December 2021) は第四章「境界例における分裂(cIvage)と幼児性欲」において幼児性欲が形成される諸段階における様々な分裂を記述している。

ところでこの本の訳書が日本で出版されたのは2013年でジャック・アンドレが「日本語版に寄せて」でAndré Green (12 March 1927 – 22 January 2012) とPierre Fédida (30 October 1934 – 1 November 2002)に対して追悼の意を表している。その後、ダニエル・ヴィドロシェ、ジャン=リュック・ドネ(Jean-Luc Donnet,2 March 1932 – 19 Octobre 2022)も亡くなった。ジャック・アンドレとカトリーヌ・シャベールは1947年生まれ。日本の精神分析家でいえば北山修先生(1946年生まれ)と同じくらいだ。私たちのトレーニングを引き受けてくれた先生方もだいぶ歳をとった。日本は訓練分析家の数も少ないから雑務といえるような仕事も含め負担が大きい。この講演集みたいに精神分析理論をガッツリ述べるような機会よりももっとふんわりとした外向けの企画の方が多い。先生方から教えていただいたことを精神分析という現場において熟成させていかないとなあと思う。

途中、いろいろ家事をしたらもう鳥が鋭く鳴く時間。今日もがんばりましょう。これまでも様々な被災地へ支援に行った人たちはすでに淡々と被災地へ入り活動している様子。なるほど、それが必要だった、と学ぶことも多い。今日も少しでも多くの注意が注がれますように。関心が減ることがありませんように。