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精神分析

キウイ、医者、俳句

キウイを食べた。きれいなしっかりしたキウイをもらったのだけどまだ少し硬いかな、と我慢していた。果物ってそっと触れてみて食べ頃を判断するところがいい。たまにスーパーでいくつも押しすぎだぞという人を見かける。たくさんあるからひとつ試してみようかな、と半分に切ってみたらスッと切れた。にっこり。ちょうどいい。先がギザギザのスプーンを用意していたけど普通の丸いスプーンでもいけそう。さて。うん。きれいに果肉をすくえる。ジューシー。

先日、いつも行っている医療機関に健診で行った。不具合を言おうとしたら「それは今日は違うから」と言われた。おっ、と思って引っ込めたら私がまだ話してもいない不具合に対して対処方法を教えてくれた。「なになにするといいらしいよ」とか「なになにする人はそうなりやすいみたい」とか。かえって手間が掛かっているのでは、と思ったがニコニコ聞いた。ノーエヴィデンスでも害がなければ取り入れる価値は十分。仕事の合間に時間を作っていくのは大変。検査だけなら検査機関に委託してくれてもいいのに、と思ったりする。一方、看護師さんたちの観察力と対応力が素晴らしい。補いあっているのだろう。

別の医者は町内会の話題とかで診察が長引くのを聞いたりもする(聞こえてしまう)。娘世代の私には一切余計なことをいわない。でもすごく耳の傾け方がうまい。特に伝えることがなくてもなにかしら言葉にした方がいいのかと思うほど。その先生はそろそろ引退。長い間お世話になった。

私が知っている高齢の町医者の先生たちが「先生の声を聞くだけで」「先生のお姿を拝見するだけで」と言われているのを何度も聞いてきた。受付に今日は先生はいるのかという確認の電話がかかってくるのも何度も見てきた。受付の方も慣れていて確認だけの場合、もし受診する場合、などいくつかのパターンの答え方をしていて興味深い。

私が勤めていた小さな単科精神科病院の院長先生もそうだった。いつも数人の患者さんは早朝からドアの前にいて、待合室はいつもいろんな人で溢れていた。院長がニコニコと廊下に現れると空気が明るくなった。地元密着の医療機関では特に、単に、毎日そこにいるだけではなく、そこにいけばその人がいる、という安心感が大事なんだと思う。今はSNSをそういう場所にしている人もいるだろうし、SNSでそうできなくなった人もいるかもしれない。

すごく忙しかったけどすごく好きだった職場。半日でも働かせてもらいたいけど物理的にも難しいし、すでに病棟は閉じたという。本当にたくさんの出会いとつながりがあった。

精神分析や心理療法で誰にでも何も考えずに「また何かあったら」ということは私はない。気楽な存在として相手を肯定しあえるようになると実際にいるかどうかはあまり重要ではなくなる。分離やモーニングワークの条件のひとつ。そのプロセスは全然気楽でない場合が多い。

生活の場であれば、悪いのは私じゃないじゃん、と気づいて気楽にさよならしたり、実際に別れなくてもいつでも別れられるという選択肢を持てるようになる場合もある。一人で背負う必要なんて全くない。

さてさて今日は土曜日。昨日は俳句を作らなかった。オンライン句会の結果が出たけど今回もダメだなあ。締切間近に慌てて作るのがいけない。でもみんなの句を読むのは楽しい。お題に「蟷螂」があったんだけど、昆虫展に行ったり実物を観察してると全然知らなかったということがたくさんあって俳句にするにはすごくいいと思う。今回もいろんな俳句が出てきて面白かった。ここ数日、夜は虫の声が響く。昼はまだ蝉たちが元気。しかし秋だ。おいしくのんびり過ごせたらいいな。

どうぞ良い一日を。