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精神分析

会議室、「ロード・ジム」

今日の朝焼けもとてもきれい。最近、俳句を作るのを全然また忘れていた。いかん。紅葉の移り変わりもたくさん写真に撮ったし、西新宿のイルミネーションもそこそこ撮ったのに言葉にしていない。写真がもつ情報量もすごいが、17音がもつ言葉の広がりは別の凄さがある。というかそういう俳句を作れるようになりたい。今日は一日ミーティングだから会議室俳句でも降りてこないものだろうか。定点からひたすら机や椅子や人を観察していればなにかしらくるか。こないか。この空だと今日はきっといいお天気。そんな日に会議室につめこまれるなんて楽しくないけど普段オンラインでしか会えない人たちと会えるのは嬉しい。直接会って話すって本当に大事。

この前、アンドレ・グリーンが引用した船乗りでもあったコンラッドの「ロード・ジム」を読み直していたがやっぱりすごく面白い。冒頭の人物描写からしてすでに面白い。グリーンが恥shameの説明で引用した部分もすごく良くて、このお話の本質的な部分だと思うが、まずは終始こういう感じで言葉が展開されていく世界にドクドクする。人の心ってどんな状態でも、外からはものすごく静かでも、ものすごい活動量だから、その複雑さと活力が言葉になっているのをみると私の心もドクドクしはじめる。

グリーンはContemporary Psychoanalytic Practiceのchapter6.The enigma of guilt and the mystery of shamefr

「そしてさらに重要なことに、彼の恥の本質と意味は何なのか、という問いである。人間と蝶を同じ無関心さで見ようとするその昆虫学者は、次のように結論づける」

と書いてからコンラッドを引用する。この前の部分でも引用されているがこっちだけ取り出しておく。私が読んだのは柴田元幸訳の「ロード・ジム」(河出文庫)。

『そして、人はいつも目を閉じてはいられませんから、いずれ本当の厄介がやって来ます!心の痛みが!世界の痛みが。そうです、我が友よ、夢が叶わないと知るのはよいことではありません。人には強さが足りないから、賢さが足りないからです。[…]人は生まれて、海に落ちるように夢の中に落ちます。[…]為すべきは、破壊的なものに身を任せることです。水の中で両手両足を動かして、深い深い海に下から支えてもらうんです。』(Conrad, 1900

なんとなんと、ではありませんか、この書き方。私は「恥」概念と「よそ者」とフロイトの「寄るべなさ」と土居健郎の「甘え」を連続させて考えているところなので、そんなときにグリーンの論文で「ロード・ジム」にまた会えたことはとっても嬉しいのだ。ここから形にできるほどに頑張れるかは私次第。がんばれ、私。あまり信用ならない自分をこうやって鼓舞しながらなんとか日曜日も過ごそう。会議室で(悲しい)。

いい一日になりますように。

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青と黒の本とか。

朝焼けはいいねえ。ピンクが少しずつ広い空に溶け込んで東の空は薄くなっていく。

今週も終わる。ものすごいスピードで日々が過ぎていく。そんなときは夏目漱石を読むといい。今と過去と未来が緩やかにおおらかに書かれているから。もちろん全ての作品がそうではないけれど。

先日、土居健郎の選集で「甘え」理論の展開(うろ覚えなのでカッコつけない)を読んでいた。私がこの本で気に入っているのは土居健郎が漱石を引用する部分。そもそも私が土居健郎を知ったのは実家にあった青と黒の本『漱石の心的世界』だった。土居が夏目漱石に書いたものを読んだ加賀乙彦の勧めで国文学の雑誌に連載したものを加筆修正した一冊だ。私はあれを読んで病跡学や国文学をやりたいとか思っていたがそうはならなかった。でも土居と同じ仕事にはついた。学問ってこういうこと(説明省く)。

青と黒の、というのは本が入っている箱のことで中の本はグラシン紙に包まれていた。黒か茶色の本。昔はそうやって色で呼ぶことが多かった気がする。赤い本とか。ちなみに私が大好きだった本は「黒いチューリップ」。単に色が好きなのかもしれない。デュマも知らなかったし何も知らず何度も読んでいてはじめて行った海外であるサンディエゴの州立大学の図書館でも探した。そのまま今調べてもthe black tulipでそのままの英語なのに見つからなかった。私は当時どんな言葉で検索をかけていたのか。もう30年以上前の話だけどあの図書館、検索ができた気がする、そういえば。それともコンピューターでの検索ではなかったから調べ方が十分ではなかったのかもしれぬ。覚えていない。

土居健郎もカリフォルニアの図書館で夏目漱石の全集と出会った。もちろん日本ですでに読んだものも多くあっただろうが、土居の人生に大きく関わる精神分析の訓練のために渡った米国でこれぞ我が事と思える作品を読んだときの感激はものすごいものがあっただろう。この本はとっても面白いので皆様も是非に。フロイトもそうだけど土居も引用がうまいので漱石を読んでいなくても面白いと思うし、漱石を読みたくなるとも思う。

なぜ私はこんなことを書いているのか。頭にあったのは全然別のことだったのに途中動いたのがいけなかった。土曜の朝はなんかいつもの朝と違って特別な気がする。いい1日になればいいな。みんなも。とりあえずいいお天気だといいですね。

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寒く眠い朝

今朝もとてもいい夜明けが見られた。それにしても寒い。寒いと急に眠気がくる。今、とても眠い。

フロイトの戦争という観点から色々見ていた。フロイトミュージアムのアーカイブには息子マルティンとフロイトの書簡、というか主にマルティンが第一次世界大戦に従軍中にフロイトに送った手紙のことが書いてあった。マルティンは父フロイトとの思い出を本にもしているが、とても素直な印象を受ける。全然フロイトの権威に染まっていないというか。

フロイトバッシングに関する論文や記事も読んだが、部分的な否定はできても全体的に無効とするわけにもいかない難しさがあるし、バッシングする側にもフロイトの仕事に対する敬意を感じた。フロイトはとんでもエセ科学野郎だぜ、みたいなことを言いつつ、でも天才ではあるぜ、という感じだったり、いうこととやること違いますよね、という批判だったり、まあ、そうはいっても現代からみるとフロイトの貢献はこういうところにあるのでは、という中立的な立場だったり色々ある。私はバッシングも盲信もしたくないな。フロイトはもう死んじゃってるけど対話は残されたもので残された人たちとしかできないけど、自分の人生を面白くしてくれているこの学問が好きではある。

でも今はただただ眠い。半分眠りながらでかける準備をしていた。とても寒いけど空がきれいなのは素敵。風邪ひかないようにがんばりましょー。

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臨床心理士資格、レヴィン序文

今朝、とても見たかったいかにもよあけという空を見た。昨晩は月を見たくて、空を見上げたらまず星がとても明るいのに驚いた。すっかり冬の空だった。

日本臨床心理士資格認定協会から書類が届いた。「臨床心理士」資格更新のための書類を作らねば。これまで参加してきた研修や学会の領収証などは別にしておいたのにそれが見当たらない。困った。臨床心理士資格をとって25年。5年ごとに更新して、毎回こうなるからきちんとしておいたはずなのに。

さてContemporary Psychoanalytic Practice by Andre Green French Psychoanalysis: Contemporary Voices, Classical Texts Seriesの一冊目、グリーン自身がウリバリとの対話の中で選出した論文集。英語版への序文は The series editorでThe Freudian Matrix of ​André Green序文”Why Green?”もよかったHoward B. Levine。

その序文、Limit cases, transformation, and the ordeal of the session: André Green’s extension of Freudian theoryの一部訳を置いておく。

>>介入は「風通しのよい(ventilated)」ものでなければならず、つまり、ドグマ的でも、強制的でも、過度に「確か」でもなく、潜在的でありうる意味の移行領域を巧みに支え、拡張し、さらには創り出そうとするものであるべきである。グリーン(1996)はこれを「自己組織化の認識論…、分析をオートポエティックな(autopoetic)過程として、組織化−脱組織化−再組織化の連鎖として捉えること」を要すると述べている。多くの患者にとって、まだ感じられておらず、まだまとまった意味が存在しうるという見通しそのものが、理解不能、混沌、そして空虚(空白blanc)な抑うつや境界例状態の寄るべなさと絶望から離れる進歩的な一歩である(本巻第5章)。

風通しのよい解釈(ventilated interpretation)という概念は、フロイト(1937)の「構成(Constructions)」論文と、ウィニコット(1971)のスクイグルゲームの論理に基づいた技法の拡張である。それは、患者の語りspeechが破壊的分裂や意味あるつながりの形成不全によってどれほど断片化しているかを取り扱う。

レヴィンはこうやってスッキリまとめているけど、この本はスッキリするまでのプロセスが、フロイト、ビオン、ウィニコットの精読を通じて書いてある。そのプロセスを追うのはとても大変だけどそれがなかったらこんなこと(上記)書かれても面白さがわからないものね。精神分析の面白さはそりゃ苦痛を伴うけど中に入らないことにはどうしてもわからない、というか大体のものはそうだろう。

きれいな光。いいことあるといいな。みんな元気で。

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鳥、初台、ペレルバーグ

パソコンの画面が昨日からアメリカシロペリカン。自分でなにも設定していないからいろんな画像がでてくる。ペリカンを最初に見た人はきっとすごく驚いたと思う。口開けたらあんななんて。今、画像見たら私がイメージしていたより袋の部分は口開けてもすっきりしているのね。もっとがばーって感じかと思っていた。イメージの中でびっくりしていただけね、私は。舌が小さいらしいのだけどその小さな舌の筋肉であののど袋をコントロールするらしい。すごい。長い首もぐるって後ろに回せて背中に乗せて休めるしすごくうまく設計されている。動物の身体ってすごい。

まだ空が夜。カラスはもう鳴いている。昨晩は月をみることができなかった。

この前、オフィスの反対側のほうの初台、ふどう通りのほうを歩いていたら製麺所から麺をもって出てくる人に何人か会った。富士そばの工場(?)がオフィスのほうにあるのだけど、初台は麺が得意なのだろうか。蕎麦屋もラーメン屋もそれなりにある。私は2軒の蕎麦屋にしか入ったことがない。それも最近。どちらも町の蕎麦屋という風情で気にいっている。ふどう通りは新宿のお隣とは思えないほどローカルな雰囲気があって好き。初台のお隣の幡ヶ谷まで歩くこともある。幡ヶ谷の商店街はとても賑やかでおいしいものもたくさん。さて、トコトコと初台に戻りましょう(脳内散歩していた)。麺屋さんは紀州屋製麺さん。良い感じの貼り紙に値段が書いてあった。安い。地元の人っぽい人たちが立て続けに買っていったのを目にすると私もという気分になる。いろんな麺を食べ比べてみるのも楽しそう。

それにしても乾燥がすごい。冬だ。皮膚の小さな小さな傷が十分痛い。新宿でロクシタンを通りかかったらクリスマスギフト用のハンドクリーム4本セットがあった。街はすっかりクリスマス。ハロウィンから一か月が過ぎ、西新宿なんてほんとすっかりクリスマス。店頭で香りを試させてもらった。私は特別な香りより普通のシアが一番好きだな、と思いながらプレゼントを検討した。香りは好き嫌いが顕著だから好みを知っている人、もしくは好きでない香りのものも気持ちよくさばける人でないと難易度高いかも。

先日、読書会でThe Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind By Dana Birksted-Breenの第7章(邦訳だと第6章)Time and the après-coupを読んだと書いた。そこで引用されていた英国精神分析協会の訓練分析家、Rosine Jozef Perelbergのウェブサイトをみていた。ペレルバーグは2023年に精神分析と社会人類学の創造的対話構築による時間性・セクシュアリティ・反ユダヤ主義への取り組みに対してシガニー賞を授与されている。ダナとペレルバーグの共通点は精神分析の古典を網羅的に精読しつつものすごい知識と現代的な視点でそれらを外に開く努力と知力にものすごく秀でた精神分析家であるということかな。

ダナのaprès-coup論文でペレルバーグが引用されるのは彼女がシガニー賞を受賞した理由からも明らかだと思う。ペレルバーグのウェブサイトにKey Conceptsのページがあるがその一番上にAprès-coup, Descriptive and Après-coup, Dynamicの説明がある。いつも通りざっと訳しておく。大変簡潔にまとまっていて文献の紹介もあるので自分で勉強しやすいと思う。ダナの本のaprès-coupの訳は「アプレ・クー」だが翻訳の工夫と苦労が滲み出る訳書。「アプレ・クー」を含むいくつかの訳語については訳者の説明が丁寧になされている。私としては意地でもダナのいうaprès-coupを単なる「事後性」とは異なるものとしてカタカナではなく日本語に変換したいがどうしたらいいものか、ということでペレルバーグの訳には一応定訳である「事後性」を用いた。ペレルバーグのように事後性の前に説明をつけるのがいいと思う。ダナの場合だったら「遂行的事後性」「創発的事後性」とか?ベルクソンを思い浮かべながらそんなことを考えた。

>事後性(Après-coup)――記述的事後性と力動的事後性


infant(乳児)とは過去の赤ん坊のことであり、個人の発達の中で観察可能な存在である。
一方フロイトによれば、infantile(乳児的なるもの)とは、大人の内部にいる子どもであり、構成(construction)の過程を通じてのみ到達することができるものである。
乳児は観察の対象となりうるが、乳児的なるものは、事後性(après-coup)の過程の中で分析家によって再構成されるものである。
この主題は、ペレルバーグの最初の精神分析論文(1991年、ブエノスアイレスでのIPA大会にてチェザーレ・サチェルドーティ賞受賞)の中心でもあった。
その研究は、2008年刊行の著書 『Time, Space and Phantasy』 へと結実した。
ペレルバーグは 『The Controversial Discussions and Après-Coup』(2006, 2008)の中で、次の区別を提案している。記述的事後性(descriptive après-coup)セッションの今‐ここにおける、事後的理解を指す。力動的事後性(dynamic après-coup)
フロイトのメタサイコロジーに深く埋め込まれた概念であり、反復強迫、性(sexuality)、時間性(temporality)、そして転移といった概念のネットワークを含意している。

訳おしまい。毎日少しずつ興味のある分野の文献を読んでは訳している。英語ができるわけじゃないけど日本語でもわからないし複数の言語を行き来させているうちにわかってくるから。なんでも地道に。今日も地道に。空が明るくなってきた。夜明けですね。良い一日になりますように。

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shameとか。

空のピンクがあっというまに白っぽいグレーにとけてしまった。暖房を消し忘れた不安に苛まれる季節になったのでさっさとでかける準備をして暖房を消してちゃっちゃっと色々やる。私の場合、不安で戻ってきたら本当についていた、ということがあるので本当にいけない。寒いといろんな行動が怪しくなるので気をつけねば。

昨晩は、アンドレ・グリーンの関連でJean Guillaumin(1923-2017)とBernard Brusset(1938-)のことを調べたり動画を見たりしていたら眠ってしまった。ふたりともSPPのメンバー。グリーンはThe enigma of guilt and the mystery of shameで羞恥心に関する7つの説明をしているが、そこに登場するのがこの二人。ついでだからそのなかの3つをご紹介。こんな感じ。いつも通り正確には原文をご参照あれ。

1.羞恥心shameという情動について書かれた文献は非常に少ない。文献の中で挙げるべきものとしては、とりわけ思春期における羞恥に焦点を当てたジャン・ギヨマン(1973)とベルナール・ブリュセ(1993)の研究がある。

2.最も示唆に富んだ描写は文学や芸術作品に見られる(読者には、私が以前に行ったAjaxとオイディプスに関する研究〔Green, 1982a〕を参照されたい)。私の見解では、羞恥を最も強く表現しているのは、ブランカッチ礼拝堂にあるマザッチョのフレスコ画――『楽園追放(アダムとイブの追放)』――である。そこでは、誘惑の場面における最初の男と女の美しさ、誇りを帯びた表情、威厳に満ちた態度と、神の怒りにさらされた後の彼らの姿とが対照的に描かれている。アダムは両手で顔を隠している。彼は泣いているのかもしれない。しかし確かなことは、彼が他者に見られることから身を縮め、かつて享受していたすべてのものを失ったことに耐えられず、苦痛に満ちた羞恥の感情に押しつぶされているということである。一方イブは、苦悶によって顔がゆがみ、エロティックな感情を呼び起こしうる身体の部位――胸部と陰部――を腕で隠しており、そこから彼女の罪責感を推し量ることができる。しかし、聖書が示唆しているように、ここで優勢なのは羞恥の感情であり、それが消しがたい痛みを引き起こす。なお、性器を覆う葉は後の時代に付け加えられたものである。

3.私は羞恥の発達的総合を提示することはできないし、それを特定の発達段階と結びつけることもできない。ただ一つ断言できるのは、羞恥には自己愛的な起源があるということである。すなわち、身体的起源への初期投資、コントロール喪失の役割、そして何より、羞恥にさらされた個人は無力であり、他者の容赦なき嘲笑や軽蔑の前にさらされる標的のように脆弱であり、いかなる防衛手段も奪われていると感じる、という確信である。羞恥とは、敗北を認めること、弱さの露呈、外見と尊厳の喪失であり、ときには自らの内的世界が人々にさらけ出されたかのような印象をもたらすことすらある。羞恥の起源にある主要な要素を同定しなければならないが――羞恥の限界は前意識を超えるものではないとしても――それによって思考へアクセス可能な概念化を試みることができるだろう。

とか。

1に関しては英語版で注記があって「このコメントはフランス語圏特有の視点を反映している。なぜなら、1970年代・80年代のコフートの研究をはじめとして、この主題に関する英語圏の広範な文献が存在するからである。PEP-Web をざっと検索しただけでも、タイトルに shame を含む論文は 360 本以上あり、その大半は 1980 年以降に書かれている。」とある。

これは北米の関係論の文脈で土居健郎の「甘え」が注目されたことと関係あると思う。甘えは恥と罪悪感を伴うだろうから。超自我概念の起源も追っていたけど色々重なり合ってくるなあ。12月は年末からの休みを省くから3週間と心得よ、と自分に言い聞かせている。今日は火曜日。がんばりましょー。

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12月

最近、朝のんびりしすぎている。早起きだからどんなにのんびりしても仕事には間に合うのだけど。一時期は朝7時からスーパーヴィジョン入れてもらっていた日もあったけど、あれは申し訳なかったねえ。起きてればいいって話でもないものね、生活は。スーパーヴィジョンを受けないと訓練にならないとはいえ日時を合わせるというのがなんだかんだ一番苦労したところかも。こちらがどうにかして合わせないことには仕方ないし、そのための蓄えも必要だし。蓄えとかいうと冬っていう感じがする。今日はとてもポカポカになるらしいけど。朝はそれなりに寒い。各地の熊は冬眠してくれるだろうか。街中にも熊が出てくるようになったのってカラスとか鳥類の影響ってないのかな。ただゴミ漁って安全なところで食べているだけなのにそれがエサの移動を担っていることになってしまうとか。そんなこと言ったら地を這う虫とか移動するものは全てそれを担う可能性があるけど、温暖化が魚の移動する水域(?)を変えたように人の移動だって大きく変わってきただろうし、長い時間かけてこうなっているのだろうからもはや原因の特定は難しいのだろう。それでもそういう歴史を含めたあらゆる仮説を立てていかないことには改善策も見つからないだろうし、本当にどうしたらいいものか。

昨日は久しぶりにまとまった時間が取れたので11月末締切のものを一気に書いた。うとうとしている時間も相当長く、何度目覚めても開かれた本の内容がずっと同じだった。夢が代わりに読んでくれてたらよかったのに。今日から12月。12月末締切のものは一気に書ける類のものではないし、ちょっと情緒的に書きたい。隙間時間に少しずつ書いていこう。

今週もがんばりましょう。