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大晦日

まっくら。今日は12月31日。水曜日。今年も大変お世話になりました。それぞれいろんなことがあったと思いますが、今日を良い区切りとしてまた新しい年を過ごしていけたらいいですね。どうぞよろしくお願いいたします。

私のオフィスは新宿駅南口から歩いて15分で着けるし、昨日のレコ大が行われた新国立劇場があるにも関わらずかなりローカルな雰囲気のある「初台」という駅にあります。年末、その初台のこれまたローカルで大好きなふどう通りの入り口にとてもおいしいベーグル屋さんができたと知りました。で、早速お散歩がてら行ってみたのですが15時前で売り切れ。がーん。来年はそこにいくのが最初の目標です。

昨晩は暇だったのでレコ大みながら少しお勉強をしました。HANAのパフォーマンスに間に合わなかったのが残念・・・。

さてさて。参照したのは今年最初か昨年読んだアンドレ・グリーンの1998年の論文The primordial mind and the work of the negative–W.R. Bion Between Past and Future。

「全体として言えば、思考する者の存在は、「私(I)」という経験そのものよりも、むしろ表象する可能性(the possibility of representing)と結びつけて考えられるべきであると言えるだろう。」

これはグリーンが自己心理学的な主体を警戒しているだけではなく、思考可能性と主体経験を切り離すことで、境界例・精神病圏・非神経症的構造を理論的に守ろうとしているといえる。これらの病理と向き合ってきた臨床家なら人間に当たり前に主体を想定することの危険は身に染みていると思う。現在は違うが、精神分析の創始者であるフロイトが精神病患者に分析可能性を見出せなかったのはそこを安易に踏み越えなかったからだろう。フロイトがそこに慎重であったくれたおかげで、フロイトとは異なる病理と向き合い始めた精神分析家たちは分析可能性、終わりのある分析と終わりのない分析を常に考えなければいけなくなったのかもしれない、

ということを考えさせられました。

これは1997年7月29日、IPA第40回大会(バルセロナ)W.R.ビオン生誕100周年記念のオープニングレクチャーをもとにしています。なのでビオンの理論の検討がされています。私が先に書いたことはビオンの”I am, therefore I have thoughts without a thinker which demand a mind to think about them!”について考えるグリーンの言説。

常に事後的にやってくる「I」。観察することができず、推論によってのみ措定され、主体の自己経験には還元されない、という点で無意識と同じ特徴をもつといえなくてもないが、ビオンのそれはより複雑、無意識の想定と方法は同じだと思うのだけどね、などめんどくさいことを考えていました。休日のいいところです。

それでは今日もよい一日を。一年なんとか無事に過ごしたのだからみんなにいいことがあるとよいです。ネガイマス(朝ドラの真似)。

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欲望形成支援とか。

まっくら。夜明け待ち。とてもよく寝た。途中何度か起きたがよく寝た感触をもてたあとだった。しかし、寝ても寝てもあくびはでるものだ。

昨日はつり橋を歩いた。すごく怖かった。そのあとにのぼった急斜面よりずっと疲れた。気持ちの疲れって本当に身体にでる。「つかれたつかれた」いうのが楽しいあいだはまったく問題ない。

遊びにでると車掌さんやお店の人などいつもみているような人たちの行動をみるのも楽しい。土地が変わるというだけで色々違うものだ。

色々な不具合を抱えながらそれぞれが動ける範囲で、自分がそれをしたいかしたくないかという基準で生活する余裕ができたらいいのに、と思う。私の仕事は「どうしたいのか」をきく仕事だと思っているけど、これをきかれると人は本当に黙る。これがほしいあれがほしいということはなんとなくわかっていても基本的な人生の欲望をきかれるとわからないものなのだ。漠然と夢を語ることだって難しい場合もある。「それをしたいのか」ときくと「そういうわけではない」と即座に応えることはできるのに。

欲望形成支援、といったのは國分功一郎さんだったか。國分さんであれば欲望ということばは精神分析的な意味で使っていると思うが、精神分析家は思ったことをいうために自分が思っていること、つまり無意識に開かれ委ねることを訓練でしていく。思ったことをそのままいうってその意味では本当に難しいことだし精神分析状況以外でそれほど必要な行為とも思えないしすべきとも思わない。すべきかどうかわかるためにも訓練が必要だがしてしまうときもあるのが難しい。精進せねば。

今日は多くの人はおやすみかな。そうでない人も穏やかな年末を迎えられますように。

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夕日、翻訳

冬至を過ぎても夜明けは遅い。寒い。エアコンが一生懸命働いている。えらい。

昨日は久しぶりに夕方に家に帰った。玄関前の花壇の落ち葉をきれいにした。先日の強風のせいか、見慣れないゴミも落ちていたので拾って大きなゴミ袋に入れた。種まきをしたお花たちは大きくなりつつあるが放っておいていいのだろうか。かわいい雑草と区別がつかなくなりつつある気がする。部屋に戻ると夕日が向かいの家の窓でものすごいオレンジ色を放っていた。普段はどんなだったか。そんな光でも放ってなければ注意を払うこともない。これからも「そういえば」ときちんと見ない限り知らないままだろう。それで何の問題もない。大体のことはそんなものだろう。夕日。それがどこかの家の窓に映ったものでも夕日であれば夕日とわかるのに。

12月はなにかからの逃避のように翻訳をしていた気がする。ちょっとの時間にもずっとやっていた。なにからの、と考えてもよくわからない。体調管理にやや気を使ったくらいでそんなのはいつものこと。どうしてだろう。子どもの心理療法のための本のための一章も〆切前に提出できた。いろんなお返事も英語以外のものはきちんとした、と思う。まあ、何かがあるのだろう。そうでなくてもアンドレ・グリーンとオグデンを読み続けた一年だった。難しいけどワクワクしながら読んでいるといってもらえたのはとても嬉しかった。そういう共有を求めているのかもしれない。

それほど寒くない日が多かったせいか年末という感じがまるでしない。今年の仕事を無事に収めたのでいつも降りる駅で降りないでもっと先へいってみた。さらにちょうどきたバスに乗ってみたりしながら年末感を探した。門松、お正月にむけた買い物の行列、お年賀の準備、世の中はたしかに年末だった。

今年もあと3日。できるだけ俳句をつくろう。そうだ、そうしよう。

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アンドレ・グリーン“The Fabric of Affect in thePsychoanalytic Discourse”を使ったり。

ほとんど眠れず起きてしまった。今年最後のReading Freudを終え、明日も来るからいいか、とオフィスをそのままにして帰って、遅いごはんを食べて、お風呂に入ってすぐに寝るつもりがまたアンドレ・グリーンの翻訳をはじめてしまった。すると台湾の地震のニュース。年末年始を台湾や沖縄で過ごす友達の心配をしながらベッドに入ったせいかこの短時間で何回か起きた。昨晩は期待通り、月がきれいだったのに。大きな地震がきませんように。年末年始、みんながよく休めますように、と書きながら帰り道、ベンチで眠っていた人のことを思い浮かべた。

今週は原稿を書くのとReading Freud用翻訳で楽しくも大変で、さぼりつつも忙しくて大分疲れた。翻訳に時間をかけすぎている、出版するわけでもないのに。でもやりはじめると止まらなくて隙間時間を全部使ってしまう。精神分析の文献でなかったら機械翻訳を使ってもよくわからない可能性が高いので集中できないと思うけど精神分析のはある程度わかってしまうだけに細かいところまでこだわってしまうところがあっていけない。時間があるときにこだわるべき。アンドレ・グリーンとオグデンはずっと読んでしまう。今年は本当によく読んだ。そのおかげで演題用とか色々と締切を書けた気もするからよかったのだけど寝不足はよくない。原稿も恐る恐る見直したらなんでこんな文章の繰り返しが、みたいなのもあってやっぱり寝不足の作業はよくないとなった。あーあ。機械翻訳の力も借りずさくさくと読めたらいいのになあ。大学の学部のとき、神宮輝夫先生の絵本の翻訳の講義があったのだけどものすごく難しかった。今でも無理だなあ。あの仕事も本当にすごい。

Reading Freudで「心理学草案」(1895)を精読したのでその意義を確かめるべくアンドレ・グリーンの論文を準備したのだが、当初使おうと思っていたより論文よりNEW LIBRARY OF PSYCHOANALYSISの一冊である“The Fabric of Affect in the
Psychoanalytic Discourse
”(Routledge, 1999年、Alan Sheridan訳)のほうがそのままフロイトの初期の著作について書いてあるからいいな、と思い訳し始めた。原著は“Le Discours vivant”(Presses Universitaires de France, 1973)。いい題。

Meissner, W. W. (2001)による紹介通り「アンドレ・グリーンは、大西洋のこちら側とあちら側のあいだを首尾よく「翻訳」することのできる、数少ないフランスの精神分析家であり思想家の一人である」。本書で「グリーンは議論の中心を、情動概念に対するフロイトの貢献に据え、その検討はフロイトの主要著作のほとんどを網羅することになる。グリーンは、『ヒステリー研究』(1893–1895)や『心理学草案(プロジェクト)』(1895)における初期の定式化から、フロイト晩年の著作に至るまで、フロイトの思想がどのように漸進的に展開していったのかを丹念に跡づけている」。本体より追記が多い本(実際には三分の一らしいけど)という印象で構成は変だが、最初のChapter 1 Affect in Freud’s Work Evolution of the Conception of Affectはとてもいい。フロイトの著作において織り込まれている情動概念に関する思考の展開を以下の段階に区分。

『ヒステリー研究』(1893–1895)から『夢解釈』(1900)まで
『夢解釈』から「メタサイコロジー論」(1915)まで
「メタサイコロジー論」から「フェティシズム」(1927)まで

その期間の主要著作を情動の面から読解。その記述がとてもいい。昨日は最初の「ヒステリー研究」に関する部分を読んで色々と話し合った。精神分析の道具は言葉でしかないがその言葉とはいかなるものかをフロイト、グリーンとともに考えられた。北山修の日本語臨床の観点の重要性も改めて認識。フロイトの現場も臨床現場と日常生活だった。そこにちりばめられた言葉の不思議を高度に学問的に検討していくマニアックな作業は精神分析家には必要だし、私は楽しい。こういう会では難しいしわからないけどなんか楽しいよね、とのが共有できたらいいと思うしそうなっている感じなのでよかった。アンドレ・グリーンなんて難しすぎてこの先読むことなどないだろうと思っていても読んだら意外と「!」となるということもわかってよかった。わかりやすいものを提示してわかったふりを共有しないことを大切にしたい。精神分析は、というより人の心の世界は超複雑で、しかもそれをおおむね言葉でこなしているわけで、そりゃわからないこともたくさんだろうよ、と。無理にわかったふりするからかえって難しいことが起きているのでは、と思うこともしばしばだもの。わかるわからない、いい悪いより、心が動いて、思考が広がるってなんか豊かだわ、という感覚を味わいたい。

ということで今日のグループで仕事納め。がんばりましょう。穏やかな年末年始を迎えられますように。

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APCソウル、年末

空が暗くて悲しい。でもこれから晴れるみたい。嬉しい。昨晩、帰るときには月がビルの合間にかろうじて見えた。明るかった。今晩は月と土星が並んで見えるとのこと。冬は星がきれい。

APCソウル大会で演題を採択してもらえたのは嬉しいが英語のメールの意味を呑気な方面に捉えちがえお返事が遅れてしまった。シドニーで発表したときのやりとりで学んだはずなのだが、この時期、ヨーロッパは休暇に入っているのだった。自動返信で「日々するべきことから少し距離を取り、十分な休息を得られ、そしてできれば——受信トレイから離れた場所で——自由連想のためのささやかな時間が生まれますように」ときた、英語で。そうしたいのだが自分のせいでそうできないのよ、と思いながらしかたないから休暇明けまで待ちましょうと思った。あーあ、と思ったら別の担当の人からお返事がきた。大丈夫だった。よかった。休暇中にお仕事させてしまいすいませんでした。友達が遅れてもきっと大丈夫、といい感じで励ましてくれたのも嬉しかった。

私は分析家になるプロセスで、日本で主流だった週一回の精神分析的心理療法について考え続けてきた。今はその設定で臨床を行うことも難しいときくので精神分析的心理療法のありかたも変わってきているのだろう。ましてや週4なんて、ということだが、私は世代的に週一回の心理療法をかなりの数をおこなってきたので、とりあえず自分のその体験と精神分析家のbeingとbecomingを検討してきた。参照していたのは大体オグデンだが今年はアンドレ・グリーンに随分思考を広げてもらった。

ソウル大会に応募した演題は、オグデンが分析的枠組みの変更に関する論文から考えたことを自分の体験に即して述べ、最終的にはエリクソンに着地させた。というか、自然にそうなった。発達心理学専攻だった私にとってエリクソンはなじみはあるが、私がなじんでいる分析理論には普段あまり登場してこないエリクソン。講義ではもちろん取り上げられるが。なので書いていてエリクソンがでてきたことに自分で驚いた。いつも何読んでもすぐ忘れてしまうけど無意識を信頼したほうがいいね。つながってくればでてくるものもあるらしいよ。しておくもんだ、インプット。

年末年始は何を読もうかなあ。最近の小説も読みたいけどうちに積まれた文庫から適当に引っ張り出して読もうかな。kindleで読み始めると複数の本をいったりきたりしちゃって全然集中できないから。

昨日の朝ドラ「ばけばけ」があまりによかったので今朝はしじみのお味噌汁にした。宍道湖の夕焼けはなかなかとれないらしい。私はラッキーだったんだな。コロナ前の年末年始の旅行で松江のホテルに向かうまでに宍道湖沿いを歩き、すごくきれいな夕焼けをみられた。朝焼けもいいけど夕焼けも素敵。仕事は明日の午前中で納まる。能登は今日も雪かな。クリスマスの映像は寒そうだった。あれから二年がたつ。輪島市門前町の黒島漁港の写真をみた。まだ使うことができないという。能登演劇堂で仲代達也の芝居をみることは叶わなくなったがまた行こう。今度こそ珠洲と輪島へ。地震のこと、そのあとの大雨のこと、いろんな記憶が蘇る年末年始になってしまっているかもしれない。穏やかな日々でありますように。それぞれの場所であたたかくできますように。

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金曜日

今朝の夜明けは雲が多かったけどこれから晴れるみたい。昨晩は傘をもっていたけどささなくてすんだ。オフィスのビルの大規模改修工事がようやく終わり、ゴンドラや足場が解体されて久しぶりにすっきりした姿をみて新鮮だった。私もかなり気苦労したが、工事に携わった人たちは毎日毎日本当に大変だったと思う。この時期は似たような工事が多いのかな。予算の関係かしら。あちこちで先日まですぐそばで聞いていたような音が響いていた。

子どもや学生の話と大人の話は随分時間の流れが違う。子どもたちは昨日、終業式だったところが多かった様子。みんなようがんばっちょる。受験生はまもなく本番。がんばれー。いろんな人の話をきいたあとの自分の様子はいちいち違うのでそれも面白い。なにかよみがえってくる感覚がそれぞれに合わせてあるのだろう。

昨晩は遅くまで原稿を書いてしあげた。書けてしまったのはいいが、再びみるのが怖い。どうしようもない文章書いていたらどうしよう。勢いで送ってしまったけど。ああ、みたくない。でもみたほうがいい。自分のできなさをつきつけられるのはつらいけどそんなことの連続だ。今回はウィニコットの『遊ぶことと現実』の「遊ぶことー理論的記述」だけ使った感じ。「移行対象と移行現象」は引用はしていないけどなにを書くにも基盤にあるし今回もそうだった。

今日はReading Freudの準備をせねば。これも大変。今日は金曜日。本当に毎日毎日あっというまだ。休みまであと少し。がんばりましょう。

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S.Cooper「設定(setting)」論文など。

今の空はきれい。オレンジの色の光がいっぱい。でもこれから曇るみたい。雨も降るみたい。雨というと奄美のスコールを思い出す。あれはすごかった。奄美にいったのは2年前の年末年始か。ガジュマルの中をカヌーで散策したりしたがあれはハードだった。一緒になったご家族とのおしゃべりも楽しかったがお元気かしら。雨だから思い出したというより昨晩、Yussef Dayes, 城南海のAmamiを聴いたからかもしれない。クリスマスソングに聞きあきて流していた。

最近、「ラブ上等」をみたりHANAを聞いていたせいか頭の中がラップになりがち。朝ドラ「ばけばけ」と大河ドラマ「べらぼう」の口真似もしがち。素敵な書き手の真似もしがち、とか言って書けたらいいがそうはいかず。昨日の隙間時間も翻訳に費やしてしまった。その結果、全部は読まないかもな、と思っていた論文を読めたのはよかった。一昨日思ったほど長い論文ではなかった。気分は現実を歪める。思ったより短かったのはよかったが。

機械翻訳の力を借りてざっと読んだのはInternational Journal of Psychoanalysis(IJP:国際精神分析学会誌)創刊100周年を記念した2019年のSpecial Issueのひとつ、アメリカの精神分析家、Cooper, S. のPersonal Reflections: A theory of the setting: The transformation of unrepresented experience and play IJP, 100(6), 1439–1454。この論文は2023年にでた単著 Playing and Becoming in Psychoanalysis にも収められている。そちらはウィニコットを基盤として「遊び」概念を見直す本らしいので、論文で拾えるものから読んでみたい。今書いているものもウィニコットの「遊ぶこと」の引用から始めているから関連はあるだろう。インプットにはキリがないから書かねばならない。締切間近。

クーパーはウィニコットやグリーン、オグデンなど私が馴染んできた分析家を参照しているので読みやすく、彼らの分かりやすい部分を統合して示してくれるのも探求するのとは違う良さがあり、複数の症例も共有しやすかった。クーパーがこの論文で取り上げたのは「設定setting」。日本でもいまだに小此木啓吾の「治療構造論」は影響力があるし、IREDではコンパクトにまとまっているが、いくらでも語れる用語だろう。

クーパーの場合、設定を転移の場としてAndré Greenのventilated spacesを引用する。この用語は1975年のIPAジャーナルに掲載されたThe Analyst, Symbolization and Absence in the Analytic Setting (On Changes in Analytic Practice and Analytic Experience)—In Memory of D.から。

少し前にここに、アンドレ・グリーンのContemporary Psychoanalytic Practice by Andre Green French Psychoanalysis、英語版への序文を書いたHoward B. Levineによる説明を書いた。

序文はLimit cases, transformation, and the ordeal of the session: André Green’s extension of Freudian theory。そこにはこう書いてある。

>>介入は「風通しのよい(ventilated)」ものでなければならず、つまり、ドグマ的でも、強制的でも、過度に「確か」でもなく、潜在的でありうる意味の移行領域を巧みに支え、拡張し、さらには創り出そうとするものであるべきである。グリーン(1996)はこれを「自己組織化の認識論…、分析をオートポエティックな(autopoetic)過程として、組織化−脱組織化−再組織化の連鎖として捉えること」を要すると述べている。多くの患者にとって、まだ感じられておらず、まだまとまった意味が存在しうるという見通しそのものが、理解不能、混沌、そして空虚(空白blanc)な抑うつや境界例状態の寄るべなさと絶望から離れる進歩的な一歩である(本巻第5章)。

これを引用したときに私はventilatedを「換気された」より「風通しが良い」の方がいいのでは、と書いたが「空間」で考えてみると「風通しが良い」だとポジティブな印象が強い。なので「風通しが保たれた」くらいの方がいいかもしれない。「介入」のときはあまり感じなかったが。もしくは今がコロナ禍であの空気が共有できているなら「換気された」の方がヴィヴィッドに伝わったかもしれない。

さて、この用語が使われたグリーンのThe Analyst, Symbolization and Absence in the Analytic Setting (On Changes in Analytic Practice and Analytic Experience)—In Memory of D.(「分析家、象徴化、そして分析設定における不在」、1975年)はIPA 地域間精神分析百科事典(IRED)日本語版の「設定」の項目でも参照されている。とてもいい論文で、私は幸運なことに勉強会で訳を共有していただいているのでまた読み直そう。ventilatedのところは忘れていたし。ちなみに「設定」に関しての基本論文はBleger J. (1967). Psycho-analysis of the psycho-analytic frame. International Journal of Psychoanalysis 48:511–519. IREDでもそうだが「設定」を論じるなら必ず参照されていると思う。

クーパーがグリーンを引用する仕方はこんな感じ。

>>Green(1975)は、表象された体験と表象されていない体験とのあいだに存在する一種の継ぎ目を、「風通しの保たれた空間(ventilated spaces)」と呼んだ。こうした屈曲点、すなわち患者と分析家それぞれが内側に抱える精神分析のためのセッティングが衝突する地点において、セッティングは、患者の遊びのルールを見出そうとする分析家の試みを保持する。そのルールの意味は、患者によって防衛されており、また時に分析家にとっても到達不能である。

グリーンの言っているventilatdが必要とされる状況よりも一般的な意味で応用が効きそうな書き方だと思う。それはグリーンとの比較だけでなく、全体に対してそんな感じを受けた。

グリーンといえば、私はまるで馴染みはじめたような気になっていたが、昨日、Reading Freudのときに使えるなと思って訳していた論文がすでに一度自分で訳したものだった。しかも自分が担当した論文だった。途中から読んだせいか全く気づかなかった。前より理解度が深まったのかと思ったら繰り返し学習の効果だったみたい。繰り返していたことは忘れていたのに。でもグリーンの論文は何度読んでもわからないし、試行しつづけるために読むものだからまあいいのだろう、と思う。以前ほど体力、気力を使わずに読めるようになったのは収穫だし。初期のフロイトから読んでいる人たちには絶対にいい刺激になると思う。精神分析が欲動論と対話をやめたらそれは本当に精神分析なんですか、というのをグリーンはすごく広いところからもすごく近いところからも迫ってくるからね。ラカンのそばにおさまれなかったそのスケールをくらおう。私もいい紹介ができるようにがんばろー。

ちなみに読んでいたのは
The psychoanalytic frame: Its internalization by the analyst and its application in practice。クーパーの「設定」とは全く違う「枠組み」のお話。この論文は
Contemporary Psychoanalytic Practice(2012,Karnac)とThe Freudian Matrix of André Green  Towards a Psychoanalysis for the Twenty-First Century(2023,
Routledge)の両方に入っているのもややこしい。重要論文だからなのだろうけど。これらはどっちもそんなにややこしくないいい本だと思う。グリーンの好き嫌いだけ知っておけば、難しいけどややこしくはない。

それにしてもウィニコットはやっぱりすごい。オグデンやグリーンを読むとそれまで読み落としてきた部分がハイライトされるような感じで読み方が更新される。嬉しいし楽しい。「ピグル」をピグルとウィニコットが会った日時に合わせて読んでいた日々が懐かしい。ああいうのまたやりたい。老後かなあ。老後までもつかなあ、身体。身体がやられたら気持ちもつらいし。この数年、「調子が悪いときに今みたいなのんきでごきげんな時間を思い出せるかなあ、思い出せる自分でいたいなあ」とか思うようになった。いろんな思い出が押し寄せることも増えた気がする。精神分析を受けているときは「なんで今こんなこと思い出したんだろう」ということばかりで最初はそれを思考できない苦痛があったけど後半はそういう無意識の流れに委ねた方が楽な感じになっていった。随分、長くかかったけど幸運だった。今は「思い出せるかなあ、思い出したいなあ」か。大体の日々を鳥だ、月だ、夜明けだ、とかいって喜べる自分で過ごしてほしい。頼むぜー。

ということで今日もがんばりましょう。いいお天気のままならいいのに。

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年末

まだ真っ暗。雨模様なのかしら。2日前は冬至だった。今日はクリスマスイブ。新宿西口の地下通路の「新宿の目」が点灯する日。1月4日まで。スバルビルは解体されたが、この目は残されていた。どこの所有なんだろう。学生時代、毎週日曜日はスバルビルの地下に集合だった。自閉症の子どもたちと奥多摩に行ったりした。奥多摩といえばNetflix「ラヴ上等」の舞台。終わってしまった。時間がないない思いつつ全部見てしまった。恋愛リアリティショーを完走したことがないが、これはすごく面白かった。甘えたいという気持ちに真剣に向き合ってほしいというのは基本的なニード。真剣に向き合うというのは馴れ合うのでも要求に応えることでもない。出演者たちは怒るのも早いが泣くのも笑うのもそのまんまな感じ。セキュリティもメンターもつけながらのMEGUMIの企画。子ども食堂も出てくる。

年明けのセミナーに出ようかなと思って指定の論文をチェックしたら長い。英語でこの分量は機械翻訳使っても相当時間取られるからな、と思ったけど「ラブ上等」にかけた時間があれば普通に終わるだろうとも思う。でも娯楽にかける時間はこうやって比較に使うものではないので少し読んで考えよう。内容はウィニコットも引用されているプレイの論文だから興味深い。寒いからせっかくの休みを勉強に費やしてもそんなに残念な気分にはならないだろうけど。臨床例がどのくらい載っているかで決めようかな。私は講義プラス事例検討よりも事例検討したあとに理論の連動を探求する方が意義深いと思っているので、私がやっている初回面接の事例検討グループでもそうしている。基礎的なことを自分で言葉にしていくって本当に難しいということを知ることも大事。そういうのに慣れていくことも。論文に事例があるとそれができるからそういう論文の精読も好き。そういえば、昨日、精神分析系の思春期に関する本を読んでいて、その翻訳が本当に読みにくかった。理論的な部分ではなくて臨床例のところが。映画の日本語吹き替えみたいだった。そういうのに慣れている人はいいかもしれないが、私はそれをさらに日常語に変換しないといけないのが辛くてすぐに読むのをやめてしまった。出版されてすぐ読んだときはそんなに気にならなかったと思うのだけど時代かな。私の意識も変わったから引っかかるのかもしれない。今年一年、いろんなことがあった。予期しないこともたくさんあった。予期しないことが起きることは知っているのにどうにもできないことばかりだった。どうにか考えようとしたことは悪くなかったけれど。今年もあと少し。体調には十分気をつけて過ごしましょう。

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精神分析的心理療法フォーラムの雑誌が届いたり。

今日の朝焼けはきれい。いいお天気になりそう。寒いけど。少し前まで祝日だったのに。令和になってからもう8年目になるのか。元号は役所の書類くらいでしか使わないからいつも忘れてしまう。イエス・キリストが生まれてから2026年目になるのか、とも別に思わないけどスケール的にはそっちでいきたい。

精神分析的心理療法フォーラムVol.13に討論の原稿が載った。7月に関西で参加した大会企画分科会「精神分析とアートの交わり」で指定討論を担当したときのもの。やっぱり定期的にきちんと形にしているところは仕事が早い。月日が過ぎるのが早いだけでなく、自分も変わるし、いろんなことをはプロセスのなかにあるのでこういうテンポで形になる場所でなにか書いていくほうがいいのかもしれない。松木邦裕先生の編集で書かせていただいた2冊もほぼ計画通りに出版されたと思う。松木先生のお仕事の速さにも驚いた。もちろん丁寧で速いから驚いたしとてもありがたかった。しっかり読んでもらえて、実感が遠のかないうちに形にしてもらえることは書き手が育つ条件のひとつになるのではないか。私は自分が所属する日本精神分析協会のジャーナルをそういう場として活用していこうと思っているけど、フォーラムでお世話になった皆様にも感謝。

私がこの原稿で引用したのは当日の発表者でいらした岡田温司先生の『フロイトのイタリアー旅・芸術・精神分析』(平凡社)とBotella夫妻とアンドレ・グリーンとゲーテとパウル・クレーとフロイトとウィニコット。ゲーテとクレー以外はいつものラインナップだな。これは気軽で楽しい仕事だった。

今日は火曜日。楽しいことあるといいですね。がんばりましょう。

素敵なかりんとうをいただいた。
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オグデンを読むなど。

昨晩、すぐ近所で盛り上がっている声が聞こえていた。すっと静かになった。あれ、と思う間もなく強い雨の音が聞こえてきた。早朝はすごい風の音がした。どうなってるのかな、空。今日は少し不安定なお天気かも?

毎日少しずついろんなものを訳しているのでそれを整理しようと思ったら間違ってコピペしたりでかえってわからなくなってしまった。複数のことを同時にできないからあとがどんどん大変になる。落ち着こうと思って読み慣れたオグデン(Thomas Ogden)の最新刊“What Alive Means”(2024、Routledge)のCh6 Like the Belly of a Bird Breathing On Winnicott’s “Mind and Its Relation to the Psyche-Soma”を読もうとパソコンを開いた。これは2023年Int. J. Psychoanal., (104)(1)に掲載されたもの。オグデンがウィニコットをクリエイティブにリーディングするシリーズのひとつで、14本目と書いてあったと思う。ウィニコットのalivenessを探求しつつ発表もしてきた私には欠かせない論文なのだが、それを精読するオグデンも細やか。私はいまだにたくさん辞書をひかないと英語読めないのだけど(しかも覚えられない)機械翻訳を使いながら読んでも「え、なんでこの言葉使ったの」とひっかかるところがあって、そういうとここそ面白いと知っている。言葉ってきちんとひっかかるようにできてるよね、と思いながらもまたそこに時間がかかるのでいくら時間があっても足りないが、継続してきたことでいろんなつながりがみえてきたのが嬉しい。アンドレ・グリーンを読んでいると宇宙を指さされながらなにか聞かされているような気分になるが、オグデンは「ばけばけ」のおトキちゃんとヘブン先生が怪談を語り、きくという構図と似ている。わからない言語をなんどもなんども聞いているうちに雰囲気で分かってくる感じもいい。ほんとうはなんども聞いているから雰囲気ではなく言葉の要素を理解できるようになるからだけど雰囲気という言葉でふんわりさせるのもいい。いい、いい、言っている場合では全然ないのに月曜日が始まってしまった。なんとかなりますように。とりあえず体調きをつけて過ごそう。みなさんもお大事にお過ごしくださいね。

きれいなパン
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こどものことばとか。

今朝は夜明けを感じるまでもなくずっと空が暗め。雨はやんだのかな。昨晩、保育園でのコンサルテーションを終えて急いで駅に向かったときは結構濡れた、というか雨粒がよくみえるベージュのダウンジャケットを着ていたので傘をもっていたけど落ち葉の上を急ぐのが怖くて傘は杖代わりにしてしまった。家のほうはあまり降っていなかったがそれほど遠くないところに住んでいる人から大雨で大変だったとLINEがあり空気の流れを想像した。

もう日曜日で、明日はもう月曜日か。と当たり前のことを確認したくなるほどウソでしょーという気持ちが強い。昨日は保育園の子供たちの日常を動画で見せてもらいながら色々お話したがルーティンって本当に大事で、「いつものこと」を無理なくできるようになるには大人が場をどう設定していくかが大事で、場を上手に設定できること自体がやさしさと呼ばれるようなもの。大人の言葉が子供に与える影響を意識した話し合いがされていたのも素敵だった。保育現場は言葉の意味内容より言葉がもつ力の諸側面の効果や影響がよくみえるので、私がずっと読んでいるような心の原初の状態を探求する精神分析家たちのいっていることとも具体的につながっている。そしてやはりグループの力は大きい。いろんな人がいるという当たり前を当たり前にしつづけるためにできることってなんだろう。

一番面白そうなのに難しいのは言葉のコードを変えることだろう。子供はこれがすごく上手、というかまだコードに拘束されていない言語世界にいるのでとても面白い。昨日、ある人がわが子の「もう冬」という言葉に対する反応をポストしていて大変面白くかわいらしく思った。

それで思い出したのが池上嘉彦の『記号論への招待』(岩波新書)。

こんなようなことが書いてある本だ。

>例えば初めて〈雪〉の降るのを見た子供が「あっ、ちょうちょうだ」と言ったらどうであろうか。確かにこれも、ある意味では「噓」でもありうるし、また「誤用」でもありうる。しかし、今度の場合はただ訂正して「正常」化するというだけでなく、そのまま一つの使い方として受け入れるという可能性も認めなくてはならない。つまり、いわゆる「比喩」の場合である。「噓」や「誤用」の場合は、使用されている「記号」に対して現実の「指示物」の方が優位に立って「訂正」を要求する。それに対して、「比喩」の場合は「記号」も「指示物」と対等の地位を占め、前者が「意味」として予想する特徴と後者に現実に存在するそれとは異なる特徴との間に、拮抗し合う緊張関係が生じる。「記号」の方がもはや簡単に「訂正」されなくなる。

など。昨日私がみたかわいらしいエピソードは「比喩」でもないと思うが当然「嘘」でも「誤用」でもない。昨日は大人って子供の言葉訂正しがち、とか思いながら子供の心について書いていたのでそれともフィットした。「どうして嘘つくの!」と結構小さいのに怒られている様子を目にすることも少なくないし、子供の言葉を「嘘」と断定する大人も少なくないので、それは本当にそうかなあ、と思うことが多い。ややこしい書き方をしているがなんとでもいえる余白を言葉に与え続けるにはどうしたらいいのだろう。ね。

今日は日曜日で明日は月曜日だって。また書いてしまった。私は困った困ったとなっているけど、よい一日になるといいですね。

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境目とか勉強会のお知らせとか。

空がピンクに染まって一気にグレーになった。夜明けにはどこからどこまでとかいつからいつまでとかはっきりした境目を設けることは難しい。日の出と日の入りの時刻は決まっているけれどその間は特に決まっていない。

時計屋の時計春の夜どれがほんと  久保田万太郎

先日、変な言葉だなと思いながらGoogleで検索したらAIが

「申し訳ありません、意味がよく分かりませんでした。「○○は○○」とはどういう意味でしょうか?

もし、私に特定の日付や時刻を無視してタスクを完了するように求めているのであれば、私はそのように動作します。どのようなお手伝いが必要か、具体的にお知らせください。」

と書いてきた。「AIによる概要」が出てくるようになったのは今年?「もし、私に特定の日付や時刻を無視してタスクを完了するように求めているのであれば、」というのは私が検索した言葉に対する返事だと思うが、そもそも私はAIに何も求めていない。でも「分かりません」といえるのは大事なこと。それだけでいい。聞いてないのだから、というのはAIに対してだけではなく思うことは多い。

Twitterが140字しか書けなかったのはいい設定だった。人はいくら時間を費やしたところで伝えられることには限度がある。伝える側に限度がなくても伝えられる側の限度というものもある。そもそも求めていないとなればなおさらだ。伝えたい側は言いたいことを言っているつもりでも質問した側はそんなことは聞いていないのだけどな、と感じながらずっとそれを聞いているということもある。どの場合もみんな自分が正しいと思っているかもしれないし、失敗した、まいったなあ、という事態からも学ぶことはあるだろう。反射的に反応して相手に嫌な思いをさせた場合だってなんらかの気づきはあるかもしれない。でもね、という話。私たちは相手なくして生きてこられなかったわけで、赤ちゃんのときからそれはそうなんだけど、それは相手を利用することではないんだよ、と思う昨今。相手はお互いのためであって、自分のためではない。そんなの当たり前だと思うかもしれないが、全く当たり前じゃない、と思う。自分はそういうことしないよ、という場合でもそうでもない、と思う。もちろん私もやってしまってから言い訳したくなったりなかったことにしたくなることは多いし落ち込みを避ける方に自然に向かうこともある。が、誰にでも起こりうることであるならばらなおさら上書きや上塗りをしないことが大事。自分で自分の意識を超えてしまうこともやってしまってからでは取り返しがつかないようなこともあるだろうけど、そうでないことも多いので、そこは簡単に希望を捨ててはいけない。わからないことはわからないままに、聞かれてもいないこともそのままに、答える必要がないこともそのままに、押しつけに対して負担を感じる場合はとりあえず抵抗を、とか書いているとそれこそ聞いてねえよの世界に入っていくね。難しい。

さてさて来年度の勉強会のメンバーを募集しています。事例検討会は少人数なので発表の機会も2回か3回あります。

①初回面接事例検討グループ(各回定員3名)

曜日:第2 or 第4日曜 9時半~12時。
時間:9時半ー11時半 事例検討
   11時半ー12時 その回で各自が学んだことの共有

料金:8回4万円

初回面接の事例をお持ちで精神分析理論の基礎的な勉強を終えている方、お互いの事例から学び、ご自身の言葉で考えられるようになりたい方に。

②2026年度Reading Freud】

精神分析の基礎的なセミナーを修了し、臨床経験をお持ちの方で、フロイトの著作の精読に小グループで取り組みたい方を募集します。具体的には以下の方法によって、精神分析的な臨床がそもそもはどのようなアイディアに基礎づけられたものかを確認し、自分たちの臨床ではなにを行っているのかを確認する機会にできたらと思います。

【方法】

①各論文を1パラグラフずつ番号を振ります。

②ひとりずつ順番に声に出して通読します。

③内容を精神分析の歴史に位置づけつつその書き方や現在における意義について議論します。

2026年度は『メタサイコロジー論』(十川幸司訳、講談社学術文庫)を読みます。テキストは各自ご用意ください。

曜日:4月から2月(8月を除く)の第4土曜日

時間:19時から21時

料金:全10回、1万5千円

お申込み、お問合せはお問合せフォームか、ami3office@gmail.comにお願いいたします。

どうぞよろしくお願いいたします。

あと、2026年度対象関係論勉強会(精神分析基礎講座)の受講生の募集も始まっています。今年は2年目。日本精神分析協会の基礎セミナーでもあります。私は「陰性治療反応」について講義する予定。

私はこの講座が始まって3年目(3年1クールだけどどこから出てもいい)から4年間出た気がする。当時は青山でやっていてランチが楽しみでした。コロナ禍で一気にハイブリッドの開催が広がったけど当時はこんなふうになるなんて思ってもいなかった。何が起きるかなんてわからないけど色々あるねと言いながら自分のしたいことやったりしたいことに向けてがんばったりしよう。

今日は土曜日。良い1日になりますように。

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精神分析

子供の心のことを書いたり。

今日は雲が多く夜明けのピンクもグレーの雲にかき乱されていた。月はもう見えなくなっていた。どこにいったかな。鳥たちももう朝のひとなきを終えてひとっ飛びしにいったみたい。ひとっ飛びだと意味が違ってしまうか。ひとっ走りしてこよう、とかひと汗かこうぜ、とかの意味だとどうなるのだ?大体、鳥に朝のひとなきなんてないか。まあいいか。人間の赤ちゃんは起きてぼんやりしてなんらかの対象に気づくと声を出しがち。最初は短い声。だんだん多く、だんだん大きく。対象との出会いのインパクトは大きいのだ。

と書くのは、子供の心理療法について書かなければだからで、昨日は少し書けたが、その数日前に書いたものとの整合性がなくなってしまった。やっぱり途中にオラニエ(Piera Aulagnier)Violence of Interpretation: From Pictogram to Statementを読んだのがいけなかった。オラニエは最早期の心の生成を複数の水準で描き出そうとしたわけだけど、オラニエの描写する赤ちゃんってクラインの描く赤ちゃんとは別の感じで辛そうなのが辛い。ウィニコットやグリーンは死せる母について書いたけど、オラニエは母の中で死んでいる子供を書いてる感じ。精神病の精神分析の長年の経験がオラニエに心の原初まで遡らせる強いモチベーションを維持させたのだろうけど、ウィニコットの主観的対象と同じく、心の原初を描くにはどこかで何かしらの形を想定する必要がある。そしてそれをあくまでその後に続く運動と連動するものとして捉えながら描く必要がある。事後性の概念はそれに貢献するし、欲動理論もここに役立つ。アンドレ・グリーンはその種まきをたくさんしてくれたと思う。オラニエもラカン発の分析家ではあるが、オラニエが基礎に置くのは身体と欲望。方向性としては母がカッコ付きの「私」を見出すというより、私が母になることで「私」になるという感じか。とか考えていると、そこまで書いていたものに揺さぶりがかかってしまうから書けないんだな。隙間時間にやるのだから別のものは入れずにとりあえず一気に書き上げないといけないのだろうけど。すぐ何考えてたか忘れてしまうし。うーん。賢い人が羨ましいが、そういう不足は継続によって補うのが吉、と思っているのでなんとかがんばりましょう。がんばれますように。

今日は金曜日。木曜日って書こうとしてしまった。朝ドラのことも脳内ではたくさん語っている。現実の1週間は早いが、「ばけばけ」は一日を長く描いてくれるのもいい。今日も反射的に応じず言葉を受け取る心を引き伸ばして広いお皿みたいにして色々受け取ってまいりましょう。

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精神分析

バロス、オラニエ翻訳など。

まだ外は真っ暗。寒さを感じる前にプチ家事を済ませた。今朝は紅茶。昨日、ネットでプレゼント用の紅茶を見てたのだけど私が一番贈りたい紅茶はオンラインでは買えなかった。地元の特産品になっているからそっちの駅とかデパートなら買える。全国展開しなくても引き継がれていく美味しさ、しかもそれで生計がたてられるってほんと素敵。私も知見は外へ広めたいけど地元の精神分析家になりたいなと思うことはある。週一回の心理療法やスーパーヴィジョンにはとても遠くから通ってくる方もおられるけど毎日のように会う精神分析はあまり遠いと難しい。遠いの基準も人それぞれだけど生活との折り合いをどこでつけるかは考えどころ。現実検討ができることは精神分析に取り組むためにも大事な要素。色々犠牲にして、と言う人もいるけど、たしかに他のことはとりあえず背景において、みたいな部分はあるけど、個人的には「犠牲」という言葉はそぐわない状況を作り出しながら取り組んでいきたいと私は思っていた。というか、本当にいろんな人の協力を得て時間を捻出してきたからそれを私が「犠牲」とは言えない。でもなんでもやってみないとわからないことばかりだし、それをどう感じるかはその時々の関係性や状況で変わってくるし、何が起きるかわからないからなんだって人それぞれだけど。精神分析の訓練に入るとなるとそのために引っ越す人もいて、私はたまたま東京で、そんなに遠くないところで受けられて本当に幸運で時には手ぶらでいくような地元感も持てた。実践としての精神分析が全国区になることはこれからもないと思うけど何が起きるかわからないし、フロイト、ラカン、クライン、ウィニコットは他領域でも普通に参照されているわけで知的な対話の基盤はすでにある。どうなっていくのでしょうね。悲観的になることも多いけど楽しみにしたい。

今日17時から10DANCEか。これは映画?一回で終わるやつ?そんなことも知らずに見たい見たいと言っているが見ればわかるね。最近はNetflixでは何を見たかな。「薬屋のひとりごと」とか。あと「ザ・ディプロマット」とか。映画も行きたいけどちょうどいい時間がない以前に見たいと思っているうちに終わっていることが多い。時が過ぎるのは早い。

Elias Mallet Barros(2000)、Affect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Life. 読み始めたと書いたが、関連文献を色々読んでいるうちに誰が何を言っていたのかわからなくなってしまった。バロスのことはジョン・スタイナーがメラニークライントラストのウェブサイトで紹介しているのでそちらを参照。バロスは英国精神分析協会でローゼンフェルドたちから訓練を受け、ジョン・スタイナーたちと仕事をしていた人。その後、ブラジルに帰ってサンパウロ精神分析協会でもIPAでも活躍。クライン派の仕事を南米に紹介した人のひとり影響が強そうだけど、私が今年最も引用したボテラ夫妻、アンドレ・グリーン、アントニーノ・フェッロ、トーマス・オグデンの引用も多い。英国で訓練を受けてきた日本のクライン派の先生方もそうだけどその土地の精神分析文化に馴染んだ人が翻訳によってそれらを伝達してくれることのありがたさたるや。バロスがこの論文で依拠する主たる分析家はAulagnier, Bion, Ferro, GreenそしてKhan。

著者の主張の中心は「心的生活において同時に作動する三つの相互に浸透しあう意味の水準を考慮することの価値を主張する。すなわち、hidden meaning、absent meaning、そしてpotential meaningである。」というものなのだけどこれらを訳すにはこれら3つのmeaningの内容を正確に把握する必要がある。もちろん症例とともに詳細に説明はされているけどそれであっさりわかるようなものでもないので自分の体験と合わせて落とし込んでいく。自分のための翻訳でさえこれだけ大変なのに、翻訳家はそれを生業にしているのだからすごい。

バロスが参照するピエラ・オラニエ(Aulagnier, P)の1975年の著書 La violence de l’interprétation. Du pictogramme à l’énoncé の英語版The Violence of Interpretation: From Pictogram to Statementを英語に訳したのはAlan Sheridan。ラカンを英語で読める形にした最初の(エクリはその後フィンクが英語で全訳出したけど)翻訳者。フーコーとかも訳している。オラニエのThe Violence of Interpretation: From Pictogram to Statementには訳者のノートもあってporte-paroleをword-bearerと訳したのはなぜか、ということなども書いてあった。言葉の字義、精神分析における文脈、著者の造語の傾向、英語圏での誤読の回避などいろんな目配りが必要な仕事。オラニエがどんな人か知らないのだけど概念と言語と精神病の間で生じる緊張をここまで言葉にできるのはものすごいことだと思う。英語にしてくれてありがたい。フランス精神分析の基盤を持つ人に日本語にしてもらえたらもっとありがたい。オラニエもAlan Sheridanの訳注を引用していたし信頼関係があるのだろうな。大変だけど素敵な仕事。

今日もがんばりましょう。

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精神分析

演出、論文翻訳、臨床心理士試験

朝焼け。細い月との光の配置がきれい!朝ドラ「ばけばけ」の光の使い方がものすごくていつも感動するのだけど、自然界の光はもう少し複雑。毎朝やや翻弄される。ドラマは人間っちゅう複雑なものを描くから光がそれと馴染んでいる方がずっと印象が強い。映画は自然の光にこだわって作られているものが多い。この前でたばかりの濱口竜介、三宅唱、三浦哲哉『演出をさがして 映画の勉強会』(フィルムアート社)を読んでいたのだけどそこにも光の使い方について書いてあった。濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』と三宅唱『ケイコ 目を澄ませて』のところは別の媒体でも読んだことがあったけどやっぱり面白かった。『ケイコ 目を澄ませて』は特に好きな映画だし、演出っていろんな偶然を待つようなところがあるんだな。それにしてもこんな勉強会、とっても楽しいよね、絶対。三浦さんは料理の本も出しているし軽やかにとことん。良き!

フランス精神分析の文献を読む勉強会で、興味あると思うよ、と勧めてもらった論文、Elias Mallet Barros(2000)、Affect and Pictographic Imageを担当することになった。オラニエを読んでいると話したからそれでかな、と思ったけどウィトゲンシュタインを参照しているのもいい。確かに私はこの語りえぬものをめぐって語られていることにものすごく興味がある。とりあえず訳し終えたのでしっかり把握したいが優先すべきものに戻らねばならない。面白くて月火の隙間時間全てこれに費やしてしまった。まずい。

臨床心理士試験の結果が出たらしい。受験者数は減っているのかな。精神分析家になるには大学院修了と臨床経験と基礎セミナー修了などが最初の条件になるけど、臨床心理士の大学院修了の基準も悪くなかったと思う。少人数で専門的な勉強することで改めて進路考えるようなことにもなるし、勉強の仕方変わるしね。それにしても懐かしい。面接のとき、変なドアを開けてしまって止められたり、ドアが重たくて開かない、とかあったが、ドアが重たいのは今もあるらしい。きつい先生と優しい先生のペアと聞いていたが、それもただの噂だろう。そんなものどうやって分けるんだ、というかそんな暇ないだろう、先生方、と思う。でも当時はそう聞いていたのでなんとなくこっちがきつい先生の方かなあ、とか思いながら面接を受けた。お二人とも優しかったような気がする、昔すぎて思い出せないが。もう亡くなられた先生もおられるだろう。私の周りだけでも多いから。歴史を体験として語れる人はどんどん減っていくね。

精神分析家は心理士も増えてきたとはいえ医師が多いので医師と色々話すことが多いが、精神分析のいいところはその学際性にあるし、医師とも心理士ともやっていることが全く異なるので、私の心理職アイデンティティはかなり薄まっている。しかし、保育園や地域に行くと、身軽さと近所の人っぽく接してもらえる感じは私、心理士、と思う。精神分析的な理解はどこでもかしこでもしているけど。集団力動を知るにもとても役に立つし。子供と大人をつなぐ場合も親子関係における力関係を基盤とした力動をアセスメントして関わりを模索するのが日常。またADHDやASDの幼児さんのグループとかやりたいな。彼らの就学前から高校、大学生になるまで関われたのは本当に素敵な体験だった。子供のグループをするというのは同時に親のグループもするということなので、親御さんたちと協力できることもとても心強かった。本当に色々大変だけど、大変になればなるほど一人ではできない。協力せざるを得ない。潜在している力はある程度の危機がないと発動しないところもあるから踏みとどまるの大事。

空がきれいだな。今日もがんばりましょう。

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精神分析

べらぼう、ピクトグラム

今朝は雲が多い。東の空のピンクの手前に雲がモコモコ。見上げれば今朝も月がスッキリきれい。

昨日はバタバタして投句も締切直前になってしまった。いつもそうではあるけどいつもは俳句作らなければ、と焦ったり、兼題を確認したりはする。でも昨日は隙間時間はずっと翻訳をしていて、集中しないと内容が入ってこなくてほかのことを考えられなかった。でも精神分析のことばかり考えるのは蔦重が本のことばかり考えていたのと同じだし、組織に所属してこういう仕事やるのも色々面白いのでがんばろう。

蔦重は大河ドラマ「べらぼう」のこと。本当に楽しいドラマだった。お江戸文化への興味もこの一年でとても広がった。平賀源内の化け物っぷり(どこにでもいるじゃん、という意味で)には展覧会や資料で驚かされる方が多かったが、最後の遊びある時代だったのかもしれない。私は本を読むのが好きというより読書が生活に組み込まれているけど、本の力を存分に見せてくれたのも大変楽しかった。横浜流星は映画「HOKUSAI」で阿部寛が演じた蔦重(渋くて迫力あってこっちも好き)とは全く違うやんちゃで生き生きしたみんなあってこその蔦重で最後まで泣き笑いさせてもらった。ああいう形で人の気持ちに鈍いのも面白い設定だった。瀬川、おていさん、つよ、大崎、吉原の女たち、大奥の女たち、みんなかっこよかった。落語的な終わり方も面白かったし綾瀬はるかは狐でも違和感ないのがすごいな。みんなが集まるシーンが本当にかっこいいドラマだった。重政先生が大好きだったな。とか書き出したらキリがない。楽しかった。

昨日はElias Mallet Barros(2000)、Affect and Pictographic Imageを少し読み始めた。ピクトグラムの論文。精神分析でピクトグラムというとフランスのピエラ・オラニエがオリジナリティを発揮。主著はAulagnier, P. (1975). La violence de l’interprétation. Du pictogramme à l’énoncé Paris: Presses Universitaires de France. 英語版はThe Violence of Interpretation: From Pictogram to Statement, trans. A. Sheridan. New Library of Psychoanalysis. London: Routledge, 2001.これは持っていて部分的に訳してあったのでそっちも参照。本当はオリジナルの概念は用語集や辞書を参照してから中身に取り掛かるのが一番いいと思う。Reading French Psychoanalysis Edited By Dana Birksted-Breen, Sara Flanders, Alain Gibeault(2010)のGlossaryにあるPictogram [pictogramme]もよくまとまっている。昨日はそれを見直そうと思ったのに別の紹介を読んでしまったので時間を取られたLa pensée clinique chez Piera Aulagnier Matinée scientifique de la S.P.R.F. du 11 avril 2015  Conférence de Cathie Silvestre 。2015年4月11日S.P.R.F.(Société Psychanalytique de Recherche et de Formation, Psychoanalytic Society for Training and Research)の会で行われたCathie Silvestreの講演記録。「ピエラ・オーラニエにおける臨床的思考」。これが長くて難しいのだけど結構面白くて一生懸命理解しようと真剣になってしまった。PCの画面に目を近づけすぎてた。近づけなくても老眼鏡のおかげで読めたのだけど目に入れる情報を少なくしないと理解できなかったから。ピクトグラムは人間の心が対象や環境と近づく運動の中で最初に現れる原初的形態といえる。表象なんだけど表象以前という感じ。これも訳したら勉強会で共有しよう。勉強も関心を共にする人たちと協力しながらやると広がりも深まりもあっていい。基本的には孤独な作業だからこそ支えが必要。べらぼうと同じ(余韻に浸っている)。

火曜日もがんばろう。

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月曜朝

東の空がきれい。見上げると月も出ている。なんと贅沢な空。いい月曜日になればいいな。

今朝は茨城経由小山土産。お馴染みお菓子の城いづみやの「御用邸の月」。最初に食べたのは東京スカイツリーのおみやげ屋さんの試食かも。全国に萩の月系のお菓子は多いけどこれは上位の美味しさだと思う。お、これも萩の月系、と思うだけで食べ比べの楽しさがあるので旅先でお土産に買うことも多い。それにしても熱いお茶が本当に身体に染みる季節になった。

一昨日はすごく寒くなるというから真冬の装いをしたら急ぐ用事ができてしまい走りたくもないのに走り汗をかいてしまった。昨日はその反省を生かして簡単に脱いだり着たり巻いたり外したりができる格好にした。行き帰り以外はほぼ屋内にいたのでわりとずっと薄着でいた。家に帰ってひとグループやって暖かい部屋でさらに厚着をしてうとうとしたらやっぱり汗をかいた。詰めが甘い。汗を警戒しているのは今年一気に皮膚の調子が悪くなったから。日光と乾燥には元々反応しやすかったけど少しの汗で結構辛くなるようになってしまった。皮膚科の先生的にはよくあることらしくサクサク処方してくれて助かるが。昨日の勉強会で何歳と何歳が身体だか脳だかの構造が大きく変化する年齢という雑談をしていたけど、私の場合何歳だったか。40代半ばかな。頭痛腹痛の質も変わった。今年はこれまでとは違う状態もたくさん経験した。心が抱えきれないものが身体に出ることを身体化という。いろんな不調はまずは心のことと捉えてきたけど、最近はこれは加齢が基盤だなと思うのでまず初期で状態を整えてから心のありようを観察する。子供の皮膚炎に悩むお母さんたちの話もたくさん聞いてきた。私が20代の頃に聞いていたのはそれを母親のせいにされる話だった。喘息の場合もそう。夜中喘息が出たら電話するように言われたのにかけたらすごく怒られたとか。今もいろんなことが母親のせいにされる状況は変わらないのが悲しいけどアトピーとか喘息に関してはどうなのかな。さすがに変わっていてほしいけど。

それにしても空がきれい、とか言っていないで準備準備。今週もがんばりましょう。

雨に濡れたジュウガツザクラ
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日曜朝

雨。早朝カーテンを開けたら向かいの屋根がとても白くて雪が積もったのかと思った。雨で空は暗いのに光って見えるのだから水ってすごい。

今朝のNHK俳句は岸本尚毅先生だった。兼題は「石」。みなさんの俳句を読んでいい季語だなと改めて思った。私たちの小さな(だいぶ大きくなった)オンライン句会の投句締切は明日。まだ一句も作っていない。忘れないようにせねば。年末っぽい句を作ることになる、作ることで年末を意識する。させられる。うう。

年末締切の原稿を昨日ようやく書き始めた。というより、とりあえずアイデア出しをしてこの路線で、治療状況のこういう場面を切り取ろう、くらいのことが決まったような決まっていないような感じにはなった。一般向けの本の一章なので先行研究をしっかり示さねばとかそういうことはないが、かなり長く積み重ねてきた体験があっても、それがどうして効果的だったのか、あるいは役に立てなかったのかを考えるために結局理論に支えられてきたので文中には書かなくても理論的背景との接合ができないことは言葉にできない。かといってどの業界にもいるずばぬけた感性でものを書く人がそういう作業をしていないかというと全然そうではなくて、怪しくない名人は歴史を経て育ってきた知見を細やかに参照し自分のものにした上で書いているのでやっぱり天才!と思う。いいなあ、とか言っていないで身の丈でものごとを進めなくてはならぬ。

そうだ、午後の勉強会の資料をプリントアウトせねば。やっぱり紙にしないと読みにくい。そして朝の目が本当に働くなってきた。こうやってどんどん読めなくなっていくのかもしれない。そしたら記憶力の弱い私は学術的なことは何もできなくなっちゃうのかもしれないな。こういうときにやっぱり名人はいいなと思う。機能が落ちてもそれまでの蓄積が引っ張り出せる場所にあるわけでしょ。私の場合、専門的なことで何か書くときも「あー、あの人のあれ使おう、でもどこに書いてあったっけ、こう書いてあったよね、あれ?違う?」みたいな曖昧さで始まって、その本を部屋から見つけ出すところから苦労して、見つけると別のところから読んじゃって、結局どの文章探していたんだっけ、と振り出しに戻って、みたいな。人生は双六なのですね。確実に老いているのに変なところだけまた振り出しかよ、みたいになるのは辛いけど面白がりながらやっていけたらいいな。身体のほうが頭よりは上手に使えるから(粗大運動に限るけど)そっちの機能まで落ちたらとても悲しい。地道に鍛えても体調崩して一気に振り出しって身体の場合もあるから。でもなんにしても積み重ねができる基盤を意識するのが大事かな。双六だって全体があるからこそ楽しいわけで、これまでやってきたこととか周りがしてきてくれたこととかいいことも悪いこともひっくるめてとりあえず足場はあるから、バラバラになったような、もしくは底が抜けたような感覚になってもそこに戻ることから始められたらいいな。よく夢とかお話とかで行き場無くしたときに「こっちこっち」って声がしたり手招きしてくれる場面があるけど、フワッとそっちに向かうときと向かいそうになるけど「あれ、なんかおかしい」と足の方に止められる感覚になるときってあるでしょう。その足が大事と思う。小さな移動手段が時間をかけて学んできてくれたことに委ねつつ、移動することで機能を落とさないようにしつつ、ですね。寒いから必要最小限になるけどね、この時期は。脳内散歩でいっか、ということで無理せず過ごしましょう。

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土曜朝

昨晩、遅くまで起きていたので、というかいうかウトウトしていたら結構な時間になっていた。まだ暖房の名残が残っていてありがたい。寒さを感じる前に走る季節になった。暖まるほどのスピードや距離は無理。荷物が重すぎる。いや、荷物が軽くてももうそんな元気ない。ならなぜ走るか、といえば疲れが寒さを紛らわしてくれるから。でも以前、急に走り出してぎっくり腰になったから年相応に動くことも学ばねばならない。

今朝は熱海土産「菓子の木」さんの福こがし。来宮神社ってシールが貼ってある。

「スペインの伝統菓子ポルポロンを、来宮神社に縁ある麦こがしを使い熱海風にアレンジ。」

熱海風とは。まあ良い。熱海のお菓子はこの前も「福」がついていた気がする。福が多いのはいいことね、と裏面を見たら「菓子の木」さんの住所も熱海市福道町だった。まあ。福の道の町。いいね。

ちなみに「ポルポロン」は「クリスマスなどのお祝い事に食べられ、「ポルボロン、ポルボロン、ポルボロン」と3回唱えてから食べると幸せになる」とAIが教えてくれた。音もかわいいものね。

今日はパソコンのマウスを忘れた店に寄らねば。ああ。辛い。でもあってよかった。

NHKブックス No.1261 『戦後「社会科学」の思想 丸山眞男から新保守主義まで』を読んでいる。森政稔著。高井ゆと里さんが「とにかく政治思想の教養を浴びたい人におすすめ」と書いていたので浴びてみた。おお。私は政治のことなんてまるでわからない子ども、思春期を過ごしていたつもりだった、いや、実際そうだったが、社会のことは肌で感じるものらしい。1980年代のこの感じ知ってるとか思った。

「アンという名の少女」にAren’ t you all kinds of 16year old trouble.というセリフがあるのだけど、そこらの年齢がそういう感じなのと社会がどうだったかは密接に関連しているはず。愛しさをもってこういうことを言える社会にしていきたいね。

今日はもう土曜日。寒さに負けそうだけどなんとかやりましょう。

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静かできれいな空。夜明け。玄関先の落ち葉をきれいにしなくてはと思ったらちょっと気が重くなった。さっきまでのバタバタの一環でささっとやってくればよかった、とまで書いてやっぱり今やろう、とやってきた。外は家の中の寒さとは全く種類が違って上着もきなかったけど気持ちいいひんやりさだった。隣の家の紅葉と我が家の山椒が主な落ち葉。落ち葉はくるくるくるくる回って落ちてくる。新宿中央公園みたいにすごく高い木からだとくるくる時間が長くて思わず見入ってしまう。頭にも落ちてきてびっくりすることもあるがこの時期はそれが落ち葉だとすぐわかるから安心。我が家の小さな玄関を薄く埋めつつあった赤と黄色の落ち葉はあっという間に片付いた。ちりとりですくうときに星形のスパンコールが見えた。こういうの懐かしい。どこから降ってきたのだろう。

 来年韓国のソウルで行われるIPA Asia-Pacific Conferenceの演題が採択されたとメールが来た。驚いた。今回は応募数も多く、私はテーマにそうことも忘れていたので絶対ダメだろうと思い、来年の協会のジャーナルに出せるように加筆修正しようと思っていた。一気に書いて締切直前に出したので何を書いたのかあまり覚えておらず原稿を探した。書いてすぐに提出用のWebページに貼り付けたことを思い出し、まさか原稿残っていないのかと焦ったが思った場所とは違うフォルダに入っていた。でもアブストラクトが見つからない。探さねば。

昨晩、眠くてしょうがないのに本が読みたくてなんとなく文庫を手に取った。グレッグ・イーガンの「ひとりっ子」だった。一応短篇集なのだがあまり短篇ばかりではない。ザ・SFで情報量も多いのだが時間の行き来が自由なので昨日みたいなぼんやりした夜にはちょうどよかった。勉強のためではないから難しい話とか出てきてもそれ自体を正確に理解する必要はなく雰囲気に乗ればいいからただの読書は良い。

現実の空がスッキリ明るくなってきた。まだピンクが混じっていてきれい。12月が12日も過ぎてしまった。全く書けていない原稿に手をつけなければ本当にまずい。この線でいこう、というのが決まれば書けると思うのだけど・・・。困った。週末もそれほどまとまった時間があるわけでもないし。うーん。困った。とか書いていないでやりましょう。とりあえず今日も暖かくして過ごしましょう。

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オグデン論文に対するやりとりを読んだり。

起きたらすぐにカーテンの隙間から東の空を眺める。夜明けはまだ。寒いから日が出るまでカーテンは開けない。今週は朝が寒い。昼間は結構暖かくて銀行や郵便局やコンビニに行ったりするのがめんどくさくなくてありがたい。どこも近いけど。

寒い寒いと思うと北海道や青森などの地震後の状況が気になってニュースを探してしまう。被害状況の写真も増えてきたが東京よりずっと寒い土地に暮らす人たちは今どんな感じなのだろう。北海道の友人たちは元気なお返事をくれたけど。後発地震注意情報って以前からあったのかな。あまりテレビを見ないからよく知らないけど行ったこともある街の名前が出てくるとさらに胸が痛む。原発も気になる。作業工程を知らない人が半数はいるらしい。

年末年始は寒いから出かけても屋内で過ごしたいがなんとか館関係だと水族館はやっているところが多いかもしれないが、文学館とか美術館は休館が多い。もちろんみなさん、年末年始くらい休んだ方がいい。山に行けばすぐにあたたまるけど。冬の空気を楽しめるようになりたい。

どこにいっても、というほどではないが、文学関係の展示などにいくと常設展で三島由紀夫と出会う確率は高く、展覧会の主役より目立っているように感じられることも多い。写真でも文章でもエピソードでもなんでも印象が強い。私が三島由紀夫の文章が好きだからそんな気がする、というより三島の交流、活動範囲が広いせいだろう。この前、友人と土居健郎の文章の美しさを話したせいか、ちょっと寄った本屋でふと三島由紀夫の文章読本を思い出した。文章読本それ自体をというよりその中の3行に救われた、みたいな誰かの文章を思い出した。誰だろう。武田百合子か、と思い、文庫の棚で武田百合子の本を探したけど対談の本しか見当たらず、それではないみたいだったがその対談本も面白そうだった。この時代の本はいいな。ほとんど中身は覚えていないが読んだときのインパクトだけ覚えている。

今朝もりんごと熱海のお土産をいただく。三木製菓さんの「ネコの舌」。ロゴもイラストもかわいいな。そんなに大きくない個包装なのに舌型の薄いクッキーがたくさん入ってる。素敵。美味しい。ザクザク厚いクッキーも好きだけどこういうのもいいね。

それにしても目を逸らしたくなるニュースが多すぎる。ノーベル平和賞の授賞式にも出席できないとかほんと平和ってなんだろう。常に命かけないといけないのか。

昨日、仕事を終えてもう今日はなにもできない、と脳内で弱音を吐きつつiphoneのKindleアプリのマークを眺めていたらメールがきた。The International Journal of Psychoanalysisから。新しいジャーナルが出るとくるお知らせメール。スタイナーの論文の紹介から始まってて少し元気が出た。知っている名前が出てくるだけで少し嬉しい、とざっと見たらLetter to the EditorのセクションでMarie Lenormandがオグデン(Thomas Ogden)の最新論文、Inventing psychoanalysis with each new patientに対してコメントしていることを知った。そしてそれに対するオグデンの返事も読めることがわかった。PEPを開いて早速読んだ。私はこのLetter to the Editorのセクションが好きで、今回は私もインパクトを受けた論文に対するコメントだったのでなおさら興味深く読んだ。結構強い言葉で批判しているなと思ったが長いのでオグデンの応答を先に読んだ。簡潔にして的確。レノルマンって読むのかな、Marie Lenormandはウィニコットについての論文で読んだことがある気がする。この二人はウィニコットの読み方も対照的なんだろうなと思った。オグデンの論文は訳してあるからもう一度読んでみよう。こういう対話があると論文の理解が深まる。

昨日は私のオフィスの専門家向けページを更新した。読書会と事例検討会の来年度のご案内を載せたので精神分析的臨床を実践している方はぜひチェックしてみてください。どうぞよろしくお願いいたします。

寒そうな空。今日も頑張りましょう。

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アラン・N・ショア『右脳精神療法』、河合隼雄の本など。

朝焼けも月もきれい。月はまだまだ高い位置にいる。

少し前、アラン・N・ショア『右脳精神療法ー情動関係がもたらすアタッチメントの再確立』を読んでいた。「甘え」「恥」「罪悪感」「超自我」の関連で「相互退行」について書いてあるものを読みたかったので。

精神分析での退行はバリントがいうように「新たな始まり」の契機となりうる。ショアによると「更新された臨床モデルでは、相互の再エナクトメント内の退行は「外傷性の反復」と「新たな始まり」を表し、それによって新奇性と修正情動体験の右脳の創造的処理の表現の文脈を表す」とのこと。「相互の」が大事。

ショアは右脳に情緒的な自己表象、左脳に言語的なそれ、と左右差を前提に、母親的対象の右脳(=自己)との同期によってそれらが発達することを述べている。アタッチメントの確立とトラウマの関係を脳のレベルで捉えるショアの言っていることは精神分析の一面を精神分析実践を伴わずに可能にし、その説明にエヴィデンスを与えうるのだと思う。メンタライぜーションと似てるのかなと思ったのだがわからない。よく読むと抽象的で私の実践による実感とはあまりうまく接続できずにいるが。相互退行についてはボッテラ夫妻の論考がしっくりきたのでそっちを追うか。

「甘え」については『右脳精神療法』の訳者解題とあとがきで「アタッチメント形成における子どもの情動不安の大半は「甘え」にまつわる情動の動きである。私たち日本人であれば、言葉の生まれる以前の情動的コミュニケーションの世界を「甘え」を通して明示的に捉えることができる。」が、ショアはこの文化を知らないので「情動的コミュニケーションの断裂によって生まれる心理を恥shameとして論じている。」とあるが土居健郎の本は参考文献にはあがってはいなかった。

最近、また不登校に関する話題を多く聞くようになった。臨床ではこれまでと変わらず学校に行かない子はたくさんくるがそれがメインのトピックにはならない。

そういえば、と河合隼雄の『母性社会日本の病理』 (講談社)をめくってみた。

>これらの疑問に答えられぬまま、日本の多くのインテリは親子関係のことは、たかだか「家庭欄」のことで「文化欄」で論じられることではないとたかをくくっている。その実、外での高尚な理論と裏腹に、内で「女・子ども」と真に対話し対決することを避けて通っている。ここには、軍部との対決を避けて文化を論じていた、昭和の初期の青白いインテリの姿を連想させるものがある。そのような態度に対して、登校拒否の子どもたちは文化・教育の危機に対する警鐘を──無意識ではあるが──身をもって打ち鳴らしているのである。彼らを単なる脱落者として見ることなく、警鐘を鳴らす者としての意味を取りあげ、教育ということを、広く文化、社会、宗教などの問題と照らしあわせ、再検討することの必要性が痛感される。「敵」はアメリカ大陸などにいるのではなく、われわれ母性文化の本城である「家」の中にはいりこんできているのである。

河合隼雄は

>母なるものの力は、「包含する」力であり、すべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包みこむ。これに対して、父なるものは「切る」力をもっている。

としてグレートマザーの威力を語ったうえで父なるものの不在を語るが、この理解は学校にいかない子どもとその子がいる家庭の全体の根底にある問題、つまり社会の問題に押し返すべき問題と読むべきで、よって不登校の説明には特にならないと私は思うし、学校にいかないということをどこまで象徴的に強調するかは考えどころだろう。

ということで今日もそれぞれ色々協力しつつがんばりましょう。

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地震、できることの方を

青森、北海道、岩手などの地震、津波も心配で昨晩はずっとニュースを見てしまった。途中から音声は消してしまった。この寒さの中避難したり、火の用心で火を使わなかったりしたらますます心細いのではないだろうか。まずは守られた居場所があることの重要性を痛感する。被害が大きくなりませんように。

東京の空は少し雲が多いが、今朝もきれいなピンクに染められつつある。熱いお茶と熱海来宮神社の「わか葉」をいただいた。あとりんご。あたたかい、おいしい、とても大切で恵まれていると思う。

無視できない問題が多いが、その問題に一緒に取り組める人は少ない。瀬尾夏美さんや富永京子さんのような地道な運動の仕方を教えてくれるモデルはいるし私も以前はNPOで社会運動的なことをやっていたが、ボランティアや地域の人など協力してくれる人が増えれば増えるほど難しさは増した。団体はウェルカムであることが大事であり、というか個人に対してもそれは当然そうで乳幼児観察のトレーニングを受けているときにこのウェルカムかそうでないかはひとつの指標になっていた。その場にいる相手を見えていないかのようにできる人は実際にいるわけで、物理的に一緒にいてもそれは場を共にしているとは言えないので何かを一緒にすることは難しい。特定の相手にだけ、などの言いぶんも聞こえるが相手が誰であってもそういうのはどうなんだ、ということだよ、という話は結構ある。臨床家にもそういう人はいるが、臨床の仕事で出会う分には全てがアセスメントで、患者の環境をマネージメントするために自分がそういう人とでもどういうふうにやっていくかを考える必要があるだけなので、それはそれとして関わっていくが、間に守らねばならない人がいるときにそういう態度を取られることは非常に困ることではある。小さな子供のセラピーをしていると親御さんとも関わるわけだが子供を間に包み込むようにおいてあげられるかどうかは臨床家ひとりでできることではなく、親機能と協力することが絶対に必要。もちろん機能が落ちているから相談にきている場合の方が多く、一時的にこちらがその代わりをすることがほとんどだが、それだって自分の責任において相手の機能を預かっているという点で強力なわけで、それを「ない」とアセスメントすることはできないし、ましてはあるのにないように振る舞うことなんてできない。どれだけの人の心が無視されていることか、と思うからこそできることを考える。

今、災害や宗教やいろんなことで孤立している人たちが表面上のウェルカムに惑わされず、暖かで安心できる居場所と出会えますよに。そういうのはお金がかからないことがまず大事なので行政が最初の窓口として確実に機能してくれたらどれだけ安心だろう。もちろん行政で窓口を担当してくれる人が孤立しないように協力して一緒に取り組んでくれる人が絶対必要。こういうことが難しいのなんてわかりきったことだができる方向で考えることが出発点だからやっぱりその方向で、と思う。

こうして日本にも朝がきたけど本当に不安な夜を過ごした人たちに継続的に関心を持ち続けていけたらと思う。

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アンドレ・グリーン「Sexuality in non-neurotic structures」や鈴木智美『こころの探索過程―罪悪感の精神分析』

6時ちょっと前の東の空がとてもきれい。少しずつ紺とピンクが濃くなっていく。寒いので朝の支度はちゃっちゃと終えた。関西の友人がくれた紅茶のパンも食べた。新宿区でオフィスを構えていてもデパ地下には詳しくない。東京楽しい、と買ってきてくれたかわいくていい香りのするパン。美味しかった。

隙間時間に自分の勉強のために翻訳をするのが習慣になっている。外向けにするためには読みやすさやわかりやすさを考えて日本語にしていく必要があるが自分にわかればいいのでどんどん訳せる、というわけではなく、難解なものは難解なので結局それなりに時間がかかる。それでも同じ著者の文章を読み続けると言い回しや語り口に慣れてくるので難解でもそんなに気にならない。身近な人の話はある程度聞き流していても理解できるのと同じ。かな。かも。


French Psychoanalysis: Contemporary Voices, Classical Texts Series一冊目、André GreenのContemporary Psychoanalytic Practiceの第6章、The enigma of guilt and the mystery of shameを読んだと書いた。昨日はCHAPTER 7 Sexuality in non-neurotic structures: Past and presentを読んだ。ここでグリーンは自分の論文”Has sexuality anything to do with psychoanalysis?” (Green, 1995)を引いているが、両方読むと理解が深まると思う。グリーンの問題意識は以下から始まる。

「現代精神分析は、前性器的あるいはナルシス的といった異なるタイプの葛藤における防衛の一般化にしばしば遭遇する。分析の領域は、修正された枠組みにおいてこの方法を用いることに基づき、「精神分析的psychoanalytical」と呼びうる対面での関係を含むまでに拡張されてきた。私たちのセクシュアリティ概念は変化した。これらの構造において、セクシュアリティが神経症におけるそれよりも重要性が低いというのは正確ではないが、それが果たす役割が異なると言うことはできる。実際、私たちはセクシュアリティが本当は何であるのかを見なければならない。」

そしてフロイトの有名な症例「狼男」(ー「ある幼児期神経症の病歴より」)を転回点として展開した神経症でも精神病でもない境界例の患者にみられる前性器的固着、あるいは否定的なエディプス・コンプレックスに関連する固着というセクシュアリティをお勉強的に記述する。

と書いていると時間がないので書かないけどこの章はそのあとに要約された臨床事例が複数あってセクシュアリティの意味や精神分析において否定、あるいは排除されつつあるセクシュアリティに再び関心を取り戻す必要性が十分に伝わってくる論考だった。

グリーンのこの論文もそうだけど、臨床事例はヴィネットとして書きたい。日本精神分析協会訓練分析家の鈴木智美先生の『こころの探索過程―罪悪感の精神分析』(金剛出版)はその点とても参考になるし、内容も鈴木先生の語り口そのままに平易で静かで受け取りやすく学びやすい。鈴木先生はグリーンの本も訳されていたり、その翻訳のお仕事からなんとなくフランス語の文献が多いのかと思いきや私が身近な日本の臨床家の論文も多数参照されていて、鈴木先生の文章も日本語ならではの表現が多く、他の精神分析家の先生たちとは異なる実践家の本だなととても良い印象を受けた。マネージメントの章は医師にはもちろん心理師(士)にとっても当たり前に大切にしていきたい(でもなかなかなされていない)ことが多くのヴィネットと共に書かれていてとてもいいなと思った。初回面接のグループの皆さんとも共有させていただこう。

いいお天気。東京は日中、ぽかぽからしい。今週もがんばりましょう。

文献:Green, A. (1995) Has Sexuality Anything To Do With Psychoanalysis?. International Journal of Psychoanalysis 76:871-883

アブストラクトはこんな感じ。

アンナ・フロイトセンターのSigmund Freud birthday lectureのために用意された論文。 精神分析におけるセクシュアリティの意味と重要性をめぐる誤解を明確にし、検討する機会として。グリーンは、過去10年にわたってきた行ってきた観察からはじめる。ひとつは、通常の臨床提示においてセクシュアリティが直接的に語られることが減少しているように見えるということであり、もう一つは、セクシュアリティが周縁化され、専門的論文に限定される傾向があるように見えることである。こうした傾向を問い、理解しようとするにあたり、著者は、フロイトがセクシュアリティを、心的発達、精神分析理論、ならびに臨床実践の中心に据えていたことを想起する。著者によれば、対象関係、前性器的的固着、境界性の病理、そして子どもの発達観察に基づく理論や技法に対する、現代的かつ流行的な関心は、精神分析理論および実践におけるセクシュアリティの意味と重要性を曖昧にしてしまっている。フロイトのセクシュアリティ概念に関する簡潔な回顧とその再評価は、性器的セクシュアリティおよびエディプス・コンプレックスを、その中心的な位置へと回復させることを目指すものである。著者にとって、今日のセクシュアリティは、フロイトのセクシュアリティとは同じではない。

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会議室、「ロード・ジム」

今日の朝焼けもとてもきれい。最近、俳句を作るのを全然また忘れていた。いかん。紅葉の移り変わりもたくさん写真に撮ったし、西新宿のイルミネーションもそこそこ撮ったのに言葉にしていない。写真がもつ情報量もすごいが、17音がもつ言葉の広がりは別の凄さがある。というかそういう俳句を作れるようになりたい。今日は一日ミーティングだから会議室俳句でも降りてこないものだろうか。定点からひたすら机や椅子や人を観察していればなにかしらくるか。こないか。この空だと今日はきっといいお天気。そんな日に会議室につめこまれるなんて楽しくないけど普段オンラインでしか会えない人たちと会えるのは嬉しい。直接会って話すって本当に大事。

この前、アンドレ・グリーンが引用した船乗りでもあったコンラッドの「ロード・ジム」を読み直していたがやっぱりすごく面白い。冒頭の人物描写からしてすでに面白い。グリーンが恥shameの説明で引用した部分もすごく良くて、このお話の本質的な部分だと思うが、まずは終始こういう感じで言葉が展開されていく世界にドクドクする。人の心ってどんな状態でも、外からはものすごく静かでも、ものすごい活動量だから、その複雑さと活力が言葉になっているのをみると私の心もドクドクしはじめる。

グリーンはContemporary Psychoanalytic Practiceのchapter6.The enigma of guilt and the mystery of shamefr

「そしてさらに重要なことに、彼の恥の本質と意味は何なのか、という問いである。人間と蝶を同じ無関心さで見ようとするその昆虫学者は、次のように結論づける」

と書いてからコンラッドを引用する。この前の部分でも引用されているがこっちだけ取り出しておく。私が読んだのは柴田元幸訳の「ロード・ジム」(河出文庫)。

『そして、人はいつも目を閉じてはいられませんから、いずれ本当の厄介がやって来ます!心の痛みが!世界の痛みが。そうです、我が友よ、夢が叶わないと知るのはよいことではありません。人には強さが足りないから、賢さが足りないからです。[…]人は生まれて、海に落ちるように夢の中に落ちます。[…]為すべきは、破壊的なものに身を任せることです。水の中で両手両足を動かして、深い深い海に下から支えてもらうんです。』(Conrad, 1900

なんとなんと、ではありませんか、この書き方。私は「恥」概念と「よそ者」とフロイトの「寄るべなさ」と土居健郎の「甘え」を連続させて考えているところなので、そんなときにグリーンの論文で「ロード・ジム」にまた会えたことはとっても嬉しいのだ。ここから形にできるほどに頑張れるかは私次第。がんばれ、私。あまり信用ならない自分をこうやって鼓舞しながらなんとか日曜日も過ごそう。会議室で(悲しい)。

いい一日になりますように。

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青と黒の本とか。

朝焼けはいいねえ。ピンクが少しずつ広い空に溶け込んで東の空は薄くなっていく。

今週も終わる。ものすごいスピードで日々が過ぎていく。そんなときは夏目漱石を読むといい。今と過去と未来が緩やかにおおらかに書かれているから。もちろん全ての作品がそうではないけれど。

先日、土居健郎の選集で「甘え」理論の展開(うろ覚えなのでカッコつけない)を読んでいた。私がこの本で気に入っているのは土居健郎が漱石を引用する部分。そもそも私が土居健郎を知ったのは実家にあった青と黒の本『漱石の心的世界』だった。土居が夏目漱石に書いたものを読んだ加賀乙彦の勧めで国文学の雑誌に連載したものを加筆修正した一冊だ。私はあれを読んで病跡学や国文学をやりたいとか思っていたがそうはならなかった。でも土居と同じ仕事にはついた。学問ってこういうこと(説明省く)。

青と黒の、というのは本が入っている箱のことで中の本はグラシン紙に包まれていた。黒か茶色の本。昔はそうやって色で呼ぶことが多かった気がする。赤い本とか。ちなみに私が大好きだった本は「黒いチューリップ」。単に色が好きなのかもしれない。デュマも知らなかったし何も知らず何度も読んでいてはじめて行った海外であるサンディエゴの州立大学の図書館でも探した。そのまま今調べてもthe black tulipでそのままの英語なのに見つからなかった。私は当時どんな言葉で検索をかけていたのか。もう30年以上前の話だけどあの図書館、検索ができた気がする、そういえば。それともコンピューターでの検索ではなかったから調べ方が十分ではなかったのかもしれぬ。覚えていない。

土居健郎もカリフォルニアの図書館で夏目漱石の全集と出会った。もちろん日本ですでに読んだものも多くあっただろうが、土居の人生に大きく関わる精神分析の訓練のために渡った米国でこれぞ我が事と思える作品を読んだときの感激はものすごいものがあっただろう。この本はとっても面白いので皆様も是非に。フロイトもそうだけど土居も引用がうまいので漱石を読んでいなくても面白いと思うし、漱石を読みたくなるとも思う。

なぜ私はこんなことを書いているのか。頭にあったのは全然別のことだったのに途中動いたのがいけなかった。土曜の朝はなんかいつもの朝と違って特別な気がする。いい1日になればいいな。みんなも。とりあえずいいお天気だといいですね。

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寒く眠い朝

今朝もとてもいい夜明けが見られた。それにしても寒い。寒いと急に眠気がくる。今、とても眠い。

フロイトの戦争という観点から色々見ていた。フロイトミュージアムのアーカイブには息子マルティンとフロイトの書簡、というか主にマルティンが第一次世界大戦に従軍中にフロイトに送った手紙のことが書いてあった。マルティンは父フロイトとの思い出を本にもしているが、とても素直な印象を受ける。全然フロイトの権威に染まっていないというか。

フロイトバッシングに関する論文や記事も読んだが、部分的な否定はできても全体的に無効とするわけにもいかない難しさがあるし、バッシングする側にもフロイトの仕事に対する敬意を感じた。フロイトはとんでもエセ科学野郎だぜ、みたいなことを言いつつ、でも天才ではあるぜ、という感じだったり、いうこととやること違いますよね、という批判だったり、まあ、そうはいっても現代からみるとフロイトの貢献はこういうところにあるのでは、という中立的な立場だったり色々ある。私はバッシングも盲信もしたくないな。フロイトはもう死んじゃってるけど対話は残されたもので残された人たちとしかできないけど、自分の人生を面白くしてくれているこの学問が好きではある。

でも今はただただ眠い。半分眠りながらでかける準備をしていた。とても寒いけど空がきれいなのは素敵。風邪ひかないようにがんばりましょー。

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臨床心理士資格、レヴィン序文

今朝、とても見たかったいかにもよあけという空を見た。昨晩は月を見たくて、空を見上げたらまず星がとても明るいのに驚いた。すっかり冬の空だった。

日本臨床心理士資格認定協会から書類が届いた。「臨床心理士」資格更新のための書類を作らねば。これまで参加してきた研修や学会の領収証などは別にしておいたのにそれが見当たらない。困った。臨床心理士資格をとって25年。5年ごとに更新して、毎回こうなるからきちんとしておいたはずなのに。

さてContemporary Psychoanalytic Practice by Andre Green French Psychoanalysis: Contemporary Voices, Classical Texts Seriesの一冊目、グリーン自身がウリバリとの対話の中で選出した論文集。英語版への序文は The series editorでThe Freudian Matrix of ​André Green序文”Why Green?”もよかったHoward B. Levine。

その序文、Limit cases, transformation, and the ordeal of the session: André Green’s extension of Freudian theoryの一部訳を置いておく。

>>介入は「風通しのよい(ventilated)」ものでなければならず、つまり、ドグマ的でも、強制的でも、過度に「確か」でもなく、潜在的でありうる意味の移行領域を巧みに支え、拡張し、さらには創り出そうとするものであるべきである。グリーン(1996)はこれを「自己組織化の認識論…、分析をオートポエティックな(autopoetic)過程として、組織化−脱組織化−再組織化の連鎖として捉えること」を要すると述べている。多くの患者にとって、まだ感じられておらず、まだまとまった意味が存在しうるという見通しそのものが、理解不能、混沌、そして空虚(空白blanc)な抑うつや境界例状態の寄るべなさと絶望から離れる進歩的な一歩である(本巻第5章)。

風通しのよい解釈(ventilated interpretation)という概念は、フロイト(1937)の「構成(Constructions)」論文と、ウィニコット(1971)のスクイグルゲームの論理に基づいた技法の拡張である。それは、患者の語りspeechが破壊的分裂や意味あるつながりの形成不全によってどれほど断片化しているかを取り扱う。

レヴィンはこうやってスッキリまとめているけど、この本はスッキリするまでのプロセスが、フロイト、ビオン、ウィニコットの精読を通じて書いてある。そのプロセスを追うのはとても大変だけどそれがなかったらこんなこと(上記)書かれても面白さがわからないものね。精神分析の面白さはそりゃ苦痛を伴うけど中に入らないことにはどうしてもわからない、というか大体のものはそうだろう。

きれいな光。いいことあるといいな。みんな元気で。

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鳥、初台、ペレルバーグ

パソコンの画面が昨日からアメリカシロペリカン。自分でなにも設定していないからいろんな画像がでてくる。ペリカンを最初に見た人はきっとすごく驚いたと思う。口開けたらあんななんて。今、画像見たら私がイメージしていたより袋の部分は口開けてもすっきりしているのね。もっとがばーって感じかと思っていた。イメージの中でびっくりしていただけね、私は。舌が小さいらしいのだけどその小さな舌の筋肉であののど袋をコントロールするらしい。すごい。長い首もぐるって後ろに回せて背中に乗せて休めるしすごくうまく設計されている。動物の身体ってすごい。

まだ空が夜。カラスはもう鳴いている。昨晩は月をみることができなかった。

この前、オフィスの反対側のほうの初台、ふどう通りのほうを歩いていたら製麺所から麺をもって出てくる人に何人か会った。富士そばの工場(?)がオフィスのほうにあるのだけど、初台は麺が得意なのだろうか。蕎麦屋もラーメン屋もそれなりにある。私は2軒の蕎麦屋にしか入ったことがない。それも最近。どちらも町の蕎麦屋という風情で気にいっている。ふどう通りは新宿のお隣とは思えないほどローカルな雰囲気があって好き。初台のお隣の幡ヶ谷まで歩くこともある。幡ヶ谷の商店街はとても賑やかでおいしいものもたくさん。さて、トコトコと初台に戻りましょう(脳内散歩していた)。麺屋さんは紀州屋製麺さん。良い感じの貼り紙に値段が書いてあった。安い。地元の人っぽい人たちが立て続けに買っていったのを目にすると私もという気分になる。いろんな麺を食べ比べてみるのも楽しそう。

それにしても乾燥がすごい。冬だ。皮膚の小さな小さな傷が十分痛い。新宿でロクシタンを通りかかったらクリスマスギフト用のハンドクリーム4本セットがあった。街はすっかりクリスマス。ハロウィンから一か月が過ぎ、西新宿なんてほんとすっかりクリスマス。店頭で香りを試させてもらった。私は特別な香りより普通のシアが一番好きだな、と思いながらプレゼントを検討した。香りは好き嫌いが顕著だから好みを知っている人、もしくは好きでない香りのものも気持ちよくさばける人でないと難易度高いかも。

先日、読書会でThe Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind By Dana Birksted-Breenの第7章(邦訳だと第6章)Time and the après-coupを読んだと書いた。そこで引用されていた英国精神分析協会の訓練分析家、Rosine Jozef Perelbergのウェブサイトをみていた。ペレルバーグは2023年に精神分析と社会人類学の創造的対話構築による時間性・セクシュアリティ・反ユダヤ主義への取り組みに対してシガニー賞を授与されている。ダナとペレルバーグの共通点は精神分析の古典を網羅的に精読しつつものすごい知識と現代的な視点でそれらを外に開く努力と知力にものすごく秀でた精神分析家であるということかな。

ダナのaprès-coup論文でペレルバーグが引用されるのは彼女がシガニー賞を受賞した理由からも明らかだと思う。ペレルバーグのウェブサイトにKey Conceptsのページがあるがその一番上にAprès-coup, Descriptive and Après-coup, Dynamicの説明がある。いつも通りざっと訳しておく。大変簡潔にまとまっていて文献の紹介もあるので自分で勉強しやすいと思う。ダナの本のaprès-coupの訳は「アプレ・クー」だが翻訳の工夫と苦労が滲み出る訳書。「アプレ・クー」を含むいくつかの訳語については訳者の説明が丁寧になされている。私としては意地でもダナのいうaprès-coupを単なる「事後性」とは異なるものとしてカタカナではなく日本語に変換したいがどうしたらいいものか、ということでペレルバーグの訳には一応定訳である「事後性」を用いた。ペレルバーグのように事後性の前に説明をつけるのがいいと思う。ダナの場合だったら「遂行的事後性」「創発的事後性」とか?ベルクソンを思い浮かべながらそんなことを考えた。

>事後性(Après-coup)――記述的事後性と力動的事後性


infant(乳児)とは過去の赤ん坊のことであり、個人の発達の中で観察可能な存在である。
一方フロイトによれば、infantile(乳児的なるもの)とは、大人の内部にいる子どもであり、構成(construction)の過程を通じてのみ到達することができるものである。
乳児は観察の対象となりうるが、乳児的なるものは、事後性(après-coup)の過程の中で分析家によって再構成されるものである。
この主題は、ペレルバーグの最初の精神分析論文(1991年、ブエノスアイレスでのIPA大会にてチェザーレ・サチェルドーティ賞受賞)の中心でもあった。
その研究は、2008年刊行の著書 『Time, Space and Phantasy』 へと結実した。
ペレルバーグは 『The Controversial Discussions and Après-Coup』(2006, 2008)の中で、次の区別を提案している。記述的事後性(descriptive après-coup)セッションの今‐ここにおける、事後的理解を指す。力動的事後性(dynamic après-coup)
フロイトのメタサイコロジーに深く埋め込まれた概念であり、反復強迫、性(sexuality)、時間性(temporality)、そして転移といった概念のネットワークを含意している。

訳おしまい。毎日少しずつ興味のある分野の文献を読んでは訳している。英語ができるわけじゃないけど日本語でもわからないし複数の言語を行き来させているうちにわかってくるから。なんでも地道に。今日も地道に。空が明るくなってきた。夜明けですね。良い一日になりますように。

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shameとか。

空のピンクがあっというまに白っぽいグレーにとけてしまった。暖房を消し忘れた不安に苛まれる季節になったのでさっさとでかける準備をして暖房を消してちゃっちゃっと色々やる。私の場合、不安で戻ってきたら本当についていた、ということがあるので本当にいけない。寒いといろんな行動が怪しくなるので気をつけねば。

昨晩は、アンドレ・グリーンの関連でJean Guillaumin(1923-2017)とBernard Brusset(1938-)のことを調べたり動画を見たりしていたら眠ってしまった。ふたりともSPPのメンバー。グリーンはThe enigma of guilt and the mystery of shameで羞恥心に関する7つの説明をしているが、そこに登場するのがこの二人。ついでだからそのなかの3つをご紹介。こんな感じ。いつも通り正確には原文をご参照あれ。

1.羞恥心shameという情動について書かれた文献は非常に少ない。文献の中で挙げるべきものとしては、とりわけ思春期における羞恥に焦点を当てたジャン・ギヨマン(1973)とベルナール・ブリュセ(1993)の研究がある。

2.最も示唆に富んだ描写は文学や芸術作品に見られる(読者には、私が以前に行ったAjaxとオイディプスに関する研究〔Green, 1982a〕を参照されたい)。私の見解では、羞恥を最も強く表現しているのは、ブランカッチ礼拝堂にあるマザッチョのフレスコ画――『楽園追放(アダムとイブの追放)』――である。そこでは、誘惑の場面における最初の男と女の美しさ、誇りを帯びた表情、威厳に満ちた態度と、神の怒りにさらされた後の彼らの姿とが対照的に描かれている。アダムは両手で顔を隠している。彼は泣いているのかもしれない。しかし確かなことは、彼が他者に見られることから身を縮め、かつて享受していたすべてのものを失ったことに耐えられず、苦痛に満ちた羞恥の感情に押しつぶされているということである。一方イブは、苦悶によって顔がゆがみ、エロティックな感情を呼び起こしうる身体の部位――胸部と陰部――を腕で隠しており、そこから彼女の罪責感を推し量ることができる。しかし、聖書が示唆しているように、ここで優勢なのは羞恥の感情であり、それが消しがたい痛みを引き起こす。なお、性器を覆う葉は後の時代に付け加えられたものである。

3.私は羞恥の発達的総合を提示することはできないし、それを特定の発達段階と結びつけることもできない。ただ一つ断言できるのは、羞恥には自己愛的な起源があるということである。すなわち、身体的起源への初期投資、コントロール喪失の役割、そして何より、羞恥にさらされた個人は無力であり、他者の容赦なき嘲笑や軽蔑の前にさらされる標的のように脆弱であり、いかなる防衛手段も奪われていると感じる、という確信である。羞恥とは、敗北を認めること、弱さの露呈、外見と尊厳の喪失であり、ときには自らの内的世界が人々にさらけ出されたかのような印象をもたらすことすらある。羞恥の起源にある主要な要素を同定しなければならないが――羞恥の限界は前意識を超えるものではないとしても――それによって思考へアクセス可能な概念化を試みることができるだろう。

とか。

1に関しては英語版で注記があって「このコメントはフランス語圏特有の視点を反映している。なぜなら、1970年代・80年代のコフートの研究をはじめとして、この主題に関する英語圏の広範な文献が存在するからである。PEP-Web をざっと検索しただけでも、タイトルに shame を含む論文は 360 本以上あり、その大半は 1980 年以降に書かれている。」とある。

これは北米の関係論の文脈で土居健郎の「甘え」が注目されたことと関係あると思う。甘えは恥と罪悪感を伴うだろうから。超自我概念の起源も追っていたけど色々重なり合ってくるなあ。12月は年末からの休みを省くから3週間と心得よ、と自分に言い聞かせている。今日は火曜日。がんばりましょー。

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12月

最近、朝のんびりしすぎている。早起きだからどんなにのんびりしても仕事には間に合うのだけど。一時期は朝7時からスーパーヴィジョン入れてもらっていた日もあったけど、あれは申し訳なかったねえ。起きてればいいって話でもないものね、生活は。スーパーヴィジョンを受けないと訓練にならないとはいえ日時を合わせるというのがなんだかんだ一番苦労したところかも。こちらがどうにかして合わせないことには仕方ないし、そのための蓄えも必要だし。蓄えとかいうと冬っていう感じがする。今日はとてもポカポカになるらしいけど。朝はそれなりに寒い。各地の熊は冬眠してくれるだろうか。街中にも熊が出てくるようになったのってカラスとか鳥類の影響ってないのかな。ただゴミ漁って安全なところで食べているだけなのにそれがエサの移動を担っていることになってしまうとか。そんなこと言ったら地を這う虫とか移動するものは全てそれを担う可能性があるけど、温暖化が魚の移動する水域(?)を変えたように人の移動だって大きく変わってきただろうし、長い時間かけてこうなっているのだろうからもはや原因の特定は難しいのだろう。それでもそういう歴史を含めたあらゆる仮説を立てていかないことには改善策も見つからないだろうし、本当にどうしたらいいものか。

昨日は久しぶりにまとまった時間が取れたので11月末締切のものを一気に書いた。うとうとしている時間も相当長く、何度目覚めても開かれた本の内容がずっと同じだった。夢が代わりに読んでくれてたらよかったのに。今日から12月。12月末締切のものは一気に書ける類のものではないし、ちょっと情緒的に書きたい。隙間時間に少しずつ書いていこう。

今週もがんばりましょう。