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精神分析

大晦日

まっくら。今日は12月31日。水曜日。今年も大変お世話になりました。それぞれいろんなことがあったと思いますが、今日を良い区切りとしてまた新しい年を過ごしていけたらいいですね。どうぞよろしくお願いいたします。

私のオフィスは新宿駅南口から歩いて15分で着けるし、昨日のレコ大が行われた新国立劇場があるにも関わらずかなりローカルな雰囲気のある「初台」という駅にあります。年末、その初台のこれまたローカルで大好きなふどう通りの入り口にとてもおいしいベーグル屋さんができたと知りました。で、早速お散歩がてら行ってみたのですが15時前で売り切れ。がーん。来年はそこにいくのが最初の目標です。

昨晩は暇だったのでレコ大みながら少しお勉強をしました。HANAのパフォーマンスに間に合わなかったのが残念・・・。

さてさて。参照したのは今年最初か昨年読んだアンドレ・グリーンの1998年の論文The primordial mind and the work of the negative–W.R. Bion Between Past and Future。

「全体として言えば、思考する者の存在は、「私(I)」という経験そのものよりも、むしろ表象する可能性(the possibility of representing)と結びつけて考えられるべきであると言えるだろう。」

これはグリーンが自己心理学的な主体を警戒しているだけではなく、思考可能性と主体経験を切り離すことで、境界例・精神病圏・非神経症的構造を理論的に守ろうとしているといえる。これらの病理と向き合ってきた臨床家なら人間に当たり前に主体を想定することの危険は身に染みていると思う。現在は違うが、精神分析の創始者であるフロイトが精神病患者に分析可能性を見出せなかったのはそこを安易に踏み越えなかったからだろう。フロイトがそこに慎重であったくれたおかげで、フロイトとは異なる病理と向き合い始めた精神分析家たちは分析可能性、終わりのある分析と終わりのない分析を常に考えなければいけなくなったのかもしれない、

ということを考えさせられました。

これは1997年7月29日、IPA第40回大会(バルセロナ)W.R.ビオン生誕100周年記念のオープニングレクチャーをもとにしています。なのでビオンの理論の検討がされています。私が先に書いたことはビオンの”I am, therefore I have thoughts without a thinker which demand a mind to think about them!”について考えるグリーンの言説。

常に事後的にやってくる「I」。観察することができず、推論によってのみ措定され、主体の自己経験には還元されない、という点で無意識と同じ特徴をもつといえなくてもないが、ビオンのそれはより複雑、無意識の想定と方法は同じだと思うのだけどね、などめんどくさいことを考えていました。休日のいいところです。

それでは今日もよい一日を。一年なんとか無事に過ごしたのだからみんなにいいことがあるとよいです。ネガイマス(朝ドラの真似)。