日の出がゆったりしはじめた。朝のピンクは季節によって全然違う。昨晩は帰り道、月はあいからずピカピカで草むらからは虫の声が静かに絶え間なく響いていた。夏の蝉とは大違い。秋はざわめきよりもメロディー。地球の熱がちょうどよく下がりますように。今朝の私はゴージャスにシャインマスカットで熱を下げよう。秋の果物が送られてきて幸福。秋は果実の季節。小さな柿が道路にたくさん落ちてくるようになった。少しオレンジになっているものもあれば果実ならではの浅い緑のものも。みんな渋いのかな。つい食べることばかり考えてしまう。この前、縦に薄い線が入っているかわいい木の実を眺めながら柿だーとか言っていたけど、柿ってあんな線入ってないよね、と今、落ちた柿のことを思い浮かべながら思った。なんだろう、あの実は。よく通る道の大きな木で、たしかに柿の木だったと思うのだけど。
何をやっても曖昧だし、すぐに忘れてしまうのでここがメモ置き場となっているわけだけど、適当ながらも翻訳の断片を載せているので興味のある方には参考くらいにはなるだろうと思う。へー、そんなこと書いてあるんだ、自分も訳しちゃおう、と下訳くらいのものが集まっていけば翻訳されてないから触れられないという状況を防げる。今は自動翻訳があるわけだからどの言語でも下訳の下訳くらいは簡単にできる。
ということで今朝もChristopher Bollas(クリストファー・ボラス)の3番目の著書、Being a Character: Psychoanalysis and Self Experienceからウィニコットが引用されている部分を書いておこう。引用というか参照か。ボラスはその多くをウィニコットから引き出している。題名は「キャラクターであること 精神分析と自己経験」くらいでしょうか。
>>私たちは各自、世界を照らし出すこうした対象の無数の只中に生きている。それらは幻覚ではない(確かに存在する)。しかしその本質は、ラカンのいう「現実界」に内在するものではない。その意味は、ウィニコットが「中間領域」あるいは「第三の領域」と呼んだ場所——主体が物と出会い、対象によって存在が変形するまさにその瞬間に意味が付与される場所——に宿る。中間領域の対象とは、主体の心的状態と物の性質とのあいだの妥協形成である。
ボラスとオグデンは相互に引用したり参照したりしていないようなのだけど、いっていることはとても似ている(のか?)。対象をどう位置づけるかという観点は同じだと思う。
後に続く文章も世界中の文化に詳しいボラスならではの広がりで興味深い。ちなみにボラスは俳句にも詳しいので、翻訳されているどれかの本の日本語版への序文では芭蕉を引き合いに出している。その俳句をというより、詩集が本屋から消えることについてだった気がする。あとで見てみよう。さて、続き。
>>オーストラリアの荒野では、アボリジニの「ウォークアバウト(※通過儀礼のひとつ)」は「ドリーミングthe dreaming」と呼ばれる。神々が世界を夢見る以前、そこは何の変哲もない平原だった。だが今や風景は物質化した形而上学であり、一本の木も岩も丘も、夢見られたものの一部である。この世界を彷徨いながら、アボリジニは地物理的対象に出会い、それらに触発されて自らの神学・文化・共同体、そしてもちろん自己を想像し、それらを媒介にして自分自身を思考する。Cowan の言うところのこれはイマジナル知覚imaginal perceptionである。
このあと引用されるのはワーズワースとシェイマス・ヒーニー。素敵。大学の学部時代は詩人の先生の講義も受けられてとても楽しかった。ワーズワースは猪熊葉子先生の授業でやったのかも。いいねえ。ワーズワースの詩を思いながら草原を散歩したいね。でも今は熊が怖くて気軽に自然の中へ行けない・・・。もちろん彼らとてそんな気楽ではなかったかもしれないが。
今日はどんなことがあるかな。別の場所に忘れた日傘を取りに行かねば・・・。。なくしたのでないだけマシか。今日もがんばりましょう。