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知識と実践とPsychoanalytic Credos

オフィスのそばの新宿中央公園の木々が大分乾いた音を立てるようになった。まだ時折蝉が鳴いている。夏の間、花壇はすこし疲れた感じだったが、先週はただの細い茎だった彼岸花が一斉に咲き始めた。昨日、通りかかった別の公園で、足元に違和感を感じて地面をみたらたくさんの銀杏が。すっかり秋。まだ少し蒸し暑いけれど。

さて、心に関する知識をもつことは、実践にもちろん役立つが、役立たないことのほうが多い気がする。知識は実践してみないと実践的な知識にはならないし、応用のきかない知識は事態を硬直させることさえある、と知っていることのほうが大事だったりする。


私たちは、意外でもないが、意外と見たいものしか見ないし、見たくないものはみないし、見えていても見えないといえるし、みえてないのにみえてるふりをできたりする。自分が何を見ていて何をみていないのか、そもそも見るという行為をしようとしているのか。これは、聞いたり、感じたり、考えたりすることすべてに対していえることである、と私は精神分析を通じて実感したし、日々、その実感は更新されている。


長い間、週一回とか週複数回とか、それなりの頻度で会っているのに、まだ驚くのか、ということばかりである。驚きは精神分析における主要な情動だろう。衝撃というと情動に至るより手前という感じになるか。


だから、精神分析家になるためには、精神分析が必要だ。単に訓練の要件としてではなく。自分の心が、自分の知らないところで様々な動きをしていることを「そんなつもりじゃなかった」と言いながら、衝撃をもって体験し、他者を他者とも思えない自分に驚きながらもどうにもできず、どうにかして環境が責任を引き受けてくれないかと模索する。


これらの体験はどれも強い情動を生じさせるが、「いや、特に」「別になんとも」とかいいながら、それらを体験しないようにする自分を体験するのも精神分析である。

同様のことが、理論についても言えると思う。無意識、転移、抵抗、抑圧、解釈、逆転移、といった精神分析の基礎概念は、定義を覚えて使うようなものではない。実践するたびに、転移とは何なのか、なぜ解釈するのか、あるいはしないのか、など常に経験に戻って考え直されるものである。なぜその概念が必要になったのか。それによって、それまで見えなかった心の何が見えるようになったのか。そしてそれを目の前の患者との経験に照らしたとき、それはいまも生きた概念なのか。そういうことを繰り返し考えることなのだと思う。


だから私は、こういうブログを毎日書いているのかもしれない。
著名な精神分析家たちが何を言ったのかを紹介したいわけではない。その言葉が自分の経験のなかで息づきはじめたとき、それについてもっと知りたいと思う。そうやって勉強を続けてきた。勉強だけならもう25年になる。臨床を始めてからも同じくらいだが、精神分析家になってからはまだ2年しかたっていない。週1回で長く会ってきた人の数は膨大だが、週4日会っている人の数はまだ少ない。知識として知ることと、それを経験することとは、そもそも比べようがないこともたくさんある。しかし、ひとたび経験をしたら、それを積み重ねるなかで、これまでの様々な理論との対話が必須になる。だからフロイトを読み続け、古典にかえり、概念の源泉と変遷をたどり、再び自分の体験を織り合わせていく。


なので、毎日、少しずつでもなにかしら読むことになる。

先日から何度も名前をあげているクリストファー・ボラスも寄稿しているJill Salberg編『Psychoanalytic Credos』(Routledge, 2022)という本がある。副題はPersonal and Professional Journeys of Psychoanalysts。出版社のサイトで各チャプターのアブストラクトを読むことができる。そのなかに、ボラスの“What is Theory?”という章がある。

先ほど書いたこととも関係するので、そのアブストラクトを少し適当だが訳してみる。

「本章では、心についての精神分析理論を、知覚の一つの形として論じる。それぞれの理論は、ほかの理論には見えてこないものを捉える。


まずフロイトを取り上げ、彼が通常、互いに競合する複数の心の理論を併存させていたことを示す。抑圧がどのように働くかを示す局所論モデルは、あるところまでは有効だった。しかし、そのモデルには、無意識の受容的な働き――抑圧するのではなく、受け取る働き――など、別の形の無意識的活動を捉えることができなかった。


ボラスが作った「受容的無意識」という言葉で表される働きを、フロイトはすでに、夢がどのように形成されるかについての理論、機知についての理論、そして日常生活の精神病理についての理論で用いていた。それならば、なぜフロイトは、無意識についての理論を発展させるなかで、この働きに固有の名前と位置を与えなかったのだろうか。


著者によれば、皮肉なことに、フロイトは無意識の受容的な働きを理論のなかで用いながら、自分が実際に何を用いているのかを見るために容易に構築できたはずの理論を、抑圧していた。ボラスは、この抑圧を、フロイトが子どもと母親との関係――ボラスのいう「母性的秩序」――を抑圧したことと一貫するものとして理解する。そのためフロイトは、つねに無意識的に用いていたものを、意識的には見ることができなかったのである。


さらに著者は、精神分析の各学派はそれぞれ、人間の心と行動の異なる側面を作り出し、それゆえに知覚するのだと論じる。どの理論も、それ自体として重要な価値をもつ。


最後に著者は、なぜ私たちには複数のモデルが必要なのかを論じる。複数のモデルを用いることは、文字どおり心の視野を広げる。一つの心の理論だけが正しいと主張する学派は、残念ながら、その学派で学ぶ人々から、無意識の構造、無意識的思考、無意識的行為について、より広く深く理解する機会を奪ってしまうのである。」

私はボラスに同意する。


この本は、27人の分析家が、それぞれの歩みを、自分の声で語っている一冊である。精神分析という、他者とシニフィアンの世界をともにする特殊な文化をそれぞれの精神分析家はどう生きてきたのか。そのためにはどのような訓練が必要だったのか。そこから得た「信条」とはなんなのか。この本の内容紹介も訳しておく。

『精神分析家たちの信条――個人として、専門家として歩んできた道』

精神分析における「信条」とは、患者の話をどのように聴き、分析という営みにどのように臨むかを支える、一連の考えである。そうした信条を育てることは、多くの点で精神分析訓練の骨組みをなしている。
マニー・ゲント(エマニュエル・ゲントEmmanuel Ghent, 1925–2003)の最初の「Credo」論文を踏まえ、27人の精神分析家に、自らの信条や精神分析家としての歩みを綴ってもらった。本書には、異なる研究所で、異なる時代に訓練を受けた、複数の理論的立場と世代にわたる分析家たちが集められている。訓練を受けた年代は1960年代から2000年代に及び、文化的背景もさまざまである。


寄稿者には、関係精神分析、対象関係論、現代フロイト派、クライン派・ビオン派に位置づけられる分析家のほか、いずれの分類にも容易には収まらない分析家がいる。本書は、訓練中の分析家には研修機関の読書リストの一冊として、また訓練を終えてなお精神分析家として歩み続ける人には、道をともにする一冊となるだろう。(ここまで)

なお、マニー・ゲントの最初の「Credo」論文とは、Ghent, E. (1989). Credo: The dialectics of one-person and two-person psychologies. Contemporary Psychoanalysis, 25(2), 169–211.のことである。


「信条」かあ。私も自分の中にそれを感じるけど、こうやって言葉にすることができるようになるのだろうか。日々精進ですね。これからもよろしくお願いいたします。

アメリカデイゴ
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ボラス「境界例の欲望」とかグリーンのthe negativeとか。

時間がないないといいつつ、書誌情報をせっせと整理。これ、短時間の作業を積み重ねればいいから、時間がないときにぴったり。

そもそもボラスの書誌情報を整理しはじめたのは、先日、読んだアンドレ・グリーンの論文でボラスが引用されていて、「そんな美しくない言葉はボラスは使わない!」と思ってチェックしたのがはじまり。ボラスの重要な著作は館直彦先生が訳してるし、解題も丁寧だから、私が書誌情報の整理なんかしなくていいのだけど、そこそこボラスを読んできた身としては、「この時期に書いたからこの概念はこう書かれているのか」とか「この論文があとでこの本に入るのか」色々発見があって楽しい。短時間で区切れるので、素早く気持ちの切り替えをするときの作業として良きよ。

「そんな美しくない言葉」と私が思ったのは「解釈ハラスメント」という言葉。まあ、グリーンが明確に「ボラスがこういった」と書いているわけではないのだけど、アンドレ・グリーンは結構、引用、適当なところあるから「ボラスはそんなことしないもん」と思ってしまった。おまえはボラスのなんなんだ、という感じですね。

しかもです。今回読んだのは、André Green の Contemporary Psychoanalytic Practice(André Green, Editor: Litza Guttieres-Green)に収録された第3章 “Issues of Interpretation: Conjectures on Construction”。

そこでグリーンがボラスを引用していたのだけど、私が「あ、これかな」と思い浮かべたのは “Borderline Desire”(1996)だったのです。でも、Referencesに挙がっているのは Bollas, C. (2007), The Freudian Moment. London: Routledge. で、そこに “Borderline Desire” は入っていない。

となると、もしかしたらボラス自身が interpretive harassment という言葉を使ったのでは、という疑いが生まれてしまった。それでおそるおそる(恥ずかしいでしょ、なんか)原著に検索をかけてみたらヒットせず。なので、たぶん少なくともここでは使われていない。少しホッとした。

ちなみに “Borderline Desire” の書誌情報を整理してみると、

1995年 IPA第39回大会(サンフランシスコ)で発表。
1996年 Bollas, C. “Borderline Desire.” International Forum of Psychoanalysis, 5(1), 5–10 として初出。
1999年 Bollas, C. The Mystery of Things. London/New York: Routledge に再録。同書の Acknowledgements にも、“Borderline desire” was published in the International Forum of Psychoanalysis (1996) とある。
2004年 館直彦・横井公一監訳『精神分析という経験――事物のミステリー』岩崎学術出版社。「境界例の欲望」として邦訳。

私が読んだのは1996年版。なぜこれを読んだかといえば、アンドレ・グリーンが引用されていたから。私はアンドレ・グリーンの名前を見ると、なんでも覗いてみたくなってしまうから。

1996年版には脚注としてグリーンの Le Travail du Négatif(1993)が参照されていて、本文末の References でも1番に André Green, Le travail du négatif, Paris: Les Éditions de Minuit, 1993 とある。

ところが『精神分析という経験』所収の「境界例の欲望」を確認すると、この脚注がない。いまのところ邦訳でしか確認していないので、原著の The Mystery of Things に再録された時点で削除されたのか、邦訳の段階で省かれたのかは要確認。

でも、なぜ?これがあるから重要だったのに、私にとっては。講演を論文にするのと本の中の一章にするのでは対象も異なるから、あえて書かなくてもいいこともあるのかもね。

この論文は短いけれど大事なことが書いてあるので、グリーンがいようがいまいが読んでよかったと思う。でも、1996年のボラスが自分の議論とグリーンの「ネガティヴの仕事」との親近性をわざわざ書いていた、ということ自体が私には面白い。

こういうのがあるから、書誌情報を整理するのは楽しいのだ。

せっかくなので、『精神分析という経験――事物のミステリー』に収められた「第9章 境界例の欲望」には収められていないアンドレ・グリーンがでてきた脚注と同じく省略されたボラス自身の脚注を訳しておく。

「2 通常であればそれ自体として対象を表象するはずの心の枠組み(frame of mind)が、その対象そのものになってしまうと考えるなら、アンドレ・グリーンが「ネガティヴ(the negative)」と呼ぶものが、境界例においていかにきわめて特有な仕方で作用しているかが見えてくる。境界例の人は、主としてネガティヴな情動を通して対象への愛着を維持するのである。
実際、本論で取り上げる問題の多くは、グリーンのきわめて重要な著作 Le Travail du Négatif と響き合っている。とりわけ、境界例人格にみられるネガティヴなものへの情熱(passion for the negative)についての彼の考察と深い親近性をもっている。

3 境界例における原初的対象は、この患者のなかに、知られてはいるが、まだ思考されてはいないもの(something known but not yet thought)として保持されているのだろう。私は以前の著作でこれを「未思考の知(the unthought known)」と呼んだ。そして境界例患者との関連については、「Loving Hate」という論文で検討した。」

どちらも二人の中心概念についてごく簡単に書いてあるだけにみえるけど、私が「あれ?」と興味をひかれたのは、ボラスが、ここで Le Travail du Négatif を挙げて、境界例の場合、negative affects を通じて attachment to the object を維持する、と書いているところ。

つまり「the negativeが対象を失わないための媒体になっているってこと?」となった。私は「アタッチメント」「愛着」という言葉は使わないようにしているけど、the negativeへの気づきが対象化、形象化の起点になるとは思っているので、それ自体は同意する。

でも、グリーンにおけるthe negativeは、対象を保持する働きだけでなく、対象を消去し、脱対象化していく働きとも結びついていたと思う。だとすると、negative affectsを通じてattachment to the objectを維持する、というボラスの言い方を、グリーンのpassion for the negativeと深い親近性をもつとしてよいものだろうか、と思ったりする。まあ単にaffinitiesがあると言っているだけだから「書き換えた」というほどのことでもないし、たいして気にするところでもないのかもしれないけど、グリーンの対象化、脱対象化機能の問題は、私の興味あるところなので少しひっかかった。

それにしても、ボラスの表現は臨床的で、論理的で、それでいて情緒的で喚起的。ダンテの引用もメルヴィルの引用もいい。短い論文なのに、対象とは、情動とは、欲望とは、ということを患者の体験から離れずに考えさせる。

なのでやっぱり「そんな美しくない言葉はボラスは使わない!」という私の最初の直感は、たぶん間違っていないと思うのだ。

最後に、私がこの論文でとても素敵な表現だな、と思っている文章を邦訳(172‐173頁)のほうから紹介する。

「境界例の患者たちと作業することによって、以下の仮説を提案することができるだろう。幼児として先天的な障害を受けている場合でも、環境によって混乱させられている場合でも、いずれの場合でも、一次対象は、正常な発達の一部分として取り入れられる鏡のような現象としてよりは、むしろ自己のなかに繰り返し蘇るものとしてのみ体験される。木々の間を風が通り抜けるように、これは自己のなかを通り抜ける動きである。どんな感情であれ、この対象の存在を示唆するものがあると、境界例の人は、通常の感情を混乱させる体験へとエスカレートさせることで、この対象を探し出そうとする。」(引用終り)

とりわけ、「木々の間を風が通り抜けるように、これは自己のなかを通り抜ける動きである」が好き。関係ないけど「とりわけ」という言葉も私は好き。

ちなみに英語で読んだときには、最初の段落にでてくる“homing” intensity という表現が心に残った。homingって「帰っていく」ということだよね?ここには、帰る場所を探し当てるような欲望の強度を感じたな。邦訳ではここは特にカッコつきの言葉にはなっていなかった。でも、この homing という一語は、この短い論文全体をよく表している気がしたよ。

今日も言葉を豊かに。大切に。したり、してもらったり。東京は今日も一日雨模様みたい。みなさんの空模様はどうでしょう。能登の7時の気温は23度ですって。風邪ひかないように気を付けて過ごしましょう。

好きな道が通行止めで寂しい。
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クリストファー・ボラス(Christopher Bollas)、最初の3作について少し。

クリストファー・ボラス(Christopher Bollas)の書誌情報も書いておく。

ボラスの生い立ちから精神分析家としての仕事、「真の自己」が存在するのかという問いにまで及ぶインタビューは『Granta 174: Therapy』に掲載。ウェブで読むことができる。

“The Orange Ship”

ちなみに最近のボラスの著書はEssential Aloneness: Rome Lectures on D. W. Winnicott (2023, Oxford University Press) や Streams of Consciousness: Notebooks 1974–1990 , 1991–2024 (2024, Karnac Books)。

これらの近著をだしたボラスの声は、2026年3月6日の『Granta Magazine』のPodcastで聴くことができる。ボラスは、そこで、精神分析と文学の関係、白昼夢の意味、そして現代の大きな危機に精神分析は何を語りうるのか、といったことについて話している。

Podcast | Christopher Bollas

さて、ボラスもほかの著者と同じく、同じ論考がいくつかの著書に登場したりもするが、とりあえずボラスの単著を並べてみる。これまでもこのブログでボラスの本については書いてきているので、それも少しまぜこみつつ、とりあえず第3作目までの情報を書いておく。


1987
Bollas, C. The Shadow of the Object: Psychoanalysis of the Unthought Known. New York: Columbia University Press.
邦訳:『対象の影――対象関係論の最前線』館直彦監訳、岩崎学術出版社、2009年。


→ ボラスの最初の著書。変形性対象、未思考の知、対象としての自己、気分、規範病、抽出的取り入れ、逆転移など、その後のボラスの理論の核となる概念がすでに展開されている。書名 ‟The Shadow of the Object“はフロイト『喪とメランコリー』の一節に由来する。

1989
Bollas, C. Forces of Destiny: Psychoanalysis and Human Idiom. London: Free Association Books.


→ 2作目。未邦訳。human idiom(人間固有のイディオム)などを展開。2019年に刊行されたRoutledge版はボラス本人による序文が加えられている。

出版社ウェブサイトの概要の一部を訳しておく。

「ボラスは、「宿命(fate)」と「運命(destiny)」についての古典的な考え方、およびウィニコットのthe true selfという概念をもとに、「人間のイディオム(the human idiom)」という概念を展開する。それによって、私たちが他者との相互作用を通して、自分自身に固有な「差異の弁証法」をいかに生き、展開していくのかを探究し、明らかにしている。とりわけボラスが考察するのは、患者が自分自身のイディオムと運命への欲動(destiny drive)を表現するために、精神分析家のパーソナリティの特定の部分をどのように用いることがあるのか、という点である。」

1992
Bollas, C. Being a Character: Psychoanalysis and Self Experience. London: Routledge; New York: Hill and Wang..

→ 3作目。未邦訳。人が生のなかで出会う対象に無意識的意味を付与し、その対象世界を通して自己の精神史を喚起していく過程が中心となる。


ボラスはその多くをウィニコットから引き出している。題名は「キャラクターであること 精神分析と自己経験」と訳せるか。


>>私たちは各自、世界を照らし出すこうした対象の無数の只中に生きている。それらは幻覚ではない(確かに存在する)。しかしその本質は、ラカンのいう「現実界」に内在するものではない。その意味は、ウィニコットが「中間領域」あるいは「第三の領域」と呼んだ場所——主体が物と出会い、対象によって存在が変形するまさにその瞬間に意味が付与される場所——に宿る。中間領域の対象とは、主体の心的状態と物の性質とのあいだの妥協形成である。

Introduction(出版社のサイトのPreviewでも読める)の冒頭をなんとなく訳すと

>私たちは皆、ある特定の香りが、まるで子ども時代の遠い村から呼びかけてくるかのように感じられる、あの胸を打つ瞬間を知っている。過去へ手を伸ばし、遠い昔の自己体験のエッセンスに触れられるかのように。人生のとても特別な時期に流行した音楽を耳にしても、呼び起こされるのは単なる記憶というより、イメージや感情、身体の鋭敏さに満ちた内的で心的な星座である。たとえ「この匂い、子どもの頃、うちの庭にあった花の匂いだ!」と誰かに言葉で説明しようとしても、内的体験の質感を伝えきることはできない。

以上。プルーストやシェイクスピアが偉大なのはもちろん、それを自由に取り込んで精神分析理論と重ね合わせて書く仕方が魅力的。おお、マドレーヌ、とパウンドケーキを食べながらでも喚起される香り。

ここで思い出されるのが、ボラスが最初の著書で論じた変形性対象(transformational object)である。ボラスにとって重要なのは、対象そのものだけではなく、対象との出会いによって生じる変形の過程である。

この部分は国際精神分析学会(IPA)が無料で提供しているIREDという事典の日本語版でもすでに訳されている。そこから引用する。

>>Bollas(1987)は、母親が「全体的な対象として幼児にとって人間化される」前は、「母親は変形の領域あるいは源として機能している」と主張した。したがって、「母親は、他者としてまだ十分に同定可能ではないが、変形の過程として経験される。そして、この早期の存在の特徴は、大人としての生活の中で、 対象が変形のシニフィアンとしての機能のために求められる時、対象希求の特定の形式において生き続けている。」(1987)

Bollas の「対象の統合性」については、Bollas(1992, p4)は次のように書いている。

これもIntroductionの一部。
>>かなり驚きなのであるが、対象関係論では、個人の投影のコンテ イナーとして見なされている対象のもつ際立った構造にほとんど思考が向けられていない。確かに対象は私たちを持ちこたえてくれる。しかし、十分皮肉なことに、まさに対象が私たちの投影を保持してくれるからこそ、一つ一つの対象の構造的特徴がさらにより重要になってくるのである。と言うのも、再経験の際に、 自身の自然な統合性に従って私たちを処理してくれるコンテイナーに、私たちは、 私たち自身をも預けるのだから。(引用ここまで)

ボラスが続けて書くのはこんな感じ。
>たとえば、思春期初期に野球の技に由来する喜びの感情をシューベルトのハ長調交響曲に投影し、同じ週にガールフレンドへのエロティックな反応をサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』に投影したとしよう。大人になってこれらの対象に出会えば、そこに蓄積された自己体験が喚起されるだろう。

ここまでで十分面白そうでしょう。まだまだあるから少しずつ書いていこうかな。ボラスは簡単ではない書き手だけど、ウィニコット同様、喚起的な言葉の担い手なのでたくさん読まれて、精神分析に浸透する文学や文化とともに臨床を考えていけたら楽しいと思う。

東京は今日は雨。無理しないでいきたいですね。今日もよろしくお願いいたします。

熊野神社の祭禮は今週末。
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言葉

空がきれいなピンクと水色。南側の大きな窓を開けたら涼しい風が流れこんできた。気持ちいい。鳥たちはまだそんなに鳴いていない。昨日も少し欠けて猫の目みたいになってきた満月が輝いていてきれいだった。それにしても見るたびに位置が全然違うように見えるのは絶対私の勘違いなのだろうけど変化が早く感じる。そういえばボラスの本にconstellationが出てきてここは「星座」って訳したいな、と思ったところがあった。

Being a Character:Psychoanalysis and self Experienceのintroduction

we do this many times each day, sort of thinking ourself out, by evoking constellations of inner experience.のとことか。

言葉は大切にしたい。

時折、SNSを開くとびっくりするような言葉遣いに出会うことがある。日常生活で知らない相手から言われたら暴力でしかないような言葉はSNSでも同じように暴力だと思うし、身内から言われたって暴力だと思うのだけど、つまり暴力的な言葉はどこで言ったとしても暴力的だと思うのだけど、向こうが「そんなつもりはなかった」といえばそう感じたほうに問題があるみたいになるのかもしれない。明らかにサイズも力も優っている相手が近距離で大きな声を出しているだけでも十分圧を感じるけど、そういう場合、優位なほうが調整をするものだろう。子供に対する大人がそうであるべきように。大人の場合、どうしようもない場合はこちらからきちんと離れることが調整となる場合も多いけど、それさえ叶わない場合もある。相手が個人であろうとなんでであろうと直感的に気に入らない、信頼できない、と感じたものに対して距離を取るのではなく、ある程度一般的な意見をもとに「ふーん、自分はそうは思わないけどね」で済ますでもなく、自分が納得できるような説明を求める、それがないと攻撃する、みたいな態度がとても多い場なのはなぜか。とても怖い。電車で知らない人に近距離で覗き込まれて何か言われたときと同じくらい怖い。合わなかったから、信頼できなかったら関わらない、という選択を行使してほしい。させてほしい。攻撃はそこに終始する限り何も生まない。とにかくよく知らない相手のあり方を印象で否定するものではない、というのは基本ではないのか。

今日はとても慌ただしい一日になる予定だけどお天気も気持ちいいし、私も気持ちだけゆったり過ごせるようにしよ。良い一日になりますように。

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実、ボラス、ワーズワース

日の出がゆったりしはじめた。朝のピンクは季節によって全然違う。昨晩は帰り道、月はあいからずピカピカで草むらからは虫の声が静かに絶え間なく響いていた。夏の蝉とは大違い。秋はざわめきよりもメロディー。地球の熱がちょうどよく下がりますように。今朝の私はゴージャスにシャインマスカットで熱を下げよう。秋の果物が送られてきて幸福。秋は果実の季節。小さな柿が道路にたくさん落ちてくるようになった。少しオレンジになっているものもあれば果実ならではの浅い緑のものも。みんな渋いのかな。つい食べることばかり考えてしまう。この前、縦に薄い線が入っているかわいい木の実を眺めながら柿だーとか言っていたけど、柿ってあんな線入ってないよね、と今、落ちた柿のことを思い浮かべながら思った。なんだろう、あの実は。よく通る道の大きな木で、たしかに柿の木だったと思うのだけど。

何をやっても曖昧だし、すぐに忘れてしまうのでここがメモ置き場となっているわけだけど、適当ながらも翻訳の断片を載せているので興味のある方には参考くらいにはなるだろうと思う。へー、そんなこと書いてあるんだ、自分も訳しちゃおう、と下訳くらいのものが集まっていけば翻訳されてないから触れられないという状況を防げる。今は自動翻訳があるわけだからどの言語でも下訳の下訳くらいは簡単にできる。

ということで今朝もChristopher Bollas(クリストファー・ボラス)の3番目の著書、Being a Character: Psychoanalysis and Self Experienceからウィニコットが引用されている部分を書いておこう。引用というか参照か。ボラスはその多くをウィニコットから引き出している。題名は「キャラクターであること 精神分析と自己経験」くらいでしょうか。

>>私たちは各自、世界を照らし出すこうした対象の無数の只中に生きている。それらは幻覚ではない(確かに存在する)。しかしその本質は、ラカンのいう「現実界」に内在するものではない。その意味は、ウィニコットが「中間領域」あるいは「第三の領域」と呼んだ場所——主体が物と出会い、対象によって存在が変形するまさにその瞬間に意味が付与される場所——に宿る。中間領域の対象とは、主体の心的状態と物の性質とのあいだの妥協形成である。

ボラスとオグデンは相互に引用したり参照したりしていないようなのだけど、いっていることはとても似ている(のか?)。対象をどう位置づけるかという観点は同じだと思う。

後に続く文章も世界中の文化に詳しいボラスならではの広がりで興味深い。ちなみにボラスは俳句にも詳しいので、翻訳されているどれかの本の日本語版への序文では芭蕉を引き合いに出している。その俳句をというより、詩集が本屋から消えることについてだった気がする。あとで見てみよう。さて、続き。

>>オーストラリアの荒野では、アボリジニの「ウォークアバウト(※通過儀礼のひとつ)」は「ドリーミングthe dreaming」と呼ばれる。神々が世界を夢見る以前、そこは何の変哲もない平原だった。だが今や風景は物質化した形而上学であり、一本の木も岩も丘も、夢見られたものの一部である。この世界を彷徨いながら、アボリジニは地物理的対象に出会い、それらに触発されて自らの神学・文化・共同体、そしてもちろん自己を想像し、それらを媒介にして自分自身を思考する。Cowan の言うところのこれはイマジナル知覚imaginal perceptionである。

このあと引用されるのはワーズワースとシェイマス・ヒーニー。素敵。大学の学部時代は詩人の先生の講義も受けられてとても楽しかった。ワーズワースは猪熊葉子先生の授業でやったのかも。いいねえ。ワーズワースの詩を思いながら草原を散歩したいね。でも今は熊が怖くて気軽に自然の中へ行けない・・・。もちろん彼らとてそんな気楽ではなかったかもしれないが。

今日はどんなことがあるかな。別の場所に忘れた日傘を取りに行かねば・・・。。なくしたのでないだけマシか。今日もがんばりましょう。

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秋、俳句、書き物

秋の朝だ。光が柔らかい。春のウキウキとは違う静かな喜びを感じる。嬉しい。

昨晩、久しぶりに中国茶の器を使った。白湯を飲んだなのにとても美味しく感じた。白くて小さな器。昨日は涼しかったからペットボトルでグビグビ水分補給をする必要もなかった。かわいい茶器を自然に手に取り冷めたお湯を注ぎ腰を下ろして一息。身体が季節に合わせた道具を勝手に手に取ったぞ、とそれも嬉しかった。

秋の訪れとともにさらに嬉しいニュースがあった。初対面でファンになった句友が念願の大きな賞をとった。俳句に対する情熱を知っているからとても嬉しかった。彼女ならこれらの瞬間もきっと素敵な俳句にする。私は俳句は全然だめだけどこういう瞬間を素敵だなと発見できる自分でいられただけで満足、とか言っていたら怒られそう。いや、私の師匠は怒らない。全然ダメでも俳句にすることを勧めるだろう。賞をとった彼女の俳句は誰でも知っているのに知らなかった日常を読む。絶対彼女みたいな俳句は作れないのに俳句、私にも作れそう、楽しそう、と思わせてくれるこれからの俳句界に必要な人。すでにいくつかの賞を取っているが、これからますます多くの人に知られていく。俳句界はいいな。楽しくなっていきそう。

私もがんばらなくちゃ、とひとつ書き物の目標を作った。できるのか。でもエントリーしちゃったから書く。子どもの遊びについても年内に書かなくては。年内なら大丈夫かな、と思ったけどこの過ごし方では無理な気がする。そろそろ暑さのせいにもできないから気持ちよさを感じつつしっかりしましょう。はい。

アメリカの精神分析家のクリストファー・ボラスのことを書いていたが、今引用するには理解が足りないのでウィニコットとアンドレ・グリーンに戻った。これはボラスを理解するのにも役立つのは間違いないとはいえ、精神分析の主要概念から振り返るような議論が多いから難しいは難しい。主体とは、とか。イギリスとフランスの違いが濃く出る言葉。フランス語よりは英語のほうができるのでとりあえず英国精神分析の伝統に乗るけど。ラカン派の勉強もまだまだ足りないし。まあ、足りずとも使える程度までは足らせましょ。

空がきれいで本当にうれししい。何度も言ってしまう。昨晩の月もとってもきれいだった。良い一日になりますように。

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鬼滅とかボラスとか。

南側の大きな窓を全開にしても風が入ってこない。気温がまだそんなに高くないからいいけど。昨晩は半月がもっと膨らんできれいだったのにベランダからは見えなかった。なぜ半月基準か、といえばその日に月と星の話をしたから。8月の月の暦は1日:上弦 9日:満月 16日:下弦 23日:新月 31日:上弦だった。キッチンの窓からはすごく気持ちのいい風。ありがたい。

深夜、早朝と『鬼滅の刃』を見続け、ようやく追いついた。でも今のところ無限列車編までが一番よかったかな。ここまで見たら『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』も見ないとか、と調べたらまだ混んでるのね。すごい人気だ。“英語字幕版上映”もそろそろ始まるとのこと。

勉強がなかなか進まないから読み慣れてきたオグデンばかり読んでいたけどナルシシズムに関する文献はちょこちょこ読んでいる。ウィニコットとアンドレ・グリーン関連でクリストファー・ボラスもチェックしてるが読みにくい。邦訳はすでに何冊か出ているのだけど私が確認したかったThe Mystery Of Thingsの邦訳『精神分析という経験 事物のミステリー』Dead mother,dead childとWording and telling sexualityが割愛されている。ガーン。

Three Characters: Narcissist, Borderline, Manic Depressive: by Christopher Bollas, Bicester, Oxon, Phoenix Publishing House, 2021もチェックした。

iphoneのメモが煩雑でボラスが書いていること以上に自分の言いたいことがわからないが、キャラクターは「性格」で訳していいのか、とかなんでボーダーラインと躁鬱と「ナルシスト」なの(ナルシシズムじゃなくて)、とか、これって「性格」の類型なの、とかナルシストのところで神話から入るのは大賛成なんだけどエコーの解釈ってこうなの、とか思っていたらしい。


ボラスの思考を詳細に追いたいならStreams of Consciousness: Notebooks 1974–1990とStreams of Consciousness: Notebooks 1991–2024が出たけど、ビオンの自伝と理論を合わせて読むようには読めない気がする。精神分析の文献でさえ追いにくいのだから楽しめなさそう。ビオンの自伝なんて辛くてそういう意味では楽しくはないけど読書体験としてはとても豊かだったが。私に文学的要素が乏しいからボラスを読めないのかなあ。関心領域はものすごく被っていると思うのだけどな。

台風はどうなったか。被害が出ませんように。