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水漏れ、南アフリカのジャズ

昨晩、寝ようかな、と洗面所を使ったら足元に違和感。水漏れに気づいた。気づいてよかったのだがどうしたらよいものか、ととりあえず下の棚から洗剤などを取り除いた。いざ出してみると使っていないのも結構ある。もらった柔軟剤とか。私はあまり柔軟剤が得意ではないから使わないのだよな、など思いつつ作業。最近、シャワーヘッドがおかしいなと思って掃除をしたときにおかしなことになったのかなと思ったけど調べると水受けタンクというやつに結構水が溜まっていた。でも水がどこから漏れているのかわからない。水浸しになった部分はためておいた古いタオルできれいにした。もう一度水を出してみたら、あ、水受けタンクとやらからポタポタと水が落ちてくる。底に穴が開いているらしい。が、あんな量になるものか?わからないが水を使わなければ何も起きないことを確認して、水受けタンクの水を抜く。細いストローみたいなホースがくっついていたのでそれを洗面器に下向きにおいたら水がチョロチョロ出てきた。とりあえずタンクの中を空にした。これで水漏れは大丈夫らしいけど結構水浸しになったからタンクの穴のせいだけではないのかもしれない。いややわ。でもそれなりに早い対処ができたと思おう。あとはプロにお願いしよう。水が使えるだけ幸せなことだよな、とそっと思った。

被災地に手伝いに行きたいが今は難しい。被災地に音楽は流れているだろうか。個人的に聴く手段があれば好きな曲を聴けるかもしれない。侵入的に感じない音楽なら助けになるのだろうか。南アフリカのジャズピアニスト/作曲家/シンガーのタンディ・ントゥリ(Thandi Ntuli)の音楽を聴きながらこういう音楽ならと被災地に届くことを願ったりする。柳樂光隆さんのnoteでインタビューを読んだが南アフリカで生まれ育ち学び何者かになることの難しさと希望が丁寧に語られていた。歴史をいずれ愛せるようにと願うような優しく美しい音が多くの人に届けばいいと思う。嘘つきの言葉でさらなる絶望に突き落とされても自分を取り戻す作業を続けていける勇気をみんなが持てたらと思う。

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田中一村展へ行った。

『田中一村展』へ行った。場所は上野の東京都美術館。公園口から出れば近いのだが遠回りして散策しながら行った。公園内に入ると大きな木がたくさん。鳩がたくさんいた。その中にポツンと男性がいた。餌をあげてるのか、と思いながら歩いていると鳥たちが何羽もそこから飛び立ってきた。大きなパンみたいな餌を加えたカラスもいた。少し怖かったがこれだけ木があると彼らはすぐに居場所を見つけられるらしくまたすぐに静かになった。上野公園には新宿中央公園にもあるアメリカデイゴが咲いていた。この木って一気に花を咲かせないのかな。艶やかな大きな花を咲かせるから遠くからでも気づけるのだけど近づくとお花はどこ?ってなる。一方、ジュウガツザクラは葉っぱがなくなってて白い花が雪みたいにチラチラしていた。儚さはどこからでもみえた。儚さはあけすけにするものではないとはいえ勝手に儚さを見出したのは私か。一般的な印象でもあるが。そしてなんと春になると大勢の人が訪れるソメイヨシノの道でソメイヨシノが数輪咲いていた。狂い咲きか。やはり気候変動のせいなのだろうか。心配。いつ咲いてもかわいいけどなんでこれも数輪だったのかな。外界への反応が枝ごとに違うわけでもなかろうに。

『田中一村展』はすごいボリュームだった。1階から3階までたくさんの作品が並んでおり、私は一階ごとにベンチで休憩して少しウトウトした。3階の展示会場内のソファは混んでいてみんなで分け合っていた。すごく有名な絵は3階にあったのだけどみんな疲れるよね、とちょっと面白かった。田中一村の作品は昨年今年の年末年始、奄美大島へ行ったときに出会った。奄美パーク内にある田中一村記念美術館はとてもゆったりした作りで一村が描いた奄美の自然を実際に堪能してから巡れるので全然疲れなかった。大勢の人の列や背中を見ながら巡るのではなく自分のペースでただただ一村の作品と向き合える時間はとても素敵でその作品の繊細さと荒々しさの両方を感じながら彼の人生に思いを馳せることもできた。今回の東京での展覧会は大盛況だそうで、奄美の田中一村記念美術館の館長がラジオで「一村も喜んでくれていると思う」と生前あまり評価されず大きな展覧会を開くことはなかった一村の活躍を喜んでいた。

今日は誰からいただいたか忘れてしまったが中国茶みたいな包装の紅茶と「やわらか」という柔らかいクッキーみたいなお菓子をいただいた。この紅茶美味しい。温かい飲み物にほんわかする季節。昨日の上野公園はサルサのイベントが熱く繰り広げられていて気温の割に夏の雰囲気だったがそれも楽しかった。今日は月曜日。今週もがんばりましょう。

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日曜朝

窓を開けた。窓から首だけ出したらちょっと寒い。換気分だけ開けたままにして閉じた。エアコンと細長い換気扇の掃除をせねば。どうやってすればいいのだろう。取扱説明書を探さねば。みつかる見通しがたたないが型がわかればネットで見つけられるだろう。昨晩は髪も濡れたまま半袖で寝てしまった。寒がりなのに学ばない。一方で暖房もちょっとつけてしまった。遠赤外線パネルヒーター暖話室。なんかちょっとふざけた名前だったよなあ、と思い出そうとしていたのだが同じ会社の「夢暖房」しか思い出せずそれで検索したら「暖話室」の写真で出てきた。両方同じ会社。「夢暖房」は「床暖房」とかけてるのかな。「暖話室」と同じレベルでは難しいか。なんかないかな、とか考えているだけであっという間に時間は過ぎる。

蟄虫坏戸虹の欠片は入れてある 佐怒賀正美  

第四十七候「蟄虫坏戸 (むしかくれてとをふさぐ)」は自動変換されない。蟄虫戸は一文字ずついれれば出てくるけど杯みたいな時はなんて読むのかわからないから変換もできずまず蟄虫戸の三文字で検索。すると蟄虫坏戸が出てくる。そこから坏をコピーで取り出す。検索画面に貼る。すると最初に出てくるのは

AIによる概要

これ、いつからから最初に出てくるようになった。前はWikipediaのページが一番前にくることが多かったように思うのだけど。

「坏」には、次のような意味があります。

  • 壊す、壊れる、悪くする、悪くなる、ひどく~である
  • おか、盛り土
  • 物を盛る器の名

「坏」で「つき」と読む古代の飲食物を盛る器は、碗より浅く皿より深いのが特徴です。材質は土器や陶器、木製などがあり、脚の付いたものや蓋のあるものもあります。

とのこと。「つき」と読むのかと「つき」をうつと確かにあった。蟄虫坏戸の場合は「盛り土」の意味になるのかな。「坏孩子」だと「悪ガキ」って意味なんだって。漢字は面白い。

今日は福砂屋のカステラとほうじ茶。この前、もらった。小さなかわいい箱に入ってる。二つに切れてるのがいい。あっついほうじ茶おいしい。この季節がきたかあ。ミネラル補給のために作った麦茶が消費されない。なぜミネラルかって足がつりやすいから。マグネシウムとミネラルが良いと聞いたから。酸化マグネシウム

NHK俳句、今日は堀田季何さんの回。面白いなあ。具体的、読み手に連想が湧くように作るって本当に本当に難しい。

島すべて熊蝉領や朝より 小澤實

すごい。熊蝉の領地になってる島。季何さんの説明わかりやすいし面白い。いい句を季何さんが類想句に変えてあとから元々の句を見せるやり方いいね。全然違うー、とわかる。わかるー、のだが自分で作るとなると本当に難しいのよね。聞いてるだけなら自分でもできそうなのにね。まあなにができずともがんばりましょ。

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夢現

ブログを途中まで書いたつもりがパソコンの電源すらいれていいなかった。鳴らしっぱなしで寝てしまった携帯の音楽がブツっと切れたのでパソコンに戻るつもりがはじめてもいなかった。自分に驚愕。携帯いじる前に本を読んでいたのだけどそれが書く動作として脳に認識されていたらしい。なんという誤作動。昔、夢の中で学校に行ってしまいすでに本当に行ったつもりになっていたことがあった。あれも自分に驚愕した。そんな夢現で人生を送ってきてしまったとして、これまでもあれもこれも夢や思い込みだったとしたら・・・したら?どうってことない、今のところ。私はまだそれを実感できていないから無事。さっきのあれはまずかった、くらいの認識でいられる。本当はこういうことが幾重にも起きていて自分だけが気づいていないのかもしれない。

洗濯があと11分でできあがるというのでちょっとだけベッドへと思ったら朝まで眠ってしまった。朝といってもまだ真っ暗だけど。今日の日の出は5時40分。まだまだじゃ。少し放置してしまった洗濯物は無事に干された。ごめんよ。キミたちがいやーな絡まり合いとかじっとりした状態の世界からパリッと爽やかに空へ舞う絵本とか書いてあげたい。放置したのは私だけど。あ、少しうとうとしてしまった。よかった、パソコンついてるし、こうやって文章残ってる。まだ窓も開けていない。いや開けたまま眠ってしまったのだ、とまたうとうとしながら考える。のんびりしてる。でも少し疲れているのかもしれない。そうだ、〜行こう、の感じでベッドへ行こう。空が少し明るくなってきたけれど。

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伊香保、世田谷、徳冨蘆花

南側の大きな窓を開けた。向こうのほうに真っ白な大きな雲。朝日に照らされてきれい。今朝の東京の日の出は5時39分。私が起きたときにはまだ真っ暗で日の出が遅くなったと実感した。これまでは少しずつ感じていた変化が一気に次のステージにいくように感じることがあるが今日はそんな感じがした。「あ、冬の手前だ」みたいな。シャワーを浴びて色々窓を開けてコーヒーを淹れた。那須高原のお土産のプリンのリングケーキと伊香保のコーヒー。徳冨蘆花ゆかりの伊香保、千明仁泉亭のコーヒー。

「蘆の花は見所とてもなく」と清少納言は書きぬ。然も其見所なきを余は却って愛するなり。」(明治33年「自然と人生」)

盧花の蘆はあしのこと。学生時代、京王線の千歳烏山に住んでいて蘆花恒春園も近かった。千歳烏山の塾でバイトをしていたが大体の生徒は芦花公園を利用していた気がする。そのくらいこの二駅は近い。世田谷文学館は芦花公園駅が最寄りなので蘆花恒春園とセットで行くのがよし。

徳冨蘆花にとって

「伊香保は私共にとつて大切な生の策源地と何時の間にかなつて了ました。」(大正7年「新春」)

ということで明治31年にはじめていってから昭和2年、千明仁泉亭で亡くなるまで計10回訪れたそうだ。

徳富兄弟は仲が悪かったみたい。蘇峰は「徳富」のままで、蘆花は筆名「徳冨」なのもその現れ?あ、違うか?本名はどっち?まあ外からするとどっちでもいいのだが蘆花はちょっとこだわったらしい。二人とも別々にトルストイに会っているというのがすごいと私は思う。どうやったら会えるの?トルストイに会う、ってフロイトに会う、とかよりインパクトが大きく感じるのだけどなぜだろう。『夢解釈』より『アンナ・カレーニナ』の方がずっと幅広く読まれてるだろうし。蘆花がトルストイに会った時はもうキリスト教からは離れていたのかな。ちょっと変わった人だよねえ。芦花公園はオフィスのある初台と同じ京王線沿線だし時間があるときに久しぶりに行ってみようかな。紅葉もきれいな時期?まだこれからかな。どんぐりはいっぱい落ちてるけどね。

あ、また急に眠気がきた。昨晩はフロイトの読書会ついでに色々調べ物をはじめてしまい、その時も急に眠気がくるまで起きていた。今は寝てしまえないから動こう。なんで今朝は徳冨蘆花のことをこんなに書いたのか・・・。フロイト読書会の復習めいたことを書けばよかった。まあよい。なんでも心の向くままに。どうぞ良い一日を。

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鳥、本。

西の空がきれい。うっすらオレンジ。秋色なのかも。風は入ってこない。鳥たちが元気。東京は住みやすいかい?緑はあるけど山に入ったときに聞こえる鳴き声とは聞こえ方が違うよね、当たり前だけど。自然災害のときは鳥たちにとってどこが一番安全か、というより自然災害以前に自然を破壊してしはいけないね。ごめんよ。本来キミたちが住むはずだった環境とはもう出会えない時代の鳥なのかもしれない。私は戦争を知らない子供たちの一人だった(もう大人になってしまった)のだけどこれは知らなくて幸運だった。でもその影響は法や制度や時代の態度を通じてものすごく受けているということを今になって学ぶ。昨日は橋川文三『ナショナリズムーその神話と論理』である程度浮き沈みした気持ちとなるほどそう考えられるのかという頭になってから原武史の『平成の終焉』を読んだ。図書館にちょっと寄ったからそこで。私は原武史の鉄道の本が好きで持っている。天皇制に関する原毅の記事は新聞とかで読んできたので内容は想像の範囲内ではあったけどものすごい圧力の中で書き続けているということをあとがきから感じた。天皇制について語ることをタブーにしてはいけないね、こうやって戦ってくれる人がいるのだから。橋川文三の本も見たかったけど見当たらなかった。みる棚や検索の仕方が間違っていたかもしれない。今日は立花隆編『南原繁の言葉 8月15日・憲法・学問の自由』を持ち歩く。ちょっと読んだけど明快。精神分析の本を読みつつ、IPAという精神分析の組織のニュースなどを訳しつつ、1日のほとんどを臨床に費やしながらこういう本を読む。安易につなげない読み方を意識する。今の時代を生きているということを意識する。ほとんどのことは無意識だけど少しずつ繋いでいくための言葉を育てられたらいいなと思う。

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越冬、日本思想

曇り空。虫の声が減った。七十二候では蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)だから?春頃の蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)と対となる言葉。でもこの場合の「虫」は蛇かな。秋の虫は死んでしまったのかしら。そのままどこかに身を潜めて冬を越せる虫もいるだろうけどあんなに高らかに鳴いていた虫たちはどこへ?「卵で越冬」というけどそれは卵を産みつけてその子が越冬するということだよね?まさか自分が卵に戻ってしまわないよね?でもさなぎになるときは幼虫は溶けてしまう(わけではないのか?)のだから卵を産みつけるというのは卵になると言えなくもないか。人間の場合、子供産むこともできる人はできるけど言葉を残せるというのが「卵で越冬」とニュアンスに近い気がする。

最近、日本の戦中ー戦後思想を学ばなくてはと思っている。2024年4月からの朝ドラ『虎に翼』が男性中心ではない人権を一貫して描いたわけだけど、多くの人が胸打たれたのは自分がしてほしかったのにされてこなかったことに光が当てられたからだと思う。そしてそれが法という言葉に、あるいは人と人とのやりとりで言葉になっていくことの良さと難しさ、その葛藤を描いたのも個々人が何に価値を置いているのかは人それぞれであり、それが明確になることで協働が可能になり、言葉にすること自体が次世代に対するその人の態度になるという点で、ここでも言葉は卵だった。もちろんそこから生まれるものはまた別物になるわけだけど。言葉も人も難しい。引き継ぐのは構造だけではない。『虎に翼』で主人公は個人の権利を十分に守られながら育った女性だった。つまりそれは当時の社会を取り巻いた思想から距離を取れたということだと思う。彼女たちは当然法律以外の本も読んでいる知識人だと思うが、少なくとも主人公は本は本として読むことができた人なんだと思う。ある思想への強い傾倒は個人の怒りから生じる場合が多いと思うが、自分の言葉が大事にされている人はひとつの思想に依存することをせずに済む。だとしても当時の空気を作ってきた様々な言説があり、その背景にも様々な哲学や思想があるわけで、それがどんなものだったか、男性ばかりが著者のそれらについて考えてみたいと思った。丸山眞男(1914年生まれ)とか鶴見俊輔(1922年生まれ)とかは読んできたけど私は彼らの背景を知らないし色々繋がっていない。そしてとりあえず法と宗教、日本の場合だと天皇制を絡めて考えられそうな本ということで南原繁(1889年生まれ)、橋川文三(1922生まれ)を読んでみた。もっと読みにくいかと思ったら全くそんなことはなく、橋川文三の本は書き方からして学びが多い。が、読んだそばから忘れていくので日本の思想の歴史が私の中で繋がるのは相当先だろう。私自身の背景をなすものとして意識して学んでいきたい。

今日も眠い。なんとかがんばろー。

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服、ペリカン、『ウィル&ハーパー』

昨晩もTシャツで寝てしまった。今日もひんやり。寝具も冬に向けて変えていかねば。今年は夏用のひんやりマットみたいな仕様にしたのだけど効果はよくわからないけど多分あったのだろう。これはこれで冬に使ってもいいのだろうけどその上にあったかいもの色々重ねるのも変な話。きちんと交換しましょう。今年も少しずつ更衣してさっきもTシャツを片付けながら今年も失敗したなあと思った。今年こそいろんなのを着回せる仕組みを作ろうと思ったのに。秋冬はがんばろう。今日は薄手の七分袖ロングニットと八分丈ヨガパンツ。七分とか八分とかいまいちよくわかっていないけど全部覆われていないのは動きやすくて好き。でもまだ蚊がいてこのちょっと出てるところを刺してくるから油断禁物。かといって虫除けスプレーも上手につけないと服についてしまったら嫌だし。この時期の蚊は素早くないけど迫力あるししつこい気がする。そうそう、っていうほどのことではないのだけどさっきキッチンでコーヒーを入れていたら鳥がそばにいる気配がした。キッチンの窓をまだ開けていなかったから影を探そうとし他けどどこかいってしまったら嫌だなと思って静かに背中でその音を聞いていた。そうしたら雨が窓を叩くような音に変わった。え?雨?鳥?と思って迷って窓を開けたら鳥が飛びたつ影が見えた。あーあ。残念。ベランダにも鳥がくるけどそういうときに限ってまだカーテン開けてなかったりする。今は西側の大きめの窓からグレーの空が見えて時々鳥たちが通り過ぎる。鳥といえばこの前Twitterで

ペリカンは秋晴れよりもうつくしい 富澤赤黄男

という句を引用した。ちょっとおもしろびっくりする句。ペリカンと秋晴れを比べて断言してしまうのか!と。ペリカンというと私がすぐに思い出すのはサンタモニカ。普通にすごくそばにペリカンがいて普通にバッサバッサ飛んでいった。すごい存在感だった。うつくしいと思うよりびっくりだった。Netflixでやっている『ウィル&ハーパー』の最後に二人が語り合う海辺ってサンタモニカだと思ったけど違うかな。この映画はトランス女性であると親友にカムアウトしたハーパーが親友のウィルとロードトリップに出る話なんだけどとても良かった。悲しくて苦しい現実もそのまま見せてくれる一方で脚本家とコメディアンの熟年の技も見せてくれる作品だった。アメリカっていうのは、と可笑しかったり悲しかったりした。

それにしてもおなかがすいた。今日もがんばりましょ。

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睡眠

眠い。まだ寝ていればいいのだが起きて洗濯機をかけた。この一ヶ月、トロトロトロトロ眠ることが多い。暇さえあれば寝てしまうので何も進まない。睡眠というのは謎も多いが薬が効く場合もあるし状態のバロメーターになるし話のネタにもなるし夢見の場所でもある。「昨日眠れなくて」「最近寝つきが悪くて」「昨日変な夢を見て」「昔から」「昔は〜だったのに」など表現は色々だけど、これからの睡眠について話されることはあまりない。

これから睡眠の話をしよう、と書こうとしてなんかそんな本あったな、と思ったが『これらかの「正義」の話をしよう』というのはサンデル。『ここは今から倫理です』は漫画。意外と「これから〜の話をしよう」という作品はないのか。それはそれなのだが「これからの睡眠」は「今日は眠れたらいいのだけど」とか「修学旅行で眠れるかな」とかいう形で語られてはいるか。でもそれも過去の睡眠の体験に基づいているから未来単体で語られる睡眠は死に近いかもしれない。こんなダラダラと書いている場合ではない、と隣の家の雨戸が開く音で気づく。まだ眠っていてもいい時間なのに。

昨日からシャインマスカットがあるのだ。シャインを「社員」に変換されてしまった。急にイメージ変わるからやめて。「されて」をカタカナに変換するのもやめて。またひどい眠気が襲ってきそうな雰囲気。一気に寝落ちする場合ともやもやっと眠気が襲ってくる場合と、とかなると単に睡眠の話というより意識状態の話。「今日も朝が来てしまった」という言葉もいろんな状態の人によって使われるな、とか書き出すとキリがないのできちんと起きよう。おはよう、朝の空。今日は暗いね。グレーだね。お互いパッとしないわね。がんばりましょう。

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鳴き声、言葉、本

シャインマスカットおいしい。小鳥くる、、、黄緑に輝く大粒シャインマスカットを俳句にしようかと思ったが無理だった。「小鳥くる」は大好きな季語。ちょうど外で鳥たちがジュワジュワ鳴き出したから合わせられないかなと思ったけど難しい。朝の鳥は集団で飛ぶ時間があるらしい。夕方もあるだろうけど朝はちょっと違う感じがする。朝はバラけて夕は集まるからかな。そういえば昨日公園の木々の中を歩いていたらアブラゼミがまだシャーシャー言っていた。今年は夏の終わりがわからなかったもんね。なんだかかわいそうに、と思った。でもきっとアブラゼミには関係のないことね。メカみたいな身体をしっかり使って力尽きていく。気候変動で寿命が変わったり土の中での生活が変わったりしたとしてもやることは同じ、みたいな雰囲気だものね。人間界は困ったものでね、と蝉に語りかけたくなる。私は仕事できても最長30年だと思う。早く訓練分析家になって後進を育てないといけないと思う。だってこの日本の政治状況をどうにもできない中で生き残り変えていくには考える人を育てるしかないわけでしょう。ただただ普通に生きている人を邪魔しないために、邪魔されないために考えながら動く人が必要。それは知識人になることでは全くない。それぞれが他人の言葉に反射的に反応する前に自分の言葉を育てていくこと。それが誰かから見てどんなつたなくても自分の言葉にならない声も含めて徹底的に大切にしてみることが必要だと思う。精神分析は知らない相手と関係を作っていく自分を体験する中で自分が最も知らない相手であることに気づく方法。もちろん被分析者も分析かも同じようにそういう体験をするわけだけど分析家の方は一度はそれを通過しているので邪魔しないでいられる。週4以上、カウチでの自由連想という強力な設定でしか抱えられない言葉と情緒があることを私は知っているからその特異性を生かして自分の言葉を育てる作業をしてくれる人が増えたらいいなと思っている。本の読み方とかも変わる、自分の言葉と関わると。いかに自分が偏見に満ちた思い込みで生きているかを知るという体験は非常に嫌なものだけどそのまま生きていくのは結構無理をしないとで、突っ走る知力と体力があるうちはいいけど立ち止まる胆力の方が物事を見る力はつくし、多様な豊かさにつながっていると思う。

福尾匠の『非美学ージル・ドゥルーズの言葉と物』を読んでいる。出てからすぐに買ったけど読んでいなかった。博士論文の改稿版とのこと。ドゥルーズ、ベルクソン、フーコーのほかに平倉圭、千葉雅也、東浩紀の議論が俎上に上げられる。哲学は言語実践である、と書いていたと思うけどいろんな概念を固定させず動きを持たせるような書き方でわからないなりにワクワクする。いずれ時間をかけて読もう。今は余裕がないけど、色々やることやっている間に今よりマシな読者になれるかもしれない。がんばっていきまっしょい。

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伊香保土産、『極悪女王』

昨晩は少し暑かった。エアコンをつけるほどではなかったけど。南側の大きな窓を少し開けた。雨。吹き込んでくるほどの風もないけど開けっぱなしにした。カーテンも揺れていない。

今朝は伊香保温泉のお土産、素敵なカフェ&バー(宿泊もできるらしい)「樂水樂山 CAFE &BAR RAKUSUIRAKUZAN」のオリジナルブレンドとその帰りに高崎駅で買ってくれたという高崎市下滝町のケーキ屋さんCaprice de moiのきび糖のブールドネージュ。美味しい。高崎駅は改札前に大きなお土産屋さんがあって地元のお店がいろんな素敵なお菓子やコーヒーや色々を出しているからそこで買ってくれたのかな。違うか、その日は伊香保に出店していたという話だったかな。忘れてしまった・・・。一昨日は前橋市のFLAT Tableのパウンドケーキをいただいた。一緒に出店されていたのかもしれないわね。今、Caprice de moiのインスタを見たらフランスから帰国後、FLAT Tableで修行して独立した方のお店なんだって。小さな町でみんながんばってる。今度それぞれのお店にも行ってみたいな。こういうのは縁だものねえ。私が地元にいた頃にはまだなかったお店たち。今度連れていってもらおう。群馬は車社会だけど私車乗れないから。

Netflix『極悪女王』を観終わった。素晴らしかった。ダンプ松本を演じたゆりやんレトリィバァは言わずもがな、唐田えりかが今回も素晴らしかった、というか全ての俳優が素晴らしかった。剛力彩芽はいい意味での優等生。なんでもできるしクールでまっすぐな役柄がピッタリ。私はちょうどその世代だからプロレスの迫力という点では当然本物に劣るとわかるわけだけど演技であそこまでできるみなさんは本当にすごい。ブル中野役の堀桃子さんの変貌もよかった。あの髪型がかっこよく決まるなんてすごい。最終話の最後はなににそんなに胸うたれたのか言語化できないけれどボロボロ泣いた。それぞれのインタビューとかもとてもよかったのだけどオーディションのときに監督がいったこととかは結構嫌だなと思った。私だったらなんなんおまえ、ぅんなことわかって受けにきてんだよ、こっちは、と言い放ちそうな言葉にも真剣に答えないと受からないわけでしょう?なんだかなぁ、だ。そういうのにも慣れていく世界なのかな。嫌だなあ。技かけたくなってしまう。持ってないけど。でもプロレスは受け身のうまさなんだね、魅せ方ということでいえば。ちょっとやってみたい。ロープ使う技をやってみたい。クラッシュギャルズ好きだったなぁ。ピンクレディーも好きだったなぁ。最近、私が子供だった頃のあれこれと出会えて楽しい。最近は友達と身体の不調について話すことも減り(多分みんな慣れた)介護とか老後の話が増えている身だからねえ。20歳以上年上の人ともそんな話ができてしまうくらい私も歳をとった。色々懐かしんでいこう。雨強くならないといいね。能登にも引き続き支援を、と思いながらこれについても昨日からモヤモヤすることがあって、と書き出すと長くなるからこの辺にするけど現地の事情は複雑なんだから一度いらないと言われたものをSNS使って持ち込むのは支援としてどう作用しているのかな、と思ったツイートを見かけたんだ。みなさん、どうぞお気をつけてお過ごしください。

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レイクシア・ベンジャミン、道徳。

涼しい。少し雨が残っている。今日もまた降るみたい?昨日は半袖Tシャツにフリースでちょうどよかった。バスに乗る前にちょっと寄り道したらバスが行ってしまって雨も降り始めた。次のバスがくるまで薬局のひさしの端っこをちょっとお借りして雨宿りしていたらお邪魔だったらしく店員さんが何回もくるからお隣のビルの狭い入口にお邪魔した。その隣では献血をお願いするセリフを何度も何度も繰り返す人がいた。この喧騒では誰も足を止めないのに声を張り上げるでもなくずっと同じトーンで何度も何度もそれを繰り返していた。

今朝はニューヨーク出身のレイクシア・ベンジャミン(Lakecia Benjamin)を聴いている。ヌバイア・ガルシアとは全く違う感じのサックス。J-WAVE,SONAR MUSIC,2024 JAZZ 総集編,柳樂光隆@Elis_ragiNa セレクト、で紹介されたらしく柳樂さんのツイートで知った。今朝は2023年1月リリースの”Phoenix”の2曲目New Morningsから聴き始めた。1曲目のAmerikkan Skinは冒頭から雑踏に連れ出されるような感じだったがすごい細やかで確かな音。この曲!という感じで耳が止まるのではなくて全体へ流れ出していくようなリズムとストーリー性ある場面転換がかっこいい。声もいい。

昨日は隙間時間にちょっとずつヒュームの『人間本性論 第3巻〈普及版〉道徳について』を読んでいた。朝ドラ『虎に翼』で道徳と法についてのやりとりが少しあってから気になっていた。私は以前、ヒュームが好きで、きちんと読みたいと思って普及版も買った。しかし昨年からか、カリブ海諸国とアフリカ哲学を知るようになり、今年刊行後すぐに『アフリカ哲学全史』河野哲也著(ちくま新書)を読んでから、以前別の文脈でアーレント批判を読んだときと同じくヒュームの差別的な面を知らされガーンとなった。きちんと取り組んでもないのに幻想を維持しようとする自分にややうんざりした。『アデンアラビア』におけるポール・二ザンのような怒りを私は維持できない。しかし書物だけでもそのやり取りを横断したいのでモヤモヤしながら考えようと思う。

国家と宗教という言葉が浮かんだが日本において国家とは何か、という変な問いを立ててしまう。日本って何者?内村鑑三や鈴木大拙は宗教をもとに「日本」を基礎づけようとした。今は彼らがいう宗教はもう残っていないのだろう。夏に金沢の鈴木大拙館で著書を読んだ。数年前にも唸ったが今回も唸った。彼らが残してくれたものもまた大事にすべき、と思う、と自分に対してわざと「べき」を使ってみたのはヒュームを読んでいたせい。まあ、でも本は本。人間ありきなので人間と仕事して自分とも他人とも関わるなかで彼らの中にも存在するもういない人たちと交流しつつ今日も過ごそう。風邪ひかないようにしよう。

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寒い。ラカン。

薄着で寝たら寒い。喉がちょっとイガイガする。寒い季節を恐れているのに対策は下手なまま。今年は一気に寒くなったからなおさらついていけていない。でもジーパン履いたら上がTシャツでもあったかい。この時期は上着が楽しい。いつも同じのを羽織ってしまうけど今年こそ持っているのは全部着るぞ。同じことを夏服にしたときも思ったけどやらなかったので自分で自分を信頼できないけれど。

昨日、ラカン派のアイデンティティの論文と西洋と東洋の精神分析の関係に関する論文を読んだ。北山修が土居健郎の「甘え」は西洋でいう「依存」とは異なると書いた論文が引用されたりしていた。土居が世界に通じる言葉として「甘え」を残したからには私たちもそこで世界と繋がっていくのは大切なことだと思う。そういうことをせずに精神分析を我流で引用していくことは精神分析の倫理に反すると私は思っている。ラカンを読んでいるから「精神分析の倫理」という言葉を使いたくなっただけだが実際そう思う。しっかし、後期ラカンを勉強していると70歳超えてもめちゃめちゃ複雑に絡まった糸、しかも自ら複雑にした糸を解くように、そして解きながら別の絡まりを宿題のように残しながら進むラカンには驚きしかない。フロイトも死ぬまでそうだったがフロイトは流石に晩年、ちょい悲観的だったけどラカンは強靭。死に際は孤独だったと聞くが、フランスに精神分析を根付かせた功績はものすごく大きい。これに関しては医療制度との関連が大きいからなんともいえないところがあるけど精神分析を哲学、人文知に馴染ませながらも別物としたところが臨床家だなと思う。

論文の直訳、載せようとかと思ったけど前橋のケーキ屋さんがたまたま伊香保で売っていたパウンドケーキが美味しかったしコーヒーも美味しくて元気でたからもう出かけよう。どうぞ良い1日を。

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湯の花饅頭、文化

気持ちいい朝。光もきれい。

伊香保温泉のお土産といえば清芳亭の湯の花饅頭。実家にいた頃は父が何かのついでによく買ってきてくれました。一時期、どこかのお饅頭屋さんとの間でなにか大変だったという話を聞いたような気がしますが田舎の噂話だったのか観光地ではよくある話だったのかわかりません。私はここの湯の花饅頭以外は食べたことがありません。一択。皮の薄さも口あたりも甘さも大きさも本当にちょうどよくて大好きです。今回はお土産として和栗饅頭と一緒にもらいました。久しぶりのお味。待ち望んだ秋の風を少し寒く感じながら熱いお茶をいれていただきました。ようやくこういう楽しみを満喫できる時期がやってきました、か?疑問形になってしまいますよ、今年はさすがに。また暑くなったりしませんか?私たち人間の責任でもありますがこんなに暑い日が続いたり台風が変な進路をとるのは異常事態でしょうか。もう異常気象と言われて久しいと思うのですが異常がいつのまにか標準とか正常とかなってしまいそうで怖いです。水とか空気が変わったら和菓子の味も変わってしまうことでしょう。その土地のその気候や風土に合わせて長い間作られてきた自然の恵みを感じられる生活を維持するのはいまや観光客の立場の私でもあるのですよね。おいしいと感じなくなったなら別のおいしさで、と交換可能な世界を生きられる人もいるかもしれませんがそれではあまりに味気ないですし、と書きながら輪島の朝市とか世界に誇る文化を育んだ土地が元日から大きな被害を受け続けていること、それに対する支援の不足について考えていました。せめて言葉が、少しでも広く届くように、と瀬尾夏美さんなど常に現地の方に思いを馳せ、実際に出向いている方々の呟きをお借りしたりしています。私のSNSは全く拡散力はありませんが誰か一人でも彼らの言葉によって被災地への注意を維持しなくてはという気持ちを共有してくれたらいいなと思っています。清芳亭のお饅頭、美味しいです。どうぞ良い1日を。

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友、Netflix

雨。晴れるときいていたのに。やむといいなあ。能登の支援が進みますように。

友達がベランダのミントでミントティーを淹れてくれた。とてもおいしくてびっくり。若い柔らかい葉のうちがいいときいた。うちもやってみよう。いろんな生活がある。学びが多い。持つべきは友。友といってもこの歳になるとなんか昔とは意味が違う気がするけどまあなんでもいい。離れていても支えられているという感覚がないとこの仕事は厳しい。体験していないことを提供することは極めて難しい。この体験というのも見えない部分での話だけどってちょっと考えればわかると思うけど今はちょっと考えるというのが難しい時代なのは考えずともわかると思う。ちょっと考えたらわかってしまうので考えたくないという場合もある。

Netflixでアメリカの映画「喪う」(His Three Daughters)を見た。とてもよかった。「極悪女王」もみている。ダンプ松本やクラッシュギャルズの話をこの歳ですることになるとは思わなかった。唐田えりかがとてもいい。2018年の『寝ても覚めても』もとてもよかったが今回はまた全然違う良さがある。しっかし、みはじめると何も進まない。しっかりせねば。がんばろー。

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雨、能登、Sexual Identity

窓を開けた。雨が降っていた。顔を出したら涼しかった。能登の状況をパソコンで見ていた。動けなくなる。どうしようもない気持ちになってゴロンとした。雨の音を聞きながら眠ってしまった。河合優実が夢にでてきた。直前に読んだ記事と先日見たドラマの影響だろう。以前一緒に週末を過ごしていた自閉症の子も出てきた。あの頃、しょっちゅう感じていた私自身の見て見ぬふりを久しぶりに感じた。一瞬の見て見ぬふりが彼らに実際の傷をつけるかもしれないというヒヤヒヤした感じも。夢はドラマのハッピーエンドのような様子だった。洗濯物ができあがる音楽で目が覚めた。洗濯機だと確信している一方で炊飯器だっけと曖昧な頭のまま転がっていた髪ゴムをもってベッドから降りた。起きたらまたネットで見た能登の景色が蘇ってきた。今日もひどい雨になるらしい。本当になんて言葉にしたらいいのかわからない。ある人が「もう笑うしかない」と呟いていた。脱力感、無力感に心の奥底が乗っ取られてしまう前にできるだけ早く、あたたかな支援が届きますように。

昨晩は今年はじめに亡くなった元IPAジャーナルの編集長Dana Birksted-Breenの本、The Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic MindのChapter 2 Modalities of Thought and Sexual Identityを読んだ。1章に引き続きかなりの情報量だったがフランス精神分析の文脈からの引用も豊富で偏りなく学ぶには非常にありがたい。そしてこの章は精神分析理論の中でジェンダーアイデンティティを位置付けることの難しさに対して簡潔な答えとまではいわないが答えのようなものをくれた。

書いてあったのはこんな感じのこと。

原書の64ページからちょっと翻訳。

「さまざまな種類の同一化は共存可能であるが、どちらの様式が優位かでしか語れない。したがって、「性的アイデンティティ」は複雑な現象の最終結果であり、それは安定していることも不安定であることもあり、実際の身体と一致していることも一致していないこともあり、無意識の空想に満たされている。それは、抑圧や分裂を通じて一貫性を保とうとする試みにおける身体、対象選択、ラベリングに関連するさまざまな要素から構成されている。

 精神分析は硬直した一貫性を崩壊させ、別の性の側面や空想の位置の変化を明らかにする。
過剰にジェンダー化された立場や二者択一的な思考は、迫害不安や脆弱なアイデンティティを防衛する。」

みたいな感じ。転移関係では男女関係なく様々なものや人になる精神分析においてシスジェンダーである私はどんな感じなのか、意識的でありたい問題だ。

もう準備せねば。今日はのんびりとはいえのんびりしすぎた。能登から雨雲ができるだけ早く去ってくれますように。

追記:マクドゥーガルの引用も示唆的。

“The inherent difficulty facing the infant in his task of becoming an individual is of a more global, more ‘psychosomatic’ nature than the problems encountered in coming to terms with sexual realities” (McDougall, 1974, p. 436).

個人として成長する過程で乳児が直面する固有の困難は、性的現実を受け入れる際に直面する問題よりも、よりグローバルで、より「心身」的な性質のものである。

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りんご、自由連想

眠み。昨日もやたらめったら眠かった。少しお散歩にでたときが一番眠かった。普通は眠気覚ましに散歩したりするのだろうけど。体調崩すの嫌だからやるべきこと先延ばしして寝たけどいつもより早く起きてしまった。いつからこんなになったのかと思えばもうだいぶ前だけどいつだろう。低血圧で起きられなかった時代が嘘のよう。起きてすぐ元気だからすぐ家事できるのはいいけど勉強は捗らない。容量の少なさを感じる。ああ、カラスの大きな声。東の空がきれい。朝がくる。

りんごを一個もらった。むいた。いい香り。何十年経ってもりんごむくのが下手なのはどうしてかしら。まあ、包丁はどれもこれもうまくないか。

NPOでたくさんの子どもたちとキャンプをしていた頃、炊事場で小学生とりんごをむいていたら「あみさん、こうするとむきやすいよ」とさりげなく教えてくれた。その子のむいたりんごはめちゃくちゃきれいだった。おとなしくてしっかりしてて素敵な子だった。「どうでもいい話だけど」という言葉が思い浮かんでそういえばうちの両親はなにかと器用なのになぜ、と思った。小さい頃、父がりんごを丸ごと一個くるくるむいてながーい皮をみてびっくりというかすごーいというかどんな気持ちだったか忘れてしまったがその場面を思い出した。あれはなんだったんだろう。父はたまに何か披露してくれるのだけどこっちがせがんでとかではなかった気がする。チャップリンの真似とかうまくてあれはすごーいと思った。まあ、どうでもいい話だけど。

「どうでもいい話だけど」という言葉を使う機会が減った。分析が終わったから。自由連想は思い浮かんだことをできるだけ全部話すというのが一応のルールなのだけど(結構不可能なことやらされ、今はやってもらっているのだがこういう仕掛けというか設定)ほんとどうでもいい話が思い浮かんでしまう。分析家としてみれば全然どうでもよくないというか話の内容に重みづけして聞いていないからそういう前置きもいらないのだけどなんかつけちゃう時があるんだよね。まあ、こうやって書いてるのも朝の短時間自由連想だからどうでもいいことしか出てこないけど、日常ってそういうことが楽しいのだ、きっと。雑談ができない、という悩みも聞くけど頭の中ではかなりしているわけでそれを実際の相手にむけて出すのが難しい場合が多いんだよね。どう思われるかとか一瞬で色々考えるから。自由連想の難しさだってそこだもん。分析の終わりの方はすっごく自由に話してる自分に笑ってたけど。ごきげんな赤ちゃんみたいだった。自分がごきげんな赤ちゃんだった頃のことは忘れたけどたくさんの赤ちゃんのそういう様子は見てきたからあんな感じって気がした。色々あるけどそんな時間もあったなあ、というような思い出があると助けになるかもね。今日は土曜日。がんばろう。

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雲、学び

いわし雲。巻積雲というより目に浮かびやすい?鰯を思い浮かべてしまうとはて?となるかしら。鰯は群れで思い浮かべてね。巻積雲はうろこ雲ともいう。こっちのほうが「ああ!」となるかしら。

黒板に消し忘れたる鰯雲 佐渡美佐子

いわし雲いづこの森も祭にて 水原秋櫻子

今週末も秋祭りが多いみたい。オフィスのそばでは代々木八幡のお祭りの準備が本格化。良い季節!のはずなのに暑いですよね。日が落ちれば気持ちいいからみんな楽しめるといいですね。私も明日はどこか寄り道しちゃおう。

最近、ラカンとか難しい本ばかり読んでかえって頭悪くなってる気がする。でも長年の積み重ねでそういう状態にも慣れてきて言葉の通じない国にいるよりはずっと景色を描きやすい(積み重ねでわかりがよくなるわけではない)。精神分析の本だからどこを参照すべきかは大体わかるけどとんだ先も難解だったりするからなあ。とにかく時間が必要。こういう文献はいまだに読解の対象になっているから無理もないのだけどもうちょっと自分の教養と記憶力がほしい。昔学んだなぁ、ということは覚えていても内容丸忘れだから。ラカンあるいはラカン派は哲学や精神病理学がベースの人も多くて魅力的なトピックも多い。今、日本での精神病理学は随分変わってしまったらしい。私が読んできた本の頃が黄金時代なんだろうなあ。病者に対する理解も本当に変わってきたものね。もっともっと広く深く考えていけたらいいのだけど。と思っているせいか教える側になるときに精神病理の話をすることも増えた。木村敏とか内海健とかの引用しつつ。そうしたら結構響くものもあって逆にびっくり。伝えてみるって大事ね。学んだ。今日も実践に伴う学びを広げましょ。がんばっていきまっしょい。

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時間

鳥たちの賑やかなこと。群れをなして飛んでいく。昨日は猛暑日だったそう。たしかに暑かった。でも空気は秋なんだから不思議。どうなっているのかしら。長年かけて気象を異常にしてきまったということかしら。そしたら長年かかるだろうけど戻していかねば。

という話は面接でもする。長年かけてできたものには時間が必要なのではと。もちろん面接のためにということではない。こういう話をゆっくりして一回で落ち着く場合もあるから。精神分析が長くかかるのは自由連想によって効果をだそうとするものだから。人は「話す」までに時間がかかるし「話す」ことを積み重ねていかないと無意識が現れてこない。本当にただ「話す」ことで人は「そんなつもりじゃなかった」「意識してたわけではない」という部分につきあたる。そしてそこで何かと出会う。その何かが無意識であって「意識化」とかいうほど意識できるものではない。「話す」ことをしていくと「そういえば」ということもたくさんでてくる。怒りの感情もたくさんでてくる。そして不安が生じる。不安が先立っていろんな感情がごちゃごちゃになることもある。その気持ちの動きは日常で体験するものとはまるで異なる。不快で苦しくて受け入れがたいのは自分なのか誰なのかわからないままカウチでぶつける。分析家はなにかしてくれているだろうかと訝しがりながら。委ねることの困難にまた苦しみながら。そんなことを続けていくうちに「あれ?」となる。「なんかスッと」という人もいる。精神分析はなにがどうなるわけではないのになんとなく楽になった自分発見する機会になる。それには時間がかかる。

最近、私のメモはレシピだらけ。動画もたくさんみている。料理にも時間をかけたいが難しいのでいろんなレシピにお世話になる。といっても煮物とかでなければ切るだけ焼くだけ混ぜるだけでなんとかなる。とわかっているのにおなかがすいていると気が短くなるのかできあがりにむかって淡々と進むことができない。するけど。スーパーのお惣菜もおいしいものが増えたけどもう飽きてしまった。そういえば今度友達のうちで持ち寄り会をする。ポットラックパーティーっていうんだっけ。メインは友達が作ってくれるからそうはいわないのかな。勉強したあとゆっくり過ごす予定。なのでがんばろー。

暑さ寒さも彼岸まで、のはず。しのぎましょう。

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話す仕事。

昨晩は中秋の名月、きれいでした。高いところにいくと空に貼りつけたみたいな平面さ。でもその前を薄い雲がたなびくように横切っていくからそこが空間であるとわかる。精神分析をしていると平面的な心というのを知る。表と裏、こっちでなければあっち、自分と自分以外、そこでは時間も流れない、ずっと同じ、奥行きを持つことがいかに難しく、しかしそれが可能であることか。精神分析は「話す」のが主な仕事。精神分析は被分析家にとってもほぼ仕事。話さなくては始まらない。しかし「それは話しているとはいわないよ」という場合がある。本人不在、他者不在、なにかが生じることのない語りがあることもこの仕事で知った。簡単に憎むのに決して愛さない。愛と憎しみは両価的であるはずなのにそんなことなかった。私は最近なんでも一元論で考える方がいいのではないかと思っている。たやすく反転するかのような同質さで似て非なるものを語ることで難しくなっていることがたくさんあると感じる。ラカンが晩年「一者はある」という肯定的な公式に舵を切った。そこではシニフィアン連鎖以前の言語的なものを蜜蜂のように群れをなすララングという用語で示した。平面的な心もこの概念なら説明可能だろう。疎外も拒否というよりその契機をつかむことができない主体はララングにとどまり外部である他者の欠如に自分を見出すことができない。自らの固有の場を見出すこと、精神分析はそれを可能にするはずだが平面的な心に対しては様々な前提を取り払う、というよりあると思っていたものは本当はないということを自然に受け入れていく必要がある。精神分析の限界を精神分析によって体験しつつ精神分析の可能性を知ったとはいえ、その限界は到底日常用語では説明できないものなので色々と糸口を探している。とりあえずたやすく相対するものを作らず、そのものの内部に蠢くものがあるか、あるならその変化を観察し描写していくことからと思っている。

窓を大きく開けているけど風の気配がない。外に出れば感じることができるだろうか。虫の声は昨晩からずっと高らか。今日も色々あるだろう。がんばろう。

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祝日

冷房つけていない。昨日も気持ちよかった。田中一村展のために上野へ行った。昼間から賑わう居酒屋で自分を「おかま」と呼ぶ蛍光の黄緑の服を着た人と少し笑いあった。悲しい話も少し聞いた。自分のことをあえて「おかま」と呼ぶことについてまた能町みね子さんたちの対談を思い出した。上野公園をぶらぶら歩きながら東京都美術館へ。たくさんの人の後ろ姿。元気いっぱいに殴り合うふりをする子どもたち。そのそばで自分のやりたいことを主張する子ども。たくましい。で、東京都美術館。ガーン。田中一村展は19日からだった。2023−2024の年末年始は奄美大島で過ごした。そこで出会った田中一村。奄美の自然を実際に体験しながら多くの作品を見た。他人から見たら厳しい生活を選んだ一村の生き様もまた魅力的だ。また出直そう。前売りがまだ買える。昨日はショックだったが運よく東京国立博物館は無料拝観日。じっくり見られた。琉球とアイヌの部屋にアイヌの作品がなかった気がしたがなぜだ。アイヌの作品はものすごい迫力がある。ちょっとそれに触れたかったのに。

ちょっと放置していたらこんな時間。今朝はここまで。今日は火曜日。指差し確認するように確認せねば間違えてしまう。がんばろう。

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パンダ、パウンドケーキ

和歌山県白浜町アベンチャーワールドの良浜が24歳になった、と少し前の記事で知る。おめでとう。あなたたちの子どもパンダが赤ちゃんだった頃、ずーっとずっーとみさせてもらったよ。かわいかった。彩浜ちゃんのときともうひとパンダ。どの子だったか・・・。彩浜のときはコロナ前だったのと時期もよかったのかな、並ぶこともなく時間制限もなくずっとずっと見られた。コロンって寝てるだけなんだけなんだけどピクンとかなるだけでみんな声をあげるほどかわいかった。お外で遊んでいた兄弟姉妹もおもしろかわいかった。パンダってのんびりしてて間の抜けた動きとかそれって無理があるのでは、やっぱり無理じゃん、みたいな動きとかなにしててもかわいい。熊とかはああいう動きはしないだろうし、やっぱりあのまーるい感じがなんともいえず幸せな気分にさせてくれるのかしらね。上野動物園の方がずっと近いのにシャンシャンとか見たことないのよね。中国で元気にやってるかしら。

さっき南側の大きな窓を開けた。風がない。昨日は洗濯物が案の定大惨事に、でもないけど物干し竿が風で落ちた。その前に少し取り込んでおいたから被害は少なかったけどガーンって大きな音がして私もガーンってなった。で、ハンガーも壊れてしまった。ガーン。

今朝は甲州市塩山「Nelk」さんのパウンドケーキ。調べたらすっごくかわいいお店。こんな記事がありました。おいしい。クッキーももらったからそれは明日。楽しみ。今日はTWGのフレンチアールグレイと。これもいただきもの。我が家の紅茶ストックも充実させねば。今年は少しずつ少しずつ冬に向かっていくらしい。というかこんな暑い秋のまま一気に冬になったらいやね。ああ、地球、大丈夫じゃなさそう。大切にしよう。

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風、光、秋祭り

風が強い。洗濯物が飛んでしまうか?大丈夫か?心配だからパソコンを移動してテレビをみながら洗濯物も見る。いいお天気で乾くのは大変助かるが。そしてNetflixでドラマを見てしまう。いかん。午後はお仕事だからそれまでにやらねば。

キウイ美味しい。熱い紅茶暑い。洗濯物がすごい靡き方している。「なびく」って「靡く」って書くのか。自動変換便利。こんなに時折ぶおって持ち上がるくらい揺れても「靡く」でいいのか?靡くってこんな激しい感じにも使うのか?使うのだろうね。風の種類も色々あるからそれに合わせて動詞も変わったりするのかしら。私が知らないだけできっと色々あるのよね。こう書きながら洗濯物を眺めている時間が長い。そして洗濯物が激しく揺れるたび変な形の光が部屋を走る。洗濯物たちが作る影ではなくて光が部屋の中を走る。小さい頃は光でたくさん遊んだよね。今は見せられるまま。戯れることはしなくなった。それでも楽しいけどね。

昨日は秋祭りの音に誘われて八幡に寄り道した。いつもはほとんど人がいない神社に自転車がいっぱい。お店がいっぱい。裏の出口ですれ違った子供が父親の足にししがみつき押しとどめながら綿菓子をせがんでいた。楽しく出かけ盛り上がってもこうなっちゃうことってあるよね。私が行った時間帯は叱られている子どもが多かった。何度呼ばれても振り向かない子ども。結局連れ去られ大泣き。呼ばれるたび先に行ってしまう子ども。先に帰っちゃうよ、と言われても振り向かない。しばらくして振り向くともう親は見えない。泣いて追いかける。姿が見える。もっと泣く。叱られつつ抱っこされる。そうねえ。みんなお互い辛いところだよね。でも道に出たらもう電車に興味がいっちゃってニコニコだったり。外からはわからないそれぞれの親子。良い夜でした。

今日も色々あるでしょう。良い日曜日になりますように。

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時代、ゆっきゅん新アルバム

いよいよこのパソコンだめなのではないか・・・。朝焼けがきれいだったことも忘れてしまう。早朝、そっとカーテンあけてきれいな気持ちになったんだ、一瞬。このワードプレスのアプリ?ソフト?これも開くたび落ちる。今はなんだか大丈夫。まあ、こんなことしてないでやることやれよ、という警告かもしれない。しかしこのいろんな不具合は単にこのPCが対応できないモデルだからということかもしれない。どこに持っていってもヴィンテージとして驚かれ懐かしがられるし直せる部品がないかもしれないと言われている。いやだ。こんな長くもってくれたんだからいいじゃん、という話ではない。パソコンはとっても高いんだよ。ワープロで事足りていた私にパソコンなど本当は必要ないのかもしれないけどなんとなくパソコン時代に乗っかってきてしまった。私が大学生の頃はまだでっかいフロッピーディスクだった。プログラミング学んだりしてたんだ。こんなタンとしたらパッと出るみたいな世界ではなかった。全然ついていけないよ。このAI時代に何を、という話だが、AIが生活を変えていることはわかってる。私がこれから生きられたら生きるであろう2、30年にもいろんなことが変わるだろう。私はなんかついていけないと感じながら何が古くて何が新しいかわからないままいつまでも大きなフロッピーディスクとはじめて書いたプログラミング言語が別の姿に変わった感動をこうしてつぶやいてしまうのだろう。

今朝もゆっきゅんの新しいアルバム『生まれ変わらないあなたを』を聴いている。特設サイトはこちら。ヴィジュアルもインパクト強くていいが歌詞がいい。私がついていけない時代に20代を生きてきた人の言葉にも過ぎた瞬間を懐かしむような言葉が現れることににっこりする。ゆっきゅんの言葉に支えられる人は多いだろう。「たべっ子どうぶつ」は時代を超えて存在するわね。今すごくいろんな種類あるよね。

♪たべっ子どうぶつくれたぬくもりの裏に♪

ゆっきゅん「隕石でごめんなさい」の一部。新しいのに懐かしいわ、とても、なんだか。いい声だな。

さあ、週末。平日にはできないことをきちんとせねば。イレギュラーのグループも忘れないように。不安だわ。でも美味しい幸水もいただいたし、清里のお土産の「赤毛のアン」のコーヒーもとても美味しかったからがんばろう。

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引用、「普通」に共有

陽射しが強い。梨が美味しい。水分!

読書するとき、気になった言葉を抜き出しておく。それらはただメモとして溜まっていく。外向けに何かを書くときは自分がその本の全体を読んでいるものからしか引用していないと思う。この2年、フェミニズムに関する良書がたくさん出た。理論的なものは別として、私はそれらからはほとんど引用していないと思う。できないのだ。この問題はあまりに根深い。声をあげはじめたといってもその声は様々でありほとんど届いていないという現実に目を向けざるをえない。基盤のないところに理解を育てるには時間がかかる。これは教わるものではなく体験的な知として実感していかないと差別を反復するだけになる。私のフェミニズムに対する関心は精神病と重度の自閉症という自分の仕事の原点に関わるもので自分が女であることに対する意識はその存在の後にくるものである。これらの本を読みながらそういうことが意識に上ってくる。そして私はいまだに彼らの心を説明するすべをもたない。

昨日、Twitterで読んでほしい本をあげた。森山至貴 & 能町みね子 『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ 性と身体をめぐるクィアな対話』(朝日出版社 )は引用できない本の一冊だ。そもそも対話というのは流れがあるものなので切り取るものではないというのもあるがどこかを抜き出すことでまた無知や誤解に基づいた誰かなりの理解にすいこまれ、さらには使われてしまったりしたらと思うととてもできない。だから「読んで」となる。知識は大事だけど知識を身に付けるのは簡単ではないというのもまた肝に銘じる必要がある。今、頭の中に浮かんでくる言葉も出してしまったら何かを妨げるだろう。まずは自分が知ったかぶりをしないように今日も学ぼう。いずれ多くの人と「普通」に共有できるように。

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秋、IPAPodcast

なんかまだ暑い。陽射しが強い。そして毎日眠い。すっきり起きるのにすぐまったりする。空の色はやっぱり秋。空高し。

仔馬爽やか力のいれ処ばかりの身 中村草田男

爽やかやたてがみを振り尾をさばき 山口誓子

仔馬と大人の馬では力の入れ具合が違う。どちらも素敵。

朝ドラ『虎に翼』のとらちゃんはこういう感じで変化したよねえ。今はいい感じに力が抜けて落ち着いている。

昨日、IPA(国際精神分析学会)のpodcast、Talks on Psychoanalysisを聞いた。お話はArgentine Psychoanalytic Associationの訓練分析家、スーパーヴァイザーのPatricia Alkolombre博士。テーマはThe Desire and Passion for a Child: Psychoanalysis and Reproductive Techniques。著書“The Desire and Passion for a child. Psychoanalysis and Contemporary Reproductive Techniques で扱われたテーマ、親であることの欲望と生殖技術について。

これまでポストフロイディアンやジェンダーセオリーで扱われてきた子供に対する欲望が含む複数のテーマが取り上げられている。

たしかに臨床現場でも様々な不妊治療の話を聞くことが増えた。人によっては卵子凍結の費用の話もランチタイムにするような話になっているようだ。そしてたしかに私のきき方もずいぶん変わった。いや、きき方は変わらないがこれはずいぶん多くの人に共有される問題になったんだな、という感覚をもつようになった。

 ポッドキャストできいた話は新しい領域において子供に対する欲望(来たるべき子供の不在をめぐって)も変化してきているという話と思っていたけど最後はこれまでとそんなに変わらないのではないかという話にきこえた。この話もmotherhoodの文脈で語られていてそれ自体に私は抵抗を感じてきちんと聞けていないというのもあるし、私の英語の聞き取りの問題も大いにあると思う。

しかし、これが変わったからこっちも変わる、というほど人間は簡単ではない気がする。むしろ変わりたくないという欲望の外在化としての技術では、という気もする。この場合だって変わりたくないというのは無意識のことをいっているのでそれがなにかを取り出すことはできない。それは常に事後的にあらわになるというのが精神分析の考え方であり、実際にそうだと思う。本人にも誰にもわからない。知る、わかるよりとりあえず自由連想。

今日もがんばりましょう。

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超回復とか引用とか。

虫の声。静かな朝。音があってはじめて感じる静けさもあるし静けさのおかげではじめて感じる音もあるね。

筋肉痛がひどくて時々ふらつく。都会の人は歩くのが早くてうまく避けられない。酔っ払ってるわけではないよ、というかこれは酔っ払いのイメージか、と心の中で呟きつつのったりふらりと歩く。破壊された筋肉が回復中なのよね、と思って筋肉痛について調べたら「超回復」という文字がありなんかすっごく強くなりそうと思った。漢字三文字だからか。「波動拳」みたいな。さて超回復には48時間から72時間かかるらしい。バスケ部やバド部だった頃、筋肉痛でフラフラになった翌日も練習していたけどあれは筋肉によくなかったってことかな。でも合宿で超回復待っていたら練習ほとんどしないことになってしまうものね。まあ、不真面目な俺たちにはそれで全く問題なかったがな。お部屋でゴロゴロダラダラおしゃべりしてるだけで全然楽しい、ってなってたと思う。

先日、GW中に開催された狩野力八郎先生の蔵書頒布会でいただいてきた本を読んでいた。そのメモを探していたらこんなのがあった。

「われわれ、特に日本人は「なる」という表現が好きで、「何々します」とは言わないで、「何々ということになります」という言い方をしますね。あるいは鳩山前首相も得意だった「・・・・・・させていただきます」というへりくだりの表現がありますね。」

これは別の本からの引用だ。

木村敏と坂部恵の「する」「なる」の区別を受けて「何々ということになります」について野家啓一が木村敏との対談で言った言葉。

「ある意味ではそれは、自己が責任をとらないという責任逃れの口実にもなるんだと思いますが、同時にその事態の展開というものを自分だけじゃなく、他者とも共有し合う場を形作る、という機能も「なる」という表現にはあるのかな、と思うのですが。」

中動態の話。どの本だったか。木村敏と野家啓一で検索するとなぜか全然関係ないサイトが出てきた。Googleが変になっちゃったと思ったら「野毛」で検索していた。とはいえ、どうして?「野家ではありませんか」とか出るのがいつもではなかったっけ。二人とも有名でしょう?それにしてもお二人の共同作業は多くてどれだけわからないな。「河合臨床哲学シンポジウム」シリーズのひとつだった気がするけど曖昧。出典が一番大事なのにメモしわれた。

さて、お目当ての本のメモはどれだ。ない。ラカンの不安概念と関連して気にしていたキルケゴールのことが書いてあったのに。でも書名ならわかる。実存主義とルドルフで検索。あった。

『実存主義と精神医学』 ルドルフ・アラーズ (著) 西園昌久/板谷順二 (訳) 判型:A5判 ページ数:113, 5 1965年6月15日初版 岩崎学術出版社 刊行時定価(税別)800円

とのこと。引用メモは見つからないけど西園先生はこの本の翻訳を小此木先生に強く勧められたとあとがきで書いていらした。精神分析に対する批判やそれに触発された対話の水準が高かった時代という気がする。最近、そういう時代の本ばかり読んでいるな。いや、そうでもないか。小説はわりと最近のも読むようになったし。とにもかくにももう亡くなってしまった先生方の仕事を忘れないように現在の精神分析を考えていかねば、というかその方がずっと豊かな気持ちになる。感謝だなあ。

冷房はつけてないけど少し暑くなってきたかな。森の方でいつもと違う鳥の声がする。どうしたんだろう。今日もがんばりるれろ(とか昔言ってなかった?)とか言ってるといいな。

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カステラ、『東京都同情塔』、Chat GPT

今日も光が強い。メロンをいただいた。甘すぎずジューシーで美味しかった。あと「甲州かすてら 槌や」のカステラ。石和温泉のお土産。包装も可愛いのだけどWebサイトだとよくわからない。どのお菓子も美味しそう。お味は色々あって今日は抹茶をいただきました。この甘みは美味しい。あ、インスタでなら見られる。「およそ70年前に花嫁と共にやってきたカステラを原点に持つ「槌や」」ということでこのデザインなのね。この地域の慣習かしら。お米とかお金の代わり?何か物語があるのかしら。

昨日、九段理江『東京都同情塔』(新潮社)を読んでいた。「生成AIを駆使して作った」という作品。すごいな。言葉言葉言葉で読みにくいがこのこだわりが「言葉って」という疑問を生じさせる。言葉の効果、というのを作者は熟知して使いこなしている。すごい。面白いとかそういうのとはだいぶ違うけどドライに書かれた強烈な皮肉を感じた。

ふと私もAIを使ってみようとchat GPTにログインした。登録はしたがほとんど使ったことがない。パスワードは保存されたままだった。目のマークを押してただの●で隠されていたパスワードを表示させる。なるほど。私はこれはこっちのパスワードにしたのか。とりあえず入力すればいいのだろう、と入れてみる。

最初は槌やのカステラのこと。勝手に物語も作ってくれた。

「新郎新婦はこの甘いお菓子のように、末永く甘い生活を送り、地域でも伝説的な夫婦として語り継がれることとなったのです。」

で終わっていた。うーん。

別のことも聞いてみよう。

「精神分析を受ける人ってどんな人?」

AI の答え。

「精神分析を受ける人は、さまざまな心理的な悩みや葛藤を抱える人々です。精神分析は、無意識の心の動きや過去の経験にアプローチして、深層心理を理解し、問題解決を目指す治療法です。一般的に、精神分析を受ける人には以下のような特徴があります。

1. 繰り返す感情や行動のパターンに悩む人

精神分析は、無意識の葛藤や欲望が、繰り返し似たような問題を引き起こすことに焦点を当てます。そのため、例えば同じ種類の人間関係のトラブルや感情的な反応を繰り返している人が対象になります。

2. 過去のトラウマや心の傷を持つ人

精神分析では、幼少期の経験や過去のトラウマが現在の問題に影響を与えると考えます。過去の経験を整理し、解消しきれない感情を理解したいと考える人が治療を求めることが多いです。

3. 自分を深く理解したい人

自己理解を深めたい、人生の意味を見つけたい、自分自身の本当の気持ちに気づきたいという人も精神分析を受けることがあります。これには、特定の悩みを抱えていなくても、自分の無意識に興味を持つ人も含まれます。

4. 不安や抑うつに苦しむ人

精神分析は、不安障害や抑うつなどの心理的問題に悩む人にも効果的です。これらの症状は、しばしば表面的な原因だけでなく、深層の無意識の葛藤に根ざしていることが多いため、精神分析的なアプローチが有効です。

5. 夢や象徴に興味を持つ人

精神分析では夢や無意識の象徴が重要な意味を持つとされます。そのため、夢の分析や、自分の中の無意識的なサインに興味を持っている人が精神分析に惹かれることもあります。

6. 長期的な治療に取り組む意思がある人

精神分析は、深層心理に働きかけるため、通常は短期間での成果を期待するものではありません。時間をかけてじっくりと自己理解を深めたい、根本的な問題に取り組みたいという人に向いています。

7. 自分の行動や思考の動機を探りたい人

自分がなぜ特定の行動をしてしまうのか、自分が持つ思考パターンの背後にある動機を探りたいという人が、精神分析の対象になります。

精神分析は、表面的な症状だけでなく、その背後にある根本的な原因にアプローチする方法であり、人生の意味や自己理解に関心がある人、または深い心の葛藤に取り組む必要がある人に適しています。

うーん。

間違ってはいないけどこう羅列されるとなんだかポカンとする。これらにひとつも当てはまらない人もいるだろう、というか、これらを意識して意気揚々と申し込んできた人が実際に精神分析を始める人はそう多くない気がしている。

しっかし、こういう感じなんだね、ChatGPT。うーん。これを駆使してこういう作品を作れる「人」の力がすごいな。私も課題もこなしてくれないかな、と思うけどどう言えばいいのかわからない。AIとの会話で何か思い浮かぶかな。とりあえずPCの前から離れなければ。今日もがんばろう。

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月曜朝

西側の窓を開けた。風がない。まだ昨日みたいな雲がもくもく。今日はどの果物を食べようか。

昨晩は電池切れ状態で眠ったせいか朝まで一度も起きなかった。学ぶことの多い週末だったが私のキャパは狭かったらしい。あ、光がオレンジになってきた。日の出から30分くらいたつか。

昨日はセミナーのあとオンラインのカンファレンスがあった。その間に料理をしながらNetflixを見た。ジャック・ブラック主演のミュージックコメディー映画『スクール・オブ・ロック』(2003)の続き(最高に楽しかった!)と『グランメゾン東京』。『グランメゾン東京』は以前やっていた連続ドラマだった。パリのレストランから始まるからフランス語学習に良いかと思ったけどこれはビストロスマップか!とただただ食欲が亢進するドラマだった。沢村一樹はいつも素敵だ。

昨日からなんか携帯の画面が変わった、と思っていたが自分が目線を向ける場所がそれまでと違うだけだ、と今気づいた。やっぱり老眼鏡作り直さないとかな。本も読みにくいとは思っていたが読みにくい本を読んでいるからそんなに支障もなかったが小説とか読むには不便。放っておくとまたメガネ屋さんに叱られちゃうかしら。いやー。

今日は今日でとりあえずはじめましょ。

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ジュリアン・ラージ、コンビニスナック、環境のせい

日の出が遅くなった。PCの動きも遅い・・・。東京の日の出はさっき、5時18分。もう空はだいぶ明るいけど。鳥たちが賑やかに通り過ぎていった。インスタでジュリアン・ラージを見かけた。短い動画。やっぱり素敵だなあ。Spotifyで”Speak to Me” を聴こう。今年でたアルバム。聴いている。やっぱりいい。ライブに行きたいな。もうすぐ来日。JULIAN LAGE “Speak to Me”ツアー。YouTubeも見ちゃおう。今年一月のSFJAZZコンサート。SFJAZZはサンフランシスコにあるジャズのための非営利組織。教育機関でもある。良い組織があるなあ。柳樂光隆さんによるインタビュー記事も後で読み直そう。ジャズの歴史はいろんなことにまたがっていていろんなこと考えさせられる。あ、読み始めてしまった。いけない。やることがある。

昨晩、週末気分でスナックを食べたら胃もたれ。セブンプレミアムベルジャンフリッツアンダルースソース風味。コンビニの独自商品の小さい袋のは全部試したくなってしまう。これはベルギーのフライドポテト「ベルジャンフリッツ」をイメージしたスナックということでポテトフライ好きな人にあげたことはあったのだけど自分でも食べてみた。こういうのはスナックとしては間違いなくおいしいけどスナックはいかんよ。止まらないもん。今日は初回面接グループもセミナーもあるというのに。コンビニに行くからいけないんだな。コンビニが近くにたくさんあるからいけない。というわけではない、というのはわかっている。環境のせいにしてはいけない。いけなくはないけど心理療法をしていても最初はすべて環境のせいにしたり、どうしてもそういう物語にしがちだった人が(というか大抵はそうだしそれはそれで大切なこと)自分の今のあり方は環境で説明するにはちょっと、となっていくことは多い。精神分析はそういうことを考えたい人にとても役に立つのだけど精神分析を始めるとまた環境のせいにすることが増えたりもする。それまでよりずっと実体験として。反復。再演。単に頭で考える物語ともう一度生き直されてしまう出来事は随分異なるし精神分析はそういうことが生じる仕掛け(=設定)のもとになされる。皮膚感覚が敏感になるので境界をめぐる話が増えるし、すると不安が生じやすくなるし、興奮も漏れ出しやすくなる。それはいかんともしがたいことで、それをどうにもできない時にどうにかしてよという気持ちが起こりそれは環境の不備の話としてでてきやすい。自分の欲望に触れるのはなかなか難しい。何を言ったところで結局自分なのだけど。

そうだ、ラカンが詩についてどう考えているかについてちょこっと調べたがフィンクが「私は、詩に関するラカンの主張について分かったふりをする気はないので、ここでは詳しく述べないでおく」と書いていたのでまあいいかとなった。とはいえフィンクのせいにしてはいけない。面白いと思ったことを追求できる人になりたい。ある程度なっているがなんか全然サボってる気もしている。もっといろんな場に出ていけばいいのだろうけど時間がないし気力もない。欲望をごまかしている。ああ。

みなさんどうぞお元気で。良い一日をお過ごしください。

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モルダウ、春の小川

今朝はまだ窓を開けていない。すぐに冷房をつけてしまった。冷房の音で外の音が遠い。大きな車がバックする音?わからない。

村上春樹がジャズを語っていた記事があった。あれはなんだったか。また読みたいけどネット上のどこにあるのかもうわからない。

「元気?」

「元気だよ、春先のモルダウ河みたいに」

村上春樹『スプートニクの恋人』で最も心に残る箇所、というわけではないが「元気?」と聞いたり聞かれたりすると心の中で続きを答える。

小さな頃、父親が市のオーケストラに所属していた。私も楽器を習っており、様々なクラシックコンサートに連れていかれた。眠っている時間の方が長かったがスメタナの「モルダウ」だけはいつも泣きながら聴いていた。それが祖国をおもう曲であると知ったのはずっとあとのことだ。村上春樹の作品は色々な言葉に翻訳されているが、チェコの読者はモルダウの部分は翻訳によって書き換えられたのではないかと疑ったと聞いたことがある。面白い。その感じでまた日本語に翻訳すると

「元気?」

「元気だよ、春の小川みたいに」

とかなってしまうのかしら。ちなみに高野辰之(作詞)、岡野貞一(作曲)の「春の小川」の舞台は渋谷区の河骨川。初台にある私のオフィスのそばだ。今は暗渠化されておりその場に行ってもマンションが建っているだけだが電柱に案内がある。渋谷区を巡回するハチ公バスの本町・笹塚循環は「春の小川ルート」という。

今朝も桃を食べた。「も桃」3つ「も」がつながった。何か回文を作ろうと思ったがダメだった。私は回文作りが好きだ。村上春樹の『またたび浴びたタマ』も愛読していた。満島ひかりと又吉直樹の『軽いノリノリのイルカ』も欲しい。つまらない話を真剣な顔で聞いている時の私の頭は大抵回文作りで忙しい。

今日は土曜日。東京はいいお天気。がんばろう。

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衝撃とか狂気とか。

果物がいっぱい。とても嬉しい。桃とキウイを冷蔵庫から出した。桃はしっかり。皮もしっかり。と思ったら一部が黒っぽくなっていた。中も薄い茶色に。こんなしっかりに見えてデリケート。ちょっと雑に運ばれてきたな、と思ったのはこういうとこに結果として現れる。味はとても美味しかった。キウイも断面がとてもきれいで瑞々しくてとても美味しかった。美味しいってこれまでの人生で最も使っている言葉だったりしないだろうか。しないか。

昨日、西加奈子の『わたしに会いたい』(集英社)のことを書いた。移住先のカナダで乳がんの手術をうけ治療の日々を書いた『くもをさがす』と同じ時期の短編だっただろうか。文芸誌に掲載されたものを集めたものだと思う。『わたしに会いたい』の中でも乳がんの話があった。胸、髪、それまで当たり前に自分の一部だったものを失うことは西加奈子自身の体験でもある。他の短編も女が受ける様々な行為が書かれていた。一見衝撃的だがどれも身近で、あるいは実際に体験したことがあるものばかりだった。私は日々こういう話を様々な雰囲気の中で様々な話され方の中で聞いているのになんでこんなに衝撃的なんだろう、というよりこんなことが実際に起きていること自体が衝撃で、でもこれは実際に他人事ではなくて、なのにこれらをまるで遠くの世界のように感じながら衝撃とかいっていることが衝撃的なのかもしれない。乳がんはまだ経験していないが患者さんたちの体験は聞いてきた。膣、子宮、こころ、見えないところにも容赦なく侵入してくるものたちに対する反応も様々だ。それでもこの話たちが希望をもたらすのはどの話にも観察して描写してくれる人が必ずいること。小説には他者がいないということがない。臨床では他者を不在にするこころの実際を思い知らされることがあるのだが、それは絶対に記述できない。だから小説に希望を感じる。そこには人がいてこころがある、なんだかんだいって。それは希望だ。特にこの本は一人称と二人称に貫かれているのが印象的だった。社会に殺されることなく生き残る基盤をどこに見出すかは自由だが精神分析は一人称と二人称、しかも一人の人間の中のそれらに貫かれた技法であることを私は強く意識しているのでこの本のその部分に注意が向いた。精神分析は社会の狂気ではなく自分の狂気と欲望を扱う。そういう技法が今は全く流行らないこともこの社会にいれば当たり前とわかるが女であることのどうしようもなさを生きるにも自分が誰であるかを知ることは助けになる。私がかなりの危機とともに体験してきた狂気が私を生かし患者とこころ合わせる術となっているという実感も今の時代は共有されにくいだろう。それも自分なのに、自分であるかもしれないのに、という恐れとともに生きるのはとても不安なことだから。

だいぶ爽やかになってきたとはいえ汗ばむ。今日もがんばりましょう。

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「あっらー」、西加奈子の本

静かな朝。昨日は弱々しくなったアブラゼミと秋の虫たちの声のトーンが同じくらいになったと感じた。梨をスルスルむいてくしゃくしゃ食べた。熱い紅茶にはまだ口をつけていない。西側の窓から車の音がたまに聞こえる。自転車がブレーキをかけた。隣のマンションをオレンジに照らしていた光が白くなっていく。1秒って案外長い。でもきっと今日もあっという間に過ぎる。

朝ドラ『虎に翼』で主人公寅子の更年期症状が梅子さんと共有される様子が描かれた。私もあれやってもらったなあ。会うたびに優しく明るく抱きしめるように迎えてくれる人生の大先輩が「あっらー」とああいう感じでようこそしてくれた。

若い患者さんに対して私の方が「あっらー、あなたもこちらに」と笑うことも多い。あちらは苦痛半分、笑い半分だがそうなるのも通過済みだからうんうん辛いよねと共有できる。

西加奈子『わたしに会いたい』(集英社)を読んだ。短編集だ。内容は集英社のウェブサイトから引用する。

・「わたしに会いたい」──ある日、ドッペルゲンガーの「わたし」がわたしに会いに来る。
・「あなたの中から」──女であることにこだわる「あなた」に、私が語りかける。
・「VIO」──年齢を重ねることを恐れる24歳の私は、陰毛脱毛を決意する。
・「あらわ」──グラビアアイドルの露(あらわ)は、乳がんのためGカップの乳房を全摘出する。
・「掌」──深夜のビル清掃のアルバイトをするアズサが手に入れた不思議な能力とは。
・「Crazy In Love」──乳がんの摘出手術を受けることになった一戸ふみえと看護師との束の間のやり取り。
・「ママと戦う」──フェミニズムに目覚めたママと一人娘のモモは、戦うことを誓う。
・「チェンジ」(書き下ろし)──デリヘルで働く私は、客から「チェンジ。」を告げられる。

以上。引用。

女の身体と性は本人たちにもわからないことだらけだ。「わたし」「あなた」「彼女」だけでなく固有名詞で明確に主語を示す短文が積み重ねられる文章は私が今朝西側の窓に感じた1秒1秒の変化と似ていた。快楽、それに伴う痛み、絶望、あどけなさ、幸せな瞬間、逞しさも混じる描写。「わたし」と出会うには相手がいる。ドッペルゲンガーではない相手が。秒で過ぎる出来事の積み重ねがこれからも続いていく。今日も明日も。先のことは「多分」の積み重ねでしかないけれどとりあえず今日も、と思う。

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ラカンとか書類溶解サービスとか。

今日も冷房要らず。これが当たり前の季節になってきたかしら。風が気持ちいい。昨日は朝は雨で上着がないと寒いくらいでびっくりした。昼間晴れて暑くなったのにもびっくりした。夜はちょうどいい涼しさだった。しばらくそんな感じなのかな。身体にはちょっときついかな。調節しながらですね。

ラカンを読んでいてLa Troisième/Jacques Lacan : VIIe Congrès de l’École freudienne de Paris à Rome, le 31 octobre – 3 novembre 1974にあたって3にこだわるラカンということでラカンがイタリアでのラカン派の養成(でいいのだろうか)を託したイタリアの精神分析家にあてた手紙を読んだりしていた。こんなことをしているとどんどん時間がなくなる。そして探している本がない。うーん。優先順位。

郵便局の書類溶解サービスを申し込んだ。郵便局側もまだ慣れていないらしく色々確認しながら丁寧に教えてくれた。うちのそばの郵便局はずーっと人が変わらなくて超アットホームだったのだけどいつのまにか変わった。今も変わらず穏やかで優しい空気が流れてるけど。お客さんにお年寄りが多いせいかしら。書類溶解サービスの箱は思ったよりもずっと小さい。ヤマト運輸より手続きが簡単だからこっちを試してみたけど他のも少しずつ試してみたい。すっごいシュレッダーを買うというのもあるがどういうのがあるのかよく知らないしどこに置くのだ・・。でも積み重なる値段を考えたら経済的にはそっちの方がいいのかもしれない。うーん。

というかこんなことを呑気に書いている場合ではない。いくぞいくぞ。今日もがんばろう。

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暑くない。

今朝もエアコンをつけていない。窓を開けて一気に風が入ってくるわけではないけれど暑くない。虫たちが夜の続きのまま鳴いている。たまにしか姿を見かけないのに全方向から鳴き声が聞こえる。膝に乗せたパソコンが熱い。

なんか疲れますね、夏の疲れが出てるのでしょうね、という挨拶を交わす季節。実際、あづいあづい言いながら暑さをやり過ごしてきた身体は季節の変化を感じて少し戸惑っている感じがする。夏の食材もあまり身体にしっくりこなくなった。魚の美味しい季節だ。ちょっと無理してでも美味しい食材を手に入れたい。食材が良ければ調理はシンプルですむ、というのは多くの料理家がいうことで本当にそうだ。結果的に楽、そういうのが一番いい。

昨日の朝ドラ『虎に翼』で寅子が更年期症状のような様子だった。ホットフラッシュだなぁ、と思った。私も一時期とても辛かった。みんなが寒がっている学会会場でどうにもできない暑さと汗で最後まで発表を聞くことができなかったりした。ほかにもそれまで経験したことのないようなさまざまな症状が出て女の身体は大変だなといつも思っていた。友達や先輩が気持ちも情報も共有してくれて安心もしたし婦人科で相談しながら対処法も知ったし慣れてもきた。そのうち百合さんみたいに記憶の問題が出てくるかもしれない。

エドワード・サイードに「晩年のスタイル」という本がある。「逆らいつづける」ことはしていきたいが、抗えないものもある。そこを支えてくれるのがこれまでの人間関係と生活の積み重ね。そういうのを実感する年齢になった。若い頃に考えていたことはなんだったんだろう。今はいろんな体験が伴ってるから言ってることとやってることが離れていかない。力が抜けてる。

昨日、ラカンの『アンコール』を読んでいた。題名に対する言及ももちろんある。フロイトを読み続けているおかげで深く緻密に物事を考える人の言葉にしっかり向き合えるようになりつつある。哲学も同時に勉強できるのも楽しい。フロイトは精神分析家として哲学に対して多くの大きな問いを残したけどラカンは精神分析家であり哲学者だからフロイトを読むときとは全く別の思考を促される。そこも刺激的。

お、バタバタしてたらまた中途半端に。今日もがんばろー。

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桃、色

桃を剥いた。まだクチュってなってないしっかりした桃で皮をゆっくり下にひっぱる必要があった。きれいに向けた。白い果肉に包丁を入れるときれいなピンクが現れた。いちじくの闇のような赤よりほんのり、と思ったら少しそれが濃くなったように思った。こんな早く変色するか?と思いつつきっとするのだろうと思って少し眺めたがすぐに啜った。こんなしっかりした桃でもいざ口に入れると啜るという表現がやはり合うように感じる。そして身体に入るとずっしり。

桃すする他のことには目もくれず   三代寿美代

少なくとも桃を啜っているときはこんな感じ。水分落とすまじ。落ちるけど。

私が愛する無花果にはこんな句がある、と8月30日の俳句日めくりカレンダーで知った。

無花果を喰み口中の闇ふやす 杉山久子

第2回芝不器男俳句新人賞受賞、杉山久子の句集『春の柩』からの一句だ。無花果の赤は桃のようはほんのりさを感じない。闇と調和する色。中のほろほろ加減もこちらが噛み付くからではなく向こうから流れ込んでくる感じ。大袈裟にいえば。結果、口の中に闇が増える。かといってその口から出てくる言葉が闇色とは限らない。私は無言で幸福を味わう。

先日、「映画 けいおん!」「映画 聲の形」などの山田尚子(監督)、彼女と長くコンピを組んできた吉田玲子(脚本)、そして「映画 聲の形」「リズと青い鳥」などで彼らと一緒に仕事をしてきた牛尾憲輔(音楽)らによる長編アニメーション映画『きみの色』をみた。いつも通り花の色の鮮やかさに希望があふれていた。今回は「色」がテーマなのでなおさらだが、不安や痛みや存在感がパステルカラーで表現されているようなところがありそれが傷にまで至っていない様子が明るい方へ向かうストーリーにぴったりだった。ストーリーやセリフを味わうより色と音の効果を堪能した。聖地巡礼について書こうと思ったが時間がなくなってきた。

風がブラインドを揺らしているが私の方まで届いてこない。今日もどうぞ良い一日を。

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時間感覚とか分析とか商売とか。

除湿運転が寒くて雪の中にいる夢を見た。ドアを少し開けてリビングに冷気を逃した。朝まで眠れた。リビングの大きな窓とキッチンの小さな窓を開ける。風を感じない。ゆっくりゆっくり動く台風をずっと気にしていたせいか時間感覚もおかしい。昨日は仕事もあったのになぜか何度も日曜日だと思ってしまい大河ドラマどうだったんだろうなど気にしてしまった。毎週見ているわけでもないのに。いや見ていないからというのもあるか。人はいろんなもので自分の時間感覚を維持しているのだろうから。

精神分析を受けるかどうか迷っている人は時間の捻出に苦労すると思う。私はウェイティング期間も数年あったがそれだっていつ始まるかわかっていたわけではない。そのために何年もかけて準備した。開業していれば比較的楽に動けたが当時の私はいくつかの職場を掛け持ちしていたので訓練がはじまったらやめねばならないか勤務時間の変更をしてもらうことを上司に話し許してもらっていた。一度順番が回ってきたことがあったが一番忙しい土曜午前ですぐに調節がきかずそのあとまた数年待った。今思えば早く開業しておけばよかったのだがどれもこれも今思えばの話であって、もう色々忘れている事情が色々あったのだろう。週4日、通い始めてからはあれだけ心配した時間とお金のことより転移関係によって顕になる自分のことのほうが大変でこの作業の維持のために生活を組み立てていくということは自然にできてしまった。あれはなんだったんんだろう、というのはやってみてはじめて思うことだし、結果的には受けてよかった。朝一番と夜最後の枠に何年も通い続けた。最初は疲れ切っていたがいつのまにか体力もついた。身体のというより心身の。身体の不調は年齢的にも増えたが対処はうまくなったので辛くなることが減った。私は開業し、分析家は大学を辞め、時間を変えてもらってからは朝と昼間になった。夜はずっと臨床。今は訓練が終わって使える枠が増えた。精神分析を語る人ではなく体験する人が増えたらいいなと思う。

地元にできた少しいい店に行った。今は変わったがチェーン店がことごとく根付かなかったこの街で「街には街の値段設定がある」という話を地元の人に聞いたことがある。新しい店ができるとついいろんな計算をしてしまう。この時間帯でこの客の入りでこの場所の家賃はこのくらいだろうからこの値段設定とサービスだとうーん、など。開業しているとそんなことばかり考えてしまう。私も商売人になった。そうなると私の患者やスーパーヴァイジーもお金のことをあれこれ考えるようになるのでこの生活って、この仕事って、と実感を持って考える、あるいはそういうことを実感を持って考えない自分を知るようになる。心理職とは、ということをこういうふうに考える人が増えるのはいいことだな、と思うことも多い。

あ、NHK俳句見なくては。風景を大切に。

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雨、生活、食

深夜、寝る前に窓を少し開けたらひどい湿気と熱さを感じてすぐに閉めた。あの気持ちのいい風はどこへいってしまったのだろう。早朝、目を覚ましてからも雨の音をずっと聞いている。仕事には行けるだろうけど来る方も大変だろう。私は訓練に入る前に別の分析家のところへ通っていた。あれは台風だったか、断続的にものすごい雨風の日があった。どこかへ継続的に通うというのは仕事と同じでリズムであり習慣なので慣れていない場所へ行くよりは方法を考えやすい。お金を払って休んでもよかったのだが出向いてみた。雨の合間を縫って少し早めに近くまで行き店に入った。居酒屋だった。この天気ではくる人もいなかったとみえて「お酒飲まないのだけど」という私に快く応じてくれた。ソフトドリンクと何かをつまんでおしゃべりしているうちに雨が弱まったので分析家のオフィスへいったらきたことにびっくりされた。私はその日の自分の楽観的で能動的な態度について話したと思う。そういうのは日替わりどころか瞬間瞬間で違ってくるので面白い。あの居酒屋はしばらくしてなくなった。そこの通りに当時あった店は今はほとんどない。向かいの区画には以前からの店がそこそこ残っているが。私はその後、別の街で開業しているIPAの訓練分析家のところに通い始めかつての分析家もあのビルから同じ街の別の場所へ引っ越した。

私は2017年に開業してもうすぐ満7年。最近の自然とどう関わっていけばいいのか悩むことが多い。悩んだところでこのまま悩みながら同じことを続けていくだけなのだが考えておくと最低限の対策は取りやすいと思う。料理など毎日の家事をしていると足りないものがいつも意識にのぼっているのと同じ。優しさや思いやりも生活を積み重ねるところからだよなあと昨日漠然と思った。

昨日の朝ドラ『虎に翼』で父の役割を果たせてこなかった航一が娘ののどかに「何が食べたい?」と聞く場面があった。このドラマは戦争前の食卓から仲間との饅頭作りから戦後の深刻な食糧難からカフェでの名物や郷土料理、伝統の味など一貫して食事を通じた人との関係を描いてきた。「美味しいもの食べに行こうか」「甘いものでも食べに行く?」「ごはんにしましょう」などのセリフも多くあったと思う。脚本の吉田恵里香さんがSNSにあげるイヤリングもずっと食べ物だ。私の仕事で食といえば診断でいえば摂食障害となるさまざまなエピソードについて聞くこともあるし、美味しいお店の話を聞くこともあるし、毎日ごはんを作ることの負担やそうしないと襲ってくる罪悪感や実際の暴力について聞くこともある。主人公の寅子が「十分に子供をやらせてもらった」と言っていたが彼女の食事の場面だけ追っても満たされる、あるいは満たしてあげたいという思いの中にいつもいる、そこで自然に育っていく、そういう描写だったように思う。航一の「何が食べたい?」は子供の欲望を汲み取るのに最も適した一言のように思えた。

今日も雨をどうにかしのげますように。被害が出ませんように。すでに被害が出ている地域にできるだけ早く手厚い援助が届きますように。

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クリーニング屋さん

早朝からずっとカラスが鳴いている。墓地のあるお寺の木の方だと思うけど意外とゴミ捨て場かもしれない、というかそっちの方が現代的理由としてはありうるか。大袈裟に言ってみたがゴミ問題は大袈裟にすべき問題である。

今朝も無花果を食べた。無花果という漢字は美しい。果肉の色も美しい。今日のは皮が厚めできれいにむけた。果物の甘さは複雑で特別。今年も大切に楽しみたい。

長くお世話になったクリーニング屋さんが閉店した。うちで洗えるものはその方法も教えてくれた。商店街のお祭りの焼きそばチケットもくれた。時折、彼女の夫が対応してくれたが自分はあまりよくわからなくてと恥ずかしそうに笑って彼女を探しに行った。ほのぼのした。小さな庭の水やりをする彼女もよく見かけた。挨拶をするといつもにこやかに返してくれた。今は移転してしまった近所の有名店は彼女がいつも味方でいてくれたことに感謝していた。

先日、彼女の店よりだいぶ後にできた小さなクリーニング屋さんへ初めて行った。テキパキと対応してくれた。初回特典で割引もしてくれた。出来上がったものをとりにいったらこの前とは別の人がいた。特別なときに数回きただけの服にカビが生えてしまった。クリーニングに出していたのに。どこのクリーニング屋さんか聞かれたが私は店名を忘れていることにそのときに気づいた。個人名をいうと「あそこの?あの丁寧にシミ抜きしてくれるっていう・・」とすぐにわかってくれた。この人も地元の人なのだろうか。「そうなんです。長い間お世話になっていたんですけど私の保管の仕方が悪くて」と実感を込めていうと(というかこもってしまった)「そう、なくなったの」と言われ慌てて「あ、人はお元気なんですけどお店が」と付け加えた。そんなことはわかっていたかもしれないが。彼女はうちは工場での機械作業だからそこまで丁寧にできないかもしれないけどといった。そして特典がまだ残っているかと聞いた。私が多分この前もう使いきってしまったと思うというと「みてみますね」と画面を見てないことを確認し何かしらやろうとしてくれていたが「・・・残念」と少し笑った。私もお礼を言って笑った。新しい場所は日替わりで定員さんが変わるようだけどひとまず安心した。誠実に仕事も生活も営んでいる人のおかげ。

台風の被害がありませんように。

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秋、作家の仕事

キッチンに立っていると背中に涼しい風があたった。ようやくこういう季節がきたことに喜びを感じながらできたばかりの麦茶の鍋底を凍らせておいた保冷剤で冷やし始めた。鍋底の保冷剤に指を当てたつもりが直接鍋に触ってしまい熱かった。凍った冷たさとこういう熱さは同じだなと思った。私に与える効果が違うけど。どっちも火傷するわけだし。

昨日の朝日新聞に作家の星野智幸が寄稿していたのを読んだ。執筆の依頼を断るメールから文章は始まっていた。私はこういうのがとても苦手だ。最後の方に「文学の言葉」「究極の個人語」とありそこでもかなり冷めた。この作家のこの文章はすごい戦略的だなとちょっといやらしく感じたが新聞に寄稿するというのはそういうことなのだろうからその点ではとても面白いと思った。あくまで個人的なこととして傷ついたような、もう嫌になっちゃったよという徒労感を静かに滲ませながら決して閉塞も絶望していない強かさに作家はすごいなと思った。これはきっと多くの人を刺激するだろうと思った。私は「究極の個人語」という言葉に瞬間的な嫌悪感を抱いたがそれは私がそんなもんはないと思っているからだろう。しかもこの寄稿文のどこにそれが、と思った。張り詰めたやりとりにzoomで参加していた人が急に何か場をおさめるようなことを言ってこの場にいない人が何言ってんだよという空気になるあの感じを感じた。私の仕事は作家の仕事ではないんだな、とつくづく思う。精神分析場面で自分の言葉で話すことは必須だがそれは個人語を話すことでもましてや究極のなんていうものはない。言葉依存から抜け出すために言葉に依存せざるを得ない人間をどう生きていくかというお話。面白かった。

秋の果物がたくさん送られてきて冷蔵庫がとっても豊か。秋だ秋だ。台風の被害が出ませんように。

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風、佐々木敦の新連載、K-POP

窓を開ける。気持ちのいい風が入ってくる。毎朝窓を開けるたびガッカリしていた日々は終わった。でも降ったり止んだりなのか。夜中には雷も鳴っていた。

昨晩作っておいたキーマカレーをタッパーに入れる。あまりを少し食べる。美味しくできた。

ほかの窓も開ける。一通りの家事をこなしながら時々風を確かめる。また少し満足する。今日もまだ冷房をいれていない。

昨年、青森の下北半島であまりの暑さにはじめてクーラーを導入したとガイドさんが言っていた。今年の暑さは異常だと。きっと今年も昨年と同じく異常だっただろうからクーラーの導入率は増えていくのだろう。しかし青森の真夏の朝は気持ちよかった、ということを東京の秋に思い出す。

今、NewJeans (뉴진스) ‘How Sweet’ を流している。多国籍の5人組K-POPガールズグループであるNewJeans。2022年のデビューからあっという間に世界に知られるグループになった。他にもK-POPの勢いは凄まじいが「すでにBTSとBLACKPINKという直近の成功モデルが存在したということも大きかったと思います。」というのは佐々木敦。集英社の読者情報誌『青春と読書』で始まった佐々木敦の連載『メイド・イン・ジャパン』[第2回]K-POPは世界を目指す、に書いてあった。

このはじまったばかりの連載は「日本の芸術や文化、サブカルチャーの「海外進出」の可能性について、あれこれ考えてみよう、という内容です」と第1回に書いてあった。『ニッポンの思想』(二〇〇九年)、『ニッポンの音楽』(二〇一四年)、『ニッポンの文学』(二〇一六年)(いずれも講談社現代新書)、『増補・決定版 ニッポンの音楽』(二〇二二年、扶桑社)、『ニッポンの思想 増補新版』(二〇二三年、筑摩書房)と多くのジャンルで「ニッポンの」にこだわってきた佐々木敦の書くものは私にとっては要チェックだ。私は毎月本屋さんで『青春と読書』をもらってくるがオンラインでも読めるのでぜひ。

昨日はその第2回を読んでK-POPを聞いていた。私は洋楽を聞いてきたが佐々木敦がいうように「歌=声を音として楽しむ」ことをしてきた。なので逆に時折日本語が混じるK-POPには違和感を感じることもあった。耳が止まってしまうのだ。でもこの論考で韓国語、英語、日本語の特徴を読みながら色々なK-POPを聞いてみてなるほどと思った。最近はその辺もすごく工夫されているのだなと思った。aespa(에스파)の日本デビューシングルも良い感じだった。

「あくまで私見ですが、日本のアイドルファンは運営側/事務所にシンクロナイズしがちであり(そこには何かしら恩恵にあずかりたいという心情やアイドルに対する「上から目線」のようなものが透けて見えます)、対してK‒POPのファンダムは、自分たちが愛するメンバーが不当な扱いをされていると思ったら、事と次第によっては会社を公然と痛烈に批判することも厭いといません。もっとも過激なのが、メッセージ(要求)が書かれたトラックを所属事務所の前に横付けする「トラック・デモ」です。」

という箇所は意外な感じがした。韓国の芸能人の自殺のニュースを多く聞くからだ。しかし「トラック・デモ」というのもあるのか。彼らに限らないことだが自分の権利をしっかり握りしめたままがんばってほしい。

カラスの声が背後の窓から聞こえる。あの嘴からあの声。開け具合とかどのくらい調整できるのだろう。台風情報も彼らの方が正確に受け取っていそう。どうか被害の出ない場所にそれていってくれますように。

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俳句 精神分析

俳句、恥、駱駝

起きたらまだ夜があけてなかった。夜明けが遅くなってきたのかなと時計を見たらまだ明けるような時間ではなかった。あまりにすっきり起きてしまったけどこれでは寝たことにならないとまた寝た。眠れないからiphoneで角川の俳句歳時記を開いた。「秋」→「時候」と進んで最初に出てくる季語は「秋」。「時候」に分類されている季語は46語。秋で一番多いのは「植物」。189個。春も夏も「植物」が最多。冬は一気に乏しくなって「生活」に分類される季語がグッと増える。冬と新年は分けられているけど重なって掲載されているものも多い。さて、季語「秋」を開いて最初の例句は

此秋は何で年よる雲に鳥 芭蕉

これはこの前も引用したかな。

芭蕉が死ぬ少し前に作った句。古今和歌集の

何をして身のいたづらに老いぬらむ年の思はむことぞやさしき

が意識されている様子だけどこの「やさしき」が「恥ずかしい」という意味だと知ったときは驚いた。この「やさし」は「痩す」が形容詞化したもの。芭蕉と古今和歌集の詠み人知らずさんは同じような情緒を体験していたらしい。

精神分析でも「恥」は大事な情動だ。岡野憲一郎先生がIPAジャーナルに載せたのも「恥」についての論文だった気がする。本にも色々書いていらしたと思うのであとで見直そう。最近はラカンが「恥」について多くを述べていることを知った。記述が回りくどいので何を言いたかったかよくわからないが恥が社会的な情動であるという点は芭蕉も詠み人知らずさんもラカンも共通した認識なのだろう。

まだ暗い時間に歳時記で「秋」の俳句を読みながら一番素敵に思ったのは

金秋や人待つ駱駝膝を折る 岩淵喜代子

鳥取砂丘で見た景色を思い出した。私は動物が膝を折る仕草がとても好き。時間がゆっくり止まるような感じがとても好き。動物には「恥」はないね、きっと。生き恥を晒す、とか絶対言わないと思う。ある種の圧を感じさせる言葉だね、「恥」は。駱駝が膝を折る仕草を今日は何度も思い出しそう。とりあえずNHK俳句を見ましょう。今日の選者は誰かな。その前に洗濯物を干そう。

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ロマンとか。

柳樂光隆さんがいろんなジャズ・ミュージシャンにインタビューする記事をよく読む。そこで知ったカート・ローゼンウィンケルを聴いていた。先月、KURT ROSENWINKEL’s THE NEXT STEP BAND REUNIONとしてBlue Note東京でライブをしたばかりだ。今日はNYでライブらしい。ドラマーの石若駿も小さい頃からカート・ローゼンウィンケルを聞いて影響を受けてきたという。柳樂さんのnoteで読んだ。

「降ってくるって美しいことだよね。自分にとっては曲を書くってことは、基本的には考古学みたいなものなんだよね。砂漠に行って、いろんなところを掘る。そして、何かが見えたら、その周りの砂をブラシで丁寧に取り除いたりする。僕にとっての作曲はそんな行為だ。簡単に全貌が現れることもあれば、なかなか掘り出せないこともある。ピラミッドがきれいな形で見つかることもあれば、壺の破片が見つかったから、その周りを掘ってみたけど、そこには何もなくて徒労に終わったりね。ひたすらいろいろ探したのに、やっと出てきたのがスプーンだったりすることもある(笑)。」

文脈もあるから石若駿との対談インタビューを全部読んでほしいのだけどカートの言葉はとても素敵。

フロイトも精神分析を考古学で例えるならこんな感じでいえばよかったのに。フロイトが私の祖父だったら、いや、父でも兄弟でも分析家でもなんでもいいがもし話せる立場にいたらそういってしまう。そしてきっと反論されるか解釈されるかするのだろうね。ロマンがない。精神分析をよく知っている立場からすれば精神分析にロマンはあるのだけどロマンに対してアンビバレントなのではないかな。今は犯罪でもノンフィクションで読んだほうがいいもののほうが多くて、いかにそこにロマンを持ち込まずにいられるかの重要性を学んだりする。異質さは異質さとしてドンと置いてドライに繊細に関わるという点でフロイトが外科医のたとえを用いたのは適切だと思う。私たちは「関係性」とかいうごまかし言葉を多用しがちだし「物語」が好きだったりする。わかりやすいのはいいけどそんな簡単じゃないから困ってきたわけで今ここでそれを再演しているわけでしょう、と考えると私はそういう方向の分析家ではないな。組み立てていくのではなくて降ってくるものをドライに繊細に捉えられたらいいのに。低頻度の面接であってもそこでは要素の断片化と統合が繰り返されている感じがするけど何かと何かがつながっていく感じは低頻度の面接のほうが持ちやすいと思う。一人の時間の方が長ければ自然とそうなるだろう。高頻度になると常に他者(=分析状況)が情動的な撹乱を起こしてくるから自分でつなげる作業はできない。いつのまにかという変化ばかりで情緒的な撹乱はお互いにとって危機になるがそれが生じないと変化は起きないとみる。実際そうだろう。精神分析は頻度だけではなくカウチ使用、自由連想という基本原則を伴い、内容を取りこぼしつつ抱える設定になっているし、そこでの意識の質は他の治療法とはだいぶ異なると思う。そこで無意識とかいっている。

沖縄トロピカルフルーツティーを飲んでいる。いただきもの。暑いけど美味しい。冷たい麦茶が減らない時期になってきた。今日も外は暑いのだろう。少しずつ少しずつ秋めいてきたけれど。良い音楽、良い読書、良い出会い。地球に優しく過ごしたいものです。

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梨腹

梨。瑞々しい。スルスル剥けるのもいい。幸水、豊水、二十世紀、この梨はいただいたのだけどどこのかしら。とてもおいしい。二十世紀は千葉県松戸市発祥。今は鳥取といえば二十世紀という感じだけど松戸市の博物館には原木の一部が保存されているそう。千葉は梨農家さんが本当に多い。毎年、夏のキャンプに行っていた頃にたくさん見かけた。あの大きい梨、新高も食べてみたい。食べたことある気もするけどあの大きいのを自分で買ってみたいな。もうすぐ収穫時期。重たそう。

梨腹モ牡丹餅腹モ彼岸カナ 正岡子規

子規は牡丹餅好きね。35歳で死んでしまうけど最後まで甘いものを食べていたそう。食べ物に対して諦めがないってとってもいい。

餅の名や秋の彼岸は萩にこそ   
お萩くばる彼岸の使行き逢ひぬ

これ、あとの方の一句は陸羯南がおはぎを持ってきたときにそういうの馬鹿馬鹿しいといいつつ読んだらしい。私が子どもの頃、おはぎのお裾分けってまだ風習として残っていたと思う。当時はおはぎ大好きだった。あんこ、きなこ、ごま。並ぶととてもかわいい。おはぎを持ってきてくれたのは私が好きだった人とは違う人だったと知ったのは大人になってから。というか、子供の頃は直接受け取ってるからわかっていたはず。大人になるにつれて好きな人は好きなものもくれる人になっていたのかもしれない。足の悪い人だったがそれがどんな病気や障害だったかも知らない。子供の頃は知っていたのかな。色々思い出しているつもりなのだけどこれも誰かの記憶と混ざってるのかもしれない。

梨腹、牡丹餅腹、なんかおかしい。私も今梨腹。幸せなことだ。

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精神分析

あまり長く止まらず。

ゲリラ豪雨、窓の外の音や外からくる人で知ってはいた。あと少し水が出なくなった。それが少しの期間だったどうかは使っていなかったのでわからない。異常気象も異常にしたのは誰かという話だろうか。台風の多い沖縄や雪国の暮らしも大変だがそこには生活者の歴史と知恵がある。私はこの都会のビルで自分で一人一人と契約して収入を得ているのでコロナの時もそうだったが何か起きるたびにずっと続けていきたいこの仕事で生活していく方法について考えこむ。が、考え込んでいるだけでは何も変わらないのでそこから回復することが大事。ということで今日も起きた。そう意識して起きたわけでもないが。

今日はまだ鳥の声を聞いていない。冷たい麦茶は飲んでいる。体調がパッとしないがパッとしてるときがあるのかといえばそうでもない。小さな予防を繰り返す。

いつ何が起きるかわからないということを何度も実感してきたはずなのになにかが起きるたびに考え込む。当たり前か。そこで止まりたくなってしまうからやっかいなのだろう。訓練分析家になるまでも長いしなれたとしても75歳までしか教育者としてのケースはもてない。せめてそこまでなんとか健康で生きていたいがとりあえずそういう前提で何かあったらその都度考えながら、でもあまり長く止まらない、ということをしていけたらいいかな。仕事以外の時間が短いからそこをもう少し工夫してやりたいことやりたいし。なんとかやっていきまっしょい。

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精神分析

柴崎友香の本とか精神分析とか。

今日は曇りかな。短時間でも洗濯物を外に出そうと思って窓を開けたのだけどそのときに自分が感じたことを忘れてしまった。風が入ってくるようになったなあとは感じた。

『あらゆることは今起こる』も話題の柴崎友香だが『待ち遠しい』という作品もとてもいい。年代の異なる女たちのそれぞれの日常の交錯、リアルな生活描写が本当に素晴らしい。会話も何もかもどうしてここまで細やかに描けるのかと驚きながら映像をみる以上に自分がその街で生活しているような気持ちになる。となると当然気持ちも結構揺れる。リアルに体験するということはそういうことだから。

精神分析は分析家のところに通うのが生活の一部になるのでこれまでの生活の中で感じていたことがそこで自然に現れてくるのだがそれをリアルに体験するとなるとそこにはものすごい抵抗が生じる。ずっと聞き流したりやり過ごしてきたものを誰だってみたくも聞きたくもない。どうにかしたいと強く願っているはずなのに今の自分の在り方を変えようとしないどうしようもなく強力な力が働く。カウチに横たわり自由連想という不自由の中で自分の中に蠢く様々な情緒を体験すること、ましてやそれを言葉にすることは本当に難しいことだ、ということを積み重ねれば積み重ねるほど患者は実感する。そして分析家を容赦なく巻き込む情緒の強度はよく使われる「こころを使う」治療者なんかではいさせてくれない。むしろ自分のこころなんてものがある気がしなくなってくる。患者の方もそうだろう。境界を失うことの恐れは誰にでも生じる。経験から振り返ればそれまでの異なる境界が生成されるプロセスなわけだが何かが変わることへの抵抗がこれほどまでに強いから戦争もなくならないのだろう、と実感するほどに人間というやつは、というやつである。私は私で十分にそれを体験したがまた繰り返すだろう。また、精神分析実践を続けなかったら私は精神分析家ではいられないだろう。資格は組織に属するための切符ではあるが精神分析家であるには実践を伴う必要がある、ということを実践から学ぶ日々。自分をどれだけ未知の可能性として恐れながらも楽しめるか、自分に合う合わないという判断をせずに見知らぬ誰かと協力していけるか。人は自分で決めることを強く求めるのに、いざ決めるのは自分であるということを突きつけられると困ってしまう。そういう矛盾だらけの自分に素直に困れるか。時間を無駄にしているとかいってなかったことにしまわないでぼんやりそこにいつづけられるか。精神分析は単に他人と比べるのではなく他人と比べてしまう自分に対して苦しんだり、自分の中にある小さな情熱に耳を傾けられるようになりたい人にはとても役に立つと思う。

柴崎友香が描く人物は自分の声にも相手の声にも細やかである。それは作者がそれを十分に拾っているからだが、そういう細やかさが人はそれぞれであるということを本当に肯定していくことにつながるのだと思う。

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精神分析

姑娘、「まとも」

まだ少し雨が降っている。ずっと降ったり止んだりだったのだろうか。私がオフィスを出る頃は強い雨は少しぱらつく程度で誰も傘をさしていなかった。鳥たちが鳴き始めた。

近所の本屋さんで戦争の本が並べられていた。水木しげる、半藤一利の本が目立っていた。旅先で「姑娘」という言葉を知った。それについて何か話したあとその名前の中華料理屋も見た。移動した先のギャラリーにも姑娘という作品があった。なんだか妙に心に残る単語だった。水木しげるの漫画の背表紙を眺めていたら「姑娘」があった。手に取ると裸の若い女性とその背後に日本兵たち。水木しげるならではの間の抜けた切迫感。読んだ。意外な話だった。運命とはなにか、理不尽とはなにか、戦争を起こすとしたらやはり人間なんだな、と思った。これ、昔読んだことがある気がする、と実家の桐の箱を思い浮かべた。そこには水木しげるの漫画がたくさん入っていて、それに気づいてからは長時間そのそばで読み耽った。ただそれはこの漫画が刊行される以前のことだから「姑娘」という単語は別の漫画で見たのかもしれない。この表題作と一緒に入っている作品は戦艦の描写も見事な戦争もの。どうして戦艦にこんな名前をつけるのか。美しい土地や季語みたいではないか。いや、戦艦はそれ自体で見れば美しいのだ。広島で学会があったとき、大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)にも行った。ちょうど映画のロケが行われていたときだった気がする。圧巻だった。しかしいくら戦艦が美しく立派で、いくら優しい人間が乗っていたとしてもそれが戦争である限りそこで何を言ってもきれいごとだ。もちろんそこから美しいなにかを見出すこともありうるだろう、ただ生き延びるために。戦争で人生が狂わされた人もいれば、人は誰でもどこか狂っているから戦争が起きるともいえる。でもどこか狂っているなんて当たり前のことが誰かを死に追いやることを当たり前にしていいはずはない。自分の狂気も優しさや間抜けさと同居している。どの瞬間に「まとも」になれるかが境界を越えるかどうかを決めるのだろうけどそれは自分のどんな意志を持っても一人ではどうにもならないものでもある。誰もが当事者である、というよりは、少なくともそれは他人事ではないということだと思う。たらればの話をする以前に前提を確かめる。何を基準に「まとも」というのか、とか。難しいし眠い。なんとかやっていこう。

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精神分析

土地、街、生活

まだまだ残暑か。夜はだいぶ涼しくなったが朝がまだ爽やかじゃない。

群馬県渋川市の明治32年創業の老舗、錦光堂の渋川銘菓こがねいものことは書いただろうか。山梨県の信玄餅でお馴染みの桔梗屋のことは?毎日お菓子は豊かでその土地の老舗の味は懐かしく。

桔梗屋って工場見学ができるのか!行きたい。コロナでそういう活動をやめてしまった会社のことも聞くがとりあえずよかった。実際に製造の工程をみる体験は本当に貴重。金沢の福光屋さんをまだ知らなかった頃、ここはなんだろう、と友達と覗き込んでいたら蔵内へ誘ってくれた社員さんには今もとても感謝している。白衣に着替えて帽子をかぶって見学&段階ごとのお酒を試飲。まだお酒の味もよくわかっていなかった頃だ。有名な酒蔵だと知ったのは随分経ってから。加賀鳶はその後もっともよくのむ日本酒のひとつになった。今は予約制の見学コースもあるらしい。旅に出ればその製造工程と出会える場所へ出向く。このお味はどこから?というのを知ると好み以前の味わいを楽しめる。歴史を味わうのだ。

この夏は能登の被災地の手前まで出向いたがそこでも倒壊した家屋をみた。報道されないことが問題になっていた地域だが震災に対してはいいかげんこちら側の想像力が必要だし可能だろう。震災から半年以上経ってもこの状態か、と悲しく、自転車で走りながらところどころで感じる道路のでこぼこも地震の影響だろうか、と沈んだ気持ちになった。博物館によったら文化財レスキューの張り紙がしてあり、被災した家屋などから集められた陶器や古くて大きなボンボン時計とかが並べられていた。文化財レスキューはいくつかの場所で行われているが相談場所としても知られてほしいし数も増えてほしい。少し前の記事だが載せておく。

能登半島地震・文化財レスキューの記録】(特集展示)

輪島の文化も今後どうなっていくだろう。輪島朝市はようやくがれきが取り除かれてきたときく。公費解体の手続き自体が困難という方もおられるだろうか。気持ち的に困難という場合もあるかもしれない。みればわかるだろう、という被害に対して罹災証明書を準備しなくてはならないとか気持ち的に大変そうだ。チェックリストを見ると「すべての権利関係者(共有者、相続権者、抵当権者など)の同意を得ており」という確認事項もある。土地のことだから当然必要なことだが、突然人が亡くなったときなどにも感じる思考停止のままただ急かされる状況はその土地の未来にどう影響してくるだろうか。その土地で生活をすること自体が文化を生んできた。その土地に根付いてくれる人がいたから私たちもその恵みを目や耳や舌などで味わうことをさせてもらえる。私もできることを常に考えなおしていかないといけないと思った。

早朝に作り置きをする習慣がついたがやはり作る人と関係の近い新鮮な食材だったらそれだけでおいしいのに、とスーパーの棚の前を寂しい気持ちで歩き回ったりすることがある。以前はうちの街にも先生になってくれるお魚屋さんも八百屋さんもあった。親子でやっていた店はお母さんがちょっと怖かったが聞けば色々教えてくれた。息子さんだけのときはいつもおまけしてくれた。土用の丑の日の活気は通り過ぎるだけで嬉しい気持ちにさせてくれた。その店が閉じてからずいぶん経つ。息子さんといっても私より年上と知っているが、その後も彼をみかけることはあった。先日もみかけた。なんと赤ちゃんをだっこしている。私の前を歩いていた人は「あら!」と嬉しそうな顔をしてたまたま持っていたなにかをあげていた。「本当にいいんですか?」「いいのよ!うらやましい!」など地元の付き合いが長いらしい。うらやましい、という言葉にいくつかの可能性を思ったが子供が愛される街であってほしいなとは思った。

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精神分析

健やかさ、夢時間

キッチンの窓を開けた。久しぶりに風を感じた。南向きの大きな窓も開けた。風は感じなかったが虫の声が蝉よりずっと下の方から響いてきた。

書評を書くためにラカン派のフランス人精神分析家の本を読んでいる。読み進めることはできるが著者の意図がよくわからない。いや、わからなくもない。彼女がラカン派らしくIPAの精神分析家がダメにしてきた精神分析で維持すべき問題をラカンと、ラカンが回帰せよといったフロイトに回帰しながら考え抜こうとする姿勢は人文知、特に哲学と共にその国に根づくフランス精神分析の健やかな育ちの結果なのだと思う。無論、とんでもなくドロドロした個人的かつ政治的な話と共にである。

それにしても「健やか」という言葉の健やかさを何といったらいいのか。それは漫画の『キャプテン翼』のイメージで精神分析で体験する苦しみとは全くかけ離れているように思える。しかし、精神分析を十分に体験しようとする情熱は結構健康志向だと思う。身体化によって身体と心が影響しあっていることを知ることも毎日のように分析の場で対話する生活をマネージすることも結構健康志向だと思う。自分のことは自分で、しかし他人を頼ることもきちんとするということをしなくてはいけなくなるから。そういうのは生活の基本だけどなかなかできないものなのだ。

私は分析家のところへ通う生活が終わり、話し相手、というより「話す相手」がいなくなったことに大きなインパクト受けた、この前。どんなときだったか忘れてしまったが急にそれを感じた瞬間があったのだ。正確にはそのいなくなった場で話すことを続けているわけだが(それを可能にするための訓練生活だったし。)物理的にそれがなくなったことを現実的に認識したという感じだろうか。なくなったことというよりその時間がどれだけ濃かったかということを実感した。なんかすごいことやってたな、と思う。精神分析体験を夢みたいだったといっていた人がいて私もそんな風に思うのかなとあまりしっくりきていなかったがまさに夢みたいだった。精神分析的な意味での。なんだかなるほどねー、だった。現実の生活という言葉を使いたくなるほどに。あれも現実だったのに時間が複数に流れるようになったんだな、と思った。

以前買った短歌がたくさん載っている冊子を見ていたらどれもとてもよくてこういう感性は私には持ち得ないものなんだけど私も生きているこの世界はこういう表現もできるんだなあとしみじみした。穂村弘、平岡直子ファンだが、若手にもすごい人がたくさん。人生は長さではないのだね。しかし経験を積むには長さが必要だね。みんなが自分のことを一生懸命やることが大事。それは人のことを考えることと直結している。そうでないならそれは本当に自分のことを考えてるってことなのか?と問うてもいいかも。他人になにかいうことはとっても簡単でいくらでも自分を「そうではない」場所に置くことができるけどそんなふうにすることで何をしているのか、ってことだし、自分のことをやるって何?って感じでとても難しいことだとは思うけどまずは自分をなんとかなんとか。とりあえず今日も無事に過ごしましょう。

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精神分析

フェミニストとか「我が身を以て」とか。

窓を開けた。昨晩は傘をさしても少し濡れてなおさら冷たく感じた風が全くない。これから強い日差しがやってくるぞ、という感じのオレンジがベランダの壁面に広がりつつある。

今朝は最初にあるフェミニストの文章を読んだ。フェミニストというときに少し突き放した感じでこの言葉を使っている自分に気づく。フェミニズムという言葉は学術的にも使えるがフェミニストはその人がそういえばそうなのだろう、というような距離の取り方をしてしまう。なぜだろう、というよりなぜなら、たとえ言動がどうであっても、という括弧付きの言葉が浮かんできてしまうから。この言葉を思い浮かべる時点で罪悪感を感じてしまうのもフェミニストという言葉が持つ複雑さと強力さを示していると思う。この場合も(私にとっては)という言葉を慌ててつけたくなるわけだが。繊細で、大きな傷つきの積み重ねを包み込み大きな力にしていくための言葉は絶対に必要だが、弱者が戦わねばならないときにそこにどうしても生じてしまう相手を黙らせようとする雰囲気というのはそれこそがそれまでの、あるいは今も自分を苦しめてきた、苦しめているものではなかったか、というためらいをうむ。もちろんそれは本来感じる必要などないものだが感じてしまうのも無理がないものだ。自分にも色々な部分があるのは当たり前のことで相手によって自分が変わってしまうのも当たり前のことだから。フェミニストという言葉は誰かを括るための言葉ではなくそう表明することで生じる連帯を期待するものなのだろう。

ロシア語通訳者でエッセイストの米原万里の『打ちのめされるようなすごい本』を読んだことがあるだろうか。私は米原万里の本に打ちのめされてきたが、この本も強い。打ちのめされるほどのインパクトがないと人はものを考えないので、それは力をもらうというのと同義だと思っているが米原万里の場合は特にそう感じる。この本の「私の読書日記」の中に「癌治療本を我が身を以て検証」というタイトルのものがその三まである。私は身近で信用できない癌治療本を手にしている人がいると猛反対をしたりはしないが読む分にはいいけどお金もかかることだからオーソドックスな治療をしたほうがいいよ、とはいう。精神分析なんてエヴィデンスのないことをやっている人がなにをいう、と言われたことはない。精神分析は医療ではないし、そもそもマイナーすぎてみんな知らない。だから体験したこともない人たちが自分の欲望のために気楽に理論を使用してくることもあるわけだが、それこそ精神分析的ではないのでその熱量にかえって冷めるということはよくある。米原万里は常に真剣そのものでものすごい勉強家で交流も幅広いので、というかこれらは全て連動するものだけど、その結果、冷めているのに熱い。「癌治療本を我が身を以て検証」も結論ありきではなく、実際の体験ありき。私が知っている胡散臭さをこのような形で書けるのがすごい。何も押し付けてこない。そんな本読むのやめなよ、とかまともな治療したほうがいいよ、とかいうより「あ、それ、実際に体験した人が書いていたよ」とこれを読んでもらったほうがいいのかもしれない。現実はたいてい結論ありきなわけだから別の方法など受け入れる状態にないかもしれないが。

蝉が再び賑やか。秋の虫は少し前から鳴き始めている。今日は猛暑らしい。気をつけて過ごそう。