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読書

メモのようなというかメモ

場がどこであれ性に関することで悩む女性の言葉が軽く扱われたり利用されたり消費されたりしないためにはどうしたらいいのだろうと考えていた。発信するのは自由だから。身内でもなんでもない立場でもできる見守りはあると思っているけれども。

など呟いたりしつつ家事をしつつ仕事を後回しにしていた。今からやらざるを得ない。それにしても構造上の問題ってどうしていけばいいのだろう。個人に対してもどうにもできないことが多いのに。

うん。引き続きいろんな人と具体的なことを話しながら考えていこう。ここからはとりあえず積み上がったものを戻さないと作業ができないのでそれに関するメモ。あとから消したりつけたしたりするかも。今のところここが毎日くるスペースになっているのでここなら忘れないかなと思って。

まず國分功一郎『スピノザ ー読む人の肖像』(岩波新書)はきちんと読むのはあと。國分さんが始めた新しいプラットフォーム<國分功一郎の哲学研究室>には登録済み。「哲学の映像」と「映像の哲学」を定期配信。最初の配信は新刊とも連動して<読む>ことについて柄谷行人『マルクスその可能性の中心』の解説第一回。國分さんは言行一致の人だと思っているので信頼してお金をかけられる。

ハリー・スタック・サリヴァン『個性という幻想』も途中だけど精神科医である訳者の《訳者ノート》が本当に優れた導入になっている。「反ユダヤ主義」という短い論考(154頁から)は憎悪のルーツが端的に語られていて印象的。サリヴァンは一貫していてすごいなと思う。

古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)も昨年末に出たばかりの本だ。私は古田徹也さんの本のファンだけど帯に書かれた一見わかりやすいテーマがもつ複雑さがどんどん提示されるので正直読むのは大変。普段自分が適当に言葉を使っているからかもしれないけど相手の言葉を大切にしたいし自分の言葉も大切にしてほしいから読むんだ。

「言葉は、文化のなかに根を張り、生活のなかで用いられることで、はじめて意味をもつ。言葉について考えることは、それが息づく生活について考えることでもある。」(37ページ)

本当にそう思う。古田さんのはもう一冊、最近でた本がとても良いのだけどこれは積んでいない。リュックの中かも。娘さんの子育てからの気づきがとても新鮮でそこから広がる懐疑論の世界が広大すぎて、という感じの本なんだけど肝心の題名が思い出せない。心に携わる私たちには必携と思ったよ。でもこれもまだ途中。

益尾知佐子『中国の行動原理 国内潮流が決める国際関係』(中公新書)は中国の精神分析のスタディグループの方と交流する機会があってちょうど習近平のことも話題になっていたので買ってみた。私何も知らないんだなということを確認した。リーダーとは、という描写ひとつとっても全く違うではないか。まあ少ない知識からでもそれは導けるけれど細かいことを知るとポカンとするくらい違う。うーん。しかしまだこれも途中。

まだ積まれているけど諦めよう。お、そうそう、今顔を傾けて目に入った平尾昌宏『日本語からの哲学』は本当に面白い。書き方も内容も。平尾さんの本はどれも簡単にこっちを引き込んでくれるから助かる。

こうダラダラ書いている分にはいくらでもかけるけど苦手な仕事をせねば。みなさん明日はおやすみかしら。良い一日になりますように。

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精神分析

グッドイナフで

蝉がジージーずっと元気。早朝、洗濯物を干しながらなんか蝉って世界をのっぺりした感じにするよね、と思った。いつもの森で鳥はまだ眠っていたみたいだけど流石にこの時間になると元気いっぱい。さっきからずっと同じリズムでピッピピーってないてるけどなんだい?というか私も誰にも通じない言葉であなたに話聞いてもらいたいことがあるよ。

ウィニコット (1971)は「心理療法は遊びの領域、つまり患者と治療者の遊びの領域が重なり合うところで行われる」と述べ、オグデン (2006)は「分析家と被分析者が「共有された」(しかし個人的に体験された)無意識的構築物の「漂い」(Freud 1923)を感じ取るところの、もの想いの状態を育むための努力」が重要であるとした。これらは精神分析が相互性に基づいた間主体的な場の生成によって展開することを前提としている。

実際の治療はこの前提を作り出すところか始まるといってもよいだろう。サリヴァンがいう共人間的有効妥当性確認(consensual validation)にいたる過程がまず必要と言い換えてもいい。

治療のみならずお互いが前提を共有することのなんと難しいことよ。治療と普段のコミュニケーションは状況がだいぶ異なるけどプライベートでもコミュニケーションは常に悩みの種。見て見ぬふりをして、なんとなく何も感じていないふりをすることもしばしば。「私だったらこうする」「私だったら絶対しない」ということはあるけどそれは私の前提であって二人の前提ではないことの方が多い。お互い大切なものは違うし、大切にする仕方が違う、だからといって想いあっていないわけではない。ただその出し方は違う。ずればかりだ。そこに攻撃性を含む場合だってある。でもそれだって人間関係では当たり前のこと。通じない、通じさせたくない、隠しておきたい、お互いの自由を守りつつお互いを悲しませたり寂しくさせたりしないことは多分不可能なんだ。我慢して悲しんででも寂しくて泣いて怒ってぶつけてまた辛い状況になってそれでも乗り越えられたら乗り越えてあるいはいずれ回復するまで壊れていく。できたら壊れない方向へお互いが最大限の努力をできることを願うけどそれも相当不可能なこと。私たちは委ねる形ではなく歪んだ形で自分の欲望を実現しようとする動物だと思うんだ。

治療状況はこの不可能と思える努力をお互いがかなりの程度やり遂げられる設定になっている。時間と場所を守り金銭のやり取りをする。設定をかたくすることで関係に生じる曖昧さに有限性を持ちこみ仮の形を与える。出典をメモするのを忘れたが北山修は言葉の曖昧な使用に着目し、「何かをはっきりと言うことは常に選択であり、同時に別の何かを言わないことでもあるが、曖昧化obscurationは、日本語に必要な基本的レトリックであるとして、それを「置いておく」ことの重要性を述べた。日常生活では関係が近くなればなるほどこの「置いておく」ことができない現実がくっついてくるが、治療状況はそれがかなりの程度可能なほどにいろんな要素が持ち込まれない設定になっている。錯覚を可能にするにも条件が必要だ。空想の余地を与えること。それは隠されていることがあからさまになりやすい現実では難しい。

現実の難しさを考えれば考えるほど治療の枠組みがいかに重要であるかが見えてくる。欲望を飼いならす、ということが精神分析では言われるがそれも程度の問題だ。私からしたらグッドイナフな程度に、というしかない。悲しんだり寂しがったり怒ったり、そういう感情を相手が持っていることに気づいたり、そういう能力を持つことでさらに苦痛だったりするわけだけどそれらをなくしたら人間ではなくなってしまう。だからグッドイナフで。あえて見るなの禁止を破ることもなかろう。そこは悲劇の発生の場でもあるのだから。

今日もひどく暑くなるらしい。まずは無事に過ごそう。