カテゴリー
精神分析、本

梨とかビオンとか。

この前、果物をたくさんもらった。美味しそうな梨もたくさん入っていてとても嬉しかったが、そのひとつのヘタのところに蜜が溜まりはじめた。二十世紀梨を買ったときに30分くらい前に冷蔵庫に入れて、冷やしすぎないほうが美味しいから、と言われたのを思い出し、一日キッチンに置いておいたらどうやら高温多湿にやられたらしい。猛暑でこういう症状が出る梨が増えているとのこと。難しいな。気候変動、怖い。

精神分析は精神分析で、精神分析家は精神分析家で、個別性は精神分析の内側で発揮されているものだからなあ、とか考えながら本を読んでいた。

たとえば日本の精神分析家に松木邦裕先生がいるけど松木先生といえばビオンみたいな印象が今の人たちにはあるかもしれないけど(少し前は松木先生といえばクラインみたいな印象があった人も多いと思うけど)『パーソナル精神分析事典』(2021、金剛出版)とか読んでいると先生はただ精神分析と生きてきたんだなって思わされる。ビオンだって福本先生が監訳したり訳したりしているビオン全集の自伝とか二人目の妻、フランチェスカによる回顧録とか読むと特定の分析家どうこうではなくて精神分析にワイルドに自分の人生賭けてる感じがして変なお行儀の良さとか変な皮肉っぽさみたいなものがないのがすごくいいし、精神分析ってそういう自由をくれるよね、と思う。ビオンがクラインの分析を受けていたから、とかそういう話はまた全然別の話だと思う。精神分析は「そういうのどうでもよくね?」みたいな領域を増やしていく効果はあると思う。もちろんそうあるにはままならない環境というのもあってビオンはカリフォルニアに行っちゃったし、それでも自分が探しているものがあるんだよ、と朝ドラあんぱんみたいなことを思ったりもする。

誰がどうしたどうされたとか、誰は誰々のどうでとかこうでとかを明確にするのはそれを超えていくためで、いつまでも同じところに留まるためではない。精神分析は自分が変化する必要性、必然性を感じられれば役立つと思うけど誰かを変えたい場合は役立たない。自分の場合も「変わらねば」とかではなくて。

こんなことを思ったのはオグデンを読んで、ビオンを読むと、オグデンの違和感を感じてしまい、なんでかな、と探ることがややきついからなんだけど。ビオンは言われるほどわけわからないことは言っていない。抽象度が高いから難しいだけで。オグデンの最新作はこれまでみたいな事例の説得力がない感じがして、同時に読んでいるビオンに対するオグデンの読解もいまいちピンとこない。なんでなんだろう。難しい。

「私は、分析者が解釈を与えるために必要とされる作業をなしたと信じる権利があるのは、彼が二つの相ー「忍耐」と「安心」ーを経た場合に限る、と考える。」

とビオンが「変形された容器と内容(Container and Contained Transformed)」(1970).Attention and Interpretation: A Scientific Approach to Insight in Psycho-Analysis and Groups,2:106-124で書いている通り、こういう作業にも「忍耐」と「安心」必須。つまりネガティブケイパビリティ。

この論文の日本語訳は、『りぶらりあ選書 精神分析の方法 II〈セブン・サーヴァンツ〉』(法政大学出版局)の第4部 「注意と解釈」「第12章 変形された容器と内容」

あるいは2024年に翻訳された全16巻(著作15冊+索引)からなるThe Complete Works of W.R. Bion. Karnac Books. 2014.の第15巻、福本修先生による全訳『ウィルフレッド・ビオン未刊行著作集』の付録C、編者クリス・モーソンによる「破局的変化」と「変形された容器と内容」:比較研究。Appendix B: ‘Catastrophic Change’ and ‘Container and Contained Transformed’: a comparison, by Chris Mawson

この15巻の邦訳も薄いけど内容は濃い。フランチェスカによる付録A 私たちの人生の日々(フランチェスカ・ビオン)
Appendix A: The Days of Our Lives (1994), by Francesca Bionはビオンの人となりと仕事がすっきりと、しかしずっしりと書かれている。

メモになってしまった。

さっき、ベランダに出たら蒸し暑さを残した涼しさ、つまり秋を感じた。ぼんやりしていたら大きな羽音が頭を掠めていった。人生ではなく蝉生に思いを馳せるでもなく慌てて部屋に戻った。屋内の方が蒸し蒸しする。私は今日はやや憂鬱。仕事の合間に歯医者に行くから。嫌だ。怖い。毎回無心になることを心がけるがなかなか難しい。でも仕方ない。歯も大切にしないとね。

良い一日になりますように。

カテゴリー
精神分析、本

ヒヨドリ、引用、松木邦裕『パーソナル精神分析事典』

洗濯物を干しながら鳥が鋭く鳴くのを聞いた。ヒヨドリだ。ヒヨドリの赤いほっぺをきちんと見たいが下から眺めてばかりだからいつもシルエット。カラスも遠くで大きな声で鳴いている。昨日、ゴミ捨て場の花壇に大きなカラスがとまってキョロキョロしてた。私が真横を通っても何も気にしていなかった。そのキョロキョロに意味はあるのだろうか。カラスはペアで見ることが多いからもう一羽を探したけどいなかった。その日はソロだったのか。今週末に向けて準備しなくてはいけないものがあとひとつになった。ほかにもあるのかもしれないが覚えている範囲では。

溜まりに溜まった資料を片付けなくてはと手に取ったら読み始めてしまうといういつものことを始めてしまった。2005年9月の『現代思想』(青土社)「特集=女はどこにいるのか」の岡野八代「繕いのフェミニズムへ 」の後半。今度、私が発表しようとしていることと近い。私はジェシカ・ベンジャミンもカントも引用しないけど。カントはこんな感じで読めるのか、と学びつつ、この論稿での引用、参照のされ方って精神分析が批判されるときの言葉の使い方と似ているなと思った。二元論を超えることが二元論を際立たせることもあるから受け取り手とともに考え続けることが実現されないと結局対立みたいになりがち。こういう場合、必要なのは発信側がより頑張ることではなくて受け取る側がいろんな可能性に開かれていることだと思う。自分が欲しいものを受け取れなかったらつまらないとかわからないとか別のもの出せ、とか簡単に言わない受け取り手でいたい。自分の方でできることだってたくさんあるし。第三者からみたら二人は鏡に見えるけど、みたいなことはたくさんあるのだから視線の先をぼんやりみたり聞き流しながら捉えたりすることができたらいい。覚醒と夢想。ビオンはやはりすごい。

ビオンといえばこの前、精神分析家の松木邦裕先生の『パーソナル精神分析事典』をパラパラしたのだけどとても面白かった。それこそ松木先生のパーソナルな部分がちょこちょこ読めるのが面白い。こういう本読んでるんだ、とか。あとはビオンの箇所。松木先生のビオンに対する講義はたくさん聞いているので慣れていて読みやすいというのもあるけどこんな簡潔に書くまでにどれだけの咀嚼が、と尊敬の念が深まった。いいなあ。私もフロイトとウィニコットを少しずつでいいから深めたいな。少しずつとか言っているとああやってまとめることは全然できないから教えるなかで生かしていけばいいかな。

朝起きてすぐ家事をしていたら暑くなって半袖になったのに今寒い。ヒヨドリがまた近くで鳴いている。昨日は寄り道をする時間がなかったので今日はしたい。どうぞ良い一日を。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

パーソナル

先日、久しぶりに新宿三丁目の方を歩いた。地下はよく歩くが地上は久しぶりだった。新宿東口から新宿三丁目にかけては10代後半から長い間遊び場だった。よく通ったカフェは二軒とも残っていた。当時いろんな話をした。シアターモリエールはしまっていた。改装中らしい。なくなっていなくてよかった。

昨年は別役実が亡くなった。チケットをとっていた新作公演が彼の病気療養のため演目変更になり、別の別役作品をみた。淡々とした不条理から生じるゾクっとする怖さとほかでは体験できない笑いは私の身体に心地よかった。彼の死がとても悲しかった。

最近出版された松木邦裕先生の『パーソナル精神分析事典』にも別役実が登場するのをご存知だろうか。意外な出会いに感激した。といってもビオンを信頼する松木先生がベケットに影響を受けた別役実と近づくのは自然なことだったのだろう。

松木先生のこの事典は事典というより本だなと私は思った。事典も本だろうけど。最初から読んでもいいと思う。私は最初、興味のある概念をパラパラしていたが冒頭から読んだら可笑しくて、本として読むことにした。多分、私でなくても読者は、これまでの松木先生の著書より軽妙な語り口で精神分析の難解な概念について学ぶことができるだろう。わからないならわからないなりについていけばそのうち実践を伴ってなんとなくわからなさの感触も変わってくるはずだ。私は概念も人もなんでも「あーあのときの」と何度も出会い直せばいいような気がしている。

ところで、この本のことを先生からお聞きした時、先生が「私説」とか「パーソナル」という言葉を使っておられるのが印象的だとお伝えしたのだが、実際そこにはわけがあった。それもこの本に書いてあった。多くの問いと答えを(そしてまた問いを)くださる先生からの学びを私も少しずつ伝えていけたらと思う。

それにしても、こころを「こころ」と平仮名で書いている場合じゃないくらい疲れてしまったとき、私は精神分析と出会っていなかったらこんなにこころを使う(精神を使う、って変な感じだから使えない)ことなんてあっただろうか、と考えることがある。精神分析は様々な他者をこころの中に住まわせる手法だ。そこには悲劇も喜劇も不条理もある。負担も喜びも憎しみもある。リスクもあるが生きがいもある。持ち堪えるとか生き延びるとかそういう言葉が使われるほどに結構ギリギリの体験を内包した拡張可能性を秘めた技法であり文化だ。書くだけなら簡単だがそれでも結構大変だ。生きるって大変だ。

「パーソナル」であること。この言葉自体何度も問われる必要があるのだろう。とりあえず今日、とりあえず明日、ベイビーステップでやっていこう。