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精神分析、本

「ヒステリー研究」を読んだ。

フロイト全集2』(岩波書店)に収められた『ヒステリー研究』はやはり何度読んでも面白い。暫定報告の後、有名なアンナ・Oの「観察1」、病歴AからDへと続くが、GWでは通し番号らしいのでSEがなぜアンナ・Oだけ「観察」と分けたかは謎。今回の読書会では「病歴A エミー・フォン・N夫人」を読んだ。1889年、まだ33歳のフロイトが「催眠下で探求するというブロイアーのやり方(多分カタルシス法)」を用いてみたこの治療の経過報告はかなり詳細でヒステリーと呼ばれた患者の表情や姿勢、仕草まで描写が非常に細やかな描写がされている。ほぼ毎日朝夕の1日2回、サナトリウムに会いにいっていたらしいフロイトと患者のやりとりも私たちが現在症例報告で聞く内容よりもずっとvividで詳細。なので後年、患者の娘が母の治療に関してフロイトに向けた非難にも、それに対して誠実に謝罪と説明を行うフロイトにも共感できる。何が生じていたのかが推測できるから。もちろん治療上の失敗はあってはならないが何が「失敗」となるかはまだその時にはわからない、というのは日常生活における人間関係でも同じだろう。私たちのグループはすでに通しでフロイトを読んでからここに戻ってきているがいずれ書かれる『フロイト技法論集』(岩崎学術出版社)に収められた論文の源としてもこの症例報告は大変貴重で読み直す価値があるだろう。

それにしても私たちが向けている相手への関心というのは特殊なんだなとつくづく思う。SNSで上手に誰かを揶揄し、上手に愚痴って少し離れた場所から中途半端な(ほどよいといえばいいのか?)「ケア」を求めるようなあり方が一般的な今となっては精神分析なんて不要と思われても仕方ない。が、しかし、これによって生きる希望を見出している人も少なからずいることは国際的にこの学問が生き残っている(IPAのサイト参照)ことからも嘘ではないとわかってもらえるだろう。国内ではIPAの精神分析家はこれしかいない(日本精神分析協会のサイト参照)けど日本でも女性の精神分析家が増えてきた。フロイトの症例が示すように「上手に」いろんなことができない人(そんなことしたいともそんなものほしいとも本当は思っていないであろう人)たちが精神分析そのものではなくても精神分析の知見を生かした心理療法を受けにこられてなんとか日々を過ごしているのも本当。

先日、身内が精神病院に入院しているという英語圏の方がお喋りのなかで以前よりはずっとましだけど病気の人に対して社会は優しくないよねというようなことをおっしゃっていた。本当にそうだと思う。障害に対してもそうだ。これだけASDという言葉が一般的になったのに私が長く時間を共にした重度の自閉症の方たちはどこへ?とよく思う。大声をあげたり突発的な動きも多い彼らと一緒に電車に乗っているときの周りの見えていないかのような視線もたまに思い出す。見ないものは見えないもの、見たくないものは見えないもの、というのも今やデフォルトだったりして、と割と身近なところでも思ったりする。どういう風に訴えていけばいいのかな。くだらないと思いつつ小さな戦いは続けていくけど。

『ヒステリー研究』のエミーの症例では患者が精神科病院における治療に対する不安や恐怖を訴える場面がある(74頁)。この問題はいまだに継続しているがフロイトが医者としてこの話に防衛的になることはなく中立的だ。こういうフロイトの姿は別の論文でもみられる。しかしここで重要なのは精神科病院が抱える問題それ自体ではなく、フロイトがこの話を患者から自分への怒りとして聞き取り内省したところだろう。フロイトはこの場面で自分の聞き方が彼女の話を中断させていたことに気づく。そして「こんなやり方では何も得られていない、あらゆる点に関して最後まで彼女の話を傾聴することなしに済ませるわけにはいかないのだ、ということに私は気づく。」と書いている。フロイトは失敗しては気づき、また失敗し、を繰り返す。私たち臨床家は皆そうだろう。それを「失敗」と呼ぶことに躊躇があったとしてもそれを「失敗」と認識することはやはり重要であり患者に対する関わりを硬直化させるわけにはいかない。

さて、今日も一日。たとえ優しくない世界でもいいことあるといいですね。とりあえずいいお天気。暖かくしてお過ごしください。