カテゴリー
読書

微か

きれいな空。この時期の空は本当に特別。風は少し冷たい。髪が濡れているとちょっとひんやりするが少し動けばなんてことはない。長袖Tシャツになにか羽織るものがあるだけで大丈夫。微調整でなんとかなる世界っていい。どうして、とイスラエルとパレスチナのことを考える。微かなんて言葉は命を奪われる可能性の高い人の最後の希望の言葉としてしか使用されない世界が戦争なのではないか。私はウクライナに対するロシアのときと同じくイスラエルのガザに対する攻撃のニュースに驚いてしまうと同時に何か知るたびにあまりに知らないと知る国のことを学び始めた。なにを手に取っていいかわからなかったのでとりあえずシリーズで気に入っている高橋正男『物語 イスラエルの歴史』(中公新書)を読んでいた。

あとがきに簡潔な紹介があるので引用しておく。

「本書は、西欧中心史観とは異なる、アフロ・ユーラシアからの視点で、一日本人歴史家の複眼を通して、歴史・民族・宗教をキーワードに、一神教徒にとっての聖都イェルサレムを基点として、近年の考古学・歴史学双方の研究成果を踏まえて、古代から現代まで──父祖アブラハムから中東戦争まで──のイスラエル四千年の興亡史の枠組みを一般読者を対象に綴った歴史物語である。」

「物語である」というところは大切だし注意が必要なのだと思う。どのような物語を選ぶのもその人の自由だがその物語が多くの場合、なにかの物語に取り込まれるようななにかしらの方向性をもっている。この本は少し前の本だけど(といってもイスラエル国独立60周年の2007年)今のことはニュースで追える。と思いたいのだがSNSはダメだ。私に基本がないからその情報をどう信じて理解していけばいいかわからない。そこに正反対の言葉や矛盾や悪意が撒き散らされていることならわかる。なので私はまずは一人の人が書いた本で学ぶ。次はダニエル・ソカッチ著『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』でどうだろう。誰かにアドバイスをもらおう。

人の心は常に分裂気味でとても複雑であるというのは前提のはずで、多くの微調整の結果なんとかやっていられるのだと私は思っているが、そこに大雑把な仮のまとまりをもたらすのが言葉だろう。評価が真っ二つに分かれる人や状況の場合がわかりやすいかもしれない。そこで用いられている言葉そのものもそうだがその使われかたに注意を払うとそこで消されてきたであろう言葉に出会うことがある。というよりもいつもこれだな、という感覚によって導かれるその人の言葉のルーツへの興味と出会うといったほうがいいかもしれない。沈黙であれ饒舌であれ大抵の人は受け継がれてきた言葉に微調整なり大変革なりなんらかの操作を加えながら使用している。戦地での言葉はどうだろうか。言葉を発するだけで殺されるような環境で思い出す言葉はどんなだろうか。

こんなたっぷりとした朝の光を浴びながらとても暗い気持ちになる。願うことや祈ることもどうやったらいいのかと戸惑うがまずは学ぼう。微かさが普通の希望とともにあればいいなと思う。

カテゴリー
うそもほんとも。 読書

物語化、『分析フェミニズム基本論文集』、年越の祓

起きてるだけで何もしていないままこんな時間かあ。吉祥寺に住む友達からもらったクッキーがめちゃくちゃ美味しい。住みたい街何位かな。絶対上位だよね。学生時代に家庭訪問したりしたなあ。今だったらもう少しできることあるのかな。いやむしろやらない方がいいことがわかるという感じかな。

お風呂ははいった。ぽっかぽか。今日も柚子入れればよかった。大量にいただいたからね。冬枯れに果実は明るくていい。

いつの間にか他人の時間と場所を自分のもののように扱っている(設計パターン)。いつもそう。女の身体に対してもそう(モノ化)。徹底した受身性で安心させて忍び寄る(反転可能な状態にしておくこと)。同じことをしているのに罪にはならない(与え続けることの成果)。悪意は自分ではなく相手に(サブリミナル効果)。少しだけ罪悪感を感じることはできる(心の機能の査定)が耐えられないからテンションをあげて相手ある相手(ここもポイント)を巻き込んで寄生や依存も相手のものとしてどこもかしこも自分のものに(誇張)。利益が絡むと王様は裸とかハラスメントとか言えない(ここで止めるなら物語化はある程度成功しているが行動するには弱い)。

さて『分析フェミニズム基本論文集』(慶應義塾大学出版会)「4性的モノ化」(ティモ・ユッテン、木下頌子訳)ではヌスバウムの「道具扱い説」より「意味の押しつけ説」を採用すべきとあった。それによって「実際の道具扱いが生じていないときであっても女性が被りうる特別な害と不正ーすなわち、自律性と平等な社会的立場を損なうことーの存在を明らかにする」ことができるから。この本はまだ比較的新しい(そのこと自体がようやっとという感じなのかな)概念の整理と主要トピックを知るのにとてもいい。実感を持って読むことができる。

鳥たちがすごい。あ、遠ざかった。

昨日は散歩がてら年越の祓をしてきた。茅の輪という草で編まれた大きい輪っかを左、右、左と回って拝殿にGO。なにやらくるくる回っているわたしたちをみて小さな子たちが「これやりたい!」とついてきた。サンタさんはもうきたかな。今日も楽しいといいね。メリークリスマス☆

カテゴリー
うそもほんとも。 精神分析、本

パターン1

こちらが真剣に情緒を表明するとすぐに茶化したりふざけたり挙句の果てには怒ったりしてそのまま受け取れない年上がいる。(情緒的な物語にしない工夫。相手を選ぶ基準1)これまでもこれからもそれでやってきた(いく)のだろうから年齢は関係ないのだけど特になんの知識もないのに弱者(子ども、女性、障害や病気を抱えた人など)を利用するのはどうなんだろう。このくらいの歳になればそんなことくらいわからないでしょうか、と思うけどわからないからそうなってるんだよ、と言われればそうだねえ。まあ本人に「そんなつもりはない」のならいいのかもしれないというか仕方ない、のか?でも自分が受け入れられない他人には容赦なく戦いの言葉をぶつける人が不特定多数の集団には「オープン!みんなウェルカム」みたいな態度とるのはなー(こちらをみなければ全てがみえる。葛藤の芽をつむ)。そういうのを見ると「あーいつもの。お得意の。」(設計パターンとして把握)となるけど慣れるのもよくない気がする(力動的理解は常に新たな軌道を示す)。誰か(弱者)を「排除」した結果できたスペースを「あれは排除ではない。別の人のためのスペースを作ったんだ」と言う感じで「次」でどんどん埋めていくあり方ってみんなも知っていると思う(ここでも部分を全体に回収して対立を回避)ある意味信仰(一神教的排他性、子孫度外視)の対象となるのに成功した「豊かで親切な」人(自分が人に恵まれているがゆえに)なのかもしれない。自分が超自我になってしまえば(そういう幻想を持てれば)罪悪感に苛まれる必要もないし、そうなるとつまりストップもかからない。「え?悪いのは自分じゃないでしょう、それ決めるの自分だから」って(心的な死という次元の死)ワイドショーとかで人気の当事者の現場に土足で踏み込み叩かれるとすぐに怒って「わからないおまえらがバカ」と言わんばかりに自説を言い募るなんとかさんと同じだなと思うけど本人は「真逆だ」と思っているはずで確かに表面上はもう一定数の高評価を得ているのでこんなこという方がきっとバカだし、またひどいこと言われちゃうから我慢。すでになかったこといなかったことにされてる場合、伝える機会もないけど。排除というのはコミュニケーションを断つことだから。で、誠実に話し合うなんてそもそもできないからいつまでも茶化したりふざけたり。はあ。妻(夫)にそうされるって口とんがらせていたくせにやってるの自分じゃん、とね、言いたかった(相手を選ぶ自分側の基準2=いつでも捨てられる)。そういう機会も奪われてしまったのだけど。人の言葉も時間も睡眠も奪える万能的な力を「それは魔力だよ」と退けるのが精神分析でいう去勢かも(知性化の無力)通じにくい概念になっているのはフェミニズムとの関連だけでなく無意識の領域に人が耐えられなくなっているからでしょう(まさに知らんけど)なんでも持ってる方が偉い、と。ペニスでもなんでもいい、と(身体のもの化。怖いのは去勢よりも何かをもっていないことで追放されること)そうですか・・・。そうでしょうか?こんなことも前ならいくらでも話せたのに、どうして?あ。(そうでもなかっただろうという現実検討)この無限ループ。よくない。(物語作りの失敗)また明日。すぐにきてしまうけれど。

この本について書こうと思っていたのにまた今度。精神分析に関心のあるサイコセラピストが読む哲学入門として一番おすすめかも。「私」についてとても丁寧に掘り下げられているので精神分析においてもあまりに使われ方の多様な「自己」について考えるのにもとてもいいと思う。

「問い」から始まる哲学入門 景山洋平(2021,光文社新書)