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うそもほんとも。 精神分析、本

パターン1

こちらが真剣に情緒を表明するとすぐに茶化したりふざけたり挙句の果てには怒ったりしてそのまま受け取れない年上がいる。(情緒的な物語にしない工夫。相手を選ぶ基準1)これまでもこれからもそれでやってきた(いく)のだろうから年齢は関係ないのだけど特になんの知識もないのに弱者(子ども、女性、障害や病気を抱えた人など)を利用するのはどうなんだろう。このくらいの歳になればそんなことくらいわからないでしょうか、と思うけどわからないからそうなってるんだよ、と言われればそうだねえ。まあ本人に「そんなつもりはない」のならいいのかもしれないというか仕方ない、のか?でも自分が受け入れられない他人には容赦なく戦いの言葉をぶつける人が不特定多数の集団には「オープン!みんなウェルカム」みたいな態度とるのはなー(こちらをみなければ全てがみえる。葛藤の芽をつむ)。そういうのを見ると「あーいつもの。お得意の。」(設計パターンとして把握)となるけど慣れるのもよくない気がする(力動的理解は常に新たな軌道を示す)。誰か(弱者)を「排除」した結果できたスペースを「あれは排除ではない。別の人のためのスペースを作ったんだ」と言う感じで「次」でどんどん埋めていくあり方ってみんなも知っていると思う(ここでも部分を全体に回収して対立を回避)ある意味信仰(一神教的排他性、子孫度外視)の対象となるのに成功した「豊かで親切な」人(自分が人に恵まれているがゆえに)なのかもしれない。自分が超自我になってしまえば(そういう幻想を持てれば)罪悪感に苛まれる必要もないし、そうなるとつまりストップもかからない。「え?悪いのは自分じゃないでしょう、それ決めるの自分だから」って(心的な死という次元の死)ワイドショーとかで人気の当事者の現場に土足で踏み込み叩かれるとすぐに怒って「わからないおまえらがバカ」と言わんばかりに自説を言い募るなんとかさんと同じだなと思うけど本人は「真逆だ」と思っているはずで確かに表面上はもう一定数の高評価を得ているのでこんなこという方がきっとバカだし、またひどいこと言われちゃうから我慢。すでになかったこといなかったことにされてる場合、伝える機会もないけど。排除というのはコミュニケーションを断つことだから。で、誠実に話し合うなんてそもそもできないからいつまでも茶化したりふざけたり。はあ。妻(夫)にそうされるって口とんがらせていたくせにやってるの自分じゃん、とね、言いたかった(相手を選ぶ自分側の基準2=いつでも捨てられる)。そういう機会も奪われてしまったのだけど。人の言葉も時間も睡眠も奪える万能的な力を「それは魔力だよ」と退けるのが精神分析でいう去勢かも(知性化の無力)通じにくい概念になっているのはフェミニズムとの関連だけでなく無意識の領域に人が耐えられなくなっているからでしょう(まさに知らんけど)なんでも持ってる方が偉い、と。ペニスでもなんでもいい、と(身体のもの化。怖いのは去勢よりも何かをもっていないことで追放されること)そうですか・・・。そうでしょうか?こんなことも前ならいくらでも話せたのに、どうして?あ。(そうでもなかっただろうという現実検討)この無限ループ。よくない。(物語作りの失敗)また明日。すぐにきてしまうけれど。

この本について書こうと思っていたのにまた今度。精神分析に関心のあるサイコセラピストが読む哲学入門として一番おすすめかも。「私」についてとても丁寧に掘り下げられているので精神分析においてもあまりに使われ方の多様な「自己」について考えるのにもとてもいいと思う。

「問い」から始まる哲学入門 景山洋平(2021,光文社新書)