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言葉の使用とか。

大学って非専門家をお友達感覚で専門分野の先生として使う時代なんだっけ、今って、しかも人の心身を傷つけたり搾取したりする人に、と思うけどこういう事例って国立大学でもあるようなので引き受けた者勝ちということになるか。勝ち負けではないが被害者側が相当の負担をおって事件化しない以上、一方で搾取しながら他方で稼いでいるわけだから経済的に敗北感があるとしたら被害者の方だろう。搾取側に勝利感はないだろうけど。そういう意味では常に勝利している、というか弱い立場に立てないためにそうなっているのだろうから。ナルシシズムという言葉も薄っぺらいし邪悪という感じの悪でもないし思考停止というのも違うし、と考えるときに田野大輔、小野寺拓也編著『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』(大月書店)はとても参考になる。歴史研究者と哲学研究者という異なる専門家の対話によってハンナ・アーレントの<悪の凡庸さ>という言葉というか、これは概念になっているわけだけど、それをプラグマティックな発想のもとに割り切って「使う」のか、その言葉の使われ方、受け取られ方の変遷を含め、それが現代の私たちの文脈にもたらす意味を探るのかという対比も非常に重要な論点だと思う。

私たちは大抵何かの対立軸で物事を見ているわけだけどそれがそれぞれ異なることを前提にしないと話が通じないこともある。それとそれはそもそも意味的に対立するものではない、とか、歴史上の文脈が全く異なる言葉を無理やり対立するものとして使っていたりする場合もあるからそれはそれで違いを明らかにすることが必要だし。こちらを言いたいがために持ち出した何かがその人がいうとそれっぽいのに私が言ったら全くそれっぽくないという場合はそれがそれっぽいのは行動の勢いによるものであって言葉の意味ではないわけね、ということもあるし、いつどこの誰の何をどんなふうに見ているのか、どうしてそういうふうに見ているのか、という5W1H的な問いは常に大事と。さてさて果たして今は有効ではない言葉なんてあるのだろうか。果たしてその一言でその人を説明できる言葉なんてあるのだろうか。

ちなみにnoteにも引用したがアーレントの『エルサレムのアイヒマン 新版――悪の陳腐さについての報告』の以下の部分は事件化しないと決めた問いについて法と政治がらみで考える場合に有効だと思う。

「ここでわれわれの関心をひくのはもっぱら君のしたことであって、君の内面生活や君の動機は犯罪的な性格を持っていなかったかもしれぬということや、君の周囲の人々の潜在的な犯罪ではない。」
「政治とは子供の遊びの場ではない」

–『エルサレムのアイヒマン 新版――悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)より

暮田真名さんのラジオについて書くつもりが全く別のことを書いてしまった。いい感じなので聞いてみてね。ではでは。