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オグデン、習慣を崩す

カーテンも開けず自分が訳したオグデンの文章について考えていた。自分の訳だから怪しいが、オグデンが引用するウィニコットも大矢訳で確認しながら訳していると、この訳はこの方がいいのではないかなあ、と私のくせに思ったりする。これがウィニコットやフロイトでなければひっかからない(そこまで読みこんでいないからひっかかれない)けどこだわって読み続けているものに関してはこうなる。でもこういう作業こそオグデンがいうクリエイティブリーディングなので面白い、が最近の隙間時間は演題に出したい原稿が全く書けないことからの逃避としてその作業に占められている。やった気分になりたいだけ、という感じがして良くない。

こういう逃避癖も治らないが、元々の注意力のなさとか落ち着きのなさに加え、おそらく加齢のせいで、あれどこだっけ、それなんだっけ、これいつのだっけ、やったと思ってたのに、などが増えてきた。なので、というわけでもないが、休み中に会った友人が最近お財布を持たなくなったといっていたのをヒントに習慣を少しずつ変える、というか、ほぼ意識しないで扱えるようになっていたものに対して少しずつ「あれ?」となるポイントを作ることで覚醒する瞬間を増やすということを始めた。最初は私もいつものお財布をもたない、ということをしてみた。案の定、色々困った。でもこの作戦は私にあっているかもしれない、と思った。最低限必要なものを吟味するにもいい機会。自分で自分を騙すみたいな戦略が意味のわからない人もいると思うが、そういうのに引っかかってしまう人もいるのだ。注意と記憶の問題は簡単ではないのだよ。

そうだ、オグデンに戻るけど、私がこだわっているWhat Alive Meansの8 Discovering a personal life On Winnicott’s “The capacity to be alone”にオグデンが以下のように書いている。


「友情friendshipを私は、部分的には幼少期の遊び経験の観点から考える。孫娘たちとの経験では、彼女たちは私をカーペットに巻くこと(誕生の模倣?)に興味を示し、役割(母親、父親、息子、娘、教師)を割り当てて、私たちに、互いに話し合う親や、教師と話す親や、赤ん坊を世話する親を演じさせる。これは昇華された性的感情の観点から構想されるかもしれないが、それは私が孫娘たちと遊んでいるときに感じることではなく、またウィニコットが自我ー関係性として念頭に置いているものでもない。自我ー関係性ego-relatednessは、「イド関係」
 “id-relationships” すなわち「生のかたちであれ昇華されたものであれ」愛の関係とは区別されるべきである。」

となる。これ最後の「生」を「なま」とルビを振って読ませるのが日本語訳なんだけど、これは昇華との対比だからそのままの、とか未加工のとかじゃダメだったのかなあ、と思ったりする。

と、私がここで注意を向けたのはそこではなくて、オグデンが孫娘と遊んでいる!というところ。オグデンは息子との共著はあるけどあまりパーソナルなこと書かないから珍しいなと思った。でも私が見落としているだけかもしれない。

もうこんな時間。今年はあまりスイカを食べなかったな、と思って秋の果物からスイカに戻ってみたけどいまいちだった。来年はきちんと一番美味しい時期にいただきましょう。

どうぞ良い週末をお過ごしください。

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暦、オグデン、ウィニコット

今朝は冷房をつけず窓を開けたまま。少し蒸し暑いけど風を感じると気持ちいい。ようやく!と思うけどまた暑くなるらしい。でもこうやって季節は先に進んでいく。8月28日から9月1日くらいまで第四十一候「天地始粛 (てんちはじめてさむし)」 。日本の気候も変わった、と心配しているが、七十二候はしっくりきてることにいつも驚いてしまう。

驚いてしまうといえば最近まとめたオグデンのWhat Alive Meansの8 Discovering a personal life On Winnicott’s “The capacity to be alone”でオグデンが


「ウィニコットが自らの思想を表現するために、フロイトの構造モデル――イド、自我、超自我――の用語を採用するたびに、私はいつも驚かされる。ウィニコット独自の思考は、身体的衝動(イド)、道徳的判断と理想化(超自我)、そして対立する内的要求と外的現実のあいだでバランスを取り統合しようとする努力(自我)から成る“委員会”というメタファーに、新たな次元を加えている。」

と書いている。直訳だとわかりにくいかもしれないけど、私もウィニコットの


「個人的に、私は自我-関連性(ego-relatedness)という言葉を用いるのが好きである。この言葉は、自我生活とでも呼ぶべきものに繰り返し起こる紛糾事態であるイドー関係(id-relationship)という言葉と、かなり明確な対照をなすので好都合なのである。」

にはなんでーと思う。オグデンはウィニコットがこの言葉によって新しい次元を持ちこんだみたいなことを書いたあとに


「ウィニコットの貢献におけるこうした側面を踏まえると、なぜ彼が「自我関連性」と「イド関係性」という用語を用いたのか疑問に思うかもしれない。この問いに対する答えは持ち合わせていないが、ウィニコットにとって重要なのは、「フロイト派」ではない。「真の」精神分析家ではないと非難されることを避けることが重要だったのだろう。メラニー・クラインはフロイト派ではないと非難され、代わりに「クライン派」(この用語は大論争(Controversial Discussions)の期間中にアンナ・フロイトによって造語されたと言われている)と呼ばれていた。 クラインは自らの全く異なる死の欲動概念を指すために、フロイトの用語「死の欲動」を用いることで「フロイト派」としての資格を維持しようとしたのかもしれない。ウィニコットも独自の「自己」と「欲望」という用語を使わず「自我」と「イド」という用語を使用している点で、同様のことをしているのかもしれないが、これはあくまで私の推測に過ぎない。」

と書いている。正確な訳は原著をチェックしていただきたいがまあこんなようなことを書いている。

私はこれに対してもなんでーと思う。クラインもウィニコットもフロイトへの忖度はあっただろうけど、ウィニコットの場合、精神分析用語から離れずに自分の言いたいことを言うにはどうしたらいいかということをすごく考えていたからじゃないのかな。ウィニコットは精神分析理論に環境の重要性を持ち込むという大仕事をしながら、何が精神分析であるかをいつも明確にしようとしている。新しいものを持ち込むときに古い理論を雑に踏み荒らしたり用語を適当に使わないということにウィニコットはいつも意識的だったと思う、私がウィニコットを読んできた限りは。

にしてもego-relatednessとid-relationshipという用語は奇妙だなあと思う。どちらもひとりでいるけどお互いそこにいる、というcapacity to be aloneはego-relatednessと関連している。まあ、この論文は短いからオグデンが読み込むみたいにいくらでも深掘りできるというのはある。ウィニコットの場合、発見はいつもこちらに委ねられている。がんばろ。

もう8月も終わる。こんなことをしていては演題を提出できない。でも書けないんだなあ。がんばろ、と自分を励ましつつやってみよう。

なんだか暑くなってきた。良い一日になりますように。