海外の本、特に、その国が、その国の人たちが経験してきた傷つきの歴史について知ることは意義深い。ときには目を背けて本を閉じたくなり、それでもそれを読むこと自体が何かの供養になるのではと思い、それでもやはりひたすらに胸をえぐられる思いに耐えきれないと感じる。
一方で、私はその国のことを何も知らない。こんな簡単にまるで自分が同じ体験をしたかのような振る舞いをしてよいものか、私の体験は私の体験でしかなく、それと重ね合わせて何かを理解したかのような仕草をしてもよいものだろうか、と考えあぐねることも多い。
物事を近くから、遠くから、斜めから、上から、下から、鏡を通じて、あるいは音声だけで、あるいは・・とできる限り多様な仕方で見られたらいいのかもしれない。でもそれほどの余裕を私たちは大抵持っていない。
だからこそ限界を知ること、そのうえで語ること、それが大切なのではないか、そんなことをよく考える。とても難しいことだけれど。