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精神分析

Fort-Da.

渋谷方面のホームは塾帰りの小学生で溢れている。久しぶりにみる光景だ。器用にマスクをずらし、傘をトントンと床に打ちつけながら「あいつ、本当にうるせえ」と悪口合戦をしていたかと思えばキャハハと別の話題で盛り上がっている。


時間通りにきた電車に乗り込むと、追いかけっこのまま駆け込んできた数人の男の子にぶつかられてつんのめった。ひとりの子が一瞬視線を走らせてまたダンゴになってぶったりぶたれたりしている。


身体の大きさもそれぞれだ。子供の頃にみていたドラマを思い出す。主人公は中肉中背の男の子だった気がする。ガキ大将という言葉は今も通じるだろうか。相変わらず駆け回っていた彼らを中年女性が一喝した。説得力のある声に誤魔化すような動きでなんとなく隣の車両に移った彼らは隣駅で降り、また声をあげながら走っていった。


電車を降りて濡れたタイルを慎重に踏みながら急ぐ。小さな段差も難しいらしい杖を持った老婦人にご家族だろうか、「私、下いくから先に行ってて」など声を掛け合っている。
今日の雨はなんというのだろう。霧雨でいいのだろうか。SNSには今夜は涼しいという言葉が並んでいたけれどあまりそうは感じない。

きっとこれは霧雨だ。遮断機が上がってから街灯の灯りを避けてシャッターを切った。あっという間に小さな水滴がつく。
都心には遮断機がない。


保育園にいくと子どもたちが駆け回っている。駆け寄ってくる子どもたちに遮断機を作ると笑顔がもっと大きくなる。なぜ腕を下ろすだけで遮断機とわかるのだろう。お散歩でも彼らは行ったり来たりする電車に何度でも同じように声をあげる。
行ったり来たり。Fort-Da.いずれはいったままに。残像と遊ぶように今日を明日へ。

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適応と適当

早朝が一番色々捗ります。今日は土曜日ですね。一日中雨かしら。

昨日は色々書いたまま眠ってしまい、内容は昨日仕様だったので消してしまいました。ほんと、画面からって消すのも消えるのも簡単。

でもたとえ私が文章を消したところで私の考えだからまた何かの形で出てくるでしょうし、たとえ私が姿を消したところで私が消えてしまうわけでもないので、何度でもやり直せますね。

でも現実に姿を消したとしたらどうでしょう。社会学者の中森さんの『失踪の社会学』を以前ご紹介しましたが、失踪とかで姿を消されたら辛いな。と、今、私が失踪される方であることを大前提として書いてしまいましたが、こういうのは注意が必要かもですね。「誰にでもありうること」、病気でも障害でも喪失でもなんでも。いや、なんでもはないか。

精神分析はその人のあり方全体を大切にしますが、それだってその人だけのこと、私たちだけのこと、誰にだって起きること、社会全体のこと、全てに関わることであって、単なる密室的なにかではありません。営まれる場はふたりだけのプライベート空間ですが。

精神分析では「適応」を特に目指さなくても治療の副産物として、いや違うな、「適応」というよりは、その人がその人らしさをある程度保ったまま、その場に適当に、ほどよくいられることができるようになります。それは精神分析が、固有のものを大切にすることのなかに社会を大切にすることを含みこんでいるからだと私は思っています。

静かな朝です。朝の暖かい飲み物がしっくりくる季節になりました。どうぞ良い一日をお過ごしください。