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精神分析

自由連想

透明なものが好きだ。

大学のとき、ゼミで墨田区の硝子工房へ行った。ゼミで、といっても専攻である発達心理学とはなんら関係はない。たくさんのガラス製品ができるまでをみせていただき、柴又まで足を延ばし、みんなで大きな縁台に座って団子を食べた。

小学校の遠足の帰り、大型バスの小さなテレビにはいつも宇宙戦艦ヤマトか寅さんの映画が流れていた。学校に到着すれば、それが途中であろうとバスから降ろされる。そのことに特に未練を感じた覚えはない。バスの窓に見慣れた景色が現れたときには、すでに映画からこころが離れていたのかもしれない。

宇宙戦艦ヤマトは家でも何度もみた(そして泣いた)、寅さんはこのバスでの時間でしかみたことがないかもしれない。バスに酔いやすい私はいつも一番前の席でぐったりしながらこれをみていたが、密に心躍る時間だった。

柴又に行ったのは初めてだったと思う。江戸川の近く、たしかに風を感じた。みんなはそのあと、矢切の渡しに行ったが、当時、バイトに明け暮れていた私はここでみんなとお別れだった。今思えば、その日くらいバイトを休めばよかった。

その後、それぞれにいろんなことがあった。大きな出来事もあった。若い頃は今過ごしている時間の意味など考えたこともなかった。その後、何が起きるかなんて誰にもわからないなんていうのは今も同じなのだけれど。

その後、私の専門は精神分析になった。発達心理学は大切な基盤としてそれに貢献してくれている。フロイトは無意識は無時間だといった。そしてあまりある不断のそれを扱う設定として、休日以外の毎日、特定の時間を患者と過ごし、その対価で生活をしていた。フロイト自身の生活も非常にパンクチュアルだったという。このあり方を日本人的という人もいる。精神分析は日本人に馴染まなくはないだろう、ラカンは別の文脈でそうはいわなかったけれど。そう、日本人は確かにパンクチュアルかもしれない。私があの日、バイトに間に合うように急いで帰らねばと思ったように。

誕生日プレゼントに文庫本を開いたまま置いておける文庫サイズの透明なアクリル板をもらった。ほかのことをしながらでもパサっと閉じてしまわないし、ページをめくるときにいちいちそれを持ち上げる時間があるのもなんだか素敵だ。もちろん早く次へ、という気持ちを抑えきれないときはアクリル板を外して手に持ってしまうのだけど。

いまやアクリル板は刑務所のものでもなく、日常的に人と人とを隔てるものとなった。前にも書いたが是枝監督の『三度目の殺人』で使われるアクリル板は多くのものを映し出した。私もアクリル板越しに患者と会うとき、そこに映る自分や背景がこれまでとは異なるこころの風景を描くことがあると感じる。

文庫に重ねる透明なアクリル板は、立てるのはではなく重ねるものなので、ページをめくるときにこれまでとは少し異なる時間を体験させてくれるだけで、私と本を遠ざけない。

ガラス、画面、窓、川面、アクリル板、まるでフロイトのマジックメモWunderblockのようだ。透明な接触面越しの記憶を秘密が守られる場所で語るとき、その体験が別の姿で現れるように、限りはあるがあまりある不断の時間に身を委ねることは、不幸を「ありきたりの不幸」に変えていくのだろう。

そういえば私は以前にもこんなことを書いた気がする、と思って記憶を探った。谷川俊太郎さんの詩について書いたときだ。https://www.amipa-office.com/cont8/20.html

ああ、そうだ。本に重ねる透明なアクリル板、これには谷川俊太郎さんの書き下ろし三篇がついていた。紐解くように、自由連想のように、語れば重なるものなんだな。

「ありがとう」という詩は私の気持ちにぴったりだった。

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読書

限界

海外の本、特に、その国が、その国の人たちが経験してきた傷つきの歴史について知ることは意義深い。ときには目を背けて本を閉じたくなり、それでもそれを読むこと自体が何かの供養になるのではと思い、それでもやはりひたすらに胸をえぐられる思いに耐えきれないと感じる。

一方で、私はその国のことを何も知らない。こんな簡単にまるで自分が同じ体験をしたかのような振る舞いをしてよいものか、私の体験は私の体験でしかなく、それと重ね合わせて何かを理解したかのような仕草をしてもよいものだろうか、と考えあぐねることも多い。

物事を近くから、遠くから、斜めから、上から、下から、鏡を通じて、あるいは音声だけで、あるいは・・とできる限り多様な仕方で見られたらいいのかもしれない。でもそれほどの余裕を私たちは大抵持っていない。

だからこそ限界を知ること、そのうえで語ること、それが大切なのではないか、そんなことをよく考える。とても難しいことだけれど。