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8月31日

立秋に「もう!?」と虫の声に驚いたことを書き、8月半ばに「もう慣れた」みたいなことを書きました。今日は8月31日。虫の声が本当に涼やかに響くようになりました。さらに今夜の風、半袖でオフィスを出てきたら「寒い!」と感じたことに自分で驚いてしまいました。「うわっ、本当に来た!」という感じ。秋の方からしたら「立秋の頃からちょっとずつ慣れさせてきたではありませんか」という感じかもしれないけどちょっと突然冷たくなりすぎじゃないかしら。

そういう人間関係もありそう、と今いくつかの場面を思い浮かべてしまいました。

雨がポツリポツリ落ちてきたから急いで帰宅したら、仲間から「こちらは月が綺麗です」とメッセージ。オンラインの繋がりなのでどこにお住まいなのかも知らないのですが・・。もしかして、と思って窓を開けてみたのですが、やっぱり秋の雨が静かに降っているだけ。でもそうか、この空のどこかで月は綺麗に輝いているんだ(やっぱり「綺麗」って漢字は抵抗あるけど)。

月がどんなふうに輝くかなら私も知っています。想像できるって希望をもつことと似ている気がします。

今の日本の現実に視線を戻すと、多くの方の失意や絶望に目を奪われるかもしれませんが、いろんなことは今に始まったことではないはずです。もうだめだ、といつだって言いたくなるかもしれないけれど。

私たちは生きながらいつも、なにかに持ちこたえられるように準備をする機会を与えられているような気がします。患者さんとの関わりからそう学んできました。秋の虫からも少し。

予測不可能な未来をすでに知っている風景から透かし見ます。そこは決して楽園ではないことを私たちは経験から知っています。でも、その経験があるからこそ、私たちは、驚いたり、絶望したりしながらもそこにとどまることができているような気もします。

人生なんてろくなもんじゃない、でも捨てたもんでもない、そんな言葉を私たちは知っているような気がしませんか。

なんだかんだ気づかないうちに時計の針は8月を超えていくでしょう。また明日。9月にお会いできたらと思います。

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俳句 精神分析

写生

朝、窓を開けると秋の風が入ってくるようになりました。でもあと数時間もすればまた夏の熱気に覆われるのですね、この街も。すっきりと去ることはできない夏の気持ちを熱気というのかもですね。

ところで、俳句のお話ですが、俳句は素材を写生することで感動が生まれるので、擬人法は「月並み」としてあまり歓迎されません。

友死すと掲示してあり休暇明 上村占魚

どきっとしますね。休暇明けの掲示板を写生しただけなのに。これが俳句が持つ力です。たった17音なのに知らないはずのその風景がパッと浮かび、こころ打たれてしまう・・・。それでは月並みといわれる擬人法はどうでしょう。

五月雨を集めてはやし最上川

えっ、擬人法なの?と思うくらい自然。これは月並みではありません。松尾芭蕉ぐらいになると自然も人もこころの中で十分に融けあってしまうのでしょうか。月並みではない擬人法も実はたくさんあるのですが、私なんかが作ると月並みというかやや陳腐な句になりがちですねえ、やはり。

素材を時間をかけて観察してその感動を伝えること、事例研究みたいです、私たちの世界でいったら。相手のことをよく観察して、そこで生じているやりとりや二人の間の現象を細やかに言葉にしていくこと、精神分析でいえば、クライン派や対象関係論と呼ばれる学派の人たちがそうですね。事例を読むだけでその方の様子が浮かび、こころの世界まで伝わってくる。後からならいくらでもなんとでもいえる、みたいな書き方とは全く違います。私はそういう事例研究が好きだし、そう書けたらいいな、と思っています。その人の姿を勝手に変えてしまわないように。

今日はどんな風景と出会うでしょうか。目にとまったものがあったらいつもより少し長く立ち止まってみようかな、日曜日ですし。

さえざえと水蜜桃の夜明けかな 加藤楸邨

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精神分析 読書

モモ

ミヒャエル・エンデの『モモ』が、最近また取り上げられていましたね。『モモ』は私にとってとても大切な作品で、好きな本を聞かれるといつも「モモ」と答えていました。もう少し大きくなると、同じくエンデの「鏡のなかの鏡」と答えていました。

映画も観に行きましたが、私が描いていたモモとはだいぶ違う、と思った記憶があります。本を読みながらはっきりしたイメージを持っていたわけではなかったのに不思議です。

赤ちゃんが泣きわめくとき、私たちはその子が何をほしがっているのか見定めようとします。0歳児に慣れている方は「おなかすいたね」「おむつかえよっか」「眠くなっちゃった」など声がけをしながらニコニコと抱っこをする余裕がありますが(もちろんこころで泣いて、というのはあっても)、はじめての子どもを持つお母さんや0歳児の担当ははじめて、という保育士さんは、赤ちゃんの切迫した泣き声に含まれる不安や不快や苦痛を自分のもののように感じてしまうことがとても多いです。この子はどうしてほしいのだろう、これでもない、あれでもない、もうどうしたらいいのだろう、もうやだ、と本当に辛く悲しくなってしまうときがあります。

たとえばおかずひとつでも、あれもだめ、これもだめと大きな声で泣き、小さな手でお皿を払いのけようとし、これまた関わる人は大慌てで「これ?」「こっち?」と彼らの本当のニードを必死に探ろうとします。でももう全部だめ、何をやってもだめ、させてもらえるのは抱っこだけ、と抱っこして泣きやむのを待って、落ち着いたらもう一度お座りをさせて、小さなスプーンであげてみたらぱく、ぱくぱくってなったりして、こちらがほっとするとあちらもにっこりしたりして・・。

私たちはなにがほしいのか、どうなりたいのか、なんて本当ははっきりしないのかもしれません。そのときの体調やそれが差し出されるタイミングやなにかいろんな感覚的なものが混じりあって、パッと決められるときもあれば、これかな、あれかな、とやりながら「これかもな」と一番自分のイメージにしっくりくるものを選択するときもあるのでしょう。そしてそれはあとから変わることもあるのでしょう。

モモは受け身で、静かな子どもです。人の話を聞くのが上手です。話したくてウズウズしても、怖くてしかたないときでも性急に言葉を発することを控えることができる子です。そう学びました。

眠って、夢をみて、目覚めたら、やるべきことが自然に定まるような、なんとなく言葉の形になるような、まるで精神分析プロセスのようなプロセスを踏んで、モモは強くなっていきます。

もしかしたら、私はそんな時間が大切で、精神分析家を目指しているのかなぁ、と思いました。私が思い描いているそれと「精神分析」のイメージが違うかもしれないから(違ってもいいのだろうけど勝手に変えることはできないから)、私はどうしたいのかな、ということを長い時間をかけて、眠り、夢をみて、目覚め、言葉にして・・というトレーニングを繰り返しているのかもしれません。

今日の言葉は、明日は少し違う形を描くかもしれません。時間をかけて、二人で、大切にしたいなにかと出会っていけたらいいなと思います。

それでは今日もおやすみなさい。

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未分類 読書

雲の絵

今日の空、すごかったですねえ。入道雲がすごすぎてアニメみたい!と思ったのですが間違いでした。こんな景色が本当にあるからあんなアニメもできるわけですね。

歩いていても、電車に乗っていても、何層もの雲が湧き上がるように青空を占めていて、太陽の光がつくるグラデーションがきれいで、いちいち目が離せなくなってしまいました。

雨が降るっていうから傘を持ち歩いていたのですが降られませんでした。降ったのかしら、雨。

「のはらうた」のくどうなおこさんだったらどんな詩を書くでしょう。かぜみつるくんが「でかい くもだぜ」とかいって通り抜けるのをやめて眠っちゃったり、きりかぶさくぞうさんが「きょうは くもも 「どっこいしょ」 をしている」とかいったりするのでしょうか。

ご存知ですか、「のはらうた」。とっても素敵な装丁の小さな詩集です。それを眺めているだけでもいと楽し、ですが、自然の声を聞きたくなったときに開いてみるといいかもしれません。

夜になっても雲は、昼間の形のまま、背景の空より少しだけ薄いグレーになって、街を包みこんでいます。

画像は昼間の新宿駅です。まるで絵みたいじゃありませんか。

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精神分析

蝉の死

新宿中央公園はいまだに蝉の国だけど、蝉の死骸もだいぶ増えてきた。仰向けに寝転がるように一生を終えた彼らの透明な羽をきれいだと思った。

この時期なら新宿中央公園への道案内は簡単。「ここをいくと蝉の声が聞こえてくるからそこ」って言える。蝉の声が空間の輪郭を描く。

精神分析はいまだ輪郭を持てずにいるその人の部分に触れる。そこに無理に言葉を与えてしまわないように細やかに注意を払う。そうありたいので訓練する。簡単じゃないけど、いろんなことは大抵簡単じゃない。

蝉は「精一杯生きたぞ」とか思わないで力尽きて死んでいく。それはある意味「力の限り生きた」という感じでもある。

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俳句

虫の息

アブラゼミも虫の息か、と少しトーンダウンした声をききながら帰ってきました。アブラゼミに「虫の息」とかいうものかしら。虫が虫の息なのは当たり前か、など考えられるのは平和なことかもしれません。

今日は俳句の日だそうです。バイクの日でもあるそうです。ハイクの日、と山へ向かう人もおられるようです。819. 他にも何かあるかもしれません。

今年の夏はお祭りの音をほとんど聞きませんでした。「あ、お祭り!」と思って音のする方へ向かったらお寺のなにかだったことはありましたけど。駅や電車が色とりどりの浴衣でいっぱい、という光景も見ませんでした。来年はどんな夏になるのでしょう。と思う前に秋ですね。木々は今年も変わらず色づいてくれることでしょう。

現れて消えて祭の何やかや 岸本尚毅

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『秋刀魚の味』

尾道といったら小津安二郎。小津といったら『東京物語』なのかもしれないが私には『秋刀魚の味』。あれ、秋刀魚の秋だっけ、と思ったけどそれだと『八月の蝉』と同じですね。あれは『八日目の蝉」でした。角田光代さんの小説。映画も好きでした。

『秋刀魚の味』、娘を嫁がせる老いた父のもの想いとがんばりと悲哀。語るべき箇所は多々ある映画だけどこの映画、食事の場面がたくさん出てくるのに食べ物そのものがほぼみえないのです。お料理の音だってするし、器も食べ物が入った紙袋も登場するのに。秋刀魚も然りで登場せず。

やはり悲哀を味わう、というときの「悲哀」がみえるものではないのと同じように、ここでは見せないことに意味があるのでしょうか。

この主人公は妻に先立たれ、ひとりで子供たちのことを考えなくてはならないのですが、子供にとっては母親の不在を生きるということ。味というのは象徴的です。小津安二郎にとっても母親は大きな存在だったと聞いたことがあります。

尾道のことを書こうとしたら小津のことを書いてしまいました。今年のサンマ漁はどうなるでしょうか。豊漁と漁の安全をお祈りします。

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『ピグル』

Twitterで東畑開人さんが、青山ブックセンター本店のブックフェア「180人が、この夏おすすめする一冊」で北山修先生の『心の消化と排出』を挙げていた。北山先生の本から「おすすめ」を選ぶとしたら私もこの本を選ぶ。「夏」っぽいとは思わないけど。

北山先生の『錯覚と脱錯覚』も私に大きなインパクトを与えてくれた。ウィニコット の『ピグル』とセットで読むべきこの本も「夏」かといえばそうでもない。

2歳の女の子とおじいちゃん先生ウィニコットとの交流が描かれた『ピグル』、16回のコンサルテーションの間にピグルは5歳になった。最初は1ヶ月に1回、二人が会わない時間は少しずつ増えていく。それでも1年に3,4回というのは私が保育園巡回に行くペースだ。3歳、4歳ともなればその頻度でも「また会えたね」となる。

ウィニコットはピグルと会わなくなった4年後に亡くなった。これからを生きる子どもと死の準備をする大人。妹の出生によって母親の不在を体験したピグルはウィニコットを一生懸命使い、持ちこたえ、生き残るウィニコットを発見し、「私」とも出会っていく。ピグルの名前はガブリエルだ。

1964年7月7日、6回目のコンサルテーションの冒頭、ウィニコットは「今回は、ピグルではなく、ガブリエルと言わなければならないとわかっていた」と書き、そこからの記録はすべて「ガブリエル」に代わる。そして帰宅したガブリエルも母親に「ウィニコット先生に、私の名前はガブリエルだよって言いたかったの。でも先生はもう知ってたの」と満足そうに言った。母親からの手紙でウィニコットはそれを知る。

子どもの治療の重要な局面だ。二人は通じ合っている。

夏の休暇前のセッション、「私はサンドレスと白いニッカーズを着てたの」とひなたに仰向けに寝転がるガブリエル、私はこの場面が好きだ。子どもが安心して空想に浸れること、複雑な情緒を体験する場所はいつもこうして開かれている必要がある。

そして夏の休暇後、二人がはじめて会う7回目のセッション、ガブリエルは「ウィニコットさん」とよそよそしい。「先生」ではないウィニコットの休暇に対する抗議のように「だれにも一緒にいてほしくなかったの」とひきこもっていた自分を知らせるガブリエル、このとき、彼女は3歳になったばかりだが、大きくなった。ウィニコットの記録を読むとそう感じる。

精神分析は週4日以上会っているので休暇の意味は大きい。たまにしか会わなくても会えない日々のことを想うのだから、この二人のように。

いない人のことを想う。いたはずの人のことを想う。そうやって描かれる私たちは大抵いつも現実と違うけれど、想うことだけが私たちを生かすこともある。

この夏、『ピグル ある少女の精神分析的治療の記録』(ドナルド・W・ウィニコット著、妙木浩之監訳、金剛出版)を読んでみるのはどうだろうか。彼女が青い瓶を目に当てて「ウィニコット先生は青いジャケットを着て、青い髪をしているのね」というように、本を読むことで(もはやなんの本でもいいかもしれない)この暑さを違う色に染めてみたり、2歳の頃の目で世界を見直してみる。この夏は、そんな旅もいいかもしれない。

(翻訳作業についてはオフィスのサイトに少し書いてあります。)

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黎智英氏も周庭氏も逮捕された。周庭氏と一緒に活動してきた黄之鋒氏(Joshua Wong)、若い政治家の羅冠聡氏(Nathan Law)は流暢な英語で海外に向けて声を出し続けている。

20代、自由を求めて国を相手に戦うなんて考えたこともなかった。自分の意見を言えなくなることは自分の母国語を使えなくなることと同じ、それはつまり自分の出自を存在を否定されるようなものなのだろうか。頭ではいろんなことを考える。考えれば考えるほど身体も重い。

言いたいことが言えないこと、程度の差はあれ、おそらく誰もが子供の頃から経験したことのある事態について考えるだけでも原因に向かって紐解けるものではないので相当難しい。それは症状にもなりうるので臨床的にも身近だし、精神分析のように主な道具が言葉である場合、それは単に症状ではなく、治療関係そのものに大きく関係しているので何が起きているのかと常に再考を迫られる。

私たちが当然もつ権利を行使させなくする行為には敏感に抗っていく必要がある。コロナがわかりやすく明らかにしたゼロリスク志向、「正しさ」による支配とも根は繋がっているのだろう。物事は一気に動く。集団であることが自制しないことを正当化する。一方、そうしようとする力に抗う物語は昔から数え切れないほどある。歴史から学ぶことはいくらでもできるはずだと言い聞かせる。

目的としてではなく結果として抗えるように、繊細でしなやかな網目を張りつづけるようにこころを動かし、言葉にできたらいいなと思う。それには言葉を大切に扱ってくれる人の存在がなにより必要だろう。

彼らが発しつづける声を大切にすること。自分の声を大切にすること。いつも立ち返るのは当たり前のようなことだけど、その当たり前こそ守りたい。

蝉が鳴いている。彼らはいつも自然体。

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長崎

昨日からずっと、というより広島に原爆が落とされた8月6日からずっと長崎のことも合わせて考えている。といっても、私の知っている長崎について思い出を辿っていただけなんだけど。

長崎は平和公園や原爆資料館は必ずいく。長崎は本当に「祈りの街」という感じがする。小道や坂道、広場、ひっそりした場所がたくさんある街というイメージ。電停でいろんなところへいける。眼鏡橋がかかる川沿いもとてもいい散歩道。中華街は私は神戸が一番好きだけど長崎もいい。長崎はいろんな国のお菓子も美味しくて楽しい。グラバー園ではスコールにあった。鍋冠山からの景色が穴場、と長崎の人に聞いていったら、あの時は何かの理由で頂上への道が封鎖されていたんじゃなかったかな。途中からでもすごい眺望だったけど。稲佐山からの夜景もきれいだし、長崎造船所はすごいインパクトあった。色々考えてしまった場所だった。軍艦島は風が強くて上陸できなくて別の島に上陸した。私は船に酔ってしまってダウンしていたからずっと休憩室にいたけど。そのときの船の乗組員さんがすごくさりげなくサポートしてくれたのがありがたかった。船内では、軍艦島の悲しい歴史を映像見ながら話してくれるのだけど実際体験された方のお話で胸が締め付けられた。長崎は「祈りの街」というより祈らざるをえない街といえるかもしれない。

ほかにも色々行ったけど、一番好きなのは平戸かなあ。島原もよかった。貝雑煮を食べた。島原城にはキリシタンの史料がたくさんあって説明も受けられるのだけど関係する場所、全てに行ってみたいと思った。説明してくれた人が上手だったのだと思う。萩、津和野へ行ったときも史料を結構読んでいろんなことを感じた、そういえば。興味深くて誰かに喋った気もするけど内容をもう忘れてしまった。インパクトは覚えているけど。

長崎はとても素敵な街で何度でも行きたいと思う街のひとつだ。あそこに原爆が落とされたなんて信じられない穏やかさで、でも街全体が静かにいろんな国のいろんな痛みを抱えこみながら、祈りながら生活しているように思う。今頃、蝉があの静けさを際立たせているかもしれない。ニイニイゼミはまだ元気に鳴いているかな。五島列島は台風が近づいているようだけど皆さんご無事で、と祈ります。

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残暑お見舞い

残暑お見舞い申し上げます。

風立ちぬ、今は秋。今日から私は心の旅人♪の季節ですね。私は今日から夏休みです。お元気ですか?

毎年やっている夏メロ(意味違う)ハガキ、今年の書き始めはこんなふうにしてみました。聖子ちゃん好きでしたよね?

今年は句会で夏の句に行き詰まると杉山清貴や井上陽水を使ってしのいでいました。すぐに「陽水かよっ」とバレましたが。サングラスという季語を「君は1000パーセント」で作ったときは「それ杉山清貴じゃないから」とか。同世代の素早いツッコミはどんな暑くても健在です。

今年は少しでものんびりできますように。どうぞお元気でお過ごしくださいね。

空想暑中見舞いシリーズはあっという間に立秋がきてしまったので二枚しか書けませんでした。残暑お見舞いの時期もあっという間に過ぎそうでしょうか。時間感覚は人それぞれだと思いますが、せめて自分で自分を急かすことなくお過ごしになれますように。

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俳句

立秋(仙台七夕まつり)

さっき「つぶやき」で今日は立秋ですよ、びっくり、というようなことを書いて、日めくりの写真を載せました。その右上に小さく「仙台七夕まつり」と書かれていたのを見つけた方もいらっしゃるかもしれません。

一度は行ってみたい仙台七夕まつり。今年は8月6日から8日まで行われるはずでしたが「250万人もの大勢の観客を安全安心な形でお迎えすることは、その準備を含めとても難しく」中止を決定した、と「仙台七夕まつり」のサイトに書いてありました。日本一といわれる誇りある伝統行事の中止、悔しさ、悲しさ、虚しさ、決断を余儀なくされたみなさんがどんなお気持ちかははかりかねます。現実的な損失も大きいかもしれません。それでも「伝統を絶やすまいと、市内の各商店街では素敵な七夕飾りが飾られています。いつもとは違った思い思いの七夕を、ぜひお楽しみ下さい。」と「仙台七夕まつり」のFacebookに書いてありました。たしかに、伝統のはじまりはひとりひとりの小さな、でも切実な願いだったりするのかもしれません。

それにしても250万人ですか。宮城県の人だって全員が行くわけではないでしょうけど宮城県の人口を超えていますね。

華やかな喧騒をのんびりのんびり移動して、賑やかな通りを抜けて、ほとんど人気のない場所に出るときのあの感じ。東京の満員電車から吐き出されるように外に出て互いの顔も知らなまま四方八方に向かっていく、あの無言の群衆とは全く異なる人の流れ、音、空気。ひとりひとり全く異なる文字で書かれた願い事。

お祭りは身体とこころの全部で感じるような特別な瞬間を思い出せてくれるような気がします。移動や集まりが難しいのであれば記憶のなかで、夢のなかで出会えたらと思います。 

今日は立秋。まだ真夏と出会ったばかりだけど秋がどんな感じかはよく知っています。

そよりともせいで秋たつ事かいの 鬼貫

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八月六日

8月6日木曜日、原爆投下・全記録という番組を見ていた。

広島には学会でも旅行でも何度か訪れている。野球も見た。広島で広島の友達に電話もした。思い出が多い。

もう10年になるが、世界平和記念聖堂を訪れたとき、そこの職員さん(?)に声をかけられて、特別に見せてあげる、と普段は公開していないというところを案内してもらった。誰にでもそういっているのかもしれないが、たしかにここはあまりに舞台裏、という場所も見せていただいた。このとき、偶然一緒にいた男性が建築家か建築に詳しい人か忘れてしまったけど、とにかく建築に詳しく、この建物のこともそうだし、広島市内にある建築物について本当に色々教えてくれた。その後、時間の許す限り行ってみたが、彼との出会いのおかげでそのときの広島の旅は特別なものになった。

世界平和記念聖堂は村野藤吾の設計。平和記念資料館を設計した丹下健三とは対照的な建築家だ。私は村野藤吾の建築が好きだ。東京にいてもたくさんみられる。この日はその男性たちのおかげで聖堂に施された工夫を隅々まで堪能でき、広島と建築の関係についても聞くことができ、この旅のあとしばらく、私は建築のことばかり考えていた。

75年前、広島で生きていた方々、今も生きている方々が当時の記憶を住まわせる場所を私たちは作り続けていく必要があるように思う。目を背けたくなるような場面を見る目を、その後を生きてその日のことを伝え続けてくれる方々の声を聞く耳を、その瞬間とそれ以前、その後を具体的に想像する身体とこころを、空間として差し出せるように、なにかに囚われていない場所を自分のなかに準備しておけたらと思う。

エノラ・ゲイ の乗組員のために牧師が祈りを捧げるシーンが流れた。私は何をどう祈ったらいいかわからないけど、歴史から学ぶこと、二度と起こしてはいけない、あれは過ちだったということを忘れないでいたい。

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俳句 精神分析

「月がきれい」と思いながら帰宅できる日が続いている。とかくと、そう思えない日もあるのか、と思われるかもしれないけど、不思議とそうでもない。ほんとに不思議と。

山を 海を 川を 空を 月を 私たちは嫌ったり憎んだりすることができるのだろうか。私は山育ちだから山に対する怖さと海に対する怖さは質が全く異なる。知っているからこその怖さと未知ゆえの怖さ。しかし知っているといってもごく一部。災害と会えば呆然と立ち尽くすしかない。憎むにはあまりにも知らなすぎる。

一方、私たちは本当に小さなことで誰かを好きになったり嫌いになったり愛したり憎んだりする。自分とよく似た姿の相手は自分とよく似たこころを持っている、という前提があるせいかもしれない。

フロイトは精神分析の創始者だけど、やっぱり怖かったんじゃないかな、両方の意味で、と思うことがある。読んでいると。

こころと自然。昔からあるテーマ。似たような木々が立ち並ぶ山を切り崩すことはその多様性を奪うかもしれない。表面ではなくそのなかをその背後を見ようとすることはとてつもなく侵襲的かもしれない。

最初に何かをしようとする人が背負うであろう大きな何か。フロイトも、地球が回っているといった人も、「神は死んだ」と言った人も、月を目指した人たちも、はじめての子を持つお母さんお父さんも、この世界に出てきた赤ちゃんも、と書いていると先のことを見通すことができない私たちみんなが主語になりうるか、とも思う。積み重ねては振り出しに戻るような、でも最初の最初とはちょっとずつ違うような軌跡を積み重ねる。ひとりひとりがみんな。

今日の香港のニュースにもいろんなことを感じた。「それって誰が決めるんですか」という問いかけも普遍的かもしれない。

こんな何十年も月がきれいと言い続けて、しかもそれは私が生まれるずっと昔から言われ続けていることで、愛でるものがあることの大切さを思った。

墓石に映つてゐるは夏蜜柑 岸本尚毅

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俳句 精神分析

精神分析は時間がかかる、というけれど、なんだって時間がかかりますよね、と思う。この歳になってもまだこんな、ということからして。

だから急がない。

いつ何が起きるかわからないから早く決めて次へ進まなくちゃ、という場合もあるかもしれないけど、いつどうなるかわからないからこそ急がなくても、とも思う。走らなければならないときは自然にそうするだろうし。そうでもないかな。たまには走っておかないと急に走ろうとしてぎっくり腰になる、みたいなことも起きるのかしら。

現実的なことには合わせざるを得ないし、それが全て、という時もあるとは思うけど、それならそれでいずれ来たるべきなのか、いつまでも来ないのかよくわからない先のことより今に委ね直すことをその都度していけたらいいなと思う。

着物に詳しい友人に博多織というのを教えてもらってそれについて調べていたらなんとなくそんな気がした。たくさんの経糸と太い横糸、中島みゆきの歌も思い出しますね。

私たちは何も知らない。

いつか、いつか、と小さく願いながら出会いをつないでいく。言葉を紡いでいく。昨日引用した石田波郷の手花火の句もそうかな。

少しずつ少しずつ。

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俳句 読書

花火

今日も暑かったですね。夜の風もなんとなくまとわりつく感じになってきました。月は良い感じに雲隠れにし、でした。夏の月って雲の向こうでもなんとなくすっきりと明るく感じませんか。

以前、お世話になっている先生に「書く」練習として沢木耕太郎を「読む」ことを勧められてとりあえず『一瞬の夏』を読みました。内容はうろ覚えですが、最初に神田でビールを呑んで、新宿でウィスキーを呑んで、1杯目のビールだけが汗を引かせてくれた、というような記述があるのです。この話って結構暑苦しいお話だと思うのですが、その前振りとしてかっこいいなぁと思いました。

ビールの一杯目ってほんとそういう感じですよね、という話ではないのですが、夏ですねえ。今年はビアガーデンとかどうするのでしょう。

今年は十勝の勝毎花火大会は中止らしいです。帯広の藤丸百貨店屋上でビールを呑みながら見たことがあります。ああいう夏がまたきてくれますよね、と誰に聞いたらいいかわからないけど、きてくれるといいですね。でも私には北海道は寒くて、その日も途中でリタイアしてガラスの内側で音と本物が放つ光をみていましたけど。東京の夏はエアコンで喉がやられてしまうし、一体どこがちょうどよいのか・・困ったものです。

今年は小さく線香花火もいいかもしれないですね。

手花火を命継ぐごと燃やすなり 石田波郷

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暑中見舞い その二

暑中お見舞い申し上げます。

先日お会いしたばかりですがお元気ですか?あのお話はまた改めてお返事しますね。

会うといつも同じような話ばかりしてしまうので、お手紙くらいなにか目新しいことを書きたいな、と思ったのですが意識するとなおさら何も思い浮かばないものですね。

明日も「暑い暑い」ばかり言っているうちに一日が終わりそうです。それはそれで平和でしょうか。

何も思い浮かばないので、今日の日めくりにあった俳句を書きますね。大好きな俳人のちょっとあれな句です(私の鑑賞を今度聞いてくださいね)。

男にも唇ありぬ氷水 小川軽舟

それではまた近いうちに。またみんなでいつものお店で集まりたいですね。それまでなんとか無事に過ごしましょう。

ということで、今日も宛先のない暑中見舞い、やってみました。書くことがない、みたいなことを書いていますが、今日は結構あったかも。月もきれいだし。十三夜ですって。でも葉書に書ける量は本当はもっと少ないですものね。自分のなかにおさめておくことも大事かもです。いずれもっと伝えたい気持ちが強まったときのために。

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ポッカリ

というわけで(前のつぶやきとつながっています)8月です。

今日は夜の予定を間違ってしまいぽっかり時間ができました。ポッカリ月がでましたら、舟を浮かべて出掛けませう、は中原中也でしょうか。彼が生まれた山口県湯田温泉、いつでもいつまでものんびりお散歩していたくなる大変よいところです。お目当てだった居酒屋さんが満席で、お知り合いのお店を紹介してくださって、なぜか駄菓子も持たせてくれて、うかがったお店も暖かく迎えてくださって地元ならではの雰囲気を堪能したことを覚えています。今年はそんな旅もお預けでしょうか。行かれる方は楽しめますように。観光客を待っていてくださる地元のみなさんもどうぞお元気で、と願います。

本当に今年は辛いことが多いですね。もちろん毎年そういうことはたくさんあるのですが、新型コロナはこれまでと違う形で私たちの生活を変えつつある気がします。

ようやく梅雨があけたので「そうだ、暑中お見舞い書こう!」と思い立ち、さっき架空の宛先に暑中見舞いを書いてみました。8月はこんな夏だからこそちょこっと想像書簡のようなもの、あるいは夏の宿題シリーズ的なもの、あるいはこれまで通り?まぁ、気ままに書きたいときになんか書こうと思います。

今夜の月は穏やかです。これからグンと暑くなるでしょうから大雨の被害に遭われた地域の方の体調も心配です。どうぞご無事で、ご安全に。