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精神分析

記憶

フロイトは忘れたくても忘れられない人だったみたい。実際は多くのことを忘れているし、それが当然だろうけど。

夢、日常生活における間違いや「〜忘れ」と呼ばれるもの。

回想も連想も事実の想起ではない。でも事実の表現ではある。事実が私を作ってきたとするならほんとに大事だったのは事実それ自体ではなくてそれをどう体験したかにほかならない。

世界には、といわなくても私の周りにも悲しいこと、しんどいこと、耐えがたいことはたくさんあって、もうどうしようもない気持ちでもなんとか、なんとかやっている。そんな声は少なくない。

忘れたいことばかり。全部が錯覚で思い込みだったと思おうとしても、実際にそうだったとしても、忘れるということは不可能なことだ。

精神分析は記憶にまつわる学問だ。時間と空間という二分法に陥ることなく、私たちが生きる場所をそこに見出したのだと私は考えている。

英国の精神分析家、ウィニコットが「私たちの生きる場所」といい、「可能性空間」といったのもつまり、そこが精神分析の場所であるということだろう、と私は思う。

ひとりではない体験。その記憶。しかも生成され続けるそれとともにいること。辛くて長い作業だ、と何度でも言いたくなる。

なんとか、なんとか生きている。そんな毎日をどんな言葉で綴ろうか。

秋日和。日曜なのに制服のこどもたち。部活かな。今日は半袖でも大丈夫ね。良い一日でありますように。