もし願うとしたら自分や大切な人たちが他でもないその人としてここにいられるように、そのための支えとともにいられますように。
精神分析が明らかにしたナルシシズムは、簡単にいえば現実を自分仕様にカスタマイズする性質のことだろう。それは変容を妨げる。良い悪いの話ではなく、逃れようのないそんな自分の性質に自分で抗うこと、フロイトのいう「抵抗」とは別の方向へ。
といってもフロイトは自我、超自我、エスとの関係でそれを記述したどまりでそんなに明確にしたわけでもないのか。
知られざる自分との出会いを可能にするものとして、精神分析は設定、技法に特殊な仕掛けを含ませ、その理論を発展させてきた。
そして、そのプロセスにおいて対象を限定しなくなり、多様性に開かれてきた。それでもいまだ「自己変容」というフロイトの言葉は謎のままである。変容とはなんだろう。
精神分析プロセスにおけるカタストロフィは患者だけのものではない。二人にみえる人が転移-逆転移関係においてこころを行ったり来たりさせながらそれ以上の関係を、あるいはそこを通底するものに触れていくプロセスは苦闘である、と私は思う。
そのプロセスはその人を他でもないその人として立ち上げるかもしれないし、再びナルシシズムの世界に安住することを選択させるかもしれないし、もっと別の形をとらせるかもしれない。
私は願う。とは、誰かが私を願ってくれることだと私は思う。ただそこにいることを。いずれそこに動きが加わって分節化して名がつくかもしれないし、何かのイメージにとどまるのかもしれないけど、私は願われている、という感覚をお互いがもてるとき、そこが変容可能性の場所になるのではないだろうか。
精神分析は過去に原因を求めているという大きな誤解は、体験なくしてとけるものとは思わない。ただ言えるのは、私たちは程度の差はあれ、いつだって何度だってなにかしらやり直そうとしているではないか、直線的な時間に逆らうまでもなく、過去とともに今ここにいるではないか。
精神分析はそこで二人でなにかをやることで存在が分節化するのを待っている。そんな治療文化なのではないだろうか、と私は思う。