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『原子力時代における哲学』

國分功一郎は『暇と退屈の倫理学』で楽しむのにも訓練が必要だ、みたいなことをいっていた。違いのわかる人はそれ以前に学びがある。消費ではなく浪費家であれ、贅沢であれ、と「暇」という時間に価値を見出したのがあの本だったと思う。

昨年、國分さんは『原子力時代における哲学』(晶文社)いう本を出した。この本は精神分析に関するテクストとしても読めると私は思う。だから精神分析家の十川幸司とのトークイベントもあったのだろう。フランス現代思想にも造形の深いお二人の対話はさぞ面白かっただろうと思うが私はいっていないからわからない。

先に挙げた「暇倫」は精神分析の設定と繋がる。

私は、國分さんが当事者研究の文脈で使う「精神分析」には異なる感触を持つけど、この本で引用されるハイデガーの「放下」概念はまさに精神分析で生じていることだ。

國分さんはフロイトのナルシシズム概念を参照する。そして、原子力時代を生きる私たちは万能的に「贈与を受けない生」の実現、つまり「何ものにも依存しない完全に自立した状態」を欲望しているのかもしれない、原子力を悪魔としたら、それは人間のこのナルシシズムに付け入ってくる、という(不正確かもしれないから原著を読んで)。

その箇所も説得力はあるが、やはり私は「放下」という概念に魅力を感じた。精神分析プロセスにおける「待つこと」、私はそれを精神分析の本質だと思うからだ。と書くなり「本質」という言葉自体の危うさも感じるが。

「隠された意味に対して我々が開かれて、それを受け取るようになること」、國分さんがいうように精神分析はそこに対しては「大きな手助け」になるのである。