フロイトが使った「失錯行為」という言葉はドイツ語だとFehl=失敗とleistung=達成の組み合わせでできているという。意識的には失敗でも無意識的には達成、ということか。だとしたらいかにも精神分析らしい。
「最終的には失敗することで成功する」といったのは小児科医であり精神分析家であったウィニコットだ。
「なんにだって意味がある」と言われたら「それはそうですね」と思うし、「無というものが在る」とか言われれば「なるほど。そうもいえますね」と思う。しかし、こういう逆説にいちいち感動していた日々はもう遠い。
臨床場面ではそういう言葉はひとときの安堵をもたらすかもしれないが、使うタイミングによっては嘘っぽさすら含む。もちろん、二人が別れたあとに思い返すその瞬間が同じようにそうだとは限らないが。
言葉は単に多義的というよりも時間や場所によってその意味を変えていく。同じ言葉でも名のある人が言うのとそうでないのでは全く意味が異なったりもする。言葉の難しさと醍醐味だ。
ただ、もはや口にしたくない言葉というものもある。外傷の表現がそうだろう。多くの外傷場面が言葉にならず視覚的にフラッシュバックされるように、傷は言葉と距離をとる。逆説の豊かさはそこでは過剰な刺激になるかもしれない。そこで求められるのは沈黙でしかないかもしれない。
それでも、私たちの多くが言葉で生きていることに変わりはない。自分の言葉を編み出すこと、口封じをされたら別の場所から言葉を出すこと、本当に悲しいときに沈黙できること、そしてそれができる環境があること、赤ちゃんの切迫した泣き声を思い起こすこと。泣き声も言葉だ。
どうかその声が届きますように。その意味が伝わりやすように。
言葉を使うことは曖昧さに耐えることでもあり、決めつけに抗うことでもある。こころの声を待つ。いずれくるなんらかの判断に向かって。
『ゴドーを待ちながら』みたいな。