最近、出来事に対して中動態的な性格を与えることを試みていたらしい。
でも現実はやはり現実で、そんな無理をして乗り越えることではないと思った。
防衛として思考実験的に続けてしまうだろうけどこの概念の使い方としては間違っているのだろう。
積み重ねた小さな傷つきは無理になかったことにしなくていい。
それとともにどう過ごしていくのかについて考えるのはひどく苦痛だろうけど。
なかったことにはしない。小さい傷つきを大雑把にまとめあげない。
織物のように密に重なりあう糸の連なりに目を凝らす。
どこで絡まったのか、どこで切れたのか、もう紡ぎ直すことはできないのか。
誰かと一緒にゆっくりみなおす。
そうこうしているうちになにか別の感触で、生じつつある出来事を体験するかもしれない。
別、というだけでそれが苦痛を和らげるかはわからないけれど。
立冬を過ぎて本当に寒くなった。寒さでさえ辛いなら冬眠だってありだ。
ありさんいないねえ、ねんねしちゃったねえ、と保育園児も言っていた。彼らの小さな手はあたたかかった。
冬眠して果てない夢をみる。それこそ中動態っぽい。
適当なのは寒さのせい。たぶん。