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写真 精神分析

真夜中の銀杏に輝きをみつける。さらに濃く。どうやって?写真に撮ることで。

都心の夜は明るい。今年はイルミネーションが復活し、駅に近づくにつれ、街道沿いは明るさを増していた。

地上にも頭上にも道路が交差し、そびえたつビルは夜通し様々な光を反射しつづけ、暗闇は遠くても夜はずっと向こうまで広がっていた。少し山のほうまでいけばむしろ空のほうを明るく感じるかもしれない。東京は狭い。

私たちはこの狭い世界でどうして惹かれあうのだろう。あるいは憎しみあうのだろう。

同じ景色に足を止める。iphoneで写真を撮る。私のカメラは誰かのカメラほどきれいに光を取り込むことはできない。私の目に映るよりさらに暗くそれらは映る。それでも私は撮り続ける。理由など考えたことはない。こういうところであえて言葉にするなら小さな感動を忘れたくないから、とか?書いたとたんに嘘っぽさがつきまとう表現を陳腐というのだろうか。

小さな関心を向け続ける。何が好き?何が嫌い?
どうして今この写真を撮ったの?

ありふれた質問かもしれない。でもそんなことを訊くことさえ躊躇する。本当のことをいってくれているだろうか。無理していないだろうか。だって私だって自分で答えては嘘っぽいとか言ってるのだから。

「どんな気持ち?」「あなたはどうしたいの?」

精神分析においてこれらの質問に答えることは容易ではない。意識的になにかをいったところでそれは本当だろうか、それは私の言葉だろうか、という問いがすぐに自分自身に向かう。無意識とともにあるというのはそういうことであり、精神分析家を「使うuse」のは、治療状況に複数の人物を置くことで、複数の思考を自分に許容するためだと私は思う。

誰かの写真では光のコントラストがはっきりと現れ、路上の小さな光たちは銀杏にもまとわりつき、深夜でも光の粒がまぶされたような輝きを保っていた。あったかい。優しい。あるいは自分には眩しすぎるという人もいるかもしれない。

「寒い!」とコートの前をしめたが夕方よりも寒さを感じなかった。多くの車や人を包み込んでいるうちに冷気もこの街になじんだのだろうか。

小さなことを感じ続ける。小さな関心を向け続ける。少しずつあなたと出会い、わたしと出会う。たとえそこが暗闇で寒くて寂しくてどうしようもなくても、そこからは見えない光の粒がそこにまぶされている可能性を捨てない。とりあえずこの冬を越せますように(寒がりにはつらすぎる季節!)。

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こころ

「こころをつかう」という表現が苦手だ、ということは以前にも書いた。こころって誰かが使えるものではなくて常に受け身だと思うから。心揺さぶられたり心苦しくなったり。たとえ能動的に誰かを心から締め出したくなったりしたところでそんなことはできないから私たちは苦しむ。もちろん苦しまない人もいるだろうけど、私は、そして私が会っている人たちはこころなんていうあるんだかないんだかわからないけどたしかに自分の身体の内側でうごめているものに苦しめられたり、色々している。

色々と雑に書いたのは苦しいだけではなくて、そこから救われたと感じたり、誰かへの愛しさでいっぱいになったり、心白くなるほどに自分や相手を区別しない瞬間もあると知っているから。

首都高の真下の寒椿、手入れのされていない枯れ木にまみれて小さな赤い花をたくさんつけていた。たくましいなと思った。もっと栄養を与えてもらったら、もっと別の場所に植えられていたら、と一瞬思ったけど、これはこれでこうして私が目を止める鮮やかさで咲き、人知れず散っていくであろうことにもなんの想いももたないのだろうから私の大きなお世話は素直に「たくましいな」「かわいいな」でとどめておくべきなのだろう。

花の名前も鳥の名前もそれらをいくら愛でたとしても覚えることができない。でもそれが特に必要というわけではない。いつも似たような人の似たような行動に似たようなことを感じてばかりいるわたしの「こころ」なるものがどうあろうと、わたしになにがなくともそこにいてなにかを感じさせてくれる存在をありがたく思う。

時間は有限だ。どうであってもいつか終わる。今日のわたし、今日のあなた、今のこころ、なにがどうなるのかまるでわからないけれどこうしている間にも太陽は少しずつ高いほうへ。私の小さなオフィスに差し込む光とそれが作る影もいつのまにか姿を変える。「いつのまにか」動かされるこころのようなものを静かに感じながら今日も過ごせたらと願う。

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写真

ピント

iPhoneで写真を撮った。冊子の中の写真を。2枚並んだその写真の両方にピントがあえばいいな、と思いながら。

一枚にはすぐにピントが合い、黄色い枠がその顔を囲った。もう一枚はより遠い写真だ。どうかこの写真にも同時にピントが合いますように。

私はiPhoneをほんの少しずつ動かしたり傾けたりしながらそれを待った。

先にピントがあった一枚はすでになにかに印刷された写真のようだ。

遠くにいるほうの人の背中にはいつだかわからない、多分私はまだ生きていなかった時代の空が広がっている。

遠く離れた二人がせめてここで同じ鮮やかさで出会え直せますように。

そしてすでにいない二人を想いながらこれを並べたであろう人が、まだ何も知らなかった時代を、知ろうとすればできたはずでは、なのに自分は、と悔やむことのありませんように。

ピントがあった。遠くの人の顔をさっきより小さな黄色い枠が囲った。

私はシャッターを切った。

移動を繰り返す。何かを探して。それは間違いだったかもしれない。間違いでなかったかもしれない。そもそも間違いかどうかなんて何を基準に?

移動を繰り返し世代をつなぐ。写真が撮られ、その写真がさらに撮られる。それで時代が変わるわけでも二人が生きてまた会えるわけでもないことは誰にだってわかる。

それでも無意味なことをしつづける。重ねて撮られ媒体を移動してきた写真の人物になんとかピントを合わせてまた撮ろうという行為もまたなにももたらすことはないだろう。

ただやっている、ただそこにいる。誰かは正しいかもしれないがあなたはただそこにいた、それに意味や価値を見出す必要などない、ただそんな気持ちになった。