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Netflix 写真 読書 音楽

ビヨンセ、中平卓馬。

パフェを食べた。美味しかったけど多すぎた。うーん。昨日は調子が狂った、というかすでに色々狂っているところにまた狂ったからもとに戻ってるかもしれない。もとはどこだ。昨日はビヨンセが渋谷タワーレコードにきたというのを聞いて最初に狂った。誰かが同じ空気を吸えるだけ幸せ、といっていたが私もそう思う。ライブじゃなくて『COWBOY CARTER』のプロモーション?Jay-Zも来てたって。Jay-Zのライブ?わからないけどビヨンセがあそこにきたのかあ。ゴージャス。そしてうっかりNetflixで「ドリームガールズ」を見てしまった。寝不足。「HOMECOMING」もまだみられるかな。みたい、とか言っている場合ではない。

 でもね、今、東京は見るべきものが多すぎて危険。元写真部の私には欠かせない写真展たちも。竹橋の東京国立近代美術館で開催中の『中平卓馬 火ー氾濫』展は彼がもと編集者で理論家であることもあって文字情報も多い。新聞も日記も小さい文字がびっしり。急性アルコール中毒で記憶の一部を失って以降の作品を後期とすると、写真それ自体の変化というよりこの展示の仕方を許容できるようになったんだ、というかむしろこの展示の仕方で保たれる何かがあるのか、など複雑な気持ちになった。ものをものとして撮るという点に関しては後期の方がもうどうしようもなくそうなっている印象を受けた。最近は女性の写真家たちも増えて私が高校の写真部の薄暗い部室で眺めていたそれこそ中平たちの時代の雑誌にはない世界が広がっているように感じる。生活に対する構えも違うのだろうか、と考えるが、その辺だとそれは男女差というよりもっと個別的な歴史の話かもしれない。

朴沙羅『記憶を語る、歴史を書く』も関連して思い浮かべた。多くの写真がマイノリティを映すということとも関わる。私は人の話を聞くという行為でそれをしていると思っている。朴沙羅さんのようにオーラル・ヒストリーをきく仕事の人もそうだろう。そのときにこの仕事を難しくしている自分の問題に直面することがある。そこで「健康」を保ち続けるには「スキル」がいる。私は精神分析を受けなければこれだけの語りと出会うことは難しかっただろう。聞き出すわけではない仕事だから。対象とどう出会えばいいのか、という苦闘を体験しやすい仕事だからいろんな歪みも出る。だからいろんな人と関わっておく必要がある。中平のいろんなエピソードがぽつぽつと思い浮かぶ中こう書いているが後期の不自然なくらいピカッとツルッとした展示に前期とのつながりがあろうがなかろうが同じ人間の作品であることに違いはない。そういう重みと私もどう向き合っていくのだろう。いろんなことを考えた。

さあ、もう行かねば。どうぞ良い1日を。

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俳句 写真 散歩

花々

行き慣れた家をピンポンした。門からお庭をのぞいたら見慣れないきれいな花がスラッと長く立つ枝に散らされたように咲いていた。人が出てきた。飯能で見つけた「食べる甘酒」を渡しながらこのお花って前からあったかという話をする。おとうさんといっしょに買った苗で昨年は花が咲かなかったという。だから気づかなかったのか。しかもどうだんつつじだという。え、私が知っているどうだんつつじはいつもの散歩道で見る茂みのようなものなのにこんなにすっと背高く咲くものなのか。きれいなピンク。お庭はほかにもこの時期のお花が美しく咲いていた。あやめ?ジャーマンアイリスって言うんだって。ドイツのあやめか。よくわからないのだけどこっちにも似たようなのが咲いていたのよ。へえ、あっちのは?などおしゃべりをして別れた。「おとうさん」は昨年一月に亡くなった。元気そうでよかった。

「どうだんつつじ」と打ったら「灯台躑躅」と出た。打ち間違えたともう一度打ったら自動変換の候補に「満点星」ともでた。あれ?なんで?また打ち直したらまた同じのがでた。これ、どちらも「どうだんつつじ」と読むそうだ。「満点星」でそう読ませるのはなかなか難易度高いが散らされたように咲く花が空に散らばる星々に似ているということだろうか。wikipediaには

「「ドウダン」は、枝分かれしている様子が昔、夜間の明かりに用いた灯台(結び灯台)の脚部と似通っており、その「トウダイ」から転じたもの。満天星の表記は本種の中国語名の表記をそのまま引用し和名のドウダンツツジの読みを充てたもの。」

と書いてあった。そうなのか。お花をラテン語の学名で見ることは多いが中国語名を意識してみるのも面白いかもしれない。深夜、少しだけ片付いた床でむくみのひどい足を伸ばしながら『花のことば辞典』(講談社学術文庫)を見ていた。また片付け途中でみつけてしまった。古田徹也さんがどの本か忘れてしまったが言葉の本のどれかを出されたときに選書リストにあげていた本だ。文庫サイズの辞典はありがたい。その頃は毎日意識しなくても感じられる風や雲の方に注意が向いていてこちらも古田さんの選書で知った『風と雲のことば辞典』をパラパラすることはあったが花の辞典の方はあまり見ていなかった。パラパラ。俳句だ。

「花は夏・秋・冬にも咲くが、ただ「花」といえば、桜に敬意を著して春の季語である。」

下の4句が並べられていた。

花の雲金は上野か浅草か 芭蕉

草越しに江戸も見えけり花の山 一茶

花更けて北斗の杓の俯伏せる 山口誓子

人体冷えて東北白い花盛り 金子兜太

たしかに。見えてくるのは桜、ですよね。そう聞いたからそう見えるだけかな。北斗七星の三つ星を杓に見立てるとは知らなかった。「暦生活」のサイトにわかりやすく書いてあった。

「アイリス」が「あ行」の最初のページに載っている。「アヤメ科アヤメ属の栽培多年草」と。うちの花壇にも植えてみようかな。紫のお花は梅雨に向けての構えをしっとりと作ってくれる。すぐに咲かなくても次の年に咲くかもしれない。

携帯電話には花の写真がたくさん。あっという間に日が過ぎるのでこういうサイトに使おうかと思った頃にはもうその花は枯れ落ちていたりする。季節はめぐる。外は雨の音。さっき南側の大きな窓からのぞいたときは降っているように見えなかったのに。今日は一日雨みたい。写真を撮る余裕はなくてもたくさんの木や花に出会うでしょう。辛いことも悲しいこともたくさんだけど紛らわしながらなんとか過ごしましょうか。どうぞご無事で。ご無理なく。

明治神宮
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写真

雪予報、上原沙也加写真集『眠る木』(赤々社)

まだ雪が降っていないのを確認。雨だと窓の内側からだと見逃すことがあるから一応少し窓を開けて確認。何も降ってない。というかさむっ!私のアイフォン(カタカナに変換されちゃった。新鮮)だと8時代から曇りときどき雪マークなの。困ります。早めに出るけど。でも雪慣れしていない東京の人としてはほとんど出番のない雪用の靴を履いちゃおうかなとかちょっとしたワクワクもあったり。育ったのは群馬だからスキーはたくさんいってるけど市内は雪より風だったし。まあだからといって風に強いわけでもない。

昨晩、帰宅しポストをのぞいたら薄い封筒が入っていた。B5より小さいけどB5くらいのサイズ。なんていうサイズなのかな。たまたまここにある『超ビジュアル戦国武将大事典』(西東社)と同じくらいの縦横。なんと写真家の上原沙也加さんから。開けてみたら薄い冊子が入っていた。

写真集『眠る木』(赤々舎 )のための上原さんの文章と柴崎友香さんと仲里効さんによる英語の寄稿文。嬉しい。昨年末、なんとなくニコンプラザへみにいって静かに胸打たれ翌日もみにいって写真集を予約。その時はまだ製本されていなくてその手前の状態に触れて見ることができた。柴崎友香さんと仲里効さんの寄稿文はその時に読んだ文章の英訳。日本語は写真集で。本が届いて帯文が岸政彦さんでデザインは鈴木千佳子さんだと知った。出来上がった写真集は大事に触れたくなるざらざらとふわふわが混じったような質感であのマネキンの写真が表紙だった。写真集については以前にも書いた気がするが、一度しかいったことのない沖縄で感じた独特の印象の理由を静かに辿らせてくれるような写真たち。あたたかい、寂しい、静か、のんびり、どんな言葉も当てはまるようなどんな言葉にもならないような。写真には文字としての言葉しかないけどたとえそこに人が写されていなくても人の気配があり沈黙や話し声が聞こえる。ニコンプラザの無機質な小部屋で引き伸ばされたそれらの前で佇んだ時間はとても貴重な静けさを荒んだ私の心にもたらしてくれた。

ああ、今日の東京は雪の予報だった。まったりしてしまった。電車が本数を減らしたりするかもといっていたから早めに出ねば。みなさんもどうぞ足元お気をつけて。

上原沙也加さんの写真集のこと、岸さん、柴崎さん、仲里さんの文章の一部は上原さんのツイートをチェックしてみてください、ぜひ。

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写真

土砂崩れとか火災とかのニュースが辛い。今年は関東大震災から100年というニュースを電車の液晶で見た。

昨年行ったいくつかの写真展のことを考えながらここ半年くらい何度も検索した人物をまた検索しようとしたがまた忘れてしまった。精神分析協会の先生の名前しかでてこない。苗字が同じなのか、と今思い出したつもりだったけど見直したら苗字も違った。忘れたくても襲いかかってくる記憶のほうをなくしてほしい、なくすなら。

上原沙也加の個展で注文しておいた写真集『眠る木』が届いた。美しい製本。帯を岸政彦さんが書いていた。

なんだか書いては寝て起きては消しを繰り返してしまう。加工ができない状態のときは寝るに限る。東京はいいお天気。みなさんどうぞご無事で。

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写真 言葉 趣味

映画、写真、まなざし

今朝は南側の大きな窓の間近、いつもより近くで鳥たちが鳴いて飛び去った気がした。今はだいぶバラけた個別の声が聞こえるだけ。

ケイコ 目を澄ませて』の友達同士のおしゃべりのシーン、本当に素晴らしかったなぁ。言葉を話すとはこういうことかとその手話の美しさに圧倒された。

いつまでも子供でいたいあの人の言葉にもっとも欠けていると感じた自然な「流れ」。

上原沙也加のニコンサロン(新宿)での個展「眠る木」にも連日行ってしまった。そこに写されていないものを写せる写真家なんだなあと涙が出た。「写真集、届いたら楽しんでくださいね」「楽しみます。とても楽しみ」と話した。

自分に意地悪な人は理論武装してもいくら愛想よく気遣いに溢れた振る舞いができても意地悪がこぼれでてしまう。それに気づいたり傷ついたりしてしまう人は亡き者に。攻撃的で衝動的な自分が嫌で仕方ないから他人を使う。自分を保つ。写真には写らない。けど写ってる。誰もが歴史と場所に痕跡を残してる。いずれ誰かに、と。

残酷な現実があるから成立するまなざし。それを単純化しないことが大切な気がしている。普段はごく普通の思いやりで、何かを指弾するならできる限り冷静に正確に。他者とは利用や馴れ合いではない協力を。孤独で冷徹な自分を十分に感じつつ。

あー。寒くて動きたくないけど仕事行かねば。みなさんもお身体お大事にお過ごしくださいね。

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写真

マン·レイとか。

まだ暗いですね、と思っていたけど明るくなってきましたね。ずっと暗いままということはない国に住んでるんだなあ。白夜とかも体験してみたいけど寒い地域なんだよね。極夜というのでも真っ暗ではないのかな。空ってほんとみてて飽きない、とかいっている間にどんどん時間が過ぎていく。しんどいけど動かねば。

いろんなことが起きていますね。思うことはたくさんあれどそういうときこそじっとと思う。自分のことではないことを簡単に利用しない。直接向かってくるモノに思考停止にならないようにどうにか持ち堪えてからなんとか出す言葉は拙くて受け取ってもらいにくいかもしれないけれど(インパクトばかり強くなりがち)たやすく誰かの言葉にのっかったり断片的に発散したりしていつのまにか自分のほしい言葉ばかり求めてたみたいになるのは思考停止と変わらないように思うから。いろんな話をして違いを感じることでネガティブな衝動に突き動かされるかもしれないけれど違うのは当たり前なんだからそこにとどまって時々行動化しながらも内省しているうちにでてくる相手への気持ちを諦めずに言葉にしていく、そして相手のそれも受け取るという関係を築いていけたらいいのだけど。

神奈川県立近代美術館葉山館で開催中の『マン・レイと女性たち Man Ray and the Women』をどうしても観たくてポカンとあいた午前中に突然行ってきた。素晴らしかった。ほとんど貸切のお部屋をゆっくり巡り最後の展示室にいく頃にはため息がでたりニコニコしてしまったり豊かな気持ちになった。マン・レイが愛した女性たちとの軌跡にはシンプルに「愛されるって本当に素敵」と思った。双方が対等にそれぞれの人生の一時期を愛し合って過ごし心が離れ別れ傷ついても別の関係を続けていく、結局ずっと支えあってる、そういうのってきちんと愛し合った結果でしょう?いいなあ。政治、戦争、亡命、個人ではどうにもならない時代を生きた人たちを魅力的に描き、写し、オブジェに仕立てていくマン・レイの作品はこんなにもよかったっけ。ここでの女性たちはセクシュアリティをあまり感じさせない。見られる対象としてではなく個人の親密な関係ならではの眼差しを十分に感じさせてくれる展示だったと思う。

はあ。海もよかったよ。空と区別なく。サーファーがありんこみたいだった。またどこかいきたい。とりあえず今日もなんとか。

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写真

写真から

徒然に写真を撮るのが好きだ。あまりこだわらず適当にシャッターを切る。スマホだからシャッターを切るとは言わないか。

コミュニケーションを自分からたった人が外では自分からコミュニケーションしましょうと誘っている。コミュニケーション様式という言葉がよくわからないがしたい人としたいというのは普通かもしれないし常に次に開かれておきたいということかもしれない。そういう価値を自分に見出せる人は強い。断たれたほうはすでに言葉を使う気力を奪われ思考停止にさせられ知らないものと繋がるのが怖くなっているので体験する世界にはもっとずれが生じる。私はそういう人とたくさん会ってきているのでそのメカニズムには馴染みがある。累積的な傷つきから逃れるためにはまずは距離を取ることが大切だが、今の時代、これが本当に難しい。体験からもよくわかる。

家をなくした女性をさらに殴り殺すような人もいる。コミュニケーションなどしたこともない相手を。力ある人はますます強く、言葉足らずな人はますます孤独になっていく。そういう現実に対して実際に何かをしてくれるわけではないのだね、力ある人たちは、口では他人のことを「じゃあ何ができるんだ」とかいうわりに、とかいったら即座に返ってくる言葉もまた達者に部分をあげつらい追い詰める戦いの言葉ばかりで修復へと向かうはずもない。「こちらから言わせれば」と思ったとしても痛みを知っている人はそれ以上巻き込まれてはいけない。自分を傷つけそうな人たちの気持ちなど、という彼らにはみえない、あるいはみたくない人たちの方へ向き直さねば。彼らはいう。「人生何が起きるかわからない。そういうものだ。」と。それだって笑えないが笑うしかない。「自分で作り上げた王国から何か言われても」などといってはいけない。「王様は裸だ」といっていいのは子供だけだけど彼らのこころにそういう子供は住み着いていない。いくつになっても自分の成長が大事ともいえる。それでもこれからも彼らは口ではいいことをいうだろう。そしてまた味方を増やしていくだろう。お金にもなるだろう。そういう乖離に傷つけられてきたわけだがそれはそれ。この溝は埋まらないしコミュニケーションをたたれたらそんな機会もない。うまくできている。こういうのを戦いの言葉でいうならなんていう?彼らは反射的に答えるだろう。私は答えない。これは戦いだったっけ。昨日も書いたけどそこに戻る。

最近の写真展は写真撮影が許可されている場所が多いのだが、それって「写り込み」「多重性」についての考察を促すよね、ということを考えていたのだが笹塚のバス停でひとりの女性が殺された事件の写真に影響された。悲しいことがいつもよりずっと少しですむ今日でありますように。

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写真 精神分析

真夜中の銀杏に輝きをみつける。さらに濃く。どうやって?写真に撮ることで。

都心の夜は明るい。今年はイルミネーションが復活し、駅に近づくにつれ、街道沿いは明るさを増していた。

地上にも頭上にも道路が交差し、そびえたつビルは夜通し様々な光を反射しつづけ、暗闇は遠くても夜はずっと向こうまで広がっていた。少し山のほうまでいけばむしろ空のほうを明るく感じるかもしれない。東京は狭い。

私たちはこの狭い世界でどうして惹かれあうのだろう。あるいは憎しみあうのだろう。

同じ景色に足を止める。iphoneで写真を撮る。私のカメラは誰かのカメラほどきれいに光を取り込むことはできない。私の目に映るよりさらに暗くそれらは映る。それでも私は撮り続ける。理由など考えたことはない。こういうところであえて言葉にするなら小さな感動を忘れたくないから、とか?書いたとたんに嘘っぽさがつきまとう表現を陳腐というのだろうか。

小さな関心を向け続ける。何が好き?何が嫌い?
どうして今この写真を撮ったの?

ありふれた質問かもしれない。でもそんなことを訊くことさえ躊躇する。本当のことをいってくれているだろうか。無理していないだろうか。だって私だって自分で答えては嘘っぽいとか言ってるのだから。

「どんな気持ち?」「あなたはどうしたいの?」

精神分析においてこれらの質問に答えることは容易ではない。意識的になにかをいったところでそれは本当だろうか、それは私の言葉だろうか、という問いがすぐに自分自身に向かう。無意識とともにあるというのはそういうことであり、精神分析家を「使うuse」のは、治療状況に複数の人物を置くことで、複数の思考を自分に許容するためだと私は思う。

誰かの写真では光のコントラストがはっきりと現れ、路上の小さな光たちは銀杏にもまとわりつき、深夜でも光の粒がまぶされたような輝きを保っていた。あったかい。優しい。あるいは自分には眩しすぎるという人もいるかもしれない。

「寒い!」とコートの前をしめたが夕方よりも寒さを感じなかった。多くの車や人を包み込んでいるうちに冷気もこの街になじんだのだろうか。

小さなことを感じ続ける。小さな関心を向け続ける。少しずつあなたと出会い、わたしと出会う。たとえそこが暗闇で寒くて寂しくてどうしようもなくても、そこからは見えない光の粒がそこにまぶされている可能性を捨てない。とりあえずこの冬を越せますように(寒がりにはつらすぎる季節!)。

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写真

ピント

iPhoneで写真を撮った。冊子の中の写真を。2枚並んだその写真の両方にピントがあえばいいな、と思いながら。

一枚にはすぐにピントが合い、黄色い枠がその顔を囲った。もう一枚はより遠い写真だ。どうかこの写真にも同時にピントが合いますように。

私はiPhoneをほんの少しずつ動かしたり傾けたりしながらそれを待った。

先にピントがあった一枚はすでになにかに印刷された写真のようだ。

遠くにいるほうの人の背中にはいつだかわからない、多分私はまだ生きていなかった時代の空が広がっている。

遠く離れた二人がせめてここで同じ鮮やかさで出会え直せますように。

そしてすでにいない二人を想いながらこれを並べたであろう人が、まだ何も知らなかった時代を、知ろうとすればできたはずでは、なのに自分は、と悔やむことのありませんように。

ピントがあった。遠くの人の顔をさっきより小さな黄色い枠が囲った。

私はシャッターを切った。

移動を繰り返す。何かを探して。それは間違いだったかもしれない。間違いでなかったかもしれない。そもそも間違いかどうかなんて何を基準に?

移動を繰り返し世代をつなぐ。写真が撮られ、その写真がさらに撮られる。それで時代が変わるわけでも二人が生きてまた会えるわけでもないことは誰にだってわかる。

それでも無意味なことをしつづける。重ねて撮られ媒体を移動してきた写真の人物になんとかピントを合わせてまた撮ろうという行為もまたなにももたらすことはないだろう。

ただやっている、ただそこにいる。誰かは正しいかもしれないがあなたはただそこにいた、それに意味や価値を見出す必要などない、ただそんな気持ちになった。

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小彼岸桜

つれづれともの思ひをれば春の日のめに立つ物は霞なりけり

ー和泉式部日記