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精神分析

端正な気分

オグデンが引いた印象深い文章を私も引用しようかと思ったけどそんな端正な気分ではないのでやめた。端正な気分ってなんだろう。

コロナ以降、はじめて遠出したのは奈良、奈良は4,5回目だろうか。歴史に詳しいわけではないが行けば魅了されるばかり。母はとりわけ興福寺の五重塔に魅了され長時間佇み見上げていた。2010年に奈良の居酒屋で誕生の知らせを聞いたあの子はもう6年生だ。無事に生まれてくるかどうかわからないなか私は春鹿を出す店にいたわけだが何度も何度も確認していたガラケーにメッセージが届くなり号泣した。3歳まではとてもゆっくりした発達ぶりだったが、今や思春期の猛烈なエネルギーを携え、しかしそれを持て余す必要のない恵まれた環境で伸び伸びとやっているようにみえる。本人は全くそんなこと思っていないのかもしれないが・・・。奈良の大和西大寺のデパート、なんだっけ、近鉄百貨店だ(調べた)、最終日はとても寒くてもうそんないろいろ行かなくてもいいかということで近鉄で奈良の一刀彫やらなにやらをみたりのんびり過ごした。お昼はどこも混んでいた。時間は十分にあったので美味しい皿焼きそば(だったか?)を食べたいという母と中華料理屋に並んだ。相当なベテランらしき声のよく通る細身の店員さんの客さばきが軽妙で、ずっとみてても飽きないね、すごいね、と母と感嘆しながらみていた。全方位に明るい関心を向け豊かで簡潔な言葉で常連も観光客も十分にもてなしつつ素早く移動を促す熟練の技。これも奈良の技か。

前置きが長くなってしまった。そこの中華料理屋でテイクアウト用に売っていたほうじ茶を母が買ってくれてそれを飲んでいるということを書きたかっただけなのだが。今朝は寒くはなく家事をしている分には半袖で十分だが温かい飲み物はホッとする。美味しい。鳥たちも起き出して時々鋭い声が聞こえてくる。

そういえば東京の中華料理屋にも行ったばかりだ。もう10年以上前にその店のことは聞いていた。途中で「ああここがあの店か」と気づいた。当時イメージしていた空間とまるで異なるそこは魅力がつまった細い路地の一軒家で異国情緒とともにどれもこれも丁度良い味付けの料理を楽しんだ。店員さんはイメージ通りだったかもしれない。小さなポシェットを斜めがけして客の声になんの愛想もなく素早く応対していく様子も次々に開けられるビール瓶がガシャンガシャンとポリバケツに投げ込まれていく景色も新米らしき女性店員が何度も何度も真剣に伝票を確認しては困った表情を見せるのも完全に興奮を持て余し大声でしか話せなくなってしまった右側の若者たちと友人のセックスレス問題に対して静かに仮説を語りあう左側の若者たちとの対比も彼らと比べると随分年をとっている私たちの会話も全て色合いが違って楽しい時間だった。

今もまだコロナ禍といえると思うがあっという間に人波は戻ってきた。生き生きした世界の猥雑さが人を生かしてもいる。

端正な気分という変な言葉を最初に書いた。言葉を切り取ることをしなくてよかった。どんな猥雑な言葉も切り取れば単なる品も味気もない断片にみえたりもする。どんな含蓄のある言葉もそこを生きない限りただのかっこいい鎧だったりする。それらひっくるめて「端正」と感じているのだろう、私は。短く縮めれば縮めるほどすっきりとする世界は今朝の私のこころにはなかったらしい。

今日もこころ動くままに。無意識に委ね、今の風を感じ鳥や車や大切な人の声を聞き力を抜いてなんとなくはじめることにしようかな。なにかしらがんばれたらと思う。