明るい。ブラインドの向こう、水色と薄いオレンジがグラデーションのようになっている。きれい。
私はいろんなことにあまりこだわりがない。さすがに最近は言われないが見かけに関しては「もっときちんと」的なことはよくいわれていた。相手の見かけも周りが色々いえばそのようにも見えるという程度に目に入ってくるが特に何も思わない。きれい、かっこいいなどは思うが合コンで男子も女子も相手の見かけを値踏みするのには驚いた。でも付き合う相手はそれに基づいてもいなかったしあれはなんだったんだろう、でもあった。水準の異なるテーマだがルッキズムなどの差別や暴力について私は自分の体験からは語らない。自分の体験を名付けるためにではなく、それが私にとってなんであったのか、どんな感じであったのかを語ることは非常に重要であると考えるので精神分析を必要とした部分は大いにあると思うが。
音楽も演劇も絵画もいろんなイベントもなんでも好きだし行けば楽しむし、音楽と演劇に関してはかなりの量に触れて相当影響を受けたつもりだが今それを具体名を持って語ることができない。B’zならかろうじてできるか。友人や家族が自分だけの「ベスト10」をカセットテープに集めていたようなことを私はしたことがないし、熱い語りを楽しみはするが内容よりも語る相手が好きだから楽しいというほうが大きいように思う。演劇は人生においてかなりこだわりを持って相当の時間とお金を費やしてきた。生の舞台のインパクトは舞台ごとに異なるので同じ公演を何回かみにいくこともあった。演劇は私にとって好きな店に食べに行くようなものだ。お店の人と話すような身近さに舞台の人たちもいる。ただ数年前からみにいく時間がほとんど取れなくなってしまった。そうなると例のごとく具体名を持って語れなくなってしまう。まあいい。私は評論家でもなんでもない。あの世界にいけばあんな感じを得られる。それを知っているだけで十分だ。
私の周りにはいろんなことにこだわりの強い人がそれなりにいる。私は彼らが好きなので彼らの話を聞くのが好きだ。彼らはこだわりがあるからその世界のことも広く詳しく知っていて評価の基準をしっかり持っていて私の感覚的な好き嫌いとは全く違うと感じる。そしてこれもだから何というわけでもない。
「正しさ」というものがなんだとしても、私が色々忘れてしまって「大好き」と感じるものをぼんやりとしか伝えることができないとしても私は私と全く異なる人と愛しあえるだろうし、別れたとしてもそれらが異なるからではないだろう。「こだわり」が憎しみや差別に近づいていくとき、そこが関係に変化をもたらすきっかけにはなるかもしれない。一見それが「正しい」もので、たとえSNSでどんな支持を集めていたとしても自分がそれにどう関わるか、私の好きな人たちはそれにどう関わるかということに私は注意がむく。
知らない人や世界に対して自分の体験や知識や感触はそれ以上のものではない。それが相手を得たときにどう語られるか。その語り方には私はこだわる。これだけ時間をかけてこれだけの出来事をここで共にしていても常に驚きがある、精神分析はそういう世界で、そこで生じないはずがない憎しみをお互いがどう生きるかにその後の展開はかかっている。私はあまりいろんなことにこだわりはないが、それらの表現の仕方にはこだわっている、そういえば。
“Sentimentality is useless for parents, as it contains a denial of hate, and sentimentality in a mother is no good at all from the infant’s point of view.”
Through Paediatrics to Psycho-Analysis. Chapter XV. Hate in the Countertransference [1947]
D.W.Winnicott
否認と排除のセットを使わないではいられない人間関係に今日も苦しむ人がたくさんいる。私もそうだろう。愛するためにしているつもりの努力が憎しみに変わる場合だってあるだろう。名付けてしまえばそれはそれでしかないかもしれないが動きのある部分にはきっと希望もある。簡単にいえば「決めつけない」ということか。今日もとりあえず動きはじめよう。動ける範囲で動き続けてればいつの間にか別の景色に気づく。そんな感じで。