清水晶子著『フェミニズムってなんですか?』(文春新書)の「はじめに」にこう書いてある。
”この本は「フェミニズムとは何であるのか」に対してひとつの正解を提示することを目指してはいません。そのかわりにこの本が目指すのは、社会や文化の様々な局面において、女性たちの生の可能性を広げるためにフェミニズムは何を考え、何を主張し、何をしてきたか、何をしているのか、その一端を振りかえり、紹介することです。”
そして「何かをしたい、何かをしなくちゃ」と感じたときに「やってみる」を駆動する燃料になれたら、と著者は書く。
最初にフェミニズムの基本は①その対象は社会/文化/制度であること②おかしいことはおかしいということ③「あらゆる女性たちのもの」であることが確認され、フェミニズムの歴史における四つの波が簡潔に説明される。フェミニズムを著者がするように”「女性の生の可能性の拡大」を求める思想や営み”と位置付ければそれは日常生活のあらゆる局面で生じているものだろう。そのためこんなコンパクトな本にも関わらず社会/文化/制度それぞれの観点からのトピックが取り上げられ、今まさに議論されるべき事柄が提示されている。同時に、3人の女性との対談が挟まれ、それらが持つ個別性、具体性がある種の柔らかさをこの本に与えているように思う。「おかしいことはおかしいということ」の逡巡は女性が置かれてきた状況や歴史だけでなく、人間誰もが持つ傷つきやすさとの関連で考えることも大切だろう。それらは外に向けて表現される前にまずは安心できる場所で表現される必要がある。声を上げることで同じ傷つきが繰り返されそもそもの自分の欲望や願いを見失うようなことは避けたい。
私は今、臨床心理士の資格認定協会に対する要望書を提出するために署名活動をしているが発起人は皆女性である。精神分析家候補生の会の三役もしているがそれも皆女性である。どちらもたまたまである。
そんなに悪い時代ではないのかもしれない。こんなたまたまが生じるなら、とも思うが現状をみればそんな希望は楽観的なのかもしれない。もちろんこういう小さな希望が小さな抵抗を支えるに違いないと私は思っている。戦う女性たちの傷つきをみて、ものいえず傷つき続ける女性たちをみて、その両方の部分を持つ個人として私もやはり傷つきながらあり方を模索する。揺れ動きつつも考えるのを諦めないためには様々な支えが準備される必要があるだろう。こういう本もその一つにはなると思う。それぞれが個別の体験を大切にしてもらえる場所や相手を得られることを願い、自分にできることを探す。
ため息も多い毎日だ。しかも今朝の東京は雨でなんだか憂鬱だがため息をつきながら「憂鬱だ」といいながら過ごしていればそうではない瞬間も訪れるだろう。ずーっと同じことを言い続けたりやり続けたりすることも案外難しいものだ。
今日も無理は無理としつつも諦めずなんとか、と思う。