人の嫌がることをしない、というのは難しい。誰かを喜ばせることが別の誰かを嫌がらせることもある。相手が何を不快と感じているか知っていてもどうしても自分の快を欲してしまうのも子供のままの部分だろう。子どもがいたり介護が必要な家族がいたりすればいつの間にかその性質が変わるかというとそうでもない。人はそんな簡単には変わらない。ただやらざるを得ないことが増えれば時間もないので守られる必要がある方が優先されるのは当然のことだ。
もちろん「人はそんな簡単に変わらない、子どものままの部分がある」ということが非対称な関係で生じる侵入や搾取の理由になどなるはずはない。私は家族的な関係を仕事にしているので思い浮かべているのは大体親密な関係だ。親密な関係に巧妙に偽装された搾取的な関係もあるが家族的な関係になればそれはすぐに暴かれることが多い。生活を共にすることの力は大きい。気持ちいいところだけで付き合えない違いだらけの人間たちが空間と時間を共にしていく。日々葛藤し否認し行動化しながらもなぜかそれを維持していこうとするこの生き物らしさ。それはやはり子どもという存在に向けられた本能のように思う。相変わらず寂しがりで構ってもらいたがりの大人の中の子どもに対しても。誰かを大切に想うこと、特定の誰かを愛すること、それは自分の一部を相手に開き委ねることだ。誰にでもはできない。直感的に選択される関係のなかで私たちはどれだけ相手を大切にできるだろう。多くの失望と絶望によってその選択は間違っていたとようやく気づいたとしても一度委ねてしまったという事実を取り消すことはできない。うんざりして苦しくて泣きながら皮膚をかきむしっても食べては吐いてを繰り返しても無理は無理だ。自分に同化してしまった異物はモノではなかったのだから。
取り消せずに上書きされ深くなった傷に絆創膏を貼るように。今はまだそんなものでは到底足りないとしても。いずれ瘡蓋に、何度もかき壊したとしてもいつの間にかそれが剥がれ落ちてくれますように。そしてまた自分の愛する能力を信頼できますように。願う。それを使うことができる関係を今度こそ選択できますように。願うことさえ勇気がいることだとしても。未来の存在へと向かう私が大人になりたがる私が子どもへ向かう私がそこに生きていますように。眠れない夜をただただ願い続けることで明日へ。