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精神分析

スイカ、呼び名、つながり

スイカ。冷たくて水分たっぷりでちょうど良い甘さで目覚めるにはピッタリ。スイカ大好きな友人がいろんな土地のを食べていてどれも美味しそうで羨ましいのだけどこの美味しいスイカは産地知らず。でもなんだって人の手が関わっているわけですよね。どこぞのどなたかどうもありがとうございます。東京の住宅街で朝5時頃いただきました。少し元気が出ました。

スイカの名産地っていう曲ありましたよね。あれは今思うと不思議な歌詞。どこの国の童謡なのだろう。とうもろこしの花婿と小麦の花嫁だからアメリカ?うーん。農地を思うとまた大変な労働環境のことを考えてしまう。花嫁と花婿、嫁と婿、ママ、パパ、「おい」「はい」など、パートナーの呼び方の議論もありますね。誰かに対してその人との関係を伝えるときにどういうか。嫁と旦那、妻と夫。あるいは友人カップルの片方しか知らない場合に知らない方をどう呼ぶか。私は相手の年齢によっても使い分けるけどどれも名前のように使うかな。相手が呼ぶ仕方で私も呼ぶ。この仕事だからかもしれないけど。本来正解とかもないだろうし、すでになんとなくある「正しさ」に塗れた呼び名なのだからまずはそれが薄まるように自分ではあまり使わない。そういうのはすごく意識しているわけではないのだけど「どれが適切か」「何が正解か」みたいな議論にのる前にそれがない場合を考えるのは癖だと思う。

少し前に読んだアリソン・アレクシー『離婚の文化人類学 現代日本における<親密な>別れ方』(みすず書房)はアメリカ人の文化人類学者が日本で日本人(東京の中流階層の人が多かったと思う)の離婚話を聞いて彼らがどのように親密な関係を生きようとし、離婚した後も含め、どのようなロマンス(といってしまうが)に基づいて親密さという「つながり」を維持しようとするのか、あるいはどのようにそれについての意識を変えていくのかについて、個人の意識(というものがあるとすればだけど)、家族観、ジェンダー規範、「甘え」(土居健郎を引用)や依存、自立、法制度、国家のイデオロギーといった幅広い視点を維持したまま考察を加えたユニークな本だったと思う。とても大雑把に私がよかったと思う観点からいうと、誰かが「離婚した」といったときに相手が「え!なんで?」となりがちなのは「離婚」に対する偏った意味づけがあるからで「離婚」をつながりも別れも、始まりも終わりも含んだある二人の関係性の変化を示す言葉としてニュートラルな行為の言葉にすれば私たちがこれまでその言葉に与えてきた「正しさ」的な何かによって当事者たちを苦しめることは減るかもしれないのでその言葉にまとわりつく様々な意識や規範をまず「それぞれ」のものに分解し、「つながり」の変容という観点からそれを位置付け直すような本だった、という感じだろうか。

パートナーをどう呼ぶか、という問題についてもこういう作業が必要なのかもしれない。この本は「その言葉を使わない場合」というところからはじめる癖のある私にはしっくりくる本だった。

また本紹介になってしまった。今日はバタバタ移動の多い日だ。ちょっと寄りたいところがあった気がするが眠ったら忘れてしまった。

深刻なんだか呑気だかわからない毎日だがいろんな気持ちになるのが人間らしさを維持するのだろうからとりあえずこのままというかそれ以外ないか。急に変われるわけでもないから。それぞれに良い一日を。