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うそもほんとも。

東京は晴れ。

鳥が賑やか。さっき空のうすーい水色とピンクがきれいで写真を撮ろうと携帯電話を探しに戻ったつもりが別のことをして忘れたことに今気づいた。そんなことばかりだけど今日も起きられた。

茶色くて重そうな押して入るドアに見えたのに前に立ったらスーッと横に開いて自動ドアなのかとびっくりした。デザインとあわないー。電車が遅れてしまったので友人はすでに席で待っていた。私にはちょうどいいカフェラテを出してくれるお店だった。二人で話すのははじめてだった。いろんな話をした。「あれでよかったのか」。悩んで苦しんでその後に生じるであろう様々な可能性を考え抜いて出した答えの不確かなこと。論理的に考えてそれはそうすべきだった。でも私たちの立場は弱い。圧倒的に公に対して力を持つ人に捲し立てるように言われれば自分の言葉は呑み込まざるを得ない。あとは離れること。選択肢はそれしかなくなる。離れ方すら気をつけねばならない。こういう状況には絶望しかないがそれでもやっていくしかない。

どうにかして暴露したくなるときほど逆にもう関わらないという選択をしたほうがいい場合もある。当然戦わねばならない場合もあるけど。

その人がどんなに信頼を集めていたとしても「実はいい人」であったとしてもそんなのはあなたが傷ついたことをなかったことにする理由にならない。

だってその人が何かあったら晒せばいいって言ってた。それはまさか自分がそうされるとは思っていないからでしょう。「晒す」という言葉自体とても暴力的だと私は思うし、そういう言葉を平気で使う人なんだな、関わらない方がいいな、と思った方がいいんじゃないかな。外に出せば出すほど傷つくのはあなたかもしれないよ。あなたの体験が別のものにされちゃうかもしれないよ。少しずつ自分の感覚を信じられるように吟味していこうよ。

でもそれができないほどに私たちは愚かなんだ。本当に。辛い。

私の周りにはそんな人いない。いや、まさにあなたのそばのその人に私は、という言葉を呑み込む。

「私の周りにはそんな人いない」というのは「私の周りにもいると思うけど私はそういうことをされていない」ということでしかないのは暗黙の了解だろう。日常生活で「もしかしたらここにも傷ついている人が」と過度に気にしてたらコミュニケーションは難しくなる。個別の人間関係が外から見えるものといかに異なるかなんて私たちは小さなときから知っている。自分のことも、最近なんとなく信用できない好きな人のことも棚あげてしてなんとなくもやもやしながら過ごしているのが普通だろう。本当のことを知るのは怖いことだ。

この前、長い期間妻がいることを隠して不倫関係を続けていた人気者の話があった。女性の身体とか時間とかのことを考えられる人だったらそもそもこういうことにはならなかったかもしれないし、どっかでわかっていても知るのが怖くて自分を大切にする方向を見失ったのかもしれない。どこでどういう選択をしたからこうなったのか、ということを辿ることはもう不可能かもしれないし、辿れたとしても記憶自体曖昧だろうし、起きてしまったことに対する無力感に死にたくなっているかもしれないし、本人たちがどんな気持ちかはまるでわからない。でもその人反省してるって。ニュースに出てた。後悔してるって言わなかっただけいいのかもしれない。

何回も聞いた話だけどその度に一緒に考えた。結論は同じでも反応の仕方が違う気がした。それだけで嬉しかった。私といてもいつも、あの人はこう言っていた、なんとかさんはこんな風に言ってくれた、といつも別の人が心に住み着いているようだった。私にくれたもの、一緒に行った場所のことは忘れられてた。それでも一緒にいられる時間があれば嬉しかった。幸せだった。私に話しているようにみえるのにいつもひとりごとのように聞こえた。相手は私である必要はないんだなと感じた。実際、別の場所でも同じことを言っていた。それでも一緒にいられれば嬉しかった。幸せだった。

この愚かさたるや。

どうしましょうね、こんな私たち。今日も苦しくて時々過呼吸になりながらやっていく方もおられるでしょう。とてもとても辛いけどさっきからまた少し時間が過ぎました。多分ずっとこのままということはない。

東京は晴れています。良い日曜日になりますように。