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精神分析

常に相互。

キウイジューシー、りんごしゃくしゃく、パイをむしゃむしゃ、コーヒーちびちび、鳥がピーピー、あなたたちの世界は無差別な攻撃や殺戮はないの?殺戮に理由なんてあるの?殺戮って昔は刑罰として殺すことだったみたい。今は?罪なすりつけて殺すの?それは罪だと決めつけて殺すの?生まれたての子供にも?殺していいと決めてるあなたは誰?安全な場所でおいしいごはんを食べくだらない話に笑いながら血だらけの大きな瞳の子供を画面にみる。私もそうやって加担しているのかな。なにをすればいいのだろう。毎日全然わからない。中村哲さんの言葉に「王様は裸だ」といえる子どもであろう、どうにか踏ん張ろうと思っても王様は一人じゃない。私だって王様かもしれない。空を飛びそこには多分その国の人というくらいにしかわからない相手がいると知って爆弾を落とす。どうして?対面の緊迫した状況に画面の向こうからきれいごとをいわれる。暴言と暴力だらけの家に週末だけ電話をかけてきてがんばれといわれる。事態は全く異なる。異なる?心のあり方も?相手に心があること、傷つく身体があることを忘れていることなんてしょっちゅうある。精神分析は心がいかに無慈悲で暴力的かを露わにする。快に基づく行動ではなく思考という行動を高次のものとして考える。そしてそれは常に相互のものであると認識する。どっちかのなにかではない。それが抑止力になると信じる。以前、激しいやりとりをききながら、これが裁判だったら、と考えたというよりこれだけどっちがどうとかといっているのにこれを裁判に持ち込まない理由を考えていた。裁判も誰かのなにかをたやすく決めつけることはできないから個人に対して時間かけるのは当たり前だよね、表向きは。そのせいでなにもしていないのに人生の時間を奪われる人もいるわけだけど。裁きの場に持ち込まずに対話にならなくてもそこに共にいつづけることはとても苦痛だよね。いないほうがいい場合もあるよね。私はどうするんだろう。自分のことなのにずっとずっと迷っている。考えて行動してみて、の繰り返しなのだろうけど。さあ、いかないと。今日は水曜日。色々指差し確認するようにひとつひとつ。ひとりだけどひとりじゃない不思議を確認しつつ。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生