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精神分析

古田徹也の本

ルイボス&レモングラス・ジンジャー。あったまる。銀座あけぼののもなかをいただいたのでそちらと、と思ったけどこれは緑茶の方が合う。桜もなかと姫栗もなかの詰め合わせ。もなかはあまり好きではないので少し変わった食べ方をする。桜の時期ね。昨日もいろんな木々の芽が膨らんでいて可愛かった。頭痛と鼻水が止まらない。頭が回らないので読んだことがある本をパラパラしてばかり。あとはNetflixでちょこちょこ。『ユニーク・ライフ』に出てくる友達役って『ディア・エヴァン・ハンセン』に出てきた友達役の人だと思うのだけど違うかな。別の映画なのに同じ役の人に見える。そしてどちらもいい感じ。おはなしはいまいちかな。最初の方で見るのをやめてしまった。『グッド・ドクター』は見続けている。これはいろんな人の背景がリアル。本筋とは関係ないがアメリカの医療現場は保険会社と弁護士の力が大きい。すぐ訴訟になってしまうものね。いろんな症状やアセスメント、処置の仕方も興味深い。パラパラ再読している本に古田徹也『不道徳的倫理学講義ー人生にとって運とは何か』(ちくま新書)がある。これはプラトン以前のギリシャの文学作品から運について考えることから始まるのだけどソポクレスの『オイディプス王』の古田流読解が興味深い。以前にもどこかで書いたが古田徹也は事実を知り自分の目を潰したオイディプスの意志と行為を尊重する。「運」や運命に翻弄されるだけではない人間をそこに見出す。フロイト精神分析の根源となるこの物語はいろんなふうに読めるので古田徹也の解釈もそのひとつとして新しい視点をくれる。盲目になることで真実に開かれることは確かにあるのかもしれない。それまでに見てきたものは絶えず目元で像を結ぶだろう。繰り返し繰り返し同じ場面が甦りもするだろう。私はオイディプスが目を潰したことに対してそうしたところで何かがなかったことになるわけではあるまいしと思う。一方で目を潰すことで身体全体の感覚が変わるわけである意味別の人になる可能性を作り出したともいえると思う。人間はどこまでももがける、というか愚かにももがく、というのかなんにしても単なる不幸ではなさそうだ。目を使わない精神分析で生じる不幸からありきたりな不幸へという移行でもある。あ、うとうとしてしまった。そりゃそうだ。今日も無理せず過ごしましょう。またねー。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生