1月になって本格的に寒い。なのに昨日は汗をかいた。待ち合わせに向かっていたらなんと電車がストップ。慌てて違う路線まで移動して15分遅れで着。新年のご挨拶やらをして美味しそうなメニューから選んでおしゃべり。古き良き時代を知る人として世代の異なる心理職の輪を広げることができてよかった。こういう柔らかく穏やかなおしゃべりの場は人を豊かにする。それにしても私はすっかり一番上の世代になってきた。そして心理職として、精神分析を志したものとして本当に恵まれた時代を生きてきたんだなと思った。もちろんその時代を暗黒と感じる人もいるだろうけど。今年もいろんな人と気楽な機会を作っていきたい。ゆっくりしたあとには電車も無事復旧。事例検討会にも時間通り参加できた。介入の仕方についていろんな意見が出たが私は転移解釈を口にすることは最大限控える。それよりとどまることを必要に思う。継続で会っていれば色々なことが起き色々な気持ちになるのが当たり前だろう。その色々をお互いに体験していくこと自体が効果といえば効果につながっていく。ウィニコットのスクイグルが効果的なのはそれが何に見えようと構わないくらいの緩い線のあっさりしたやりとりが積み重ねられるからだろう。それが部分だろうと全体だろうと構わないわけである。実際そんなのはどっちだってありうるのだから。フランスのラカン派ではないIPAの精神分析家アンドレ・グリーンの文献を訳していたら明け方が近くなっていた。すごく時間がかかってしまった。引用されているフロイトの文章は私も以前メモしておいたところだった。全体の訳ができるにつれてグリーンのこの書き方はフロイトの書き方を真似たりずらしたりしているのかもしれないなと思った。1997年の論文だったと思うが
フロイトの1919年の論考「精神分析療法の道」の
「また、私たちの治療法を大衆を相手に適用するにあたって、分析という純金から直接暗示という銅をたっぷり使った合金を作る必要が生じる公算は大きいでしょう。また、そのときには、戦争神経症の治療の場合のように、催眠による影響が再び用いられもしましょう。しかしながら、たとえこの精神療法が大衆のために形作られ、どのような要素によって組み立てられようとも、その最も効果的で重要な構成部分は確実に、厳密で不偏不党である精神分析から借りてこられたものであり続けるでしょう。」
という箇所はグリーンが精神分析の危機と限界を書いているところと重なる、というかグリーンはこの論文の別の箇所を引用しており当然問題意識の重なりがあってのことだろう。私もいろんな学問と実践を経由して精神分析家になったが常にこれまでの多様な経験を生かしながら精神分析が広く届けられるように考えないといけないのは今年も変わらない。未来を考えるためには希望を持たないと。またおしゃべりの場を設けよう。助けてもらいながらやろう。窓の外に光が溢れ始めている。明日はようやく少し雨マークが出ている。暖かい飲み物と一緒にがんばろう。
(ここは日々のよしなしごとを書き連ねる場なので精神分析にご興味ある方は私のオフィスのウェブサイトをごらんください。)