どの向きの窓を開けても暗い。夜明けが遅くなってきた。ユリー・シュルヴィッツ作の「よあけ」を思い出す。静けさと美しさに驚く絵本。読んでなくても見たことがある人は多いかも。うちにもあるはずなんだけどどこだろう。あれは瀬田貞二訳。瀬田貞二は中村草田男の俳誌の編集長もやっていたはず。翻訳家は俳句も上手そう。あとで調べてみよう。
昨日の朝、馴染みのクリーニング屋さんの小さな花壇に朝顔が咲いていた。大きかった。少し散歩してまたそこを通るともう萎んでいた。びっくりした。
岸本尚毅の朝顔の句を読んで、私は本当に注意力が足りないなと思っていた。じっと観察してそのものになってから広がる世界。私には到底難しい。それにしてもどんな句だったか。朝顔のしぼみて暗き海があり、だっけ。岸本尚毅の先生だった波多野爽波の句も読んだがそれも忘れてしまった。注意力も記憶力も足りなすぎるが、自分のできていない部分に細かく気づくと「ちょっとそこ注意してやってみよう」と思えるのは彼らがいい先生だからだろう。押し付けるわけでもなく「あ、俳句ってこんな感じなのか」という直感的な良さをくれる。それがモチベーションになる。
小さな気づきも大事だが、もう本当に書き仕事は進まない。仕方なく自分の関心がなんだったかを忘れるというまさかの事態が起きないように細々とインプットを続けている。サンフランシスコで開業している精神分析家トーマス・オグデンの今のところ一番新しい著書、What alive means: On Winnicott’s “transitional objects and transitional phenomena”は表題論文という感じなので読み応えがあった、というか、オグデンが書いてきたこと、やってきたことがますます洗練されていくのを読むのはすごく勉強になる。オグデンも読者自身が発見し創造していくことを求める書き手なので私も色々考えながら読んでいる。オグデンはウィニコットと同じく精神分析家である、精神分析家になることをものすごく意識的に言語化している人なので、精神分析実践を伴うとその言葉にますます切実さを感じるし、まだその感覚わからないな、と感じることもある。この論文は、ビオン、シミントン、ピック、コルタートを引用しながら自分の症例を通じて分析家の考える自由と分析の形や枠組みを検討している。この作業はオグデンがフロイトを読み直すことを含めてずっとやってきている仕事だと思う。
オグデンがこの本のこの論文の最後の方で参照するNeville Symington (1983) “The Analyst’s Act of Freedom as Agent of Therapeutic Change”(International Review of Psycho-Analysis, 10: 283–291)の“a certain [restrictive] patterning of unconscious knowledge” なのだけど、この論文をPEPで読む権限は私にはないので(お金払えば読めるだろうけど)ネットで読める範囲のものを読んだ。でもこれこの論文のどこに書いてあるのか探せなかった。
オグデンの論文だとこんな感じで訳せる。
「Symington(1983)は、分析家の「考える自由」についてBionの続きから論を起こす。Symingtonにとってthe analyst’s freedom to think は分析家が自らを「ある種の(拘束的な)無意識の知のパターニング “a certain [restrictive] patterning of unconscious knowledge” 」から解き放つ能力に依存する。分析の開始時から、分析の二者はひとつの「corporate entity」の一部となり、そこから分析家は、独立した思考が可能であり、かつそれに責任を持つ分析家としてのアイデンティティを回復しなければならない。」
シミントンの元の論文だと超自我と絡めた説明になってるようだけどオグデンは超自我という概念を好まないのか?この辺ももうちょっと見直し。オグデンはウィニコットを中心に引用するが結局フロイトに戻る。私はつまみぐいだとできない実践のために訓練積んできたから地道な作業だけどやらねばねえ。雑な言葉遣いで精神分析という治療文化を自分の理解の範囲に押し込むなんてことしないためにも。それじゃ面白くなくなってしまうものね。どうしても分析における二者はそういうナルシシスティックな共同体になりやすいわけだけど、そこから自由になる能力を発展させよ、ということなのだろうし。
それにしても・・と言っていてもキリがないのでとりあえず今日をはじめましょう。良いことありますように。
