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あれはなんだったんだろう 精神分析

あれはなんだったんだろう2

あれはなんだったんだろう。どうして最初から身体に触れようとしてきたのだろう。気づかないふりをした。気のせいだと思うようにした。でも違った。なんの言葉もなかった。ただ触ってただ離れた。どうしていいかわからなかった。嫌ではなかった。あれはなんだったんだろう。戸惑った。どうにか処理しようとした。「嫌ではない」という感触に集中しようとした。普通に考えれば「嫌ではない」は嫌の反対を「好」とすると「好きでもない」のだ。吟味したほうがよさそうなものだがこの曖昧さに賭けてしまった。この場合「後悔」という言葉はどちらかというとこちら用の言葉だと思うが投げやりな謝罪と共に向こうから言われた。「あれはなんだったんだろう」と考え続けることになる状況がまた加わった。

外からは見えないとはいえ、恋や暴力や愛が混じり合ってしまうことはよくある、ということを皆さんご存知だろう。行為と概念の結びつきなんて、ということかもしれない。「最初は全然気づかなかった」「付き合ってるときはわからなかった」という言葉もよく聞くだろう。

精神分析を体験した人は実感できると思うが、反復強迫が転移状況において解釈されるうちに初期の傷の想起がもたらされることが多い。最初にあげたような状況も「そういえば」と全く気づいていなかったわけではなかったこととして語り直される。ただそのときに意識することは不可能だったことに変わりないし、従ってそれが自分にとってどういう結果をもたらしそうかという見通しを立てられるはずもない。だから深く傷つくことや「あれはなんだったんだろう」と苦悩することに変わりはない。マニュアル的に予防したり状況を上書きすることはできない。そんなに簡単ではないからもし想起と語り直しの精神分析を必要とするならばそれは時間がかかる。ただ、今のまま、そこにとどまらないでいるために、というポジティブな動機を持つ時間にはなるだろう。生きていかなければならないならそれは必要なことだし、精神分析はそこになら貢献できる。相手と距離をとったとしても法的な対処をしたとしても苦しみが終わるわけでない。そのプロセスにおいてさらなる傷つきを重ねることだって多い。相手がいなくなったとしても起きたことが消えるわけではないので同じことだ。それでも人はなんらかの対処をする。少しでも区切りをつけることでなんとか生きていくためだ。でもそれはひとりではとても難しい。

私に話したことも私にくれたもののことも忘れていた。

以前こんな例を挙げた。忘れてしまう人はいいね、とB’zの歌詞を少し変えて呟く。あれは「途中の人はいいね」だったか。一緒にいるときからそんなだったら離れてしまえばあっという間に、ということだってある。そんな姿を見るのもまたひどく理不尽で嫌な思いをするだろうが責めることも意地悪もいくらでもできるうえにエスカレートしやすいので安易な方へはいかない方がいい。

あれはなんだったんだろう。今日も似たようなことを別の相手と繰り返しているであろう彼らに聞いてもわからないだろう。ましてやすぐにあなたを自在に消去して別のものに置き換えることができる相手には。いまどきのカメラみたいだ。写真という文化も変わっていくのだろうね、というのはまた別の話。欲望や衝動はさまざまな形をとる。従って防衛も様々、ということ。

それにしても「後悔」か。乾いた笑いが生じそうになるがそうやってごまかすこともしないほうがいいのだろう。歴史と偶然性、どちらも大切にするから長く愛することができる、と思ってやってきた。これからもそうありたいと思う。その確認だけでいい。

それにしてもただでさえこの乾燥。辛い。セルフケアという言葉を聞くようになったがどうなんだろ。私は「セルフ」とつく言葉もあまり信じていないような気がする。精神分析でもその位置付けは論じる人ごとにいちいち細かい定義づけが必要になる。それはともかく今日もめんどくさいことはめんどくさいこととして無理せず取り組みましょう。

(急いでいたからテキトーに終わらせてしまったうえにupするのを忘れていた。すでに結構仕事した気がする。東京蚤の市にいきたい。いいお天気でよかったですね。)

石蕗の花(冬の季語)

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

あれはなんだったんだろう

早朝。こんな時間にこんなところにいる。ほとんど奇行だ。いや紀行だ。

朝から散財。はじめてホームの自販機でルマンドを買った。はじめてタッチパネル式の自販機で温かいペットボトルのルイボスティーも買った。一回乗り換えるルートではなく10分くらい長くかかるが乗り換えなしのルートのグリーン車で。

大丈夫。仕事にはまにあう。

嘘っぽいほんとの話とかほんとっぽい嘘とかをこうして書きつけて今日もなんとかやっていくんだ。

どうにもならない気持ちをどうにかするため、起きたこと、感じたこと、考えたことを最初から反芻している。

あの日のあのこと、あれはなんだったんだろう、ということをずっと。

そのためには移動が必要だった。生きながら蝕まれる。戻ってこられますように。

言語も身体感覚も会えない時間にこそ大切にされるべきものと思っていた。会えたときとの喜びはその想像力ゆえと。いないけどそばにいる、大丈夫、と思えた時間は短かった。難しいものだ。苦しくて眠れない日々にも慣れると思っていた。お互い無理をしたのだろう。

対話は難しかった。「対話」って言葉嘘っぽくて嫌いだけど。それはともかくこんな独特の受け身さに出会ったことはないと感じながら私も受け身でいた。慎重に自分の感触を確かめてもいた。すぐにそんな感覚狂ったけど。セクシュアリティから逃れられない人間の愚かさ。

今ならなぜその受身的な態度がその人にとって必要だったかわかる気がする。最初からもっとも謎だったこと。好きな人を観察するときの特殊な状態に流されないように。こういうところがおかしいのかも。歴史を知ればわかる気がしていたし今ならわかる気がする。私のことを相手はほとんど知らない。ある部分をのぞいてなにもきかれていないから。きかれたのはもっとも正直に答えられないことだった。だからかどうかわからないけど嘘をついた。全体を知ろうとしてほしかった。聞かずに想像してほしかった。そんなのは大抵無理だって知ってるけどそこを超えていかないと、といまさら熱い。いまさら。だからこんなとこにいるのだ。思い出そう。

話をきき、それについて話すのはなんだかひどく幸せだった。もっともっと聞きたいこともいいたいこともたくさんあった。でも大雑把でものわかりの悪いまま反応してしまう私はいい聞き役になれなかった。ため息も苛立ちも寂しかったけど圧をかけられるのも嫌だった。それでも一緒にいる間はまだ少し安心できた。

人は誰でも自分にちょうどよい刺激を与えてくれる人が好きなんだなと実感した。優先順位は変わっていく。私はそういうタイプではないけれど。ペットなら言葉使わないから一緒にいられたかもしれない。人だってどうにかなると思い込んでいたわけでもないけどどうにかしようとがんばるのが普通かと思っていた。間抜けだ。人は多くの場合変わらないって知ってたはずなのに。間抜けな私は対話すればどうにかなると思っていたけどそもそもそれをしてもらえないという事態が起こることを想定していなかった。楽観的だな馬鹿だな間抜けだなもういやだ。全部夢だけど。夢じゃないけど。ひどく眠い。

「抱っこしておとしゃん」と繰り返す声が聞こえる。「エレベーター乗り行くの」「工事みにいくの」両親が小さく笑う声が聞こえる。あの手この手でがんばる女の子。無力ではないね。素直に正直に手を伸ばすこと大事だね。たくさん抱っこしてもらえますように。みんな良い一日でありますように。